ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
その依頼が持ち込まれたのは、秋も深まった頃のことだった。
「――標的は、この男だ」
薄暗い事務所の一室で、依頼人が一枚の写真を机に滑らせた。四十絡みの、痩せた白人の男。人混みの中を歩いているところを、遠くから隠し撮りしたものらしい。
鬼太郎は写真を手に取り、しばらく眺めてから顔を上げた。
「理由をお聞かせいただけますか」
「相変わらず面倒な手順を踏むな、お前は」依頼人は苦笑した。この界隈で長く商売をしている男で、鬼太郎の流儀を心得ている数少ない一人だった。「いいだろう。この男は、うちの若い連中を三人殺している。それも、後始末が面倒な形でな」
「面倒な形、と申しますと」
「死体が出てこねえんだ」依頼人は煙草に火をつけながら言った。「消えちまうんだよ、跡形もなく。おかげで警察沙汰にもできねえ。行方不明のまま処理するしかねえ」
鬼太郎の指が、写真の縁でわずかに止まった。
――跡形もなく、消える。
その言葉を、彼は以前にも聞いたことがあった。日本の、あの薄汚れた酒場で。
「他に、この方について分かっていることは」
「詳しいことは何も。素性も、どこから来たのかも分からねえ。ただ、金になる話には必ず首を突っ込んでくる。それで揉めて、うちの連中とぶつかったってわけだ」
その後、鬼太郎は三日をかけて裏を取った。
依頼人の話に、矛盾はなかった。殺されたという三人の身元も確認できたし、彼らとこの男との間に金銭上の諍いがあったことも複数の筋から確認できた。標的の男が善良な人物であるという証言は、どこからも出てこない。むしろ逆で、この男に関わって痛い目を見たという話が、次から次へと出てきた。
筋は、通っている。
「お引き受けいたします」
四日目、鬼太郎は依頼人の前でそう告げた。
もっとも、その時の彼の胸中には、依頼そのものへの関心とは別の、もっと強い興味が渦巻いていた。
跡形もなく消える死体。素性の分からない男。金になる話に群がる性質。
(――もし、当たりであれば)
彼は、写真の中の男の顔を、もう一度じっと見つめた。
◇
追跡を開始して、すぐに異常に気づいた。
鬼太郎の尾行技術は、この二年で相当な水準に達している。子供という体格の利を活かし、人混みに紛れ、視線の死角に入る。相手に気取られたことは、これまで一度もなかった。
だが、この男は違った。
初日。路地に入った男を追ったところ、出口のない袋小路で姿を見失った。塀は高く、越えられる高さではない。地下への入り口もない。にもかかわらず、男はそこにいなかった。
二日目。宿泊先の建物を張り込み、出入り口をすべて押さえた。だが翌朝、男は街の反対側のカフェで優雅に朝食を摂っていた。建物から出た形跡は、どこにもなかった。
三日目。ついに、背後を取られた。
「おい坊主。さっきからずいぶん熱心に見てくれるじゃねえか」
振り返った先に、男が立っていた。
距離は三メートル。間違いなく、数秒前まで彼は五十メートル先の通りを歩いていたはずだった。
鬼太郎は、その事実を冷静に受け止めた。動揺はない。むしろ、胸の奥で何かが疼いていた。
(――やはり)
「ご挨拶が遅れました」彼は、いつもの丁寧な口調で一礼した。「墓場と申します」
「その名なら聞いたことがある。この辺りで妙な評判の立ってる子供だろう」男は値踏みするような目で鬼太郎を眺めた。「まさかこんなチビだとはな。で、俺に何の用だ」
「あなたを、始末するようにと依頼を受けております」
その率直さに、男は一瞬だけ目を見開き、それから喉の奥で笑った。
「はっ、正直なこった」男は喉の奥で笑った。「嫌いじゃねえよ、そういうのは。回りくどい連中に比べりゃあな」
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」鬼太郎は、男の笑いが収まるのを待ってから続けた。「あなたが今なさったことは――魔法、と呼ばれるものでしょうか」
男の笑みが、ぴたりと止まった。
空気が、変わる。先ほどまでの余裕は消え失せ、その目には明確な警戒の色が浮かんでいた。
「……てめえ、どこでその言葉を聞いた」
「あちこちで、断片的に。二年ほど、探しておりました」
「ほう」男の目つきが、明らかに変わった。「マグルの子供にしちゃあ、ずいぶんと詳しいじゃねえか。どこで嗅ぎ回った」
マグル。また、知らない言葉が出た。鬼太郎は、それを頭の片隅に書き留める。
「まあ、どこでもいい」男は懐から、細い木の棒を抜き出した。「そいつを知っちまった以上、生かしちゃおけねえ。恨むなよ、坊主。俺だって好きでこんなことをしてるわけじゃねえんだ」
――杖。
鬼太郎は、それを食い入るように見つめた。噂に聞いた通りの形状。あれが、この世界の魔法の媒介なのか。
「なるほど。それが」
「冥土の土産にはなっただろう」
男が、杖を振り抜いた。
「ステューピファイ!」
赤い光が、鬼太郎目掛けて放たれる。
彼は、地を蹴って横に跳んだ。光が石壁に着弾し、爆ぜるような音を立てる。
(――速い)
躱せたのは、男の杖の動きを読んでいたからだ。反応してから避けたのでは、間に合わなかっただろう。これが、この世界の魔法。詠唱と杖という手順を踏みながら、この速度。
「ほう、避けたか」男は感心したように眉を上げ、それから舌打ちした。「運がいいな、坊主。だが二度目はねえぞ」
「――アギ」
鬼太郎の右手から、火球が放たれた。
男の顔から、余裕が消え去る。
「なっ――!?」
咄嗟に杖を振り、防御の障壁を展開する。火球は障壁に着弾し、弾けて四散した。だが、男の表情は完全に凍りついていた。
「杖もなしに、だと……? いや、そもそも今のは何だ。そんな呪文、聞いたこともねえ」
「私も、あなたの使うものを存じません」鬼太郎は淡々と答えた。「お互い様かと」
二人の間に、数秒の沈黙が落ちた。
鬼太郎は、その間に思考を巡らせていた。
まともに撃ち合えば、勝ち目は薄い。相手の魔法は速く、種類も豊富だろう。対してこちらの手札は、アギとプリンパの二つだけ。しかも九歳のこの体では、連発すれば数発で消耗しきる。
ならば、正面からやり合ってはいけない。
彼は、周囲の地形を素早く把握した。左手に積み上げられた木箱。背後に伸びる細い路地。頭上に渡された物干しのロープ。使えるものは、すべて使う。
「舐めた真似を――エクスペリアームス!」
男の呪文が飛ぶ。鬼太郎は木箱の陰に転がり込み、それをやり過ごした。木箱が吹き飛ばされる音を聞きながら、彼は反対側から身を起こし、懐のハンドガンを抜いていた。
二発。男の胴と、杖を持つ腕へ。
銃声が路地に反響する。男が悲鳴を上げ、体勢を崩した。魔法使いは、魔法以外の攻撃を想定していなかったらしい。障壁は魔法にこそ強く働いたが、物理的な弾丸には対応が遅れた。
(――なるほど。ここに穴がある)
情報が一つ、増えた。
だが、男もただでは終わらなかった。腕から血を流しながら、それでも杖を振る。
「――インセンディオ!」
炎が噴き上がり、鬼太郎の左腕を掠めた。
肉の焼ける音と、独特の臭い。皮膚が焦げ、爛れていく感触が、はっきりと伝わってくる。
鬼太郎は、地面を転がって炎から逃れると、身を起こしながら焼けた左腕に目をやった。
――痛い。
その事実を、彼はごく客観的に認識した。痛覚は正常に機能している。神経は生きている。ならば、確認すべきは次の点だ。
彼は、焼け爛れた左腕をゆっくりと持ち上げ、指を一本ずつ折り曲げてみせた。人差し指、中指、薬指――すべて問題なく動く。手首も回る。肘の可動域にも支障はない。
「……ああ、よかった。まだ動きますね」
誰に聞かせるでもなく、彼はそう呟いた。
まるで、傷んだ道具の具合を確かめているような口ぶりだった。自分の腕が焼けたという事実に対する感情は、そこには一切含まれていない。動くか、動かないか。彼にとって重要なのは、ただそれだけだった。
その光景に、男が思わず息を呑んだ。
(――なんだ、こいつは)
子供が、腕を焼かれて泣き喚くならまだ分かる。恐怖に固まるのでも、憎悪に燃えるのでもいい。だが、目の前の子供は、そのどれでもなかった。自分の負傷を、他人の持ち物か何かのように点検している。
立ち上がりながら、鬼太郎は自分の内側の状態を確認する。精神力の残量。体力の消耗。腕の火傷は、動作に支障のない範囲。
まだ、いける。
そして――彼は、この状況下で、自分が奇妙な高揚を覚えていることに気づいた。
(――ああ、これは)
未知の力。未知の理。読み切れない攻撃。
それは、前世の記憶の中にある、あの感覚によく似ていた。悪魔と切り結び、フリンと殺し合った、あの張り詰めた時間。この世界に来てから、ただの一度も味わえなかったもの。
鬼太郎の口元が、わずかに緩んだ。
「――楽しいですね」
「は?」
「いえ。こちらの話です」
彼は、細い路地の奥へと駆け込んだ。男が追ってくる。狭い通路では、大振りな魔法は撃ちにくい。そして――
「プリンパ」
振り返りざまに放たれた精神干渉の力が、男の思考に滑り込んだ。
「な……に……?」
男の目から、焦点が失われる。完全に効いたわけではない。相手は熟練の魔法使いで、精神への抵抗力もそれなりにあるらしい。だが、一瞬の隙は生まれた。
その一瞬で、十分だった。
鬼太郎は踏み込み、杖を握る男の手首を掴んで捻り上げた。骨の折れる感触とともに、杖が地面に転がる。そのまま男の膝の裏を蹴り抜き、地面に組み伏せた。
「が、あ……!」
「動かないでください。まだ、お聞きしたいことがございますので」
男の背に膝を押し付けたまま、鬼太郎は静かにそう告げた。
◇
結局、鬼太郎は依頼通りに事を運んだ。
依頼人が望んだのは、この男の死だった。精査の結果、その依頼には筋が通っていると判断している。ならば、遂行しないという選択肢はない。仕事とは、そういうものだ。
ただ、その前に――彼は、いくつかの質問をした。
魔法とは何か。杖とは何か。マグルとは何を指すのか。あなた方の社会は、どこに存在するのか。
男は、最初こそ口を閉ざしていた。だが、鬼太郎が「答えなければ、死ぬまでの時間が長くなるだけです」と淡々と告げた時、その抵抗は崩れた。恐怖ではなく、そこに一切の脅しの色がなかったことが、かえって決定的だったのだろう。
断片的にではあったが、男はいくつかのことを語った。
魔法使いと呼ばれる者たちの社会が存在すること。それはマグル――魔法を使えない人間――の社会と完全に隔離されていること。魔法省という統治機関があること。そして、自分がかつてはその魔法省で働いていたこと。
「……闇祓い、ってやつをやってたんだ。闇の魔法使いを捕まえる仕事だ」男は自嘲するように笑った。「腕は悪くなかったさ。だが、上とうまくやれなくてな。辞めて――いや、辞めさせられて、こっちに流れてきた。以来、日陰を渡り歩いてる」
なるほど、と鬼太郎は内心で頷いた。動きの精度も、判断の速さも、確かに素人のものではなかった。あれは訓練を積んだ者の動きだ。
「では、あなたのような方は、珍しい部類でしょうか」
「さあな。掃いて捨てるほどはいねえだろうが、俺みたいなのは、探せばそこらにいるさ」
「……てめえ、一体何なんだ」
語り終えた男が、掠れた声でそう尋ねた。
「さて」鬼太郎は、少し考えるように首を傾げた。「私にも、まだ分かりかねます」
そして、彼は依頼を完遂した。
◇
静かになった路地で、鬼太郎は地面に転がった杖を拾い上げた。
思ったよりも軽い。ただの木の棒にしか見えないが、確かに先ほどまで、これが超常の現象を生み出していた。
彼は、試しにそれを振ってみた。
――ぱち、と。
微かな音とともに、杖の先端で小さな火花が散った。
鬼太郎の眉が、わずかに動いた。
もう一度、今度は先ほど男が唱えていた響きを、記憶を頼りに添えてみる。杖の芯が、手のひらの中でかすかに脈打つような感触があった。だが、それだけだった。火花はごく小さく、すぐに消えてしまう。呪文の形にはまるで至らない。
だが、「何も起きなかった」わけではない。
彼は、その事実を静かに咀嚼した。
自分の中には、この世界の魔法を動かす何かが、確かに存在している。まったくの無反応であれば、話は単純だった。自分にはその資質がない、それだけのことだ。だが、反応はあった。微弱ではあるが、確かに。
(――道具の側の問題、でしょうか)
この杖は、あの男のために作られたものだ。他人の手に渡って、同じように働くとは限らない。剣にも銃にも、使い手との相性というものがある。ならば、これも同じ理屈なのかもしれない。
あるいは単純に、扱い方を知らないだけか。
「……検証の余地は、ありますね」
いずれにせよ、収穫だった。
自分はこの世界の魔法を、使える可能性がある。前世の力とは別に、もう一つの体系を手に入れられるかもしれない――それは、彼にとって看過できないほど魅力的な仮説だった。
そして何より。
魔法は、実在した。
組織だった社会があり、統治機関があり、一般社会から完全に隔絶されている。そして自分の使う力は、彼らの魔法とは異なる体系に属しながら、彼らの道具にも僅かながら反応する。
この世界に対する評価が、今この瞬間に、根本から書き換わった。ただ平和なだけの、退屈な世界ではなかった。もう一つの社会が、すぐそこに隠れていた。
「……面白い」
鬼太郎は、杖を懐にしまいながら、静かに笑った。研究対象として、これ以上の上物はない。
そして――もう一つ。彼の胸には、別の期待も芽生えていた。
この男は、それなりに強かった。かつては闇祓いだったという言葉に、嘘はないだろう。九歳のこの体では、正直なところ、まともにやり合えば分の悪い相手だった。
だが、その男は「上とうまくやれずに追い出された」と言った。つまり、あの水準の使い手が、あちらの社会では特別な存在ですらないということだ。ならば、その中枢には、さらに上がいる。
あの日、フリンとの最後の殺し合いで感じた、あの熱。それに比べれば、今日の戦いなど児戯にも等しい。だが、久しぶりに、ほんの少しだけ、あの感覚を思い出せた。
(――この世界には、どれほどの強者がいるのでしょうね)
その問いの答えを探すために、進むべき道は、もう決まっていた。
◇
その夜、一人の魔法使いが行方不明になったという記録が、魔法省の片隅に残された。
届け出があったわけではない。ただ、数年前に職を追われた元闇祓いの魔法痕跡が、ある夜を境に完全に途絶えた。それだけの、事務的な記録だった。
現場には、いくつかの痕跡が残っていた。魔法によるものではない破壊の跡。そして――魔法省の記録にも、どの魔法使いの登録にも一致しない、正体不明の魔力反応の残滓。
当時、その記録に目を留めた者は、誰もいなかった。
だが、それは確かに、書類の山の中に埋もれたまま、そこに残り続けていた。