朝、目を覚まして最初に聞こえたのは、鳥の声だった。
雨戸の向こうで、何羽かが短く鳴き交わしている。遠くを走る車の音もする。どこかの家で戸を開けたらしく、乾いた音が一度だけ響いた。
水の音はしなかった。
陽奈は布団の中でしばらく耳を澄ませてから、ゆっくりと上体を起こした。
昨夜、目を覚ましたのは二時を少し回った頃だった。
夢を見ていた。
浅い水の中に立つ女。半ば水に沈んだ大きな石。女は陽奈に背を向け、何かを石の上へ置こうとしていた。
そして、あの声。
――返して。
夢だった。
少なくとも、それ以上のことは今の陽奈には言えない。
昨日一日、返水のことばかり考えていたのだ。地図を見て、古い記録を読み、昔そこに暮らしていた人の話を聞いた。眠ってから同じものが夢に出てきても、不思議ではなかった。
陽奈は枕元の時計を見て、布団から出た。
カーテンを開ける。
久しぶりの青空だった。
雲はいくらか残っているものの、その隙間から朝の光が差し込んでいる。濡れていた瓦はすでに乾き始め、庭木の葉に残った雫だけが光っていた。
陽奈は窓へ近づいた。
昨夜、庭に見えた小さな黒い石を探す。
あった。
飛び石の端に、親指ほどの黒いものが載っている。
昨夜と同じ場所だった。
陽奈は窓を開けなかった。
階下へ降りる。
台所では祖母が味噌汁を温めていた。鍋から湯気が上がり、味噌と出汁の匂いが朝の空気に混じっている。
「おばあちゃん、おはよう。」
「おはよう。今日はちゃんと学校に行けそうだね。」
「うん。」
陽奈は椅子を引きかけて、庭の方を見た。
「その前に、見てほしいものがあるんだけど。」
祖母は火を弱めた。
「庭?」
「うん。それと、夢を見たの。」
祖母が陽奈を見る。
「どんな夢?」
「浅い水の中に、女の人が立ってた。こっちには背中を向けてて、その前に大きな石があった。」
陽奈は、途切れ途切れに思い出しながら話した。
「その人、石の上に何かを置こうとしてたと思う。でも、何だったのかは分からない。それで最後に……『返して』って聞こえた。」
「声も夢の中で?」
「うん。」
陽奈は頷いた。
「昨日ずっと返水のことを調べてたから、それが夢に出てきただけかもしれないけど。」
祖母は少し考えてから、味噌汁の火を止めた。
「夢だったことも含めて、覚えておけばいい。」
「調べる手がかりにはしない?」
「今のところはね。夢の中で見たものに合わせて現実を探し始めると、何でも似て見えてくるから。」
「そっか。」
「でも、黙っておく必要もない。気になったことは話して。」
「分かった。」
「それで、庭には何があるの?」
そこで陽奈は、昨夜見つけた小さな黒い石のことを話した。
「昨日の夜、飛び石の上に小さい石があったの。寝る前にはなかったと思う。」
祖母はすぐには何も言わなかった。火を止め、布巾で手を拭いてから縁側へ向かった。
陽奈も後についていく。
ガラス戸越しに祖母が庭を見る。
「どれ?」
「あそこ。飛び石の端。」
祖母の目が止まった。
しばらく眺めてから、戸を開ける。
「ここにいて。」
陽奈は縁側に残った。
祖母は草履を履いて庭へ下りた。石へまっすぐ近づかず、少し離れたところから周囲を見ている。
やがて腰をかがめた。
陽奈から見れば、何の変哲もない小石だった。黒っぽく、丸みがあり、表面が少し濡れている。
祖母は触らなかった。
「夜はもっと濡れてた?」
「うん。たぶん。」
「雨は?」
「降ってなかったと思う。」
「そう。」
祖母は携帯電話を取り出して何枚か写真を撮った。それから石ではなく、飛び石の周囲へ目を向けた。
「足跡はないね。」
「猫とかが運んだ可能性は?」
「あるよ。」
あまりにも普通に返されて、陽奈は少し拍子抜けした。
祖母が振り返る。
「鳥かもしれないし、風や何かの拍子で動いたのかもしれない。あなたが昨日まで気づいてなかっただけかもしれない。」
「そっか。」
「だから、今はそのまま。」
祖母は庭から戻り、戸を閉めた。
陽奈はもう一度、小石を見た。
昨夜の夢と結びつけようと思えば、いくらでも結びつけられる。
石。
水。
返して。
けれど、それを始めると、目に入るものすべてが意味を持っているように見えてしまう。
昨日、祖母から何度も言われたことだった。
陽奈は小石から目を離した。
「帰ってきたときにも見てみる。」
「それでいいよ。」
祖母は台所へ戻った。
「陽奈、その前に朝ご飯。遅刻したら、返水より先に担任の先生から呼ばれるよ。」
「昨日休んでるから、それはまずいね。」
「家の用事で休ませますって言った翌日に遅刻じゃ、私が何をさせてたのか疑われる。」
陽奈は少し笑った。
味噌汁の鍋から、また湯気が上がった。
◇
一日休んだだけなのに、教室は少し久しぶりに感じた。
「陽奈、おはよ。」
「おはよう。」
「昨日どうしたん?」
鞄を机の横へ掛けていると、前の席から声が飛んできた。
「家の用事。急に休むことになって。」
「大丈夫だった?」
「うん。もう大丈夫。」
「ならよかった。数学、昨日けっこう進んだよ。ノート見る?」
「ほんと? 助かる。」
差し出されたノートを受け取る。
ページには授業中に急いで写したらしい文字が並び、途中に小さく「ここテスト?」と書かれていた。
「先生、ここ出すって言ってた?」
「それ、私が勝手に書いたやつ。」
「危なかった。」
「でも絶対出そうじゃない?」
「じゃあ一応覚えとく。」
そんな話をしているうちに、別の生徒が教室へ入ってきた。窓際では、昨日のテレビ番組の話で笑っている声がする。
いつもの朝だった。
昨日、古い家で返水という言葉を聞いたことも。
何十年も前、この学校が建つより前に水路が通っていたことも。
この教室にいる誰も知らない。
陽奈自身も、一昨日までは知らなかった。
席に座り、借りたノートを開く。
チャイムが鳴った。
一時間目が始まった。
国語。
二時間目が数学。
三時間目の途中で、陽奈は昨日の遅れをだいたい取り戻した。
返水のことを考えなかったわけではない。
けれど、授業中に古地図を思い出していても仕方がない。板書を写し、問題を解き、指名されれば答える。
昼休みになる頃には、昨日一日が別の場所で起きた出来事のように思えていた。
その感覚が変わったのは、掃除の時間だった。
陽奈は廊下の雑巾がけをしていた。
窓は開いている。
雨上がりの風が入り込み、カーテンを膨らませている。
「そこ終わった?」
「あとちょっと。」
後ろから箒を持った生徒に声をかけられ、陽奈は廊下の端へ寄った。
雑巾を押して進む。
そのときだった。
ぴちゃ。
手が止まった。
顔を上げる。
廊下には数人の生徒がいる。
箒を動かす音。机を引きずる音。教室の中から聞こえる笑い声。
水はない。
陽奈は立ち上がった。
「どうしたの?」
「今、水の音がしなかった?」
近くにいた生徒が箒を止めた。
「水?」
陽奈は一瞬黙った。
「何か落ちたみたいな音。聞こえなかった?」
「私は聞いてないけど。」
「じゃあ、外かな。」
窓から下を見る。
地面は乾き始めている。
雨樋から水が落ちている様子もない。
ぴちゃ。
今度は、少し遠かった。
陽奈は窓ではなく、廊下の先を見た。
北側。
昨日、地図に写した丸印のある方向だった。
胸の奥が小さく騒いだ。
けれど、追いかけなかった。
「陽奈、雑巾そっち終わった?」
「あ、ごめん。今やる。」
しゃがみ直す。
雑巾を押す手に、少しだけ力が入った。
◇
放課後、昇降口を出ると、空はまだ明るかった。
昨日まで続いていた雨が嘘のように、運動場では部活動が始まっている。
ボールが地面を打つ音。笛の音。
誰かを呼ぶ声。
湿った土の匂いは残っているが、空気はずいぶん軽くなっていた。
校門の近くに祖母がいた。
昨日と同じような地味な服装で、小さな鞄を持っている。
「お待たせ。」
「今来たところ。」
「ほんと?」
「五分くらい前。」
「それは今来たところって言うのかな。」
「待ち合わせでは誤差の範囲。」
祖母はそう言って歩き出した。
陽奈も並ぶ。
「今日、学校で水の音を聞いた。」
祖母の歩みは変わらなかった。
「どこで?」
「廊下。掃除してるときに二回。」
「周りに水は?」
「なかった。近くにいた子には聞こえてなかったみたい。」
「方向は分かった?」
「二回目だけ。北の方から聞こえた気がする。」
祖母が陽奈を見る。
「昨日の図を見たから、そう思った可能性は?」
「あると思う。」
祖母は肯定も否定もしなかった。
二人は校舎の脇を通り、昨日調べた裏手へ向かった。
倉庫。
楠。
最初に見つけた大きな石。
さらに、その奥。
草に覆われた浅い窪みが見えてくる。
昨日、風もないのに小さな水面へ波紋が広がった場所だった。
今日は水がない。
窪みの底には湿った土が残っているだけだった。
祖母は足を止めず、その脇を通り過ぎた。
陽奈も続く。
ここから先へ来るのは初めてだった。
校舎から離れるにつれて、生徒の声が遠くなる。
敷地の北側にはフェンスがあり、その向こうには住宅と細い道が見える。学校との間には細長い土地が残っていて、草や低木が伸びていた。
「図だと、この辺りから少し東。」
祖母が閉鎖後の図のコピーを開く。
陽奈も手帳を出した。
昨日写した丸印の位置を見る。
「今のフェンスと、昔の道が全然合わないね。」
「そのまま重ねるのは難しいさ。目印になりそうなものを探そう。」
二人は図と現在の景色を見比べながら進んだ。
古い土地の形は、そのまま残ってはいない。
それでも、完全に消えているわけでもなかった。
フェンスの外にある細い道。
不自然に斜めになった敷地の端。
一本だけ古そうな木。
図の線と現在の風景を重ねていくと、少しずつ位置が絞られていく。
「この辺だと思う。」
祖母が止まった。
目の前には、草が生えていた。
それだけだった。
「石、ないね。」
「見えるところにはね。」
祖母は草むらへ入らず、外側からゆっくり見渡した。
陽奈も目を凝らす。
背の高い草。
枯れた枝。
誰かが捨てたらしい古いボール。
フェンスの支柱。
その根元近くで、何かが光った。
「おばあちゃん、あそこ。」
陽奈が指した。
草の間に、灰色のものが見える。
二人は少し位置を変えた。
石だった。
地面から出ているのは上の部分だけで、残りは土と草に隠れている。
昨日の図に描かれた丸が本当にこの石なのかは分からない。
返水にあった石が移されたものなのかも、まだ分からない。
ただ。
陽奈は足元を見た。
ここへ来るまで、土は乾き始めていた。
ところが石の周囲だけ、草の根元が濃く湿っている。
祖母も気づいたらしい。
「近づかないで。」
「うん。」
祖母は鞄から携帯電話を出した。
写真を撮る。
石だけではなく、周囲の草、フェンス、道との位置関係も何枚か撮った。
陽奈は黙って見ていた。
やがて、風が吹いた。
草が一斉に傾く。
その下から、隠れていた石の側面が少しだけ見えた。
陽奈は目を細めた。
「何かある。」
祖母もしゃがみ込む。
石の側面に、浅い窪みがあった。
自然に欠けたものにも見える。
けれど、その周りだけ表面の荒れ方が違っていた。
何かが長いあいだ触れていたような。
あるいは、何かが取り付けられていたような。
祖母は触れずに写真を撮った。
「今日は掘らないよ。」
陽奈が何も言わないうちに言われた。
「分かってる。」
「顔に書いてあったからね。」
「見たいとは思ったけど。」
「それを掘りたいと言うんだよ。」
陽奈は言い返せず、もう一度石を見た。
そのとき。
ぴちゃ。
二人の間から、笑いが消えた。
水面を踏んだような音だった。
石の向こう。
草の中。
何も見えない。
陽奈は動かなかった。
祖母も同じだった。
ぴちゃ。
今度は石のすぐそばから聞こえた。
陽奈は石の根元を見る。
湿った土の上に、細い水の筋が現れていた。
どこかから流れてきたのではない。
石の下から滲み出した水が、ほんの指一本ほどの幅で土の上を進んでいる。
その水は斜面に沿って下らなかった。
わずかに高くなっている方へ、ゆっくりと伸びていく。
「おばあちゃん。」
「見えてる。」
祖母の声が低くなる。
水の筋は数十センチほど進んだところで止まった。
そこで小さく溜まる。
丸い水面ができた。
陽奈は息を詰めた。
波紋が一つ。
内側から外へ広がった。
もう一つ。
そして。
水の向こうで、草が揺れた。
風とは違う。
何かが、その間を通ったように。
陽奈は反射的に一歩出そうとして、止まった。
昨日までなら、何がいるのか確かめたい気持ちの方が勝っていたかもしれない。
今は違った。
ここまで来るのに、二日かかった。
地図を読み、記録を探し、人の話を聞いた。
それでも、まだ分からないことばかりだった。
だから、分からないものを一歩で埋めようとは思わなかった。
「今日は、ここまで?」
陽奈が尋ねた。
祖母は石を見たまま頷いた。
「位置が分かった。それに、水も確認できた。十分だよ。」
「石が返水にあったものかは、まだ分からない。」
「だから、次はそれを確かめる。」
祖母は立ち上がった。
陽奈も手帳を開き、時刻を書いた。
石の位置。
周囲だけ湿っていたこと。
石の下から水が現れたこと。
水が低い方ではなく、わずかに高い方へ伸びたこと。
書き終えて顔を上げる。
水はもう止まっていた。
小さな溜まりだけが残っている。
二人がその場を離れようとしたとき、運動場の方から大きな歓声が聞こえた。
試合形式の練習でもしているのだろう。
誰かが名前を呼び、別の誰かが笑っている。
陽奈は一度だけ振り返った。
草の中に、古い石がある。
その向こうには校舎が見える。
昔、この辺りに水があったことを、あそこで過ごしている生徒たちは知らない。
自分も、つい数日前までは知らなかった。
陽奈は何も言わず、祖母のあとを追った。
石のそばに残った小さな水面が、夕方の光を受けて揺れていた。