ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
汽車が走り出してから、しばらく経った頃だった。
通路の方から、がらがらと車輪の音が近づいてきた。
扉が開き、えくぼの目立つ丸顔の女性が顔を覗かせる。
「何かいかが?」
その後ろには、お菓子を山盛りにしたワゴンがあった。
ハリーは、身を乗り出した。
見たことのないものばかりだった。
百味ビーンズ。ドルーブルの風船ガム。蛙チョコレート。カボチャパイ。大鍋ケーキ。杖型甘草飴。
「えっと……これと、これと、それから――」
彼は、ポケットから金貨を取り出した。
グリンゴッツの金庫にあったものだ。自分のお金。
生まれて初めて、好きなものを好きなだけ買える。
「全部、少しずつください」
「まあまあ、たくさんね」
女性は、嬉しそうに笑った。
◇
ハリーは、山積みのお菓子を抱えて席に戻った。
ロンが、目を丸くしている。
「うわ、すごい量だね」
「よかったら、一緒に食べない?」
「え、いいの?」
「うん。一人じゃ食べきれないし」
ロンは、膝の上の包みをちらりと見た。
しわくちゃの紙袋。中身は、潰れたサンドイッチが四切れ。
「……母さんが、作ってくれたんだ」
彼は、恥ずかしそうに言った。
「僕がコンビーフ嫌いなの、いつも忘れるんだよ」
「じゃあ、交換しよう」
「え?」
「僕、こういうの作ってもらったことないから。食べてみたい」
ハリーは、本心からそう言った。
ロンは、しばらく彼を見つめていた。
そして――嬉しそうに笑った。
「……うん。じゃあ、交換だ」
◇
ワゴンの女性は、まだ扉のところにいた。
そして、向かい側の二人に目を向けた。
「お嬢さんは、いかが?」
キーノの肩が、跳ねた。
「え、あ、あたし?」
「ええ。どれでもどうぞ」
彼女は、ワゴンの上を見た。
色とりどりの包み紙。見たことのない形。甘い匂い。
目が、輝いた。
あれは何だろう。あの青いのは。あの箱の中身は。
思わず、身を乗り出しかけて――
止まった。
彼女は、自分の手を見下ろした。
(……お金)
持っていない。
一枚も。
考えたこともなかった。
これまで、お金というものを自分で持つ機会がなかった。屋敷では、必要なものは全部あった。ダイアゴン横丁でも、支払いは全部あの子がしていた。
だから、気づかなかった。
――買うには、お金が要るのだ。
「……いえ」
彼女は、俯いた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「あら、そう?」
「はい」
声が、少しだけ震えた。
情けなかった。
欲しいと思ってしまったことが。そして、それを買えないことが。
◇
その様子を、鬼太郎は横から見ていた。
そして――自分の失態に気づいた。
(――ああ)
彼は、内心で舌打ちした。
当然のことだった。
この子は、金を持っていない。
自分は一度も、渡していない。渡す必要を考えたこともなかった。必要なものは自分が買えばいい、そう思っていた。
だが――それでは、駄目なのだ。
この子は、これから学校で生活する。自分が常に隣にいるわけではない。友人と何かを買うこともあるだろうし、自分で決めて使う場面もある。
その時に、何も持っていなければ。
(――管理を怠っておりました)
彼は、懐から革の小袋を取り出した。
そして、そこから金貨を数枚取り出すと――キーノの手に載せた。
「え」
彼女が、顔を上げた。
「申し訳ございません」
鬼太郎は、丁寧に頭を下げた。
「お渡ししておくべきでした。失念しておりました」
「……え、いや、あの」
「お好きなものを、お選びください」
キーノは、手のひらの金貨を見つめていた。
ずしりと重い。
金色に光っている。
「……いいの?」
「ええ」
「でも、あたし」
「キーノさんのお金です」
その一言に、彼女の動きが止まった。
――あたしの、お金。
「今後、定期的にお渡しいたします」
鬼太郎は、淡々と続けた。
「学校では、私が常に隣にいるわけではありません。ご自分で判断して使う機会も増えるでしょう」
「……」
「最初は、少額から。使い方に慣れられましたら、まとまった額をお任せいたします」
彼は、そこで少しだけ首を傾げた。
「その方が、効率的ですので」
キーノは、何も言えなかった。
彼女は、これまで自分のものを持ったことがなかった。
着るものも、食べるものも、全部誰かに与えられるものだった。檻の中でも、屋敷でも。
杖が、最初だった。
そして、これが二つ目。
自分のお金。自分で選んで、自分で使えるもの。
「……ありがと」
彼女は、小さくそう言った。
顔を上げられなかった。
◇
「……あの」
ロンが、遠慮がちに口を開いた。
彼は、さっきから二人のやり取りを見ていた。
そして、ずっと気になっていたことがあった。
「二人って、どういう関係なの?」
その問いに、キーノが顔を上げた。
まずい。
そう思った時には、遅かった。
「所有しております」
鬼太郎が、即答した。
個室が、静まり返った。
「……は?」
ロンが、間の抜けた声を出した。
ハリーも、目を丸くしている。
「しょ、しょゆう?」
「ええ。私のものです」
鬼太郎は、何ら悪びれる様子もなく続けた。
「気に入りましたので、手元に置いております。壊れないよう、大切に扱っております」
「ちょっと待ちなさいよ!」
キーノが、慌てて立ち上がった。
「あんた、初対面の人に何言ってんの!?」
「事実ですが」
「事実でも言い方ってものがあるでしょ!」
「では、どう申し上げれば」
「普通に! 友達とか、そういうの!」
「友達、ですか」
鬼太郎は、少し考え込んだ。
「定義が曖昧ですね。私とキーノさんの関係を、その語で説明できるとは思えません」
「説明しなくていいのよ!」
キーノは、真っ赤になっていた。
そして、ハリーとロンの方を向いた。
「ち、違うのよ。この子、変な言い方するだけで」
「え、あ、うん」
「同居してるの。それだけ。家が同じで、一緒に来ただけ」
「そ、そうなんだ」
ロンは、まだ混乱しているようだった。
ハリーは、二人を交互に見ていた。
(……なんか、複雑そうだな)
彼は、そう思った。
所有している、という言葉の意味は分からない。冗談にしては、あの黒髪の子は真顔すぎた。
だが、少女の方は本気で困っている。
なら、深く聞かない方がいいのだろう。
「あ、そうだ」
彼は、話題を変えることにした。
「これ、食べない? 蛙チョコレート」
◇
その提案は、うまく機能した。
キーノが、ようやく席に座り直す。
「……何これ。蛙?」
「本物じゃないよ。ただの魔法がかかったチョコレートなんだ」
ロンが、慣れた様子で説明した。
「開けると一回だけ跳ねるんだよ。逃がしちゃうと、もう戻ってこないから気をつけて」
「……逃げるの?」
「うん。窓開けてると最悪だよ」
キーノは、恐る恐る包みを開けた。
次の瞬間、中から蛙が跳び出した。
「わっ!」
彼女は、慌ててそれを掴んだ。
両手の中で、チョコレートの蛙が一度だけもがき――そして、動かなくなった。
「……捕まえた」
「おお、やるね!」
「な、なんでこんな仕様なのよ」
「さあ? 昔からこうだよ」
キーノは、掌の蛙をしばらく眺めていた。
そして、恐る恐る齧った。
「……あ」
目が、見開かれた。
「おいしい」
「だろ?」
ロンが、得意げに胸を張った。
自分が作ったわけでもないのに。
◇
「それと、中にカードが入ってるんだ」
「カード?」
「有名な魔法使いのやつ。集めるんだよ」
キーノが、包みの中を探った。
小さな紙片が出てくる。
そこには、半月形の眼鏡をかけた、長い銀髪の老人が描かれていた。
――アルバス・ダンブルドア。
「……あ」
「あ、ダンブルドアだ!」ロンが覗き込んだ。「僕、それ六枚持ってるよ」
「……六枚」
「今の校長先生なんだ。すごい人だよ。グリンデルバルドを倒したんだ」
キーノは、カードをじっと見つめていた。
絵の中のダンブルドアが、こちらに向かって片目をつぶった。
「……この人」
「知ってるの?」
「……うん、まあ」
彼女は、言葉を濁した。
つい二ヶ月前に会ったばかりだとは、言えなかった。あの人が屋敷まで来て、自分の入学を認めてくれたのだとも。
ハリーが、その様子を不思議そうに見ていた。
鬼太郎が、静かに口を開いた。
「そのカードには、本人の意思が反映されているのですか」
「え?」
「今、動きましたが」
「ああ、そりゃ魔法の写真だからね。動くのが普通だよ」
「では、動きは独立していると」
「独立?」
「本人と連動しているわけではない、という意味です」
「そんなわけないだろ。ただの写真だよ」
「なるほど」
鬼太郎は、頷いた。
「では、記録された挙動を再生しているだけですか。あるいは、写真自体が簡易的な思考を持つのか」
「……え?」
「後者であれば、興味深いのですが」
ロンは、口を開けたまま固まっていた。
「……何言ってんの、この子」
「気にしないで」
キーノが、疲れた顔で言った。
「こいつ、いつもこうなの」
◇
「そ、そうだ。これも食べてみなよ」
ロンが、別の箱を差し出した。
「バーティ・ボッツの百味ビーンズ」
「ひゃくみ?」
「文字通り、百種類の味があるんだ。チョコとか、ミントとか、そういうのもあるけど」
彼は、声を落とした。
「ほうれん草とか、レバーとか、モツとか」
「……え」
「兄貴のジョージが、前に鼻くそ味を食べたって」
「はな……!?」
キーノが、箱を取り落としそうになった。
ハリーが、笑いながら一粒摘まんだ。
「面白そうじゃないか」
「うわ、勇気あるね」
ハリーは、それを口に入れた。
そして、顔をしかめた。
「……なにこれ。草?」
「あー、それ芝生味かも」
個室に、笑い声が上がった。
キーノも、つられて笑っていた。
――楽しい。
彼女は、そう思った。
こんなに楽しいと思ったのは、いつぶりだろう。
いや、初めてかもしれない。
同じ年の子たちと、お菓子を食べて、笑っている。
ずっと、想像していたことだった。檻の中で、客たちの会話を聞きながら。
それが、今。
◇
その間、鬼太郎は箱の中身を一粒ずつ検分していた。
「……鬼太郎? あんた、食べないの?」
「いえ、分析しております」
「は?」
「色と味に相関があるかを確認しております」
彼は、真面目な顔でビーンズを並べていた。
「たとえば、この緑色のもの。あなたが召し上がったのは芝生でしたね。ですが、こちらの緑はミントの香りがいたします」
「……え、匂いで分かるの?」
「多少は」
彼は、続けた。
「つまり、色は味を保証しない。にもかかわらず、消費者は購入する。この商品が成立している理由が、理解できません」
「そりゃ、そこが面白いんだよ」
ロンが答えた。
「何が出るか分からないからさ」
「不確実性を、対価を払って購入すると」
「え、まあ、そうかな」
「非合理的ですね」
「……そ、そうかな」
「ええ。ですが」
鬼太郎は、一粒を口に入れた。
そして、しばらく咀嚼した。
「……なるほど」
「どうだった?」
「胡椒でした」
「うわ、はずれだ」
「いえ」
彼は、静かに言った。
「次は何が出るのか、少し気になります」
そして、もう一粒手に取った。
キーノが、目を丸くした。
この子が、そんなことを言うのは初めてだった。
◇
それからしばらく、四人は話し込んだ。
ロンは、自分の家族のことを話した。
「兄貴が五人いるんだ。ビル、チャーリー、パーシー、フレッド、ジョージ。あと、妹のジニー」
「多いね」
「多いよ。おかげでお下がりばっかりさ」
彼は、着ているローブの袖を引っ張った。
「これもビルのお古。杖もチャーリーのだし、ネズミはパーシーのお下がりだよ」
そう言って、彼はポケットから太ったネズミを引っ張り出した。
ぐっすり眠っている。
「スキャバーズっていうんだ。役立たずだけどね」
「……ネズミ?」
キーノが、覗き込んだ。
「うん。パーシーが監督生になった時、父さんがふくろうを買ってやったんだ。それで、こいつが僕に回ってきた」
「動かないわね」
「いっつも寝てるんだ。魔法をかけても何も起きないし」
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
鬼太郎が、口を開いた。
その目が、ネズミに向いている。
「え? うん、なに?」
「そちらは、何年ほど飼っておられますか」
「え、うーん」
ロンは、指を折って数え始めた。
「僕が貰ったのは、去年くらいかな。パーシーが監督生になった時だから」
「その前は、お兄様が」
「うん。パーシーがずっと持ってたよ」
「どれくらいですか」
「えっと……ずいぶん前からいたと思う。僕が物心ついた時には、もう家にいたし」
鬼太郎の目が、僅かに細められた。
「それは、何年になりますか」
「うーん、十年くらい?」
彼は、あっさりとそう答えた。
「そんなに長いの?」
キーノが、驚いた声を出した。
「そうだよ。うちの家族の中じゃ、古株なんだ」
「へえ……」
鬼太郎は、そのネズミをじっと見つめていた。
(――十年)
彼は、内心で計算していた。
ネズミという生物の寿命は、通常二年から三年程度である。長く生きても、四年に届くかどうか。日本の裏社会にいた頃、地下の倉庫で幾度も見てきた。
十年は、異常だった。
単なる長寿の個体という説明では、無理がある。
(――可能性は、いくつか)
彼は、順に検討した。
一つ。魔法界のネズミは、マグル世界のものと生態が異なる。魔力の濃い環境で生きる生物が、より長命である可能性。
二つ。これはネズミではなく、ネズミに似た魔法生物である。書物には、姿の似た種がいくつも記載されていた。
三つ――
そこまで考えて、彼はもう一つの可能性に思い至った。
だが、それはあまりに突飛だった。
根拠もない。
彼は、その考えを一旦保留した。
「魔法界のネズミは、寿命が長いのですか」
「え? どうだろ。考えたことないや」
ロンは、首を傾げた。
「どうなの? 普通は違うの?」
「私の知る限りでは、三年ほどです」
「三年!?」
「ええ」
「……じゃあ、スキャバーズって、すごいのか」
ロンは、感心したようにネズミを見下ろした。
「役立たずだと思ってたけど、実はすごいやつだったのかも」
「……そうかしら」
キーノが、胡乱な目でネズミを見た。
「ただ寝てるだけに見えるけど」
「いや、でも十年だよ? 長生きの秘訣とかあるのかな」
二人が、そんな話をしている横で。
鬼太郎は、まだそのネズミを見ていた。
(――後ほど、調べておきましょう)
彼は、そう結論した。
急ぐ話ではない。だが、引っかかりは残った。
この世界に来てから、彼が学んだことが一つある。
――説明のつかないものには、必ず理由がある。
「あ、そうだ」
ロンが、思い出したように顔を上げた。
「フレッドが呪文教えてくれたんだ。黄色くする呪文。見る?」
「見たい見たい!」
キーノが、身を乗り出した。
ロンは、得意げに杖を取り出した。
その時だった。
扉が、開いた。
◇
「あの……すみません」
立っていたのは、丸顔の少年だった。
半泣きになっている。
「ヒキガエル、見ませんでしたか」
「ヒキガエル?」
「はい。トレバーっていうんです。逃げちゃって」
彼は、今にも泣き出しそうだった。
「見てないなあ」
「そうですか……」
「大丈夫よ、そのうち出てくるわ」
少年の後ろから、別の声がした。
茶色い癖毛の少女が、扉の陰から顔を出していた。
前歯が少し大きい。既にローブを着ていて、なぜか妙に偉そうな雰囲気がある。
「あなたたち、見てないのね?」
「うん、見てないよ」
「じゃあ、他を探しましょう。ネビル、行くわよ」
「う、うん」
二人は、慌ただしく去っていった。
扉が閉まる。
「……なんか、忙しい子たちだったね」
「うん」
ロンが、肩をすくめた。
「じゃ、改めて。呪文いくよ」
彼は、杖を構え直した。
四人の目が、眠っているネズミに集まった。