「……返して。」
声が消えた後も、陽奈はしばらく庭を見ていた。
水の筋は動かない。
土の上に細く残り、夕方の光を鈍く映している。
昨夜は、何を返せと言われているのか見当もつかなかった。
けれど今は違う。
雨の後。
石。
戻す。
今日見つけた言葉が、頭の中に浮かんでいる。
それでも、その間を勝手につないではいけない。
陽奈は地図を持つ手から力を抜いた。
「今の声、おばあちゃんにも聞こえた?」
「聞こえたよ。」
祖母は庭から目を離さなかった。
「昨日と同じだった?」
「私には、そう聞こえよ。」
陽奈は頷いた。
それだけ確認すると、祖母は蔵の戸へ向かった。
「外に出るの?」
「縁側までね。水がどこから出ているのか見ておきたい。」
「……私も行くよ。」
二人は蔵を出た。
祖母は庭へ降りず、縁側から水の筋を眺めた。
陽奈も隣にしゃがむ。
土は、確かに濡れている。
葉から落ちた雫でもない。
雨樋から流れた水でもない。
水の始まりは、庭の中央にあった。
そこから細い流れが伸びている。
「朝の飛び石とは違うね。」
「そうだね。あのときは一か所だけだった。」
祖母は携帯電話で何枚か写真を撮った。
陽奈は古地図を膝の上に広げた。
「さっき、この水が昔の水路と似た向きに流れてると思ったんだけど。」
「私にもそう見えたさね。」
祖母は地図と庭を交互に見る。
「でも、この家の場所まで水路が通っていたわけじゃない。」
「そうなの?」
「この地図ではね。」
祖母が現在の道と照らし合わせ、おおよその位置を指した。
「古い流れはもっと向こう。学校の方だよ。」
陽奈は庭の水を見る。
「じゃあ、昔の水路がここに戻ってきたわけじゃないんだ。」
「少なくとも、そう決める理由はないね。」
陽奈は少し考えた。
「形を見せてるのかな。」
「そう見える、とは言えるかもしれない。」
祖母の言葉は慎重だった。
陽奈も、それ以上は言わなかった。
声がしたからといって、水そのものに意思があるとは限らない。
水路に似ているからといって、昔の水路が現れたとも限らない。
ただ、何かが繰り返し水に関わる形で現れている。
それだけは、もう偶然として片づけにくかった。
水は、それ以上伸びなかった。
やがて土へ吸われ始める。
祖母は消えていく様子まで記録してから立ち上がった。
「中へ戻ろう。」
「触らなくていい?」
「今はね。」
陽奈も立ち上がった。
蔵へ戻ると、先ほどまで調べていたものが机に広がったままだった。
祖母はその中央に古地図を置いた。
陽奈も椅子へ座る。
少し疲れていた。
朝から、学校の裏を歩いた。
古い記録を読んだ。
老婦人から話を聞いた。
返水が実際にあった場所だと分かった。
水場預りという言葉を見つけた。
そして、九重家に残っていたはずの「返水聞書」は見つからなかった。
昨日までは、何も知らなかった。
それに比べれば、今日はずいぶん多くのことが分かったはずだった。
なのに、肝心なところだけがまだ暗い。
「おばあちゃん。」
「うん。」
「一回、今日分かったことを順番に見てもいい?」
「いいよ。」
陽奈は手帳を開いた。
答えを作るためではなく、自分がどこまで確かめたのかを混ぜないためだった。
「学校ができる前、あの辺りには水路があった。」
「うん。」
「返水って呼ばれる場所もあった。老婦人にも地図を見てもらったから、場所はだいたい合ってる。」
「そうだね。」
「返水には水があって、普段の生活にも使われてた。」
「少なくとも、あの方の子どもの頃にはね。」
陽奈は書き留める。
「昔の記録には、雨が降らないときに『水場』へ集まって祈ったことが残ってる。でも、その水場が返水だったかどうかは、まだ完全には分からない。」
「そこは、そのままにしておこう。」
「うん。」
陽奈は次の行を見る。
「あの人は、雨が降った後にも大人たちが返水へ行ってたのを覚えてる。そして、子どもは連れていかなかったし、触ったら怒られる石もあった。」
「そう聞いたね。」
「そのあと、返水は閉じられた。でも、一人だけ、しばらく通っていた女性がいた。」
陽奈は写真に目を向ける。
「その人は、九重家の記録では『水場預り』と書かれてた。」
「うん。」
「それから、雨の後、石、戻すっていう紙片。」
そこまで言って、陽奈は手を止めた。
祖母が続きを急かすことはなかった。
「……並べると、すごくつながって見えるね。」
「確かにね。」
「でも、つながって見えるだけなんだよね。」
「そう。」
祖母は写真を指先で少し動かした。
「こういうときが一番気をつけないといけないよ。足りないところへ、自分に都合のいい話を入れたくなるから。」
陽奈は頷いた。
雨を願った。
雨が降った。
その後に何かを戻した。
それをしなくなった。
だから「返して」と声がする。
そこまで一息に考えてしまえば、きれいな話になる。
きれいすぎる。
「返水聞書が見つかれば、もう少し分かるかな。」
「そうだね。少なくとも、あの女性が何を話したのかは分かるかもしれない。」
「明日、続きを探そう。」
「ただ、その前にもう一つ、確かめたいことがある。」
そう言うと、祖母は別の資料を持ってきた。
それは返水が閉じられた後の土地を記した図だった。
「こっちは、工事が終わった後。」
陽奈は、閉鎖前の図と並べて見た。
水路の形が変わっている。
返水という名も消えていた。
道の位置も少し違う。
そこまでは、午前中に読んだ記録と合っている。
返水は閉じられ、水の流れも変えられた。
けれど、陽奈の目が一か所で止まった。
「おばあちゃん。こっちにも丸がある。」
閉鎖前の図で、返水のそばに描かれていた小さな丸。
石を示しているのではないかと考えた印だった。
よく似た丸が、閉鎖後の図にも残っている。
ただし、場所は返水の跡ではなかった。
そこから少し離れたところへ移っている。
「この丸も、石を表してるのかな。」
「凡例がないからね、同じものだとは言い切れないさ。でも、描き方はよく似ているね。」
陽奈は二枚の図を交互に見た。
「返水はなくなってるのに、石だけ別の場所に残ってるように見えるね。」
「私もそこが気になったのさ。」
祖母は閉鎖後の図を指した。
「もしこの丸が同じ石なら、返水を埋めたときに石まで処分したわけじゃない。どこかへ動かしたことになる。」
陽奈は老婦人の話を思い出した。
返水が使われなくなった後も、あの女性は「あっちの方へ行っていた」。
陽奈たちは、その言葉を自然に、昔の返水の場所へ通っていたという意味で受け取っていた。
けれど。
「おばあさんは、元の水場に行ってたとは言ってないよね。」
「そうさね。」
「もし石が移されてたなら、その人は石の方へ通ってたのかもしれない。」
「その可能性はある。」
祖母は二枚の図を並べたまま頷いた。
「だから、明日は元の返水じゃなくて、この丸が移った先を見てみたい。」
陽奈は閉鎖後の図を覗き込んだ。
「今だと、どの辺になるかな?」
「学校の北側に近いね。今日見た窪みより、もう少し先だと思う。」
陽奈はその位置を手帳へ書き写した。
陽奈は朝の景色を思い出した。
倉庫の裏。
草に覆われた窪み。
そこからさらに奥。
普段、生徒がほとんど近づかない場所がある。
学校の敷地と、古い住宅地の境。
「明日、そこを見に行く?」
祖母は時計を見た。
「そうさね、明日にしよう。今から行けば暗くなる。」
「分かった。」
陽奈は素直に答えた。
昨夜なら、気になったまま朝まで待つのが嫌だったかもしれない。
でも、今は違った。
見に行く場所は分かった。
何を確かめるのかも分かっている。
急いで怪異を追いかける必要はない。
陽奈は二枚の図を並べたまま、手帳へ位置を書き写した。
祖母はその間に、資料を一つずつ元の袋へ戻していく。
写真も片づけようとして、陽奈が声をかけた。
「その写真、もう一回見てもいい?」
祖母が差し出す。
陽奈は窓の近くへ持っていった。
老婦人。
松尾のおじさん。
名前の分からない人たち。
そして、水場預りだった女性。
背景には低い石積み。
その近くに、水面らしい白い部分がある。
午前中にも何度も見た写真だ。
陽奈は、女性の足元を見た。
そこに半分だけ写っている丸いもの。
「この石が、動かされたのかな。」
「そうなら、明日見つかるかもしれないね。」
陽奈は写真を少し傾けた。
西日が表面を滑る。
そのとき、写真の奥に小さなものが見えた。
「おばあちゃん、これ何だろう。」
祖母が隣へ来る。
「どこ?」
「ここ。水場の向こう。」
写真の端に近い。
木々の間。
最初は影だと思っていた。
けれど、よく見ると細い柱のようなものが二本あり、その間に横木らしいものがある。
「門かな。」
「門にしては小さいね。」
祖母は眼鏡をかけ直した。
「これだけじゃ分からない。」
陽奈は裏面を見る。
撮影場所は「水場にて」。
それ以上の説明はない。
「あの人に聞けばよかったね。」
「今日の写真の写しを持って、また聞いてみてもいいさ。」
「何度もお邪魔したら悪くないかな。」
「それなら、写真のことを説明して、電話で聞けばいいさ。」
陽奈は写真を祖母へ返した。
それを祖母が袋へ収める。
外はかなり暗くなっていた。
夕食の支度をするため、二人は蔵を出た。
庭を見る。
先ほど現れた水の筋は、ほとんど消えていた。
土の色が少し濃いだけで、知らなければ気づかないだろう。
陽奈は足を止めた。
「消えちゃったね。」
「そうだね。」
「明日の朝まで残るかと思った。」
「写真は撮ってあるよ。」
「うん。」
陽奈は庭を横切った。
今度は水音はしなかった。
家へ入る。
祖母が夕食の支度を始め、陽奈は食器を並べた。
冷蔵庫を開ける音。
包丁がまな板を打つ音。
炊飯器から上がる湯気。
昨日までと同じ家の音が戻ってくる。
陽奈は味噌汁の椀を運びながら、ふと思った。
「おばあちゃん。」
「なに?」
「明日、やっぱり学校って行かなきゃだよね?」
祖母の手が止まった。
「行きなさい。」
「……。」
「何を期待してたのさ。」
「また休んで調べるのかと思った。」
「学生の本分を忘れない。」
「……はい。」
陽奈は笑った。
「じゃあ、放課後?」
「そうさね。もちろん、私も行くよ。」
「分かった。」
夕食を終え、風呂に入り、自室へ戻った頃には十時を過ぎていた。
机の上には教科書が積まれている。
明日の授業の準備をしていなかったことを思い出し、陽奈は鞄を開いた。
時間割を確認する。
ノートを入れる。
筆箱。
教科書。
いつもの準備だった。
最後に、手帳を鞄へ入れようとして手が止まる。
今日書いたページを開いた。
返水。
水場。
雨の後。
石。
水場預り。
戻す。
その下に、さっき書き足した場所。
学校の北側。
陽奈は少し考え、最後に一行だけ書いた。
――閉じた後も、何かが残った。
それ以上は書かなかった。
何が残ったのかは、まだ知らない。
石なのか。
習わしなのか。
誰かの役目なのか。
あるいは、それらとは違うものなのか。
手帳を閉じた。
部屋の電気を消す。
雨戸の向こうからは、虫の声が聞こえていた。
雨はもう降っていない。
陽奈は布団へ入った。
昨夜のような水音がするのではないかと、しばらく耳を澄ませていた。
何も聞こえない。
家は静かだった。
目を閉じる。
どれくらい経っただろう。
眠りに落ちかけた頃。
陽奈は、水の中に立っていた。
夢だと気づくより先に、足元の冷たさを感じた。
浅い水だった。
足首にも届かない。
空は暗い。
雨は降っていない。
それなのに、水だけがどこまでも広がっている。
前方に人がいる。
白い服を着た女だった。
昨夜、門の向こうに立っていた人影に似ている。
けれど、顔は見えない。
女は陽奈を見ていなかった。
水の向こうを向いている。
その先に、石があった。
大きな石。
半分ほど水に浸かっている。
女が石へ近づく。
何かを置いたように見えた。
陽奈には、それが何なのか見えない。
女は立ち上がった。
そして、初めて陽奈の方を向いた。
顔は、やはり見えなかった。
声だけがした。
「……返して。」
陽奈は目を覚ました。
暗い天井が見えた。
息が少し速い。
時計を見る。
午前二時を過ぎている。
部屋は乾いていた。
廊下から水音もしない。
陽奈は上体を起こした。
夢。
それだけだ。
今日一日、水や石のことばかり考えていたのだから、夢に出てもおかしくない。
そう思いながら、枕元の水を一口飲んだ。
そして再び横になろうとしたとき。
窓の外で。
からん。
と小さな音がした。
水ではない。
硬いもの同士が触れたような音だった。
陽奈はカーテンを少し開けた。
庭は暗い。
月明かりの下に、飛び石が並んでいる。
その一つに、何かが載っていた。
陽奈は目を凝らした。
小さな石だった。
掌に収まりそうな、黒い石。
昼間までは、そこにはなかった。
表面だけが濡れていた。
陽奈は窓を開けなかった。
祖母を呼びにも行かなかった。
ただ、その位置を覚えた。
明日の朝、祖母と一緒に確かめればいい。
カーテンを戻す。
布団へ戻ってからも、しばらく眠れなかった。
頭に浮かんでいたのは、夢の女ではない。
閉じられる前の返水と、閉じられた後の図。
二枚の地図だった。
水場は消えた。
けれど、石らしい印だけは、別の場所に残っている。
記録と記憶。
どちらかが間違っているのではなく。
その間に、まだ知らない出来事がある。
陽奈は目を閉じた。
明日、確かめる場所は決まっていた。
返水があった場所ではない。
水がなくなった後に、石が移された場所。
水の記憶が、その先にも続いているのなら。
次に探すべきものは、そこにある。