第1話 雨の町【壱】
六月の雨は、朝から途切れることなく降り続いていた。
窓の向こうでは、校庭の土がすっかり黒く濡れ、昨日まで白く浮かんでいたラインも、今ではところどころ水の下に沈んでいる。体育倉庫の屋根から落ちた雨水が側溝へ細い流れをつくり、その先で排水口に吸い込まれていく。その様子を眺めていると、校庭そのものがゆっくりと水に戻っていくようにも見えた。
教室の中は、雨の日特有の湿った空気に包まれている。
窓は閉められているのに、どこからか冷たい風が入り込み、カーテンの裾をわずかに揺らしている。昼休みの教室には、弁当箱を片づける音や、机を寄せて話す声、廊下を走っていく誰かの足音が重なっていた。いつもなら騒がしいはずなのに、どうしてだか雨の日は音の輪郭が少しぼやける。
そのような中で、九重 陽奈は自分の席から窓の外を眺めていた。
「また見てる。」
ふと、向かいの席から声がして、陽奈はゆっくりと振り返った。
「何を?」
「雨だよ。雨。」
陽奈の疑問に、声の主は、どこかからかいの気持ちを含んだ声色で返答した。
「雨を見てたら駄目なの?」
「駄目じゃないけど、朝からずっとじゃん。」
そう言われて、陽奈は窓に目を戻した。
確かに、朝から何度も外を見ている。
別に雨そのものが好きなわけではない。傘を差すのは面倒だし、制服の裾が濡れるのも嫌だった。部活動が休みになるのは少し嬉しいけれど、それだって雨を好きになる理由にはならない。
それでも、雨が降る日は、どうしても外が気になった。
「なんとなく。」
「なにそれ。」
友達が笑った。
「陽奈って、たまに変なところ気にするよね。」
「そうかな。」
「そうだよ。前も、神社の石がどうとか言ってたし。」
「あれは……。」
陽奈はそこで言葉を止めた。
先月、通学路の途中にある小さな神社の前を通ったときのことを思い出す。鳥居の脇にある石が、前に見たときとは少しだけ違う場所に動いていた。それが気になって、祖母に尋ねたのだった。
すると祖母は、珍しく答えを濁した。
――あそこには、昔から余計なことをしないほうがいい。
それだけだった。
何が余計なのかも、なぜそう言うのかも教えてくれなかった。
「……なんでもない。」
「ほら、またそれじゃんか。」
「何が?」
「そうやって急に黙るところ。」
友達は呆れたように笑って、空になった弁当箱を包みにしまった。
「図書室、行く?」
「うん。」
陽奈も弁当箱を鞄に入れた。
椅子を引いて立ち上がると、窓の外から雨の音が少し大きく聞こえてきた。
さっきよりも降り方が強くなったらしい。
二人で教室を出る。
廊下には、雨の日だからか、いつもより人が少なかった。窓際に立って外を眺めている生徒もいれば、教室に残ってカードゲームをしている生徒もいる。階段の踊り場には濡れた傘が何本か立てかけられ、床には誰かが持ち込んだ雨水が細い跡を残していた。
陽奈は友達の少し後ろを歩きながら、廊下の窓に目を向けた。
校舎の向こうに、古い木が一本立っている。
校庭の端にある、大きな楠だった。
いつからそこにあるのか、陽奈は知らない。学校が今の校舎になる前からあった、と聞いたことはあるけれど、それも誰から聞いた話だったか思い出せなかった。
雨に濡れた葉が重たそうに垂れている。
その下には、薄暗い影が溜まっていた。
それを見て、陽奈は何となく足を緩めた。
「陽奈?」
「ううん。なんでもない。今行く。」
友達に呼ばれて、歩く速度を戻す。そして、楠から目を離した。
図書室へと向かう廊下の角を曲がる。
そのときだった。
どこかで、水の跳ねる音がした。
それは、ぱしゃん、と幽かな音だった。
思わず陽奈は振り返った。
廊下には誰もいない。
「どうしたの?」
「今、音しなかった?」
「音?」
「うん、水の音。」
「え?雨じゃない?」
友達が窓の外を見る。
確かに、雨は降り続いている。校舎の屋根を叩く音も、さっきよりずっと大きくなっていた。
「たぶん、そうだと思う……。」
陽奈はそう答えて、再び歩き出した。
けれど、少しだけ引っかかった。
雨の音ではなかった気がする。
何が違ったのかと聞かれても、うまく説明できない。ただ、屋根や窓を叩く雨とは違って、今の音には妙な近さがあった。
すぐそばの水たまりを、誰かが踏んだような音だった。
図書室に着いてからは、さっきの水音のことを話すこともなかった。
窓際の席に並んで座り、借りる本を選んでいるうちに、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。陽奈は本を棚に戻し、友達と一緒に教室へ戻った。
午後の授業が始まっても、雨は降り続いていた。
窓を打つ雨音は、先生の声が途切れるたびに教室の中へ入り込んでくる。五時間目が終わり、六時間目が終わっても、その音は少しも弱くならなかった。
帰りの会が終わるころには、窓の外はもう薄暗くなっていた。
「今日、雨がひどいよね。」
誰かがそう言いながら窓の外を覗き込む。
陽奈もつられてそちらを見る。
朝からずっと降っているというのに、雨脚は衰えるどころか、むしろ強くなっていた。校庭にはいくつもの水たまりができ、側溝を流れる水も朝よりずっと速い。
教室を出て、昇降口へ向かう。
靴箱の前には、傘を取りに来た生徒たちが集まっていた。濡れた床には靴跡がいくつも重なり、外へ出るたび、開いた傘が次々と雨の中へ消えていく。
陽奈は自分の傘を手に取った。
昇降口の扉の向こうでは、雨が白い幕のように降っている。
朝より、ずっと強い。
陽奈は少しだけ眉を寄せ、それから傘を開いた。
ぱしゃん、と水が跳ねた。
校舎の裏手からだった。
陽奈は顔を上げる。
雨音の向こうに、また水の音が聞こえた。
今度は、はっきりと。
誰かが、水の中を歩いたような音だった。