誰もいない交差点の赤信号が変わるのを、いつも待っている女の子がいる。
学校の帰り道で見かけるたび、無視して渡ってしまえばいいのに、と山本
恵奈だけでなくみんなそうしていた。その交差点は丘の上の住宅地に通じる細い道に面していて、左右の見通しがいいし、人や車のほとんどは西の方にある大きな道を使うから、交通量はないに等しい。そのくせ赤信号になると五分は待たされるし、青信号はたった二秒で点滅が始まる。恵奈の親もご近所さんも、みんなこの信号を守らない。
悪いと思ったことはなかった。小さい頃からずっとそうだし、他の場所の信号はちゃんと守っている。
なのに最近は良心がチクチクとして鬱陶しい。その女の子が信号に従っている様を、毎日見せつけられているから。
「ねえ」
だからある日の放課後、たまらなくなって話しかけた。
「あなた、いつもここで待ってるけど、暇なの? 渡りなよ。誰も来てないじゃん」
女の子がゆっくりと恵奈を見上げた。小柄で肌が白い。タレ目がちな目元はきれいな二重だ。肩甲骨のあたりまで伸びた黒髪はさらりとして艶がある。
ちょっとかわいいのが恵奈の癇に障った。身にまとう上品なワンピースタイプの制服を見て更にイラついた。
それは高校受験の第一志望だったお嬢様校の制服だ。滑り止めの公立校に通う自分へのあてつけか。お嬢様らしい行儀の良さを見せつけているのか。
苛立ちは言葉の棘になった。
「こんなところで行儀よくしたって、誰も褒めてくれないよ。それとも何? 地縛霊ごっこでもしてる? 見ててじれったくなるんだけど」
「はぁ」
女の子はぽかん、と口を開けている。要領を得ない。
恵奈がなおも言葉を重ねようとすると、鈴の鳴るような笑い声。
「あははっ、地縛霊は面白いね。この交差点で事故死した幽霊でーす。うらめしやー」
「ひっ」
マジで幽霊だったか。
反射的に一歩引くも、恵奈が物心ついたときからずっと、この交差点で事故が起きたことはない。丘の上の住人が徒歩で使うだけの道だし、急坂のために誰も自転車さえ乗らないから。事故なんて起きようがない。だからみんな信号を無視するのだ。
恵奈の戦慄を見て取って、女の子がくすくす笑う。
「冗談だよぉ。怖がりだなぁ」
「こいつっ、つまんない冗談を……!」
「まあまあ落ち着いて。一個ずつ答えるから」
視線を上に向け、思い出すような仕草を見せる女の子。
「えーと。暇なのかって言われたら暇かなぁ。部活やってないし、趣味もないし。でも褒められたくてお行儀よくしてるんじゃないよ。中学までは普通に無視してたしね」
この道を通るのは丘の上の住人だけだ。女の子もそのようで、誰も信号に従わない暗黙の了解も知っている口ぶりだった。
だったらなおさら分からない。なぜ今更ルールに従うのか。
「じゃあ何なの。誰か待ってるの?」
「違うよぉ。強いて言えば……なんとなく?」
「はぁ?」
大きな声が出て、思わず辺りを見回した。もちろん、人通りの少ないこの交差点には二人以外の姿はない。
「入学式の帰りにね。たまには立ち止まってみよう、ってなんとなく思って、そうしてみたの。そしたら、ほら」
ほら、と言って上を指さす女の子。
しかし見上げても、西日で赤くなった空しかない。
「空、きれいじゃん?」
「……は?」
「雲眺めてるとぼーっとできる。この時間はカラスの鳴き声もするよね。家から晩ご飯の匂いもしてくる。最近虫が増えてきたなって思う」
「だから?」
「五分くらい待ってみるのも、結構楽しいよってこと」
何の曇りもなく笑って見せる女の子。
その笑顔があんまりにきれいで、恵奈は見ていられなくなった。
「ほら、君も楽しかったでしょ?」
女の子の視線を追う。
信号が青になっていた。長い待ち時間がいつの間にか過ぎていたらしい。
言葉を探すうちにも信号は点滅を初め、慌てて恵奈が渡る。女の子は「あ」と声を漏らすも動かなかった。
「ばいばーい」
ふん、とそっぽを向いて帰路を急ぐ。
詩人気取りの変な奴。そう決めつけて忘れようとするけれど、恵奈の心中には女の子の声とタレ目と笑顔が焼き付いて、とても忘れられなかった。
ーーー
「うわ、出た」
「どっちかというと、出たのは後から来た君じゃない?」
翌日の放課後も、女の子の姿はあった。
信号はお決まりの赤だ。恵奈は交差点のガードレールにもたれ、待つ構えを見せる。
「さあ、五分で笑いを取りなさい」
「クソ面倒な絡みをしないでほしいなぁ」
クソとは。カバンを両手でちょこんと持つ上品な佇まいとはかけ離れた語彙だった。
「お嬢様がクソなんて言うんだ」
「別にお嬢様じゃないよぉ。あ、でも周りに本物が多いから、勉強はしてるかな」
「あいさつはごきげんよう?」
「言ってる人もいるけど、普通の人もいるよ。半々くらい」
女の子は恵奈の制服を一瞥して、
「猪ヶ丘高はどんな感じ?」
「普通。部活は結構さかんっぽくて、帰宅部はクラスで私だけ」
「やりたい部活ないの?」
「中学で散々やったもん。卓球部でね、地区予選で準優勝だったんだよ」
「わー、すごい」
「まあ県大会の初戦で全国大会常連にボコボコにされたんだけど」
中学では部活に打ち込んだ。誰よりも早く朝練に出て、授業中も食事中も寝る前もずっと部活のことだけ考えて、これ以上は無理というほど懸命に打ち込んだ。
そうして迎えた最後の県大会でなすすべもなく打ちのめされ、そのショックを引きずったせいで受験にも身が入らなかったのだけど。
「あははっ、かわいそー!」
「笑うなシバくぞ」
同情の欠片も見せず笑い飛ばす女の子に、沈んだ気持ちが吹き飛んだ。
「そういうあなたはどうなの。毎日ここで信号待ちしてさ、その時間でできることたくさんあるよ。部活とか趣味とかやりたくないの?」
「ないかなぁ。見ての通りのんびり気質なんで、若人のエネルギーにはついていけないのよぉ」
「お婆ちゃんめ」
「よく言われるー……あっ!」
突如顔を上げ、目を輝かせる女の子。
視線を追うが、特に何もない。強いて言えば信号の向こうに、丘の上の住宅街が見えるだけだ。
「何?」
「分かんない? この匂いだよぉ」
言われてやっと気づく。住宅街の方向から、ほんのりと食欲をそそるいい匂いがする。カレーのような、ミートソースのようなこの匂いは──
「煮込みハンバーグ?」
「正解!」
正解らしい。
「いや、正解だから何なの。匂いだけ嗅いでもお腹空くだけじゃん」
「ふっ、これだから今どきの女子高生は……帰り道、夕暮れ時に漂ってくる夕餉の匂いの良さ、分からんかぁ」
「腹立つなアンタ」
女の子はイラっと来るどや顔で肩を竦めている。あまりのいらだたしさに拳を握る恵奈。
すると、女の子は前触れもなく指を二本立てた。細い指が恵奈の眼前に突きつけられる。
「はい、これで二回」
「何がよ」
「君がスルーした青信号の数」
「えっ、あーっ!」
慌てて信号を見てみると、最後の点滅を終えて再び赤になるところだった。話に夢中で気づかなかったらしい。
ぐぬぬと恵奈が唸る一方、女の子は口を押えてくすくす笑っている。
「ね? たまには立ち止まってみるのも楽しいでしょ?」
ーーー
女の子とはそれから毎日顔を合わせた。
赤信号が変わるまで、たわいもない雑談を交わす。話題はお互いの学校のことだったり、趣味のことだったり。
「ふぅん、君はオタクなんだねぇ」
「違うよ? 中学で仲良かった友だちがオタクで、今も付き合いがあるから仕方なく最新のアニメとマンガとラノベとソシャゲを追ってるだけで、私自身はオタクってほどじゃないかな。今期も追えてるアニメ9本しかないし」
「よくわかんないけど、その早口はオタクっぽいよねぇ」
恵奈は決してオタクではないが、付き合いで始めた趣味のために多忙だった。コンテンツを追うのは時間を要する。ソシャゲの周回と最新のイベントをこなすだけで夜遅くになってしまう。今のクラスメイトと合わせるために、流行りのドラマや動画を履修するのも加えれば、時間はいくらあっても足りない。
「勉強は?」
「ノー勉で平均取れるから大丈夫」
「すごー」
そういった事情のため、恵奈にとって時間は貴重だ。一分一秒が惜しい。みんなが無視する交差点の信号なんかで止まっている暇はないのだ。
それでも女の子がいる以上、止まる他なかった。律儀にルールを守る彼女の横を通過して、何も感じないほど鈍感ではなかったから。
「アンタさぁ、いい加減ここでダラダラするの辞めたら? もっと有意義に時間使おうよ」
「使ってるよぉ。今こうやって」
「暇人め」
女の子にそれとなく促すものの、効果はない。
話が尽きてくると女の子は指を立てて、勝ち誇ったように告げるのだ。
「4回」
「あっ! くそぉぉお!」
「ねっ、立ち止まるのも悪くないでしょぉ?」
五月が過ぎ、六月が過ぎるにしたがって、青信号を見逃す回数が増していく。悔しさのせいか、女の子の声と顔はクラスメイトたちのそれよりも強烈に記憶に残った。
「今日は……いないか」
テスト週間に入ると下校時間が早まり、昼下がりの交差点に女の子の姿はなかった。
一応ね、一応。誰にともなく呟いて、信号が変わるのを待ってから横断歩道を渡る。ふとした拍子にあの間延びした声が聞こえてくる気がして何度も振り返ったけれど、女の子は来なかった。
テストの日程が違うのか、別の用事か。「私と会えないの寂しい?」とニマニマしているイマジナリーあの子を、ぶんぶん頭を振って追い払う。
そうして七月に入り、夏休みがやってきた。
「……まあ、いるわけないよね」
放課後の時間帯、いつもの交差点に行ってみても、やはり女の子の姿はない。
『お休みの日? 家でダラダラ以外に何するのぉ?』
雑談の中でそう言っていた。のんびり屋のあの子らしい。冷房の利いた家でゆっくりしているのだろう。
恵奈はさっそうと赤信号を渡ろうとする。クラスメイトとの待ち合わせがあるのだ。別に急いではいないが、誰もいない交差点で立ち止まるなんてばからしい。
けれどそのとき、不意に女の子のことを思い出す。
『たまには立ち止まるのも悪くないよぉ』
踏み出しかけた足が止まった。
「……たまにはね」
空を見上げる。突き抜けるように青い空、白い雲。じりじりと強烈な日差しが降り注ぎ、道に沿う街路樹の列から蝉の鳴き声が響く。
信号が青になった。
「暑いだけじゃん! つまんない!」
夏休みが終わるまで、恵奈が信号に従ったのはこの一回だけだった。
ーーー
「げっ、出た」
「だからぁ、出たのは君の方だって」
夏休みを終えた二学期の初日。放課後の交差点にはやはりヤツがいた。
相も変わらず清楚なワンピースの制服に身を包み、日傘をさしている。
恵奈はガードレールに腰掛け、女の子も隣に寄り添う。
「珍しいじゃん」
「
「馬子にも衣装ね。まるで黒髪ロングの美少女お嬢様みたいよ」
見た目だけならそうだった。中身はナマケモノと勝負できるレベルののんびりマイペースだが。
多少の皮肉を込めた称賛に、女の子は目を細めて笑う。
「へへ、でしょぉ? 恵奈も使う?」
「いい。ここ日陰だし──って、あれ?」
名前を呼ばれた。
なんとなく距離感を図り合うような空気があり、互いに自己紹介もしないまま一学期を過ごしたのに。
面食らっていると、女の子はいたずらが成功した子供みたいに歯を見せる。
「お母さんに聞いた。私と同い年なら、三丁目の山本さんでしょって」
丘の上の住宅地はさほど広くない。近所づきあいもあるから、親が知っているのは不思議ではないけれど、抜け駆けされたようで釈然としない。
「えー、何それ、ずるい。じゃあアンタはどこの誰さんなの」
「さあ、どこでしょー」
ニマニマ楽し気にしている女の子にカチンときた。
細い脇腹を掴んで指をわしゃわしゃさせる。
「ひゃあ!? あは、あははっ、何、やめてっ」
「貴様どこの誰だ! 吐け!」
「わ、分かった! 言うから!」
女の子は息を整えると、神妙な顔で告げた。
「交差点の
指を近づけて脅すと、ようやく白状する。
「佐藤
佐藤鈴子。一文字ずつ噛みしめるようにつぶやいて、しっかり記憶に刻む。
妙に胸が弾んだ。部屋の片づけをしていたら、ずっと子供の頃にもらったお年玉のポチ袋が中身入りで出てきたような、思いがけない幸福感。
「ところで山本さん?」
「何……ああ、もう……」
浸る暇もなく、女の子、鈴子が指を突きつけてきた。
数は五。目の前には点滅中の青信号。今回も時間を無駄にしてしまったらしい。
ガードレールを降り、次の青信号に備えて歩道の際に立つ。
背後からは鈴子の笑い声。
「毎度毎度、山本さんは注意力が足りませんねぇ」
あんたのせいだよ。
と言いかけたのをどうにか堪える。それを言ってしまうと更にからかわれるのが目に見えていたから。
いつも通り短く「じゃ」と言い置いて、急ぎ足で家に帰った。
ーーー
二学期は体育祭、文化祭、合唱コンクールと行事が連続し、慌ただしく過ぎて行った。
恵奈と鈴子は毎日交差点で会い、過密なイベントスケジュールとテストの日程に愚痴を言い合ったり、クラスメイトの話をしたり、漂ってくる晩ご飯の匂いについて議論したりして、信号が変わるのを待った。
「やっほー。遅かったねぇ」
「ん。まだいたんだ。もう遅いのに」
「この季節は過ごしやすくって。ずーっと空見てた」
恵奈が所用で遅くなった日も、鈴子は変わらずそこにいた。
ぼうっと空を見るだけでいくらでも時間を潰せる鈴子の感性は理解不能だ。同じ時間があるなら最新のアニメや流行りのショート動画を浴びるように見る方がよほど──
「はっ!?」
と思ったけれど、意外や意外。つられて空を見ていると、あの雲はキリンに似ているとか、あの光は星か飛行機かとか、あのキリンが今は象になってるとか考えて、いつの間にか夢中になっていた。
「ね?」
「まあ、うん、思ったよりは楽しいかも……」
「ちなみに今回は六でーす」
「だあああ! 私の30分返せ!」
ケラケラ笑う女の子を置いて、恵奈は家まで猛ダッシュした。
このころになると、鈴子に信号無視を促すことはなくなった。気兼ねなく話せる他校の知り合いというのは新鮮で、不本意ながら、鈴子と会うのが楽しみになってきていた。
そのためか、ある日の別れ際にこう切り出した。
「ほら、行こ」
「えっ」
たった二秒の青信号の間に、そう言って鈴子へ手を差し出す。
「考えてみれば、一緒に帰ったことないじゃん。近所住んでるならそうすればよかった」
知り合ってからおよそ半年でようやく気付いた。交差点以降の帰り道を共にしたことがなぜかない。
理由は互いに察しがついていて、鈴子がおずおずと口にした。
「私……歩くのゆっくりだよ?」
鈴子はのんびりマイペース。おまけに背も小さい。せかせかと常に動き回るタイプの恵奈とは歩くペースが違いすぎる。
そんなこと、百も承知だ。
「たまにはゆっくり歩くのも悪くないよ。あっ、もう赤になる! 速く!」
恵奈は鈴子の手を引いて、横断歩道を渡る。
いつもの交差点の向こう側で、恵奈は目を見張った。
「マジ……!? 鈴子、早歩きできたんだ……!」
「私のことなんだと思ってるのぉ?」
「ナマケモノの擬人化」
「……」
「いたっ、いたた!? 怒る機能付いてたんだ!」
「……」
微笑を浮かべたまま恵奈の二の腕をつねり、肘で脇腹を突く鈴子。
「冗談だってば。さ、帰ろ」
頬を膨らませる鈴子の手を引いて、恵奈がゆっくりと歩き出す。歩幅は小さく、歩調はゆっくり。
二人で歩く初めての家路は、とても時間がかかった。
ーーー
季節は進み、冬。
期末テストを終え、あとは終業式までの数日を超えれば冬休みがやってくる。県の北部に位置するこの町は冷え込みが強く、連日の雪で白く染まった。
「ふーん、ふふーん」
そんな厳しい環境下でも、恵奈と鈴子の放課後は変わりない。ダウンジャケット、セーター、裏起毛のタイツ、耳当て、カイロを仕込んだ手袋などを完全装備した姿で、毎日顔を合わせている。
さすがに
直接会って話すこと。忙しい中でも、恵奈にとってはもう食事と同じくらい欠かせない習慣だった。
今日も今日とて最寄り駅から交差点へ向かう。クラスメイトとの雑談が長引いて少しだけ遅くなったけれど、薄闇の中に見慣れた小さな背中が見えてくる。艶のあるロングの黒髪が、雪景色によく映えていた。
「すず──」
子、と呼ぶ直前、好奇心が湧く。
鈴子は普段、いつまでここにいるのだろう。
空を見てぼうっとしたり、聞こえてくる音や漂う匂いに思いを巡らしたりするうち、鈴子は何度も青信号を見逃す。最近では恵奈と共に帰ることで見逃しは減っただろうが、一人の場合はどうするのか。
気になることはすぐ調べるのが恵奈である。
電柱の陰に隠れ、そっと交差点の方を覗く。空を見上げて立ち尽くす鈴子の姿がよく見えた。
時刻は四時半。以前、恵奈が遅くなった日と同じ時間帯だ。この時間を超えたとき、鈴子はどうするのか。
じっと見ていると、曇り空から雪が降り始めた。冬の日は早く、五時半には真っ暗になる。いつもなら恵奈も鈴子もこの時間には家に着いている。心配をかけないよう、スマホを取り出し『ちょっと遅くなる』と親に連絡を入れておく。
(絵になるなあ)
雪のちらつく闇の中、街灯に照らされて白い息を吐く鈴子は、スポットライトの下の役者のようで、きれいな黒髪と整った顔立ちも手伝って、絵画のように美しい。恵奈は瞬きも忘れ、鈴子の長いまつげに雪が積もっていくのに見とれていた。
(……さんっっむ!)
しかし限度がある。午後七時五分前になると凄絶な寒さが防寒装備を貫通し、つま先から徐々に冷えてきた。
一方、鈴子はまだ動かない。氷点下の冷え込みの中、白く染まったまつ毛と頭を気にした風もなく突っ立っている。
ようやく動いたのは七時を回ってしばらくした頃だった。
電灯の下、鈴子がスマホを耳に当てた。着信があったようだ。
耳を澄ませて聞こえてきた内容は、耳を疑うものだった。
「お母さん? ごめん、図書室で勉強してたら寝ちゃってぇ。今から帰るね。ううん、迎えはいいよぉ、大丈夫、ありがと──」
鈴子は今日、恵奈がやってきた四時半からずっと交差点にいる。にもかかわらず、心配して連絡してきた親にウソをついた。
何のためか?
恵奈は電柱の陰を飛び出した。
「帰りなさいよっ!」
「あ、恵奈ぁ。遅かったねぇ」
にへら、と笑う鈴子に詰め寄り、頭の雪を払う。顔は青く、体は冷え切っていた。
手袋内のカイロと予備のカイロをありったけ取り出し、鈴子の小さな手に握らせた。
「もうっ、こんなになるまで待たなくていいから!」
「自意識過剰ー。雪降ってるなぁって見てたら時間経ってただけだよぉ」
この期に及んでウソをつく鈴子に、罪悪感よりもむしろふつふつとした怒りを覚える。
「さっきの電話! 聞いてた! お母さんにウソ言ってまで待とうとしたでしょ!」
「えっ」
目を丸くする鈴子に畳みかける。
「二学期はたまたま大丈夫だったけど、私が病欠とかしたらそのたびこうしてたの!? 信じらんない……いや、ていうかさっさと連絡先交換しとくんだったわ」
どうせ毎日会えるから、と油断していた。スマホで連絡を取り合える状態だったなら、今回の恵奈の馬鹿げた好奇心などそもそも発生しなかったろう。
「それはまた明日にして、さっさと帰ろ。冷えっ冷えよアンタ。体あっためなきゃ風邪──何?」
「うぅ~……」
鈴子は顔を両手で覆い、膝をついてうずくまっている。黒髪の間に見える項が赤い。耳当てに隠れた耳も真っ赤なのは想像がついた。
「もう、今更恥ずかしがってんの? いいじゃない。私に会いたくてたまんなかったんでしょ? かわいい、かわいい」
「言わないでぇ……」
「私だってそうだけど、何も恥ずかしくないよ。お互い様だって」
「えっ?」
ばっ、といつになく機敏な動作で立ち上がり、詰め寄ってくる鈴子。
「え、恵奈も……私と会うの、楽しみ?」
「当たり前じゃん。楽しくもないのに駄弁ったりしないでしょ」
いちいち言葉にするまでもないことを、どうして確認するのか。
首を傾げていると、鈴子は意を決した風に大きく息を吸って、
「私のこと、好き?」
「好きだよ」
言うまでもない。被せ気味に応えた。まるで愛の告白めいているけれど、女の子同士の友情にそんなことを考えるのは無粋だろう。
恵奈は鈴子が好きだ。何の気負いも気遣いもなく気楽に話せる友だちとして。のんびり気質も慣れればかわいいものだし、こちらが合わせれば何の問題もない。
そんな照れくさい意図の返答に対し、鈴子は。
「そっかぁ……」
どこか傷ついたみたいに口をへの字にして、俯いてしまった。
「ちょっと、なんで機嫌悪くなってんの」
「いいよもう。私、帰る」
「こらっ、赤信号だよ!」
「どうせ誰も来てないよーだ」
鈴子が赤信号を渡り、俊敏な動きで丘を登っていく。ナマケモノの全力疾走並みに珍しい光景を前に恵奈は唖然とした。
「ちょっと待っ……信号無視は二万円以下の罰金または科料があるのよー!」
タイミングよく青になった信号を渡り、鈴子の後を追った。
ーーー
後日。
実は待ちぼうけする鈴子を電柱の陰から見ていたことを白状すると。
「いたたっ、痛い! ごめん! ごめんってばぁ!」
「むー!」
鈴子の執拗なローキックが唸り、恵奈は悲鳴を上げた。