九重の境   作:モレ(一般人?)

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第3話 祈り【壱】

 朝、目を覚まして最初に聞こえたのは、鳥の声だった。

 

 雨戸の向こうで、何羽かが短く鳴き交わしている。遠くを走る車の音もする。どこかの家で戸を開けたらしく、乾いた音が一度だけ響いた。

 

 水の音はしなかった。

 陽奈は布団の中でしばらく耳を澄ませてから、ゆっくりと上体を起こした。

 昨夜、目を覚ましたのは二時を少し回った頃だった。

 夢を見ていた。

 

 浅い水の中に立つ女。半ば水に沈んだ大きな石。女は陽奈に背を向け、何かを石の上へ置こうとしていた。

 そして、あの声。

 

 ――返して。

 

 夢だった。

 少なくとも、それ以上のことは今の陽奈には言えない。

 昨日一日、返水のことばかり考えていたのだ。地図を見て、古い記録を読み、昔そこに暮らしていた人の話を聞いた。眠ってから同じものが夢に出てきても、不思議ではなかった。

 

 陽奈は枕元の時計を見て、布団から出た。

 カーテンを開ける。

 久しぶりの青空だった。

 雲はいくらか残っているものの、その隙間から朝の光が差し込んでいる。濡れていた瓦はすでに乾き始め、庭木の葉に残った雫だけが光っていた。

 陽奈は窓へ近づいた。

 昨夜、庭に見えた小さな黒い石を探す。

 

 あった。

 飛び石の端に、親指ほどの黒いものが載っている。

 昨夜と同じ場所だった。

 陽奈は窓を開けなかった。

 階下へ降りる。

 台所では祖母が味噌汁を温めていた。鍋から湯気が上がり、味噌と出汁の匂いが朝の空気に混じっている。

 

「おばあちゃん、おはよう。」

「おはよう。今日はちゃんと学校に行けそうだね。」

「うん。」

 陽奈は椅子を引きかけて、庭の方を見た。

 

「その前に、見てほしいものがあるんだけど。」

 祖母は火を弱めた。

「庭?」

「うん。それと、夢を見たの。」

 

 祖母が陽奈を見る。

「どんな夢?」

「浅い水の中に、女の人が立ってた。こっちには背中を向けてて、その前に大きな石があった。」

 

 陽奈は、途切れ途切れに思い出しながら話した。

「その人、石の上に何かを置こうとしてたと思う。でも、何だったのかは分からない。それで最後に……『返して』って聞こえた。」

 

「声も夢の中で?」

「うん。」

 

 陽奈は頷いた。

「昨日ずっと返水のことを調べてたから、それが夢に出てきただけかもしれないけど。」

 

 祖母は少し考えてから、味噌汁の火を止めた。

「夢だったことも含めて、覚えておけばいい。」

「調べる手がかりにはしない?」

「今のところはね。夢の中で見たものに合わせて現実を探し始めると、何でも似て見えてくるから。」

 

「そっか。」

 

「でも、黙っておく必要もない。気になったことは話して。」

「分かった。」

「それで、庭には何があるの?」

 

 そこで陽奈は、昨夜見つけた小さな黒い石のことを話した。

 

「昨日の夜、飛び石の上に小さい石があったの。寝る前にはなかったと思う。」

 祖母はすぐには何も言わなかった。火を止め、布巾で手を拭いてから縁側へ向かった。

 陽奈も後についていく。

 ガラス戸越しに祖母が庭を見る。

「どれ?」

「あそこ。飛び石の端。」

 祖母の目が止まった。

 

 しばらく眺めてから、戸を開ける。

「ここにいて。」

 陽奈は縁側に残った。

 祖母は草履を履いて庭へ下りた。石へまっすぐ近づかず、少し離れたところから周囲を見ている。

 

 やがて腰をかがめた。

 陽奈から見れば、何の変哲もない小石だった。黒っぽく、丸みがあり、表面が少し濡れている。

 祖母は触らなかった。

「夜はもっと濡れてた?」

「うん。たぶん。」

「雨は?」

「降ってなかったと思う。」

「そう。」

 

 祖母は携帯電話を取り出して何枚か写真を撮った。それから石ではなく、飛び石の周囲へ目を向けた。

「足跡はないね。」

「猫とかが運んだ可能性は?」

「あるよ。」

 あまりにも普通に返されて、陽奈は少し拍子抜けした。

 

 祖母が振り返る。

「鳥かもしれないし、風や何かの拍子で動いたのかもしれない。あなたが昨日まで気づいてなかっただけかもしれない。」

「そっか。」

「だから、今はそのまま。」

 祖母は庭から戻り、戸を閉めた。

 

 陽奈はもう一度、小石を見た。

 昨夜の夢と結びつけようと思えば、いくらでも結びつけられる。

 石。

 水。

 返して。

 けれど、それを始めると、目に入るものすべてが意味を持っているように見えてしまう。

 昨日、祖母から何度も言われたことだった。

 陽奈は小石から目を離した。

 

「帰ってきたときにも見てみる。」

「それでいいよ。」

 祖母は台所へ戻った。

「陽奈、その前に朝ご飯。遅刻したら、返水より先に担任の先生から呼ばれるよ。」

「昨日休んでるから、それはまずいね。」

「家の用事で休ませますって言った翌日に遅刻じゃ、私が何をさせてたのか疑われる。」

 陽奈は少し笑った。

 味噌汁の鍋から、また湯気が上がった。

 

 

 

 

 一日休んだだけなのに、教室は少し久しぶりに感じた。

「陽奈、おはよ。」

「おはよう。」

「昨日どうしたん?」

 鞄を机の横へ掛けていると、前の席から声が飛んできた。

「家の用事。急に休むことになって。」

「大丈夫だった?」

「うん。もう大丈夫。」

「ならよかった。数学、昨日けっこう進んだよ。ノート見る?」

「ほんと? 助かる。」

 差し出されたノートを受け取る。

 ページには授業中に急いで写したらしい文字が並び、途中に小さく「ここテスト?」と書かれていた。

 

「先生、ここ出すって言ってた?」

「それ、私が勝手に書いたやつ。」

「危なかった。」

「でも絶対出そうじゃない?」

「じゃあ一応覚えとく。」

 そんな話をしているうちに、別の生徒が教室へ入ってきた。窓際では、昨日のテレビ番組の話で笑っている声がする。

 

 いつもの朝だった。

 昨日、古い家で返水という言葉を聞いたことも。

 何十年も前、この学校が建つより前に水路が通っていたことも。

 この教室にいる誰も知らない。

 

 陽奈自身も、一昨日までは知らなかった。

 席に座り、借りたノートを開く。

 チャイムが鳴った。

 一時間目が始まった。

 国語。

 二時間目が数学。

 三時間目の途中で、陽奈は昨日の遅れをだいたい取り戻した。

 

 返水のことを考えなかったわけではない。

 けれど、授業中に古地図を思い出していても仕方がない。板書を写し、問題を解き、指名されれば答える。

 昼休みになる頃には、昨日一日が別の場所で起きた出来事のように思えていた。

 その感覚が変わったのは、掃除の時間だった。

 陽奈は廊下の雑巾がけをしていた。

 窓は開いている。

 雨上がりの風が入り込み、カーテンを膨らませている。

 

「そこ終わった?」

「あとちょっと。」

 後ろから箒を持った生徒に声をかけられ、陽奈は廊下の端へ寄った。

 雑巾を押して進む。

 そのときだった。

 

 ぴちゃ。

 

 手が止まった。

 顔を上げる。

 廊下には数人の生徒がいる。

 箒を動かす音。机を引きずる音。教室の中から聞こえる笑い声。

 水はない。

 

 陽奈は立ち上がった。

「どうしたの?」

「今、水の音がしなかった?」

 近くにいた生徒が箒を止めた。

「水?」

 陽奈は一瞬黙った。

「何か落ちたみたいな音。聞こえなかった?」

「私は聞いてないけど。」

「じゃあ、外かな。」

 

 窓から下を見る。

 地面は乾き始めている。

 雨樋から水が落ちている様子もない。

 ぴちゃ。

 今度は、少し遠かった。

 陽奈は窓ではなく、廊下の先を見た。

 北側。

 昨日、地図に写した丸印のある方向だった。

 胸の奥が小さく騒いだ。

 けれど、追いかけなかった。

「陽奈、雑巾そっち終わった?」

「あ、ごめん。今やる。」

 しゃがみ直す。

 雑巾を押す手に、少しだけ力が入った。

 

 

 

 

 放課後、昇降口を出ると、空はまだ明るかった。

 昨日まで続いていた雨が嘘のように、運動場では部活動が始まっている。

 ボールが地面を打つ音。笛の音。

 誰かを呼ぶ声。

 湿った土の匂いは残っているが、空気はずいぶん軽くなっていた。

 

 校門の近くに祖母がいた。

 昨日と同じような地味な服装で、小さな鞄を持っている。

「お待たせ。」

「今来たところ。」

「ほんと?」

「五分くらい前。」

 

「それは今来たところって言うのかな。」

「待ち合わせでは誤差の範囲。」

 祖母はそう言って歩き出した。

 陽奈も並ぶ。

「今日、学校で水の音を聞いた。」

 祖母の歩みは変わらなかった。

「どこで?」

「廊下。掃除してるときに二回。」

「周りに水は?」

「なかった。近くにいた子には聞こえてなかったみたい。」

 

「方向は分かった?」

「二回目だけ。北の方から聞こえた気がする。」

 祖母が陽奈を見る。

 

「昨日の図を見たから、そう思った可能性は?」

「あると思う。」

 祖母は肯定も否定もしなかった。

 二人は校舎の脇を通り、昨日調べた裏手へ向かった。

 

 倉庫。

 楠。

 最初に見つけた大きな石。

 さらに、その奥。

 草に覆われた浅い窪みが見えてくる。

 昨日、風もないのに小さな水面へ波紋が広がった場所だった。

 

 今日は水がない。

 窪みの底には湿った土が残っているだけだった。

 祖母は足を止めず、その脇を通り過ぎた。

 陽奈も続く。

 ここから先へ来るのは初めてだった。

 

 校舎から離れるにつれて、生徒の声が遠くなる。

 敷地の北側にはフェンスがあり、その向こうには住宅と細い道が見える。学校との間には細長い土地が残っていて、草や低木が伸びていた。

 

「図だと、この辺りから少し東。」

 祖母が閉鎖後の図のコピーを開く。

 陽奈も手帳を出した。

 昨日写した丸印の位置を見る。

「今のフェンスと、昔の道が全然合わないね。」

「そのまま重ねるのは難しいさ。目印になりそうなものを探そう。」

 二人は図と現在の景色を見比べながら進んだ。

 

 古い土地の形は、そのまま残ってはいない。

 それでも、完全に消えているわけでもなかった。

 フェンスの外にある細い道。

 不自然に斜めになった敷地の端。

 一本だけ古そうな木。

 図の線と現在の風景を重ねていくと、少しずつ位置が絞られていく。

 

「この辺だと思う。」

 祖母が止まった。

 目の前には、草が生えていた。

 それだけだった。

 

「石、ないね。」

「見えるところにはね。」

 祖母は草むらへ入らず、外側からゆっくり見渡した。

 陽奈も目を凝らす。

 背の高い草。

 枯れた枝。

 誰かが捨てたらしい古いボール。

 フェンスの支柱。

 

 その根元近くで、何かが光った。

「おばあちゃん、あそこ。」

 陽奈が指した。

 草の間に、灰色のものが見える。

 二人は少し位置を変えた。

 

 石だった。

 地面から出ているのは上の部分だけで、残りは土と草に隠れている。

 昨日の図に描かれた丸が本当にこの石なのかは分からない。

 返水にあった石が移されたものなのかも、まだ分からない。

 

 ただ。

 陽奈は足元を見た。

 ここへ来るまで、土は乾き始めていた。

 ところが石の周囲だけ、草の根元が濃く湿っている。

 祖母も気づいたらしい。

「近づかないで。」

「うん。」

 祖母は鞄から携帯電話を出した。

 写真を撮る。

 石だけではなく、周囲の草、フェンス、道との位置関係も何枚か撮った。

 

 陽奈は黙って見ていた。

 やがて、風が吹いた。

 草が一斉に傾く。

 その下から、隠れていた石の側面が少しだけ見えた。

 陽奈は目を細めた。

 

「何かある。」

 祖母もしゃがみ込む。

 石の側面に、浅い窪みがあった。

 自然に欠けたものにも見える。

 けれど、その周りだけ表面の荒れ方が違っていた。

 何かが長いあいだ触れていたような。

 あるいは、何かが取り付けられていたような。

 

 祖母は触れずに写真を撮った。

「今日は掘らないよ。」

 陽奈が何も言わないうちに言われた。

「分かってる。」

「顔に書いてあったからね。」

「見たいとは思ったけど。」

「それを掘りたいと言うんだよ。」

 陽奈は言い返せず、もう一度石を見た。

 

 そのとき。

 

 ぴちゃ。

 

 二人の間から、笑いが消えた。

 水面を踏んだような音だった。

 石の向こう。

 草の中。

 何も見えない。

 陽奈は動かなかった。

 祖母も同じだった。

 

 ぴちゃ。

 

 今度は石のすぐそばから聞こえた。

 陽奈は石の根元を見る。

 湿った土の上に、細い水の筋が現れていた。

 どこかから流れてきたのではない。

 石の下から滲み出した水が、ほんの指一本ほどの幅で土の上を進んでいる。

 その水は斜面に沿って下らなかった。

 わずかに高くなっている方へ、ゆっくりと伸びていく。

「おばあちゃん。」

「見えてる。」

 祖母の声が低くなる。

 

 水の筋は数十センチほど進んだところで止まった。

 そこで小さく溜まる。

 丸い水面ができた。

 陽奈は息を詰めた。

 波紋が一つ。

 内側から外へ広がった。

 もう一つ。

 そして。

 

 水の向こうで、草が揺れた。

 風とは違う。

 何かが、その間を通ったように。

 陽奈は反射的に一歩出そうとして、止まった。

 昨日までなら、何がいるのか確かめたい気持ちの方が勝っていたかもしれない。

 今は違った。

 ここまで来るのに、二日かかった。

 地図を読み、記録を探し、人の話を聞いた。

 それでも、まだ分からないことばかりだった。

 だから、分からないものを一歩で埋めようとは思わなかった。

 

「今日は、ここまで?」

 陽奈が尋ねた。

 祖母は石を見たまま頷いた。

「位置が分かった。それに、水も確認できた。十分だよ。」

「石が返水にあったものかは、まだ分からない。」

「だから、次はそれを確かめる。」

 祖母は立ち上がった。

 陽奈も手帳を開き、時刻を書いた。

 

 石の位置。

 周囲だけ湿っていたこと。

 石の下から水が現れたこと。

 水が低い方ではなく、わずかに高い方へ伸びたこと。

 書き終えて顔を上げる。

 

 水はもう止まっていた。

 小さな溜まりだけが残っている。

 二人がその場を離れようとしたとき、運動場の方から大きな歓声が聞こえた。

 試合形式の練習でもしているのだろう。

 誰かが名前を呼び、別の誰かが笑っている。

 陽奈は一度だけ振り返った。

 草の中に、古い石がある。

 その向こうには校舎が見える。

 

 昔、この辺りに水があったことを、あそこで過ごしている生徒たちは知らない。

 自分も、つい数日前までは知らなかった。

 陽奈は何も言わず、祖母のあとを追った。

 石のそばに残った小さな水面が、夕方の光を受けて揺れていた。

 

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