ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
その通りは、存在しないはずの場所にあった。
マグルの目には、古びた煉瓦塀の続く、ありふれた裏路地にしか映らない。だが、元闇祓いの男が吐いた手順を辿り、特定の位置で特定の動作を行えば――視界が、歪む。
塀が左右に割れ、その向こうに、まったく別の街並みが現れた。
鬼太郎は、その光景を前に、しばらく足を止めていた。
石畳の上に、傾いだ建物がひしめき合っている。看板に記された文字は読めるが、意味が分からない。空中に浮いたまま燃え続ける灯り。檻の中で、見たこともない獣が身を捩っている。行き交う人々は皆、あの男が着ていたのと同じような装束を纏い、腰や袖に杖を差していた。
空気の質からして、違った。
(――ああ)
彼の胸に込み上げてきたのは、警戒でも緊張でもなかった。
純粋な、歓喜だった。
この二年、断片を拾い集め、噂を追い、ようやくここまで辿り着いた。存在するかどうかも定かでなかったものが、今、目の前に広がっている。未知の理。未知の社会。解き明かすべきものが、この先に山ほど眠っている。
「……素晴らしい」
誰に聞かせるでもなく、彼はそう呟いた。
もっとも、彼が足を踏み入れたのは、その社会の表通りではなかった。
正規の魔法使いとして迎え入れられる筋合いなど、どこにもない。彼は裏口から――この社会の、さらに影の側から入り込んだ。元闇祓いから絞り出した情報の中に、そうした場所への道筋も含まれていた。
魔法界の、アンダーグラウンド。
表の社会が隠蔽され守られている以上、その裏側もまた、二重に隠されている。密輸、密猟、闇取引、そして始末。マグルの裏社会とやることは何一つ変わらない。ただ、扱う品と、使う手段が違うだけだった。
◇
最初の仕事は、拍子抜けするほど簡単に見つかった。
どこの世界でも、荒事を請け負う人間は不足している。ましてこの界隈では、魔法省に目をつけられるリスクを負ってまで手を汚す者は限られていた。
「……お前が、例の?」
薄暗い店の奥で、依頼人の魔法使いが胡乱な目を向けてきた。四十がらみの、頬のこけた男だった。
「墓場と申します」
「聞いてた話と違うな。ガキじゃねえか」男は露骨に顔をしかめた。「しかも杖も持ってねえ。おい、冗談だろう?」
「必要ありませんので」
「……何?」
「私のやり方には、杖は不要だという意味です」鬼太郎は淡々と答えた。「それより、依頼の内容をお聞かせいただけますか。確認したい点がいくつかございます」
男は半信半疑のまま、それでも仕事の内容を語り始めた。
鬼太郎はいつも通り、話の筋を精査した。矛盾はいくつかあったが、致命的なものではない。標的とされた男についても、別の筋から評判を確認する。裏が取れた。
「お引き受けいたします」
三日後、彼は依頼を完遂した。
問題は――その過程を、依頼人が見てしまったことだった。
◇
その日以降、魔法界の裏社会に、奇妙な噂が流れ始めた。
「――だからよ、杖を持ってねえんだよ」
密輸品を扱う店の奥、数人の魔法使いが顔を突き合わせていた。声を潜めているつもりらしいが、その内容は既に界隈の共通の話題になりつつあった。
「持ってないって、隠してるだけだろう。袖か、靴の中か」
「違う。俺はこの目で見たんだ」最初に依頼を出した男が、青い顔で首を振った。「あいつは何も持たずに手をかざした。それだけで、火の玉が飛んだんだよ。人の頭ほどもあるやつが」
「無杖魔法か? そんな高等技術、ガキに使えるわけがないだろう」
「だから言ってるんだ。ありゃ普通じゃねえ」
沈黙が落ちた。
魔法使いにとって、杖は身体の延長そのものだ。杖を失えば、大半の者は何もできなくなる。無杖での魔法は存在するが、それは長年の鍛錬を積んだ一握りの達人にのみ許された領域だった。
それを、十にも満たない子供がやってのける。
「それに、あいつは銃も使う」別の男が、低い声で付け加えた。「マグルの、あの金属の筒だ。盾の呪文を張ってても、あれは抜けてくる。実際、それでやられた奴を知ってる」
「……冗談だろう」
「冗談ならよかったんだがな」
噂は、そうやって広がっていった。尾ひれがつき、実際よりもはるかに誇張された形で。
――杖なしで殺しをするガキ。
いつしか、そんな呼ばれ方が定着していた。
◇
当の本人は、自分にどんな異名がついているかなど、まるで気にしていなかった。
彼にとって重要なのは、仕事が回ってくることと、その仕事を通じてこの世界の理を学べることだけだった。
依頼は途切れなかった。精査の末に断る案件も多かったが、引き受けたものは必ず完遂する。その確実さが、次の仕事を呼んだ。
そして――同じだけ、恨みも積み上がっていった。
彼が始末した魔法使いには、当然ながら仲間や雇い主がいる。彼が精査の末に断った依頼人は、秘密を握られたまま放り出されたことになる。依頼人自身が黒だと判明して処理した案件に至っては、その背後にいた組織ごと敵に回す結果を招いた。
密猟者。闇の商人。始末屋。名の知れた悪党から、名もない下衆まで。
彼らの多くが、同じ結論に至りつつあった。あのガキは、邪魔だ。
もっとも、鬼太郎自身は、それらの視線を正確に把握した上で、なお無関心だった。
(――邪魔になれば、潰せばよろしい)
それだけの話だった。前世でも、彼を殺そうとする者など数えきれないほどいた。いちいち気に病んでいては、身が持たない。向かってきた時に対処する。それで十分だと考えていた。
その判断が、後に少しばかり面倒な事態を招くことになるのだが――この時の彼は、それを重要視していなかった。
◇
仕事の合間、彼は自身の研究を進めていた。
一つは、この世界の魔法についての観察。
交戦した魔法使いから得た情報、闇市で手に入れた粗悪な魔法書、実際に見た呪文の効果――それらを突き合わせ、体系の輪郭を掴んでいく。呪文には名前があり、発音があり、杖の動きがある。理論的な裏付けがあり、それを教える学校まで存在するという。
一方で、決定的な問題も明らかになっていた。
いくつかの杖を手に入れ、試してみたが、結果は最初の時と変わらなかった。微かな火花。かすかな脈動。それだけだ。
(――やはり、自分のものでなければ駄目、ということでしょうか)
杖は使い手を選ぶ。魔法書の一冊に、そう書かれていた。ならば、自分に合う杖を手に入れない限り、この体系には触れられないということになる。
問題は、その入手手段だった。正規の杖職人は、素性の知れない子供に杖を売ったりしない。闇市に流れる杖は、いずれも誰かの持ち物だったものばかりで、自分に合うものが見つかる保証はなかった。
「……保留、ですね」
彼はその課題を、一旦棚上げすることにした。急ぐ必要はない。時間はまだある。
そしてもう一つ、彼が着実に進めていたのが――前世の力の回復だった。
依頼をこなす日々は、そのまま実戦訓練の日々でもあった。追い詰められ、消耗し、限界の際で判断を強いられる。そうした状況に置かれるたび、記憶の断片が一つずつ戻ってくる。
この一年ほどで、彼が思い出した術式は、四つ。
ジオ。掌から放たれる、電撃の術。
ブフ。対象を凍てつかせる、氷結の術。
ザン。目に見えぬ力で叩き潰す、衝撃の術。
そして、ディア。損なわれた肉体を修復する、治癒の術。
特に最後の一つは、彼にとって極めて有用だった。以前なら数週間を要した傷が、数秒で塞がる。この稼業において、これほど価値のある手札もない。
精神力の総量も、着実に増していた。
かつて初めてアギを放った時は、たった一発で意識を失った。今は違う。連続して数発を撃っても、息が上がる程度で済む。全盛期の水準には遠く及ばない――記憶の中の自分は、一日中戦い続けても平然としていた――が、少なくとも「普通に魔法を撃てる」段階には辿り着いていた。
もっとも、彼はそれらの術を、人前で一度も使っていなかった。
理由は単純だった。
(――必要が、ありませんので)
銃と、体術と、アギ。この三つで、これまでのすべての仕事は片付いてきた。プリンパすら、使う場面は限られている。ならば、わざわざ手札を晒す理由はどこにもない。
相手に手の内を知られるということは、対策を立てられるということだ。前世の彼は、その油断で死にかけたことが何度もあった。切り札とは、切るべき時まで伏せておくものだ。
その「切るべき時」が、そう遠くないうちに訪れることを――この時の彼は、まだ知らなかった。
◇
同じ頃、魔法界の片隅で、いくつかの会話が交わされていた。
「――あのガキのせいで、取引が三つ潰れた」
「うちもだ。従兄弟が一人、始末された」
「一人でどうにかしようとするから、こうなる」
顔を寄せ合っていたのは、普段であれば決して同じ卓を囲まないはずの面々だった。密猟者、闇商人、始末屋。互いに縄張りを争い、時には殺し合う関係にある者たち。
その全員が、今、同じ一点で利害を一致させていた。
「正面からやり合うのは無理だ。あれは化け物だぞ」
「なら、正面からやらなければいい」
誰かが、そう言った。
「あのガキには、妙な癖がある。仕事を受ける前に、必ず筋を確かめようとする。裏を取らずには動かない」
「それが何だ」
「逆に言えば――筋さえ通っていれば、疑わずに乗ってくるということだ」
場に、ゆっくりと理解が広がっていく。
「餌が要るな。あいつが必ず食いつく、上等な餌が」
「それに、逃げ場のない舞台もだ」
男たちの顔に、下卑た笑みが浮かんだ。
やがて、一つの計画が形を成し始める。
それは、あまりにも入念に、あまりにも周到に練られた罠だった。