山道を歩いていた太公望は、ふと足を止めた。
隣を歩いていた四不象もそれにつられるように立ち止まる。
「何か見つけたっスか、御主人?」
「……いや」
何か奇妙なものを感じたのだ。
風の流れが変わったわけでもなく、妖気や殺気を感じたわけでもない。
ただ妙に静かだった。
木々の葉擦れも、遠くで鳴く鳥の声も、先ほどまでと何一つ変わっていない。
それなのにほんの少しだけ世界の空気が違って感じられる。
太公望は森の奥へ視線を向けた。
木々の隙間から淡い光が差し込んでいる。
その先に小さな岩陰があった。
そこに―――誰かが眠っていた。
「……人?」
四不象が首を傾げる。
「御主人、この人誰っスか?」
「ううむ、知らんのう……」
太公望はゆっくりと近づいていった。
人間ではない。
それだけは何となく分かった。
仙人なのだろうか。
しかし、崑崙にこのような仙人がいただろうか。
少なくとも太公望の知る顔ではない。
それでもなぜか目を離せなかった。
岩陰に身を預けるようにして眠っているその人物は、ひどく整った顔立ちをしていた。
長い髪は蜂蜜を溶かしたような淡い金色で、陽の光を受けたところだけ薄い黄金色に透けている。
肩から流れ落ちた髪が頬の横に柔らかな影をつくり、その顔立ちをいっそう静かに見せていた。
美しい男の姿だった。
細身ではあるが、身体つきは決して弱々しくない。長い手足にはしなやかな強さがあり、衣服も華美ではなく、動きを妨げないよう整えられている。
それなのにどこか柔らかい。
男らしいという言葉から最初に思い浮かべるような鋭さがない。
かといって女性のような華やかさとも違う。
性別というものを意識するより先に、その人自身の持つ静かな美しさが目に入る。
そこにいるはずなのに、周囲の景色へ溶け込んでしまいそうなほど存在感が薄い。
なのに、一度見てしまえばなぜか目を逸らせない。
「……妙な奴じゃのう」
太公望は呟いた。
知らない。
間違いなく知らない人物だ。
なのに。
その顔を見ていると、胸の奥に不思議な感覚が広がっていった。
―――懐かしい。
そう思った。
けれど何が懐かしいのか分からない。
いつ、どこで会ったのか。
どんな声をしていたのか。
何を話したのか。
思い出そうとしても、何一つ浮かんでこない。
ただその姿を見つめているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
冬の夜にずっと探していた場所へようやく帰り着いたような。
長い間忘れていたものを、不意に手の中へ戻されたような。
そんな感覚だった。
「……なんじゃ、これは」
太公望は自分でもよく分からないまま、その人物の顔を見つめ続けた。
すると、ふと手が動いた。
何をしようとしたのか、自分でも分からなかった。
眠っているその人物の頬へ向かって、指先が伸びていた。
あと少し。
髪に触れようとした、その瞬間。
「ん……」
小さな声がした。
太公望の手が止まる。
いや。
止められた。
眠っていたはずの人物が、いつの間にか手を伸ばしていた。
細い指が、太公望の手首を掴んでいる。
「……ッ」
思わず息を呑む。
細い腕なのに、その力は異様なほど強かった。
太公望が反射的に腕を引こうとしても、びくともしない。
「な、なんじゃ……」
もう一度力を込める。
動かない。
まるで大地そのものに手を掴まれているようだった。
四不象も驚いたように目を丸くする。
「ご、御主人……!」
呼びかける声が遠く聞こえる。
太公望は目の前の人物から目を離せなかった。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと揺れる。
長い睫毛がわずかに震え――そして、ふ、と開いた。
「……ッ」
太公望の呼吸が止まった。
瞳。
そこにあったのは空の色だった。
澄みきった青の奥で光が静かに揺れている。
紫。
緑。
金。
見る角度によって色を変えながらきらきらと七色に輝く不思議な光彩。
その瞳の中へ自分の姿が映り込んでいる。
間の抜けた顔をした自分自身が。
けれど――
太公望はそんなことを気にしている余裕がなかった。
目が合った瞬間、胸の奥で何かが大きく揺れた。
心臓をぎゅっと掴まれたような錯覚。
息が苦しい。
痛いわけではない。
むしろ逆だった。
ひどく懐かしくて、温かくて、けれど同時にどうしようもなく切ない。
何かを失ったような。
ずっと誰かを待っていたような。
そんな感覚が一瞬にして胸の奥へ押し寄せてくる。
知らない。
知らないはずなのに。
この瞳を知っている。
この人を知っている。
そう魂のどこかが勝手に告げている。
けれど頭の中には何一つ記憶がない。
「…………」
彼―――零侯王君は、まだ太公望の手首を掴んだまま静かに彼を見ていた。
警戒しているようには見えない。
驚いている様子もない。
ただ眠りから覚めたばかりの瞳で、じっと太公望を見つめている。
そして。
ほんの少しだけ、その目が細められた。
まるで――
ずっと会いたかったものをようやく見つけたかのように。
太公望の胸が、また大きく脈打った。
「……おぬし」
ようやく声を絞り出す。
「わしを……知っておるのか?」
零侯王君は答えなかった。
掴んでいた手の力を少しだけ緩め、ゆっくりと自分の口元に持っていき、すり、と頬を寄せただけだった。
「・・・・・・待ってた」
零侯王君の声は、眠りの底から零れ落ちるようにかすかだった。
その手から伝わってくる温度が不思議なほど懐かしかった。
「ずっと」
太公望はその理由を知らない。
知らないまま、ただ目の前の人物を見つめていた。
この出会いが遠い昔から続いていた何かの続きを再び動かし始めていることなど――まだ、何も知らずに。
その手から伝わってくる温度が、不思議なほど懐かしかった。
「……は?」
太公望が聞き返したその直後。
零侯王君の瞼がまたゆっくりと落ちていった。
「…………」
「…………」
太公望はしばらく何も言えなかった。
今、何と言った?
待っていた?
ずっと?
誰を?
何を?
頭の中でいくつもの疑問が渦巻く。
だが、目の前の本人はというと、そんな太公望の困惑など知る由もなく掴んでいた手を離すと、そのまま岩に身体を預け直した。
そして―――
「……すぅ」
「…………」
「……すやぁ」
「寝た!?」
思わず太公望が声を上げた。
「ちょ、御主人、声大きいっス!」
「いやいやいや!今の流れで寝る奴がおるか!?」
四不象も慌てて零侯王君の顔を覗き込む。
「……寝てるっスね」
「見れば分かるわ!」
長い睫毛はすっかり伏せられ、先ほどまで七色の光を湛えていた瞳は、もう見えない。
呼吸も穏やかだった・・・これは完全に眠っている。
「ご主人、起こすっスか?」
「……起こすじゃろ」
太公望は恐る恐るその肩を揺すった。
「おい。起きんか」
「…………」
「おぬし、今、妙なことを言ったじゃろう」
「…………」
「誰を待っておったのじゃ?」
「…………」
「わしを待っておったのか?」
「…………」
「……おい」
反応がない。
太公望は少しだけ力を込めて肩を揺すった。
「起きんか!」
「…………ん」
ようやく微かな声が返ってくる。
「お、起きたか?」
しかし零侯王君は目を開けることなく、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……眠い」
「知らんわ!」
四不象が思わず吹き出した。
「御主人、この人めちゃくちゃ眠そうっスね」
「だからと言って、寝たまま会話を終わらせる奴がおるか!」
「……うるさい」
「起きておるではないか!」
「……起きてる」
「なら目を開けい!」
「……嫌」
「なんでじゃ!」
しばらく沈黙が落ちる。
やがて零侯王君はようやく薄く目を開いた。
先ほどと同じ七色に揺れる瞳が太公望を映す。
けれど今度はそこに警戒も驚きもなかった。
ただ眠そうに、ぼんやりと太公望を見ている。
「……誰?」
「さっきからわしじゃ!」
「……そう」
「そう、ではない!と言っておろうが!!」
零侯王君は少しだけ首を傾げた。
「太公望?」
「そうじゃ!」
「……太公望、そうか」
名前を確かめるようにもう一度呟く。
その声を聞いた瞬間、太公望の胸の奥がまた妙にざわついた。
初めて名乗ったはずなのに。
どうして、そんな顔で呼ぶ。
どうして、そんなに懐かしそうに。
「……おぬし」
「なに?」
「本当にわしを知らんのか?」
零侯王君はしばらく太公望を見つめていた。
やがて小さく瞬きをする。
「知らない」
「……では、なぜわしを待っておった?」
「……?」
「さっき言ったじゃろう!」
「何を?」
「『待ってた』と!」
「ああ」
零侯王君は何でもないことのように答えた。
「待ってた」
「だから、何を!」
「太公望」
「…………」
太公望は言葉を失った。
零侯王君はそれがどうしたのかと言わんばかりに静かに太公望を見ている。
「……昔の人に、似てるから」
「昔の人?」
「うん」
またそれだけだった。
太公望は眉間を押さえた。
何なのだ、この仙人は。
質問すれば答える。
しかし、答えになっているようで、肝心なところは何一つ分からない。
「御主人」
四不象が小声で言った。
「この人、もしかして寝ぼけてるんじゃないっスか?」
「……そうかもしれん」
「じゃあ、もう一回寝かせてあげたほうがいいんじゃないっスか?」
「いや、それでは何も分からんではないか」
太公望がそう言ったところで、零侯王君がふわりと欠伸をした。
そしてそのまま太公望を見上げる。
「・・・疲れた」
「・・・・・・・・・」
「眠い」
「・・・ぐぅ」
「・・・分かったから寝るな!」
「うん」
「返事だけはいいのう!」
零侯王君は小さく目を細めた。
それが笑ったのだと気づくまで太公望には少し時間がかかった。
「・・・・・・太公望」
「なんじゃ」
「会えて、よかった」
「む・・・」
今度こそ何も言えなかった。
零侯王君はそれだけ告げると再び瞼を閉じた。
「・・・すぅ」
「また寝た・・・」
四不象が呆れたように呟く。
太公望は目の前の仙人を見つめたまま、しばらく動かなかった。
胸の奥には先ほどから消えない妙な感覚が残っている。
懐かしい。
温かい。
まるで自分の知らない遠い記憶が身体の奥底から呼び起こされようとしているようだった。
「・・・・・・昔の人、か」
太公望は小さく呟く。
眠っている零侯王君から答えが返ってくることはなかった。
結局、太公望らは零侯王君が再び目を覚ますまで近くの川で釣りをしていたのだった。