わたしは彼の寝顔に手を伸ばした。頬を撫でる。ヒゲの感触。
あとでちゃんと剃ってあげようと思い、瞼を何度か震わせる彼の表情を眺め、そして、彼の開いた瞳と、目が合う。
「なんだよ。セーラ」
「別に。かわいい寝顔だなって、思ってさ」
お前のほうがカワイイよ、なんて返しを期待はしていない。ちょっと困ったように彼は、かつてセンセイと呼んでいた相手は笑った。それだけ。それだけで、かわいい。わたしの男。
こらえきれずに。わたしは彼へと自分の身体を寄せた。裸身と裸身が触れ合って、お互いの熱を感じる。繋がらなくてもわかる、お互いの肉体。そこに彼はいる。そばに、わたしがいる。
「なんだ? 今日は、仕事がある。もう一回は——」
「もう、ちがうよ」
彼の勘違いグセは、仕方がない。わたしはただ、もっとくっついていたいだけ。前の、ずっと前のわたしだったら「センセイさぁ」と呆れていた場面だ。ぎゅっと。もっと身を寄せる。いとしい、まだ戦っている、わたしの男。《死神》ヤシロと、他人は呼ぶ。
「あのなセーラ、男ってのはそうされると」
「あっ、ごめんね……」
わたしにとっては、ぬくもりとまどろみ。でも、男である先生はこうやって触れ合うと、すこし、過敏に反応してしまう。わたしの見落とし。でも、身体は離さない。ぜったいにはなさない。
「浮気とか、してないよね?」
「……なんだよ、急に」
ふと、確信が浮かんだ。泣きたくなる。きっと、寝ている。彼は、わたし以外の女と。だってそう。彼は、わたしの大好きな彼は、そういう、やさしい人だから。
彼は、現在の仕事上の相棒である印堂雪音とも関係を持っているのだろう。
かつての、わたしの仲間。《アカデミー》でチームを組んでいて、一緒に《センセイ》の弟子となって、危険を顧みず、わたしを助けに来てくれた、あの小さな少女。
彼女はもはや、小さな少女でない。
いつまでも背が伸びないと思っていたけど、ちゃんと、スラリとした長身の女に成長した。
彼女の背は伸びた。
でも、体積はあまり変わっていない。
左腕と、右足。印堂雪音の身体は、その箇所が義手と義足に置き換わっている。
戦いの中で、彼女はだんだん、磨かれて、身欠けていった。
だれよりも、センセイに信頼されて。
だれよりも、先に敵へと突っ込んで。
だれよりも、今度は間に合うと意気込んでいた彼女。
エーテル知覚で道の途中すら、省略して。
間に合おうとした彼女。
隣にあろうとした、彼女。
そのたびに、欠けていった。指だったり、耳だったり、手だったり、目だったり、足だったり。
《死神》ヤシロとの隣に立つというのは、そういうことだった。
《大鎌》ユキネは、誰よりも長く彼の隣に立って戦い続け。
でも、《死神》ではないから、毀れていった。
毀れながらも、隣にいる。
最後に話したときのことを、わたしは思い出す。
「もう、話しかけないで」
「セーラはもう、諦めた人だから」
印堂雪音の身体から、腕が欠けた、足が欠けた。
印堂雪音の心から。わたしもまた、欠けた。
彼との逢瀬は週になんどもだけど。わたしは雪音とは顔を合わせないようにしているし、話も聞かないようにしている。
そんな、雪音を。
やさしい、彼が。
慰めないはずが無いのだ。きっとわたしにするのとは別に。
《大鎌》を砥いでいるのだろう。伽ぎで。
想像する。ちょっと、乱暴に。単に、身体の火照りをぶつけあうのだと。
印童雪音を喘がせ、のけぞらせる彼。道具に彼は斟酌しない。
嫉妬した。それはちょっと、ずるいじゃん。
勇者のままで、隣り合って。それでさ。
「おい、痛ぇよ」
「あっ、爪、ごめん」
無意識に、わたしは彼の肩に爪を立てていた。
ずるい雪音のことを考えて。同時に、ずるい、もっとずるいわたしのことを、考えて。
我慢できなかった。
わたしは、彼の首筋へと顔を寄せる。強く、肌を吸う。首まわり、薄い皮膚へと、赤くあかく、わたしを刻む。
「おい、本当になんだ。今日はどうしたんだセーラ」
「ちょっと、マークをつけたくて」
彼は身を起こして、わたしから距離をとってしまった。
追うように、わたしは彼の胸へと身を委ねる。頭を、胸に。
心音が聞こえた。彼は、生きている。わたしを抱いて、生きている。
「わたし、癒やしになれてるかな」
「……ああ。不安になるな。——俺がどうにかする」
彼は、わたしの髪を撫でて、そういってくれた。きっとまた、勘違いしている。
わたしが、世界だとか、社会だとか、そういうものを心配しているのだと。勘違い屋の、わたしの男。
わたしは、彼の耳元へと唇を寄せた。
意識して、色っぽく言ってみる。
「大好きよ」
「——急に、なんだってんだ」
取り繕っているが、明らかに彼が照れたのがわたしには分かった。
実は、ちょっと大人びた女が彼は好きなのだ。背の高い大人っぽい女。
わたしはそれになれたろうか。魔王と戦うことを選ばず、勇者であることを辞め。
わたし、セーラ・カシワギ・ペンドラゴンは。
普通の女に、なった。
なってしまって、結ばれた。
結ばれたくて、なってしまった。
† † † †
仕事に向かった彼を、わたしは見送った。
わたしも、わたしの仕事をしなければならない。
在宅でできる、仕事。
外に出歩く必要のない、仕事。
安全な、仕事。
パソコンのキーを叩きながら、思い出す。
もう一人の、かつての友。
城ヶ峰亜紀。
わたしを雪音と引き合わせて、そして彼へと引き合わせてくれた、親友。
彼女との別れは、雪音のときとは異なった。
勇者を辞めると。その決意を、固い決意、濡れた理由の、それを、彼女に告げたとき。
城ヶ峰亜紀は。
じっと。こちらを眺めて。その瞳でわたしを眺めて。なにも言わずにただ笑ってから、背を向けた。
沢山の言葉をまくしたてて、引き止められると思っていたのに。拍子抜けで。とても、寂しかった。
あるいは彼女なりの、激励だったのだろうか。異なる世界を、歩むと選んだわたしへの、激励?
どこか底知れない、深きものを感じさせる彼女の瞳になにが潜んでいるのか。
わたしには分からなかった。
転変する彼女を、わたしはとらえきれない。
そしてわたしは、勇者を辞めた。
わたしはもうずっと、《E3》を使っていない。
エーテル知覚を発動させたのは、本当に、いつが最後か。《光芒の牙》卿とのいざこざの後に……。全ての元凶である《音楽屋》イシノオの、悪意の糸細工が、恐ろしい譜面が奏でられたあの事件で——。
思い出すのを、わたしはやめた。
わたしはもう、勇者でない。
わたしは彼の、女なんだ。
それで良い。外側に立って、彼の帰るべき場所になる。
失われた《グーニーズ》の代わりになって、彼を癒やして、彼に慰められる。
セーラ・カシワギ・ペンドラゴンは、それで良いと、選んだのだ。
† †
印堂雪音が死んで。その後に彼も死んだ。
それを告げに来た、長谷川ミカなる女を私は殴り。
私はクズになると決めた。
クズ以下のクズかもしれない。
かつての友を殺すのだから。
私は、城ヶ峰亜紀を殺さねばならない。
†
IF番外編・彼女が勇者を辞め たわけ
完
以前書いた別2次創作への過程の、その異なる経過。どう転んでも、彼女は魔王を討つ勇者になる。そう考える。辞めたワケがあっても、たわけであっても、辞めたわけ、ない。