ハリー・ポッターと墓場に還りし者   作:ムササビ

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世界の輪郭

 裏社会での暮らしは、思いのほか性に合っていた。

 

 仕事は途切れない。厄介事を抱えた人間はどこにでもいて、それを片付けられる人間は常に不足している。六歳の子供が請け負う仕事としては異様だったが、結果さえ出せば誰も文句は言わなかった。むしろ、年齢を理由に侮ってくる相手ほど、始末は簡単だった。

 

 そうして得た金で、鬼太郎は寝床を確保し、食事を確保し――そして、残りのすべてを「学ぶこと」に費やした。

 

 図書館に通い、この国の歴史を年代順に辿る。古書店の棚を漁り、世界史の概説書を買い込む。新聞の縮刷版を読み込み、過去数十年に何が起きたのかを追う。子供が一人、開館から閉館まで分厚い本と向き合っている姿は、司書たちの間でちょっとした噂になった。

 

 傍から見れば、異様な熱意に映っただろう。だが、彼自身にとって、これは苦行でも何でもなかった。

 

 むしろ――楽しかった。

 

 前世では、こんな時間は一度たりとも許されなかった。次の瞬間には死ぬかもしれない世界で、知識とは即座に生存へ直結するものだけを指した。悪魔の弱点。武器の扱い。安全な水場の位置。それ以外を学ぶ余裕など、どこにもなかった。

 

 だが、この世界は違う。

 

 誰も彼を殺しに来ない夜がある。腹が満ちて、明日の心配をせずに本を開ける時間がある。そこに並んでいるのは、彼がまったく知らない、未知の歴史と文化の集積だった。

 

 産業革命。二度の世界大戦。冷戦構造。彼の知る世界とは似て非なる形で積み上げられてきた、人類の歩み。一つ知るたびに、次の疑問が生まれる。その連鎖が、彼にとっては純粋に心地よかった。

 

(――知らないことを知る、というのは。存外、悪くない)

 

 ページをめくりながら、彼は時折そんなことを考えた。かつて「悪魔よりも悪魔」と呼ばれた男が、今は図書館の隅で、静かに本を読んでいる。滑稽な話だと自分でも思ったが、不思議と悪い気はしなかった。

 

 そして、そうした地道な作業の果てに、彼は一つの結論へと辿り着きつつあった。

 

 この世界の歴史のどこにも、前世の惨劇に至る道筋が存在しない。

 

 東京が瓦礫の山と化すような大異変。悪魔と呼ばれる異形の出現。それらしい記録は、公的なものから与太話の類に至るまで、一切見当たらなかった。神話や伝承の中に「悪魔」という言葉こそ登場するが、それはあくまで概念上のものであって、実在の記録ではない。

 

 つまり――ここは、前世の過去ではない。

 

 では未来か? それも違う。もし未来なら、あの惨劇はすでに歴史として刻まれているはずだ。だが、そんな記録はどこにもない。

 

 残る答えは、一つしかなかった。

 

「……まったくの、別世界。ということになりますか」

 

 深夜の安宿で、彼は読みかけの本を閉じて呟いた。

 

 その事実を前にして、彼の胸に湧いたのは、落胆でも寂寥でもなかった。帰る場所がないという現実は、とうに受け入れている。フリンも、かつて共に戦い、共に殺し合った者たちも、この世界のどこにも存在しない。それは確定した。

 

 だが――それは同時に、この世界が「まったく未知の領域」であることを意味していた。

 

 既知の法則が通用しない場所。どんな理で動いているのか、まだ何一つわかっていない世界。

 

「――なるほど。これは、面白くなってきましたね」

 

 彼は口元をわずかに緩めた。研究対象としては、これ以上ないほどの上物だった。

 

 もっとも、まだ確かめきれていない事柄が一つ残っている。

 

 悪魔と、魔法の存在。

 

 彼自身が「アギ」と「プリンパ」を行使できる以上、この世界にも超常の理が存在する余地はある。だが、そんなものを見たという人間には、いまだ一人も出会っていなかった。

 

        ◇

 

 その手がかりが転がり込んできたのは、それからしばらく経った、ある夜のことだった。

 

 場所は、裏社会の連中が寄り集まる、看板もない酒場の一角。鬼太郎はカウンターの隅に座り、いつものように周囲の会話に耳を傾けていた。情報収集の基本は、話すことよりも聞くことにある。

 

「――で、その野郎がよ、いきなり消えやがったんだ」

 

 三つ隣の席で、赤ら顔の男が呂律の回らない口調で喋っていた。

 

「消えた? 逃げたんだろ」

 

「違えよ。目の前でだぞ? 挟み撃ちにして、逃げ場なんざどこにもねえ路地だ。それがな、パンッて音がしたと思ったら、跡形もねえんだ」

 

「酔っ払いの戯言だな」

 

「本当だって! 俺だけじゃねえ、あの場にいた三人全員が見てんだよ!」

 

 周囲の男たちは、げらげらと笑い飛ばしていた。よくある与太話。酔いに任せた作り話。誰もまともに取り合っていない。

 

 だが、鬼太郎は、グラスに口をつけたまま、その会話を一言も漏らさず拾っていた。

 

 ――消えた。音を立てて、跡形もなく。

 

 それだけなら、確かに与太話で片付く。問題は、これが初めて聞く類の話ではない、ということだった。

 

 二ヶ月ほど前、別の筋から似た話を聞いた。取り立てに行った先の男が、棒切れのようなものを振っただけで、屈強な三人が吹き飛ばされた――と。その時も、周囲は笑って流していた。

 

 さらに遡れば、もう一つ。積荷が丸ごと消失した、という話があった。倉庫の鍵はかかったまま、外からは誰も入った形跡がない。単なる内部の横流しだろうと処理されていたが。

 

 共通しているのは、「棒切れ」あるいは「杖」を持った人間の存在。そして、常識では説明のつかない現象。

 

 鬼太郎は、静かにグラスを置くと、赤ら顔の男の隣へ席を移した。

 

「失礼いたします。少々、お話を伺ってもよろしいでしょうか」

 

 声をかけられた男が振り向き、そして――その顔から、酔いの赤みが一気に引いた。

 

「……お、おい。あんた、確か……」

 

「墓場です」

 

 その名を聞いた瞬間、周囲の空気が変わった。カウンターで管を巻いていた数人が、そろって口をつぐむ。この界隈で、その名を知らない人間はもういない。子供の姿をした始末屋。素手で大の大人を沈め、時には人一人を跡形もなく消し炭に変えるという、得体の知れない何か。二年の間に積み上げてきた実績は、そういう類の噂となって、裏社会の隅々にまで染み渡っていた。

 

「な、なんの用だ。俺は何もしてねえぞ」男は椅子ごと後ずさった。「なあ、何か勘違いしてるなら――」

 

「落ち着いてください。仕事の話ではありません」

 

 鬼太郎は、いつもの丁寧な口調でそう言うと、わずかに首を傾げた。

 

「先ほどのお話です。目の前で人が消えた、という」

 

「あ……ああ、あれか」男は胸を撫で下ろしながらも、まだ警戒を解かずにいた。「あんなの、ただの酔っ払いの与太話だ。本気にすんなよ」

 

「いいえ。大変興味深く伺っておりました」

 

 真顔でそう返され、男は困惑した様子で瞬きをした。周囲で聞き耳を立てていた連中も、怪訝そうにこちらを窺っている。この子供が、何を血迷って与太話に食いついているのか――誰もが測りかねている顔だった。

 

「その方の風体を、覚えていらっしゃいますか。持ち物や、服装など」

 

「風体ぁ? そうだな……妙なマントみてえなもん着てたな。あと、手には確かに、細い棒みたいなもん持ってた」

 

「言葉は」

 

「日本語じゃなかったな。ありゃ英語か……いや、なんて言ったか」男は首をひねった。「とにかく、外国の野郎だ。それだけは間違いねえ」

 

 外国人。マント。杖。

 

 鬼太郎は、その三つの単語を頭に刻み込んだ。

 

「ありがとうございます。もう一つだけ。そういった話を、他にもご存知ではありませんか。あなたと同じような経験をされた方が、どこかにいらっしゃるとか」

 

「知らねえよ、そんなもん……いや」男はふと思い出したように顔を上げた。「そういや、港の連中が似たような話してたな。外国から来た荷を扱ってる連中だ。妙な客が時々来るって」

 

 港。外国からの荷。

 

「――ご協力、感謝いたします」

 

 鬼太郎は丁寧に一礼すると、カウンターに金を置き、そのまま酒場を後にした。

 

 扉が閉まった後、店内には数秒の沈黙が落ちた。

 

「……なんだったんだ、今の」

 

「知るかよ。あのガキの考えることなんざ、わかるもんか」

 

 男たちは肩をすくめ、何事もなかったかのように酒を呷り始めた。触れないのが一番だと、この界隈の人間は皆、経験則で知っていた。

 

        ◇

 

 それからの数ヶ月、鬼太郎は執拗にその線を追い続けた。

 

 港湾関係者に接触し、外国から来る「妙な客」の情報を集める。裏の流通ルートを辿り、通常の手続きを経ずに国内へ持ち込まれる品物の中に、正体不明のものが混ざっていることを突き止める。

 

 そうして浮かび上がってきたのは、断片的ながら、確かに一つの輪郭を持った情報だった。

 

 ――「魔法」という言葉。

 

 それを扱う者たちの共同体が、どうやら実在するらしいこと。そして、その中心は日本ではなく、遥か西方――ヨーロッパにあるらしいということ。

 

「なるほど」

 

 集めた情報を書き留めたノートを閉じ、鬼太郎は静かに息を吐いた。

 

 日本国内で得られる情報は、ここまでだった。これ以上を求めるなら、源流へ向かうしかない。

 

 決断は、早かった。

 

 この土地に未練はない。両親は既に灰になり、裏社会での立場も、代わりを立てれば済む程度のものだ。何より、彼の興味はすでに「この世界の超常」という一点に向いていた。

 

 渡航の手段は、いくらでもあった。正規の手続きなど踏めるはずもないが、この二年で築いた裏の伝手を使えば、人一人を海の向こうへ運ぶことなど造作もない。多少の金と、いくつかの貸しがあれば十分だった。

 

 出発の日。

 

 貨物船の甲板から、鬼太郎は遠ざかっていく陸地を眺めていた。

 

 八歳になっていた。二年前、燃える社を背に歩き出した時とは、既に何もかもが違っている。金も、力も、知識も、あの頃とは比べ物にならないほど蓄えた。だが、彼の中にある問いは、まだ何一つ解けていなかった。

 

 この世界には、悪魔がいるのか。魔法があるのか。

 

 そして――本気でぶつかれるだけの何かが、この世界には存在するのか。

 

「……さて、どうなりますか」

 

 潮風に目を細めながら、鬼太郎は静かにそう呟いた。

 

 振り返ることは、一度もなかった。

 

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