ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
「じゃ、いくよ」
ロンは、杖を構えた。
その切っ先を、眠っているネズミに向ける。
「よく見てて。フレッドに教わったんだ」
彼は、大きく息を吸った。
その時、扉が開いた。
「――何か魔法をやるの?」
先ほどの少女だった。
茶色い癖毛。大きめの前歯。既にローブを着込んでいる。
「それなら、見せてちょうだい」
彼女は、返事も待たずに中へ入ってきた。
「え、あ、うん」
ロンは、面食らいながらも頷いた。
注目されるのは、悪い気分ではなかった。
「じゃ、いくよ。――日の光、ヒナギク、とろける甘さ、この醜いドブネズミを黄色に染めろ!」
杖を、勢いよく振る。
そして。
――何も、起きなかった。
スキャバーズは、相変わらず灰色のまま眠っていた。
「……あれ?」
「本当に、それが呪文なの?」
少女が、遠慮なく言った。
「あんまり上手くいってないみたいね」
「う、うるさいな。今のは練習だよ」
「わたしも試してみたけれど、全部うまくいったわ」
彼女は、胸を張った。
「わたしの家には、魔法族なんて一人もいないの。手紙が来た時は、本当にびっくりしたわ。でも、嬉しかった。だって、ホグワーツって最高の学校でしょう?」
彼女は、一息にそう言った。
「教科書は全部暗記したわ。それだけで足りるといいのだけれど」
「……全部?」
ロンが、呆然と呟いた。
「ええ。当然でしょう?」
◇
少女は、そこでハリーの方を見た。
「あなた、眼鏡が壊れているわね」
「え?」
ハリーは、自分の眼鏡に触れた。
確かに、片方のつるがテープで留めてある。ダドリーに殴られた時に折れて以来、ずっとそのままだった。
「貸してちょうだい」
「あ、うん」
彼女は、眼鏡を受け取ると、杖を向けた。
「――レパロ」
セロテープが剥がれ落ち、折れていたつるが、音もなく繋がった。
まるで、最初から壊れていなかったかのように。
「はい、どうぞ」
「……すごい」
ハリーは、掛け直した眼鏡を触りながら言った。
完璧だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は、満足げに頷いた。
そして、思い出したように付け加えた。
「あら、名乗っていなかったわね。ハーマイオニー・グレンジャーよ。あなたたちは?」
「ロン・ウィーズリー」
「ハリー・ポッター」
その名を聞いた瞬間、ハーマイオニーの目が輝いた。
「あなたが? 本当に?」
「え、あ、うん」
「知っているわ。あなたのこと、何冊も読んだもの」
彼女は、指を折り始めた。
「『近代魔法史』『闇の魔術の興亡』『二十世紀の魔法大事件』。全部にあなたのことが載っていたわ」
「……そうなんだ」
「知らなかったの?」
「うん」
ハリーは、曖昧に笑った。
また、これだ。
どこへ行っても、同じ反応をされる。
◇
「――一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
その時、静かな声がした。
鬼太郎だった。
それまで黙って本を読んでいた彼が、顔を上げている。
「あら、あなたも一年生?」
「ええ。墓場鬼太郎と申します」
「はかば……変わった名前ね。外国の方?」
「日本の生まれです」
「まあ、遠いのね」
ハーマイオニーは、興味深そうに頷いた。
「それで、質問って?」
「先ほどの呪文についてです」
「レパロのこと?」
「ええ。よく制御されておりました」
彼は、彼女の手元の杖を見ていた。
「一つだけ、確認させてください。あなたは、以前から魔法を使っておられたのですか」
「以前?」
「はい。何年ほど前から」
「まさか」
ハーマイオニーは、首を振った。
「わたし、マグル生まれよ。家族に魔法族なんて一人もいないの」
「では、いつから」
「手紙が来たのが七月の終わり。杖を買ったのが、その少し後だから――」
彼女は、指を折って数えた。
「一ヶ月くらいかしら」
鬼太郎の動きが、止まった。
「……一ヶ月」
「ええ」
「その間、どなたかに教わりましたか」
「教わる? 誰に?」
彼女は、心外そうに言った。
「本を読んだのよ。教科書と、参考書を何冊か。それで、家で練習したの」
「独学で」
「当たり前でしょう?」
鬼太郎は、しばらく黙っていた。
そして――ゆっくりと、言った。
「……素晴らしい」
◇
個室が、静まり返った。
「え?」
ハーマイオニーが、瞬きをした。
「素晴らしい、と申し上げました」
鬼太郎は、繰り返した。
「一ヶ月です。しかも独学で、教師もなく。それで、あれだけの精度を出される」
彼は、本を閉じた。
「私も杖を使いますが、ここまで来るのに半年以上を要しました。それも、まともな杖ではありませんでしたが」
「……半年?」
「ええ」
「あなた、いつから練習していたの?」
「昨年の春頃からです」
「……それ、学校に入る前でしょう?」
「ええ」
「未成年の魔法は――」
「規則については、存じております」
鬼太郎は、あっさりと言った。
「ですが、それはさておき」
「さておき!?」
「あなたの話です」
彼は、身を乗り出した。
「一ヶ月で、書物だけを頼りに。誰にも確認できず、間違いを指摘してくれる者もなく、それでも正しい形に辿り着いた」
彼の目が、静かに輝いていた。
「それが、どれほど難しいことか。私は知っております」
「……」
「本当に、素晴らしい」
ハーマイオニーの顔が、みるみる赤くなっていった。
「そ、そんな……当たり前のことをしただけよ」
「当たり前ではありません」
「……」
「多くの方は、そこまでやりません。教わるのを待ちます」
鬼太郎は、静かにそう言った。
ハーマイオニーは、俯いた。
褒められることは、これまでにもあった。
でも、それはいつも「よくできました」という類のものだった。優等生だと。真面目だと。
――努力の中身を、正確に見られたのは初めてだった。
一ヶ月。独学。誰にも確認できないという不安。何度も失敗して、何が間違っているのかも分からなくて、それでも繰り返した夜のこと。
誰も、そこは見ていなかった。
「……ありがとう」
彼女は、小さな声でそう言った。
◇
ハリーとロンは、その様子を呆然と見ていた。
(……この子、こんな喋り方するんだ)
ハリーは、内心でそう思った。
さっきまで、ほとんど口を開かなかった。話しても、妙に淡々としていた。
なのに今は、明らかに熱がこもっている。
ロンは、別のことを考えていた。
(……なんか、悔しいな)
自分の呪文は失敗した。この女の子のは成功した。
それは仕方がない。でも――褒められているのを見ると、なんとなく面白くなかった。
◇
そして、もう一人。
キーノだけが、別のものを見ていた。
彼女は、鬼太郎の顔を見ていた。
あの目。
目を細めて、口元をわずかに緩めて、相手を見つめるあの顔。
――知っている。
その顔を、彼女は知っていた。
サーシェスに向けた顔だった。
そして、あの見世物小屋で、自分に向けられた顔でもあった。
(……ちょっと)
彼女の背筋が、冷たくなった。
(……まさか)
◇
「では、もう一つお伺いしても」
鬼太郎が、続けた。
「え、ええ。何かしら」
「レパロについてです。あれは、破損したものを元の形に戻す呪文ですね」
「そうよ」
「では、その『元の形』とは、どこに記録されているのでしょう」
「……え?」
ハーマイオニーが、瞬きをした。
「どこに、って」
「壊れた物体には、既に元の形がございません。断片があるだけです」
鬼太郎は、淡々と続けた。
「にもかかわらず、呪文は正確に復元する。ということは、どこかに元の形の情報が保持されているはずです。物体そのものにか、あるいは別の場所にか」
「……」
「それは、どちらでしょう」
ハーマイオニーは、口を開いた。
そして――閉じた。
答えられなかった。
教科書には、書いてなかった。
レパロの使い方は載っている。杖の振り方も、発音も、注意点も。
だが――**なぜそれが可能なのか**は、書いていなかった。
考えたこともなかった。
「……分からないわ」
彼女は、悔しそうに言った。
「そう答えられるのも、立派なことです」
「立派じゃないわよ!」
彼女は、思わず声を上げた。
「分からないなら、調べればいいだけでしょう!」
「その通りですね」
「……調べておくわ」
彼女は、きっぱりとそう言った。
「絶対に」
「では、後ほど伺います」
「ええ、待ってなさい」
二人は、しばらく見つめ合っていた。
ハリーとロンは、その間まったく口を挟めなかった。
◇
「……あの」
しばらくして、ハーマイオニーがキーノの方を見た。
「あなたも、一年生よね」
「え、あ、うん」
キーノの肩が、跳ねた。
「キーノよ。キーノ・ファスリス・インベルン」
「素敵な名前ね」
「そ、そう?」
「ええ。長いけれど、響きがいいわ」
ハーマイオニーは、あっさりとそう言った。
そして、次の話題に移った。
「あなた、どの寮に入りたい?」
「……え」
「わたしはグリフィンドールがいいと思っているの。ダンブルドア先生もそこだったって聞いたわ。でも、レイブンクローも悪くないかしら」
「……あたし」
「どうかした?」
「……考えたこと、なかった」
キーノは、正直にそう答えた。
寮のことは、本で読んだ。だが、どれになりたいかなんて、考える余裕がなかった。
それより――**受け入れてもらえるかどうか**の方が、ずっと大きかった。
「そう? じゃあ、着いてからのお楽しみね」
ハーマイオニーは、簡単にそう言った。
それだけだった。
キーノは、拍子抜けした。
髪のことも、肌のことも、何も言われなかった。
この子は、自分を普通の子として扱っている。
(……あ)
彼女の胸に、小さな温かさが広がった。
これが、そうなのかもしれない。
檻の中で、ずっと想像していたもの。
同じ年の子と、何でもない話をするということ。
「……あたし、グリフィンドールがいいかも」
彼女は、そう言ってみた。
「あら、どうして?」
「……なんとなく」
「ふふ、いい加減ね」
ハーマイオニーが笑った。
キーノも、つられて笑った。
◇
「あ、そうだわ」
ハーマイオニーが、立ち上がった。
「もう着くわよ。早く着替えた方がいいわ」
「え、もう?」
「あと少しよ。わたし、前の方でネビルを手伝ってくるから」
彼女は、扉に手をかけた。
そして、振り返った。
「――墓場くん」
「はい」
「さっきの質問。次に会うまでに、答えを見つけておくから」
「お待ちしております」
「それと」
彼女は、少しだけ言い淀んだ。
そして、早口で言った。
「……さっきは、ありがとう」
返事を待たずに、彼女は出ていった。
扉が、閉まる。
◇
「……なんか、嵐みたいな子だったね」
ハリーが、呟いた。
「うん。ちょっと苦手かも」
ロンが、肩をすくめた。
「あんなの、一緒の寮になったら大変だよ」
「そうかな」
「絶対そうだって」
二人が、そんな話をしている横で。
キーノが、鬼太郎の袖を引いた。
「……ちょっと」
「はい」
「あっち来なさい」
「どちらへ」
「いいから!」
彼女は、鬼太郎を引っ張って通路へ出た。
◇
扉を閉めると、彼女は腕を組んだ。
「あんた」
「はい」
「さっきの、何?」
「何、と申されますと」
「あの子のこと、褒めてたでしょ」
「ええ。事実ですので」
「そうじゃなくて」
キーノは、彼を睨みつけた。
「あの顔よ」
「顔?」
「あんた、笑ってたでしょ。あの顔で」
鬼太郎は、少し首を傾げた。
「そうでしたか」
「気づいてないの?」
「自覚はございませんでした」
「……嘘でしょ」
彼女は、額を押さえた。
そして、はっきりと言った。
「あんた、あの子を気に入ったんでしょ」
鬼太郎は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「……ええ。興味深い方だと思います」
「やっぱり!」
「何か問題が」
「大ありよ!」
キーノは、声を潜めて詰め寄った。
「言っとくけど、あの子に変なことしたら、あたし絶対怒るからね」
「変なこと、といいますと」
「所有するとか言い出さないでよ!」
「……ああ」
鬼太郎は、納得したように頷いた。
「ご心配なく。あの方は、所有できるものではありません」
「……え?」
「自分の足で歩いておられる方です。誰かに囲われる必要がない」
彼は、淡々とそう言った。
「私が手元に置くのは、そうしなければ損なわれるものだけです」
キーノの動きが、止まった。
――そうしなければ、損なわれるもの。
つまり。
「……あたしは、そうだったってこと?」
「ええ」
あっさりとした肯定だった。
「あの場所に置いておけば、遠からず壊れていたでしょう」
「……」
「ですので、持って帰りました」
キーノは、何も言えなかった。
失礼なことを言われている。それは分かる。
人としてではなく、壊れそうな物として扱われた。そういう話だ。
なのに――
(……なんで)
なぜか、嫌な気分にならなかった。
むしろ、少しだけ。
「……ふん」
彼女は、顔を背けた。
「まあ、いいわ。とにかく、変なことしないでよ」
「善処いたします」
「善処じゃなくて、約束しなさい」
「……承知いたしました」
キーノは、それでようやく満足した。
そして、扉を開けて中へ戻っていった。
鬼太郎は、しばらく通路に立っていた。
窓の外では、風景が流れていく。
牧草地。森。遠くの山。
もうすぐ、着くらしい。
(――思ったより)
彼は、そんなことを考えていた。
(――面白い場所かもしれませんね)