ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
港に降り立った時、鬼太郎が最初に感じたのは、空気の匂いの違いだった。
潮の香りは同じでも、その奥に混ざるものが違う。石造りの建物が放つ埃っぽさ、嗅ぎ慣れない香辛料、それに煙草の銘柄までもが異なっていた。行き交う人々の背丈も、話す言葉も、日本とはまるで別物だ。
積荷の陰から抜け出し、誰にも見咎められないまま港湾区画を後にする。八歳の小柄な体は、こういう時にはよく役に立った。大人は、子供の存在をいちいち記憶に留めない。
石畳の路地を歩きながら、鬼太郎は現状を整理していた。
金は、ある。日本で稼いだ分を、あちらの伝手を使って現地通貨に替えてきた。だが、それ以外は何もない。伝手も、後ろ盾も、この土地での立場も。二年かけて築き上げたものは、海を渡った時点ですべて置いてきた。
振り出しに戻った、ということだ。
もっとも、彼はそれを苦にしていなかった。
新しい土地。新しい言語。新しい社会の構造。この街がどういう理で回っているのか、まだ何一つ知らない。それはつまり――学ぶべきことが山ほどある、ということでもあった。
(――さて。まずは、言葉ですか)
最初の三ヶ月は、ひたすらそれに費やした。
安宿に部屋を借り、市場や広場に出ては、ひたすら人々の会話を聞き続ける。子供向けの本を買い込み、単語と文字を照合していく。教会の掲示板、新聞の見出し、店の看板――目に入るすべてを教材にした。
幸い、この作業には前世の経験が味方した。荒廃した世界では、通じない相手と意思疎通を図る場面など日常茶飯事だった。言葉の壁を越える勘所のようなものが、体に染みついている。
半年が経つ頃には、日常会話に不自由しない程度には話せるようになっていた。訛りは残ったが、それも「外国から流れてきた孤児」という体裁には、かえって都合が良かった。
◇
言葉が通じるようになれば、次の段階は早かった。
欧州の裏社会に足を踏み入れるまでの手順は、日本の時とほとんど同じだった。まず情報を集め、どこに誰がいるかを把握する。次に、力を示す。そして、仕事を得る。
ただし――勝手の違う点が、一つあった。
「――撃たれる前提で動く必要がある、と」
初めて銃口を向けられた時、鬼太郎は妙に冷静にそう考えていた。
日本の裏社会でも、銃を持つ人間はいた。だが、それは切り札であり、滅多に抜かれるものではなかった。こちらは違う。路地裏の小競り合いですら、当たり前のように銃が出てくる。抜くことに躊躇がなく、撃つことに迷いがない。
その日、彼は三人の男に囲まれていた。仕事上の揉め事――こちらが請け負った案件の標的が、この男たちの身内だった、というだけの話だ。
「ガキが調子に乗るからだ」
中央の男が、銃口をまっすぐに向けてくる。距離は五メートル。避けられる間合いではない。
鬼太郎は、その状況を静かに観察していた。恐怖はない。あるのは、どう処理すべきかという思考だけだった。アギを使えば片は付く。だが、この距離では相手の引き金の方が早い。
――ならば。
彼は、両手をゆっくりと上げた。降参の仕草。男たちの緊張が、わずかに緩む。
その一瞬を、彼は見逃さなかった。
地を蹴り、低く踏み込む。銃口が下がるより早く、男の手首を掴んで捻り上げた。乾いた発砲音が頭上を抜けていく。そのまま男の体を盾にして、残る二人の射線を塞いだ。
そして――男の手から零れ落ちた拳銃を、地面に落ちる前に掴み取っていた。
その瞬間、鬼太郎の中で、何かが噛み合った。
手の中の重み。グリップの形状。安全装置の位置。トリガーの引き代――そのすべてに、体が「知っている」と反応していた。考えるより先に、指が正しい位置に収まっている。
(――ああ。そうでした)
記憶の断片が、また一つ蘇る。
前世の自分は、魔法だけで戦っていたわけではなかった。片手に得物を、もう片方に力を。そうやって、効率よく敵を殲滅していく――それが、あの頃の自分のやり方だったはずだ。
鬼太郎は、奪った拳銃を構え、二度引き金を引いた。
残る二人が、声を上げる間もなく崩れ落ちる。どちらも、急所を外した一撃だった。殺すまでもない相手だと、瞬時に判断した結果だった。
「……なるほど」
盾にしていた男を突き放し、彼は手の中の銃を眺めた。
悪くない。だが、しっくりこない。
反動が、思ったより強かった。八歳の手には、このグリップは大きすぎる。二発撃っただけで、手首に痺れが残っている。連射すれば、確実に手元がぶれるだろう。
記憶の奥にある、かつての愛用の得物。あれは、もっと重く、もっと大きかったはずだ。今の体で撃てば、一発で手首を持っていかれる。
(――当分は、我慢ですね)
少しばかりの物足りなさを、彼は静かに飲み込んだ。体が育つまでは、この体に合った道具を使うしかない。翌週、彼は闇市で小型のハンドガンを一挺手に入れた。威力は控えめだが、反動が少なく、小さな手でも確実に扱える。今の自分に必要なのは、最高の得物ではなく、確実に扱える得物だった。
◇
こうして、鬼太郎は欧州の裏社会で、賞金稼ぎまがいの仕事を請け負うようになった。
だが、彼のやり方は、この界隈では少々変わっていた。
「――で、引き受けてくれるのか、くれねえのか」
依頼人の男が、苛立った様子で机を叩いた。恰幅の良い、脂ぎった顔の中年男だ。
「まだ判断いたしかねます」鬼太郎は、書き取ったメモに目を落としたまま答えた。「いくつか、確認させていただきたい点がございまして」
「確認だと? 金は言い値で出すと言ってるだろうが」
「金額の問題ではありません」
彼が引っかかっていたのは、話の筋だった。
依頼内容は単純だった。ある男を始末してほしい。理由は、その男が依頼人の商売を妨害し、身内を一人殺したから。復讐であり、報復であると。
だが、話を聞けば聞くほど、細部が噛み合わなかった。殺されたという身内の名が、途中で変わっている。妨害を受けたという時期も、この男が別の場所で語っていた内容と食い違う。何より――標的とされた男について、周囲から聞こえてくる評判が、依頼人の語る人物像と真逆だった。
「三日、お時間をいただけますか。その上で、お返事いたします」
「ふざけるな、ガキが。てめえの代わりなんざいくらでも――」
「では、どうぞ他をお当たりください」
鬼太郎はあっさりとそう言って、席を立とうとした。慌てたのは、依頼人の方だった。
「ま、待て。……わかった。三日だな」
三日後、鬼太郎は再びその男の前に座っていた。ただし、答えは依頼人の望むものではなかった。
「お断りいたします」
「……なんだと?」
「お話に、いくつか事実と異なる点がございました」鬼太郎は淡々と続けた。「標的とされた方が殺したという身内の件ですが――実際に手を下したのは、あなたご自身ですね。分け前を巡る諍いが原因だと伺いました」
男の顔から、血の気が引いた。
「それを隠したまま、私に後始末をさせようとした。この認識で相違ございませんか」
「……て、てめえ、どこでそれを――」
「調べれば、わかることです」
鬼太郎は静かに立ち上がった。
「私は、依頼を選びます。金額ではなく、筋が通っているかどうかで。理不尽な依頼を引き受けるつもりは、ございません」
「ふ、ふざけるな! お前みたいなガキが、正義漢気取りか!」
男の罵声に、鬼太郎はわずかに首を傾げた。
「正義? いいえ」
その返答には、何の感情もこもっていなかった。
「筋の通らない依頼は、後で厄介事になります。話の食い違う依頼人は、報酬を渋るか、口封じを考えるか、いずれ私に牙を剥く。そういう相手と関わるのは、単純に非効率なのです」
彼にとって、これは道徳の問題ではなかった。ただの、生存のための合理だった。嘘をつく依頼人は、信用できない。信用できない相手との取引は、いずれ自分の首を絞める。だから精査する。ただ、それだけのことだった。
「――では、失礼いたします」
一礼して立ち去ろうとした彼の背後で、男が懐に手を入れる気配がした。
鬼太郎は、振り返りもしなかった。
「やめておいた方が、よろしいかと」
静かな一言に、男の手が止まる。三日前、この子供が何をしたのか、ここに来るまでに嫌というほど聞かされていた。素手で大人を沈め、時には人を消し炭に変えるという、得体の知れない何か。
結局、男は何もできないまま、その場に取り残された。
◇
こうした選別を、鬼太郎は繰り返した。
最初のうちは、周囲から煙たがられた。面倒な条件をつける子供。依頼を選り好みする生意気なガキ。そういう評価が、確かにあった。
だが、半年、一年と経つうちに、風向きが変わってくる。
彼が引き受けた仕事は、ただの一件も失敗しなかった。そして、彼が断った依頼の多くが、後になって面倒な揉め事に発展した。依頼人が嘘をついていた、報酬が支払われなかった、背後に別の思惑が隠れていた――そのすべてを、彼は事前に見抜いていたことになる。
「あのガキに断られた仕事は、手を出すな」
いつしか、そんな言葉が囁かれるようになっていた。
精査という作業は、彼自身をも鍛えていた。
依頼人の言葉の矛盾を拾う観察力。関係者から効率よく情報を引き出す話術。断片的な情報から全体像を組み立てる推論。それらは繰り返すごとに研ぎ澄まされ、仕事そのものの精度と速度を押し上げていった。
九歳になる頃には、彼は欧州のある一帯で、それなりに名の知れた存在になっていた。
◇
そして、本来の目的――「魔法」の調査も、着実に進んでいた。
日本で拾えた情報は、所詮は末端の噂話に過ぎなかった。だが、こちらは違う。
説明のつかない現象の目撃談が、比較にならないほど多い。忽然と消える人間。一夜にして書き換えられた記録。存在しないはずの場所に建っている建物。裏社会の人間たちは、それらを「そういうこともある」と受け流していたが、鬼太郎の目には、明確な法則性を持った何かとして映っていた。
さらに――決定的な情報も、いくつか掴んでいた。
特定の地域に、一般人が決して立ち入れない区画が存在すること。そこを出入りする者たちが、揃って独特の装束を身に着けていること。そして彼らが、ある共通の言葉で自らを呼んでいるらしいこと。
だが、核心には、まだ届かない。
噂の出所を辿ろうとすると、決まってどこかで糸が切れる。まるで、何者かが意図的に痕跡を消して回っているかのようだった。
「……組織的に隠蔽されている、ということでしょうか」
集めた情報を書き記したノートを閉じ、鬼太郎は静かに呟いた。
それはつまり、隠すだけの力と規模を持った集団が存在するということだ。個人ではない。社会の裏側に、もう一つの社会が存在している。
(――ますます、興味深い)
彼は口元を緩めた。
ここまで来れば、あとは時間の問題だった。接点さえ見つかれば、そこから手繰り寄せることはできる。問題は、その最初の一本が、いまだ掴めていないことだった。
もっとも――その糸は、彼が探すより早く、向こうから転がり込んでくることになる。
この時の彼は、まだそれを知らなかった。