ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
ホグワーツの職員室には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、穏やかな時間帯だった。
「――というわけで、来学期の五年生には、水晶玉よりも先に茶葉占いから教えようと思いますの」トレローニー先生は、いつも通りの大仰な身振りで紅茶のカップを傾けた。「若い魂には、まず基礎から。霧の向こうを見通す前に、手元の葉の形から読み取る訓練が必要ですのよ」
「なるほど、それはいい考えじゃ」ダンブルドアは穏やかに頷きながら、内心では別のことを考えていた。
ここ数年、物事は概ね順調に運んでいる。あの子は今、まっとうな――決して幸福とは言い難いが、少なくとも安全な――環境で育っている。血の守りは今のところ揺らいでいない。水面下で進めている数々の算段も、着実に形を成しつつあった。そう思うと、目の前の他愛のない世間話すら、心地よい余韻を伴って聞こえてくる。
「それに、占い学の授業というのは、生徒たちの緊張をほぐす効果もございますのよ。わたくしの内なる目が、最近の生徒たちの心労を鋭敏に感じ取っておりまして。ロングボトム家のご子息など、特に霧が濃く――ああ、それと今朝方、厨房の妖精たちが妙に浮足立っておりましたでしょう。あれも何かの前兆かもしれませんわね」
「厨房の妖精たちは、大方新しい菓子の試作に浮かれておるだけじゃろう」ダンブルドアは目を細めて笑った。
「あら、そうかもしれませんわね」トレローニーはくすくすと笑い、カップをソーサーに戻した。「本当に、平和な時代というのは良いものですこと。数年前の、あの張り詰めた空気が嘘のようですわ」
「まったくじゃ。この静けさが、末永く続くことを願うばかりだのう」
ダンブルドアがそう口にした、その時だった。
トレローニーの声が、不意に止まった。
ダンブルドアは、その瞬間の空気の変化を、体の芯で感じ取った。前にも一度、これと同じ感覚を味わったことがある。忘れようもない、あの日の記憶が、瞬時に脳裏をよぎった。
背筋が伸び、瞼が痙攣するように震える。焦点の合わなくなった瞳が、ダンブルドアではない何かを見つめていた。声が変わる。低く、平坦で、まるで別人のものだった。
語られたのは、ダンブルドア自身の血を引く者についてだった。その者は、墓から生まれ、誰にも縛られることなく己の道を貫いて生きる。邪魔する者は、容赦なく消し去られる。その者は白にもなり、黒にもなる。たとえダンブルドアの血を継いでいようと、それは善人であることを意味しない。血は、ただの血でしかない――そして、決して仲間と思うな。彼が傍らに置くのは、仲魔である。
声が途切れ、トレローニーの瞳から光が戻る。
「あら、失礼。少し考え事をしておりましたわ。それで、何のお話でしたかしら」
何食わぬ顔でカップに口をつける彼女を前に、ダンブルドアはしばらく身動きひとつできなかった。指先が、わずかに冷たくなっているのを自覚する。
自分の血を引く者。
脳裏に浮かんだのは、まず己の家族の顔だった。弟アバーフォース。とうに亡くなった父パーシバル、母ケンドラ、そして幼くして世を去った妹アリアナ。まさか――いや、あり得ない。彼らのうちの誰ひとり、この予言に当てはまるような人物ではなかった。だが、他に「血を引く者」に該当するような存在を、彼はすぐには思い浮かべられなかった。
「先生、顔色が優れませんわ」
「いや、なんでもない。わしが少し疲れておるだけじゃろう」
努めて平静を装いながら、ダンブルドアはトレローニーに暇を告げ、職員室を後にした。廊下を歩く間も、頭の中では先ほどの言葉が繰り返し谺していた。墓から生まれる。血は血でしかない。決して仲間と思うな。
その夜遅く、彼は自室の書棚から、古い血統記録の巻物を取り出していた。長年手を触れていなかった、埃をかぶった巻物だった。羊皮紙を広げ、蝋燭の灯りの下で、ダンブルドア家の家系図を丹念に目で辿っていく。父の代、祖父の代、そのまた前の代――知る限りの記録をすべて確認しても、該当しそうな遠縁の存在は、どこにも見つからなかった。記されているのは、彼自身の知る顔ぶれだけだった。
「……墓から生まれる、とはのう」
呟いた言葉が、静まり返った部屋に虚しく響く。手がかりのなさに、苛立ちにも似た焦燥が募っていく。まるで、記録そのものが何かを意図的に隠しているかのようだった。あるいは、記録に残らぬほど遠く、薄い血の先にいる者なのか。
それでも、彼はその夜、答えらしきものを何一つ見つけられないまま、巻物を閉じることになった。窓の外では、いつもと変わらぬ夜空が、静かに広がっていた。
誰かに相談すべきだろうか、という考えが一瞬頭をよぎった。ミネルバなら、あるいは力になってくれるかもしれない。だが、確たる根拠も、名前すらもない話を打ち明けたところで、いたずらに不安を煽るだけだろう。それに――これは、自分の血の問題だ。他の誰かに背負わせるべきことではない。
ダンブルドアは巻物を書棚に戻すと、しばらくの間、暗い窓の外を見つめ続けていた。あの予言に登場した「彼」が今どこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのか、そんなことすらわからないまま、時間だけが静かに過ぎていく。
もっとも、この時の彼には知る由もなかった。まさにこの瞬間、海を隔てた遠い異国で、一人の少年が、両親を失うと同時に、まったく別の何かへと生まれ変わろうとしていたことなど。
◇
同じ頃、日本の小さな神社では、六歳になった鬼太郎が、境内の石段に座り込んで蟻の行列を眺めていた。
「鬼太郎、そろそろお昼よ」
母の声に、鬼太郎は振り返って笑った。父は縁側で、庭木の手入れをしながら鼻歌を歌っている。
「今日のお昼は?」
「鬼太郎の好きな、卵焼きよ」
「やった!」
鬼太郎は石段を駆け下りると、母のもとへ一直線に走っていった。その様子を見て、父が縁側から声をかける。
「こら、走ると転ぶぞ」
「大丈夫!」
何の変哲もない、ありふれた昼下がりだった。この六年間、彼らはずっとこうして、静かで穏やかな日々を積み重ねてきた。故郷を捨て、名を捨てた末にたどり着いた、ささやかで確かな幸福だった。
その平穏が崩れたのは、ほんの一瞬のことだった。
境内の外れ、鳥居の陰から、一人の男がふらりと姿を現した。ぼろぼろに汚れたローブを纏い、目だけが異様に血走っている。長い逃亡生活の末、行き場を失った、かつての闇の魔法使いの残党だった。魔法の痕跡を辿ってここまで来たわけではない。ただの偶然、ただの気まぐれだった。行くあてもなく彷徨ううちに、たまたまこの土地に行き着いただけの、無意味な邂逅。
だが、男はすぐに気づいた。この家から漂う、隠しきれない魔法の残り香に。
「……見つけた」
しわがれた声が、静かな境内に響いた。
母が真っ先に異変を察知した。長年の「感じる」力が、これまでにない強さで警鐘を鳴らしていた。振り返った先に立つ男の姿を認めた瞬間、彼女は反射的に鬼太郎を抱き寄せていた。
「あなた――!」
父が縁側から飛び出してくる。鋏を握ったままの手が、震えていた。魔力を持たない自分に、何ができるわけでもない。それでも、彼は迷わず妻子の前に立ちはだかった。
「鬼太郎を連れて、逃げろ!」
父の叫びと同時に、緑色の閃光が庭先を裂くように走った。父の体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。母が悲鳴を上げて鬼太郎を庇い、その場から動こうとした、次の瞬間――二度目の閃光が走った。
すべては、数秒の出来事だった。
鬼太郎は、目の前で起きたことを、しばらく理解できずにいた。地面に横たわる父と母。動かない二人。境内に満ちる、鉄錆に似た臭い。
男の視線が、ゆっくりと鬼太郎へと向いた。証人は残さない――そう判断したのか、あるいは単なる気まぐれか。しわがれた声で何かを呟きながら、男は杖をこちらへ向け直した。
その、死の気配がすぐそこまで迫った瞬間だった。
頭の中で、何かが弾けた。
見たこともない光景が、次々と流れ込んでくる。瓦礫と化した都市の姿。悪魔と呼ばれる異形の群れ。COMPと呼ばれる装置を手に、その只中を駆け抜ける自分自身の姿。誰かと肩を並べて笑い、誰かと殺し合い、そして――満足げに息を引き取る、最期の瞬間。とても楽しかった。今度は勝ちたい。そう言い残して閉じた、もう一つの人生の記憶。
断片的で、脈絡のないその奔流に、六歳の体が悲鳴を上げるように震えた。それでも、記憶は止まらない。次から次へと押し寄せ、彼という存在の輪郭を、静かに、しかし確実に塗り替えていく。
「……ああ、そういうことですか」
声が、変わっていた。
先ほどまでの幼い舌足らずな声ではない。低く、静かで、どこまでも冷えた声だった。鬼太郎は、ゆっくりと顔を上げた。その目が、細められる。口元には、うっすらと笑みさえ浮かんでいた。
「おやおや、これは――穏やかではありませんね」
男の腕が、一瞬だけ止まった。ほんの数秒前まで、ただ怯え、泣きじゃくるだけの子供だったはずだ。それが今、笑っている。楽しそうに、興味深そうに、まるでこの状況そのものを面白がるかのように。その豹変ぶりに、男の背筋を、得体の知れない悪寒が這い上がった。
だが、迷いを振り切るように、男は呪文の詠唱を続けた。放たれた光が、鬼太郎目掛けて迫る。
鬼太郎は、その軌道を見切ると、体を横に一歩ずらしただけで、光をやり過ごした。六歳の身に染みついているはずのない、無駄のない身のこなしだった。この体はまだ幼く、脆い。だが、攻撃を読み、最小限の動きで躱すという技術だけなら、力任せの魔法よりもずっと少ない負担で済む。
右手を軽くかざす。魔力ではない、精神力――前世で幾度となく使ってきた、体に染みついた力の流し方だった。杖も、詠唱の型も要らない。ただ、意志と共に力を練り上げ、解き放つだけでいい。
もっとも、思い出せたのは、数ある技のうちで最も初歩的な一つに過ぎなかった。前世でならば、児戯にも等しい代物だ。それでも――使い手が違えば、話は別だった。
「――アギ」
短く紡がれたその一言と共に、人の頭ほどの大きさに凝縮された火球が、男へと撃ち出された。この世界の炎の呪文とは、性質からして違う。体力でも、感情でも、集中力でもない、精神力を対価とする一撃。着弾の瞬間、火球は弾けるように広がり、男の体を瞬時に呑み込んだ。悲鳴を上げる間もなく、業火に包まれた体が崩れ落ちる。最後まで、その顔には理解の色が浮かんでいなかった。
静寂が戻る。
だが、次の瞬間、鬼太郎の視界が大きく傾いだ。全身から力が抜け、膝から地面に崩れ落ちる。
この世界でこの体を使い、この力を放ったのは、初めてのことだった。かつての、鍛え上げられた体であれば、この程度の一撃、消耗のうちにも入らなかっただろう。だが今のこの体は、まだ六年しか生きていない、何一つ鍛えられていない子供の体だった。精神力を練り上げるという行為そのものに、体が耐えきれていない。
意識が急速に遠のいていく。抵抗する間もなく、鬼太郎はそのまま、地面に倒れ伏した。
◇
どれほどの時間が経ったのか、鬼太郎にはわからなかった。
瞼を開けると、空はすでに白み始めていた。体を起こそうとして、鉛のように重い体に顔をしかめる。ひどい消耗感だった。まるで、体の中身をごっそりと持っていかれたかのような感覚。
それでも、彼はゆっくりと体を起こし、周囲を見回した。焼け焦げた残骸と化した男の姿。そして、変わらぬ姿で横たわる、父と母。
夢ではなかったらしい。
鬼太郎は、まず焼け焦げた男の残骸へと目を向けた。悲しみよりも先に浮かんだのは、確認だった。――使えた。この、未鍛錬の子供の体でも、精神力さえ練れば、前世の力は確かに機能する。恐怖でも動揺でもなく、実験結果を検分するような、乾いた興味がそこにはあった。壊れた世界を生き延びた者にとって、力の有無は何よりもまず先に確かめるべき事実であって、感情はその後についてくるものだった。
それから、彼はようやく両親の亡骸に目を移した。涙は、出なかった。
弱い者は、死ぬ。強い者は、生き残る。前世の果てで、彼が骨の髄まで刻み込んできた摂理だった。この世界は杖と呪文で取り繕われた、一見穏やかな顔をしているが、結局のところ同じ理屈で回っている。父も母も、その意味では弱者だった。抗う術を持たず、あっさりと命を落とした。それを不条理だとも、可哀想だとも、彼は思わなかった。ただ、そういうものだ、というだけのことだった。
「この世界も、結局は同じ……ですか」
呟きながら、彼はゆっくりと立ち上がった。まだ体に力は入りきらない。それでも、その瞳にはもう、六歳の子供のものとは思えない、冷たい光が宿り始めていた。
両親のことを、嫌ってはいない。六年もの間、この身を守り、食わせ、育ててくれた。その事実に対しては、感傷ではなく、もっと即物的な意味での貸し借りの感覚があった。世話になった分は、返す。それが、彼の中にある数少ない、揺るがない規則の一つだった。死者への未練という形ではなく、清算という形で。
「――世話になった分は、返します」
両親の亡骸に向けて、鬼太郎は淡々とそう告げた。感謝でも別れの言葉でもない、ただの決済報告のような響きだった。
彼は境内を見回すと、社の縁側に落ちていたランプ油の缶を拾い上げた。火葬の作法など知らない。それでも、貸しを返さぬまま立ち去るという選択肢は、彼の中にはなかった。
油を撒き、乾いた木材に火を移す。瞬く間に、社全体が炎に包まれていった。赤々と燃え上がる神社を背に、鬼太郎はしばらくその場に立ち尽くしていた。悲しみに暮れるためではない。貸し借りの清算を、最後まで見届けるという、ただそれだけの理由からだった。
もっとも、その胸の内では、もう別のことを考え始めていた。この世界の魔法、この世界の理、この世界に潜む強者の姿――知らないことばかりだ。それを一つ一つ確かめていく作業は、彼にとって、久方ぶりに胸の躍る類のものだった。
「この世界は……そこそこ、楽しめそうですね」
燃え盛る炎を見つめながら、鬼太郎は静かにそう呟いた。その声に、湿った感傷は一片も含まれていなかった。
やがて、彼はゆっくりと踵を返した。誰かが騒ぎを聞きつけて来る気配は、まだない。この土地でどう生きていくか、これからどうするか――思考が、恐ろしいほど冷静に回り始めていることに、彼自身、どこか他人事のように気づいていた。
前世の記憶の中の自分も、きっとこうだったのだろう。荒廃した世界で、感傷に立ち止まる暇などなかった、あの頃の自分と。
鬼太郎は、燃え上がる社に一度だけ目を向けてから、静かにその場を後にした。振り返ることはしなかった。この夜を境に、墓場鬼太郎という少年は、二度と元には戻らない。