大地の君は、ただ静かに   作:琴ノ葉しずく

1 / 1
第1章
プロローグ


山の奥深くに風が吹いていた。

 

人の声は届かない。

鳥の羽音も、獣の気配も、遠い。

ただ木々の葉が擦れ合う音だけが途切れることなく続いている。

 

その風の中に人影があった。

岩肌に沿って立ち、遥か彼方を眺めている。

蜂蜜を溶かしたような色の髪が風に煽られて揺れていた。

長い髪が頬を撫で、肩を越えて流れていく。

その人物は手で払おうともしない。

 

ただ、静かに立っている。

 

衣は風を孕んで、ゆるやかに膨らんでいた。

布地の隙間から覗く肌は白く、陽の光をほとんど知らないように見える。

けれどその姿には病弱さも儚さもなかった。

長い時間をただそこに在り続けてきたものだけが持つ、不思議な静けさがあった。

 

やがて、その人物が顔を上げる。

 

空が見えた。

雲ひとつない青。

その色を映した瞳が、光を受けて揺れる。

青だけではない。

見る角度によって、紫にも緑にも金にも見えた。

まるで空の奥に別の空があるようだった。

風がもう一度強く吹いた。

髪が大きく舞い上がる。

 

その向こうに見える横顔は年齢を測ることができない。

 

若くも見える。

ひどく古くも見える。

人の姿をしているのに人の時間から外れている。

そんな印象だけが残った。

足元には細い草が生えている。

その葉先に小さな虫が止まった。

風に飛ばされそうになりながら、それでも必死に葉へしがみついている。

 

その人物はしばらくそれを見ていた。

そしてしゃがみ込む。

指先を差し出す。

虫は逃げなかった。

小さな身体がその指の上へ這い上がり、しばらくして風が弱まった。

 

すると虫は指先から飛び立ち、草むらの中へ消えていった。

 

その人物は何も言わない。

ただ、飛んでいった先を目で追っていた。

やがて立ち上がる。

再び、山の向こうを見る。

 

遠く。

遥か遠く。

 

まだ目には見えない場所で何かが動き始めていた。

 

人の世界が、静かにざわめいている。

鳥が群れを変えた。

獣が巣を変えた。

風の流れがほんの少しだけ変わった。

 

それは、長い年月を生きてきた者にしか分からないほどの小さな変化だった。

 

けれど。

その人物には分かった。

 

何かが始まる。

まだ何も起きていない。

 

それでも。

世界のどこかで、古い歯車がひとつ動いた。

 

風が髪を揺らす。

瞳の中で空の色が静かに変わる。

 

その人物は山を下り始めた。

何処へ向かうのか。

何をするのか。

まだ、誰も知らない。

 

ただその姿だけが。

長い長い物語の始まりを、静かに歩き出していた。

 

 

 

 

その者は零侯王君といった。

 

崑崙山の外れ。

そこからさらに遠く離れた、山深い場所にある小さな洞窟を住処としている。

仙人が暮らす崑崙の地にありながら、仙人たちの営みからも遠く。

人の世からも遠く。

俗世とは隔絶された場所で、長い年月をただ静かに過ごしてきた。

 

人が生まれ育ち老いていく、その姿を。

国が興り、栄え、そして滅びるその瞬間を。

そのすべてをただ見つめてきた。

 

自ら望んで歴史に名を残すこともなく、誰かに知られることもなく、ただそこに在る。

そんな存在だった。

このときまでは。

 

やがて世界は、大きく動き始める。

封神計画という名の物語が、静かに幕を開けようとしていた。

 

 

大地が動く。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。