学校を出たのは、五時を少し過ぎた頃だった。
西日が校舎の窓に当たり、ところどころ白く光っている。運動場からはまだ声が聞こえていたが、校門を離れるにつれて少しずつ遠くなった。
祖母は歩きながら、一度だけ携帯電話を取り出した。
さっき撮った写真を確認している。
陽奈は隣から画面を覗き込んだ。
「ちゃんと写ってる?」
「位置は分かる。石そのものは、もう少し近くから撮りたかったけどね。」
「近づかなかったもんね。」
「近づく理由がなかったからね。」
祖母は画面を閉じた。
「見つけたからって、すぐ触る必要はないよ。」
「うん。」
陽奈は手帳を鞄へ戻した。
石の周りから現れた水のことが気になっていた。
雨は降っていない。
周囲の土は乾き始めていた。
それなのに、あの場所だけ湿っていた。
しかも水は、低い方ではなく、わずかに高い方へ進んだ。
見間違いではない。
祖母も見ていた。
だからこそ、余計な意味を急いでつける必要はなかった。
二人はそのまま家へ戻った。
◇
玄関を開けると、朝見つけた小石が目に入った。
飛び石の端。
黒い小さな石は、まだ同じ場所にあった。
陽奈は靴を脱ぐ前に庭を見た。
「まだある。」
「あるね。」
祖母もそれ以上は言わなかった。
朝は濡れていた表面が、今は乾いている。
庭の石と比べても、特別変わったところは見えない。
「これも調べる?」
「あとでね。まずは学校の方。」
陽奈は頷いた。
手を洗い、制服から着替える。
台所へ行くと、祖母が冷蔵庫から麦茶を出していた。
陽奈はコップ一杯をほとんど一息で飲んだ。
「もう一杯いる?」
「ほしい。」
「今日は暑かったからね。」
昨日までの雨で忘れていたが、六月も半ばを過ぎている。晴れれば、空気にはもう夏の気配があった。
祖母が二杯目を注ぐ。
陽奈はコップを持ったまま、庭を見た。
「昔の人も、こういう日に返水の水を使ってたのかな。」
「使っていた時期はあったんだろうね。」
「今日みたいに暑い日に?」
「そこまでは分からないよ。」
「そうだよね。」
陽奈は麦茶を飲んだ。
冷たいものが喉を通る。
老婦人が話していた水のことを思い出した。
冷たかった。
子どもが足を入れると怒られた。
大人たちは水を汲み、洗い物にも使っていた。
記録の中では「水場」としか書かれていなかった場所に、昨日初めて温度がついたような気がした。
「行こうか。」
祖母が立ち上がる。
向かったのは、また蔵だった。
◇
昨日広げた資料は、ある程度まとめられていた。
古い地図。
返水を閉じたことが記された記録。
水路工事の書類。
老婦人に見せた写真。
そして、「水場預り」と書かれた冊子。
祖母は学校で撮った写真を机の上へ置いた携帯電話に表示した。
「まず、大きさ。」
写真には、草の中から上部だけを見せる石が写っている。
陽奈は古い写真を隣へ置いた。
写真の奥には、低い石積みのようなものが見える。
そして、その近くに大きめの石があった。
「これと今日の石、同じかな。」
「写真だけでは難しいさね。」
「形も全部見えてないし。」
「今日の方は半分以上埋まってる。」
祖母は写真を拡大した。
石の側面。
あの浅い窪みが写っている。
「こっちは気になる。」
「削れてるところ?」
「うん。」
祖母は立ち上がり、棚から薄い紙束を持ってきた。
昨日見たものとは別の資料だった。
「それ、何?」
「工事の記録に挟まってた図面。昨日は土地の位置ばかり見てたから、細かいところまで確認してない。」
二人で紙を広げる。
現在の設計図ほど精密ではない。水路や道、土地の境が線で描かれ、ところどころに寸法らしい数字が書かれている。
祖母が指で一つずつ追った。
「ここが返水。」
「閉じる前?」
「そう。」
水路が少し広がっている場所がある。
その脇に、小さな丸。
昨日見つけた印だった。
さらに、その横に短い線が引かれている。
陽奈は顔を近づけた。
「これ、何だろう。」
「文字が消えてるね。」
鉛筆だったのか、墨が薄れたのか。
線の先に何か書かれていた痕跡だけが残っている。
「石って書いてあったとか?」
「そう読めたら楽なんだけどね。」
祖母は笑った。
「見えない字を、欲しい字にしてはいけないよ。」
「分かってる。」
「昨日から少し上手になった。」
「まだ二日目だけど。」
「二日目だから言ってるのさ。」
陽奈はもう一度、図へ目を戻した。
丸の位置。
水路。
道。
その三つを閉鎖後の図と比べる。
閉鎖後、水路の線は変わっている。
返水という文字はない。
けれど、少し離れた位置に同じような丸がある。
「やっぱり、動いてるように見える。」
「図だけならね。」
祖母は別の紙を引き寄せた。
水路を閉じた工事について書かれた記録だった。
昨日は「返水を閉ず」という一文を中心に読んだ。
今日はその前後を見る。
土を入れたこと。
流れを別の水路へつないだこと。
道幅を広げたこと。
いくつかの土地について、所有者らしい名前。
工事の日数。
陽奈は一行ずつ追った。
やがて、途中で指が止まった。
「ここ。」
「どこ?」
「これ、読める?」
祖母が顔を寄せた。
短い一文だった。
墨が薄く、一部が紙の染みに重なっている。
祖母はしばらく黙っていた。
「『石一基』までは読めると思う。」
「その後は?」
「『移す』……かな。」
陽奈も目を細める。
確かに、そう見えなくもない。
だが、その後ろが分からない。
「場所は書いてない?」
「この行にはないね。」
二人は続きを読んだ。
次の行には別の作業が書かれている。
その次も。
石についての記述は、それだけだった。
「一基って、石にも使うの?」
「石造物なら使うことはある。でも、この『石』が何を指しているのかまでは、この一行だけじゃ分からない。」
「じゃあ、あの丸と同じものかも分からない。」
「そういうこと。」
それでも、陽奈の胸は少しだけ高鳴った。
閉鎖後の図で位置を変えた丸。
工事記録にある「石一基」と「移す」と読めそうな文字。
今日、図の位置に近い場所で見つけた、半ば埋まった石。
三つが重なり始めている。
「もう少し、この工事の資料を見たい。」
「私もそう思ってた。」
祖母は箱を机へ載せた。
返水の記録だけではない。
道路。
用地。
水路。
工事費。
土地の受け渡し。
陽奈は最初、何を探せばいいのか分からなかった。
けれど、昨日までとは少し違う。
返水という文字だけを追わなくなっていた。
石が動いたなら、その作業は返水とは別の項目に書かれているかもしれない。
道を造る人にとって、返水の歴史は重要ではない。
必要なのは、どこに何を移すかということだけだ。
そう考えて読むと、今まで読み飛ばしていた紙にも目が止まった。
しばらくして、陽奈は一枚の小さな紙を見つけた。
「これ、工事の費用かな。」
祖母が受け取る。
「そうみたいだね。」
土。
木材。
人夫。
運搬。
いくつかの項目が縦に並んでいる。
その中に、
「石移」
と読める文字があった。
金額らしい数字も書かれている。
「これなら、実際に何かの石を動かしたって考えていい?」
「少なくとも、工事の中で石を移す作業があった可能性はかなり高くなったね。」
「今日見つけた石かどうかは、まだ別。」
「そう。」
祖母が頷く。
陽奈は少し笑った。
そして陽奈は紙を元の位置へ戻した。
そのとき、祖母が別の束をめくる手を止めた。
「陽奈。」
「何?」
「これを見て。」
一枚の紙が机に置かれた。
工事そのものの記録ではない。
それより少し後に書かれたらしい、土地についての簡単な覚え書きだった。
筆跡も違う。
陽奈は上から読んだ。
道。
畑。
水路跡。
いくつかの家の名。
そして、途中に見覚えのある姓があった。
老婦人が写真を見ながら教えてくれた、あの女性の姓。
「この人。」
「うん。」
名前まで同じだった。
水場預り。
返水がなくなった後も、そちらへ通っていたという女性。
その名前の横に、短い書き込みがある。
陽奈は読もうとした。
「『石……』」
「『石の手入れ』かな。」
祖母が言った。
文字は古びていたが、今度は比較的はっきりしている。
その後ろに、もう一言。
「『雨後』。」
陽奈が読んだ。
昨日見つけた紙片にもあった言葉だった。
――雨後。
――石。
――戻す。
――水。
胸の奥で、それらが並ぶ。
けれど陽奈は、口に出して一つの答えにはしなかった。
「この人、返水が閉じられた後も、石の手入れをしてたんだ。」
「そう読めるね。」
「それも、雨の後に?」
祖母は覚え書きをもう一度確かめた。
「『石の手入れ、雨後』。文章じゃないから、雨の後に手入れしたという意味なのか、別々の覚え書きなのかは分からない。」
「でも、昨日の紙にも雨後ってあった。」
「そうだね。」
祖母の声が少し変わった。
否定するためではない。
今まで離れていたものが、同じ場所へ寄り始めたときの声だった。
陽奈は老婦人の話を思い返した。
返水がなくなった後も、女性は「あっちの方へ行っていた」。
その行き先が、返水の跡ではなかったとしたら。
移された石だったとしたら。
「おばあさんが見てたの、この人が石のところへ行く姿だったのかな。」
「可能性はあるね。」
「石の手入れをするために。」
「それも、今なら考えられる。」
祖母はそこで紙を机へ置いた。
「でも、それだけだったと思う?」
陽奈はすぐには答えなかった。
石を掃除する。
苔を落とす。
周囲の草を刈る。
それなら「手入れ」という言葉で十分だったはずだ。
けれど、同じところに「雨後」とある。
そして別の紙には「戻す」と「水」。
「何か、ほかにもしてたのかもしれない。」
「私も、それが気になってる。」
祖母は写真を手に取った。
返水がまだあった頃の写真。
子どもの頃の老婦人。
水場預りだった女性。
その後ろにある石。
「この人が何をしていたのか、もう少し聞いてみたいね。」
「昨日のおばあさんに?」
「覚えているかどうかは分からないけどね。」
陽奈は写真を見た。
昨日は、水場で撮られた昔の写真にしか見えなかった。
今は、その中の一人だけが少し違って見える。
けれど、それも自分が事情を知ったからだ。
写真の女性が特別な表情をしているわけではない。
ただ、そこに立っている。
「昨日、雨が降った後に大人が返水へ行ってたって話してたよね。」
「うん。」
「子どもは連れていってもらえなかった。」
陽奈は写真の端を見つめた。
「本人が何をしてたか見てなくても、その前とか後なら覚えてることがあるかもしれない。」
祖母は頷いた。
「じゃあ、明日もう一度電話してみよう。」
「今日じゃなくていいの?」
「昨日長いこと話してもらったからね。急ぎすぎなくていいよ。」
陽奈は時計を見た。
六時を過ぎている。
「そっか。」
「それに、聞くことを考えてからの方がいい。」
祖母は資料を整理し始めた。
陽奈も手伝う。
覚え書きは別にして、写真と一緒に置いた。
工事記録も元の順番へ戻す。
最後に閉鎖後の図を畳もうとして、陽奈はもう一度、丸印を見た。
返水は消えている。
水路も形を変えている。
けれど、丸だけが別の場所に残っている。
もし、それが本当に石だったなら。
人々は返水を閉じたとき、全部をなくしたわけではなかったことになる。
「おばあちゃん。」
「うん?」
「なんで石は残したんだろう。」
祖母の手が止まった。
しばらく図を見ていた。
「残したかった人がいたのかもしれないね。」
「水場預りの人?」
「それはまだ分からないさ。」
祖母は図を畳んだ。
「工事の邪魔にならない場所へ動かしただけかもしれない。捨てるより運ぶ方が都合がよかったのかもしれない。理由はいくつも考えられるよ。」
「うん。」
「でも。」
祖母は机の上の覚え書きを見た。
「移した後も、その石のところへ通った人がいたらしい。それは、工事の都合だけでは説明できないね。」
陽奈もその紙を見る。
石の手入れ。
雨後。
たったそれだけの文字だった。
何をしたのか。
なぜしたのか。
書いた人には説明する必要がなかったのだろう。
その意味を知っている人が、まだ周りにいたから。
陽奈は、昨日聞いた老婦人の声を思い出しかけた。
場所がなくなると――。
そこまで浮かんで、消えた。
今はまだ、その言葉を考えるときではないような気がした。
◇
夕食の前に、陽奈は縁側へ出た。
庭の小石を見るためだった。
朝と同じ飛び石の上。
黒い石は、そこにある。
陽奈は縁側から眺めた。
学校で見つけた石とは、色も大きさも違う。
あちらは両手でも抱えられそうにない。
こちらは手のひらにも収まる。
関係があるとは限らない。
それでも、朝から気になっていた。
「触らないなら、近くで見てもいいよ。」
後ろから祖母の声がした。
「いいの?」
「一日何も起きてないからね。ただし、石そのものには触らないように。」
陽奈は靴を履き、庭へ下りた。
しゃがみ込む。
近くで見ても、やはり普通の小石に見えた。
黒というより、濃い灰色。
表面には白い筋が一本入っている。
角は丸い。
川原にあっても気に留めないだろう。
「これ、庭にある石と種類が違う?」
「どうだろうね。私は石には詳しくないから。」
「おばあちゃんでも分からないこと、多いね。」
「今頃気づいたの?」
陽奈は笑った。
そして立ち上がろうとして、ふと止まる。
小石が載っている飛び石。
その表面に、細い線が見えた。
水だった。
小石の下から、一筋だけ。
「おばあちゃん。」
祖母もすぐに気づいた。
二人とも近づかない。
水はゆっくりと飛び石の表面を進んだ。
数センチ。
十センチ。
そして、縁まで来たところで止まった。
落ちない。
丸い雫になって、石の端に留まっている。
陽奈は息を潜めた。
雫の表面が震えた。
声はしなかった。
代わりに。
ぴちゃ。
学校で聞いたのと同じ音が、庭のどこかで響いた。
祖母が小さく息を吐いた。
「明日、お話を聞く前に、一つ調べよう。」
「何を?」
祖母は飛び石の上の小石を見ていた。
「この石が、どこから来たものなのか。」
陽奈も視線を戻した。
小さな石。
移された大きな石。
雨の後。
水。
まだ、どれも一本にはつながっていない。
けれど、昨日まで遠くにあったものが、少しずつ自分たちのいる場所へ近づいてきている。
陽奈には、そんな気がした。
◇
翌朝、飛び石の上に小石はなかった。
陽奈は縁側に立ったまま、しばらく庭を見ていた。
昨夜、確かにそこにあった。
濃い灰色の、小さな石。
表面に白い筋が一本入っていた。
その下から水が伸び、飛び石の縁まで来て、落ちずに留まった。
祖母も見ている。
写真も撮った。
だから、見間違いではない。
けれど、今朝はない。
飛び石の表面も乾いていた。
「落ちたかな。」
後ろから祖母が言った。
二人で庭へ下りた。
飛び石の周り。
植え込みの下。
砂利の間。
昨夜の石は見つからなかった。
「猫が持っていったとか。」
「持ってくるより難しそうだね。」
「じゃあ鳥?」
「気に入ったのかもしれない。」
祖母が植え込みの枝を持ち上げる。
「白い筋の入った石が好きな鳥。」
「いるの?」
「知らないさ。」
陽奈は思わず笑った。
祖母も枝から手を離した。
「見つからないものは仕方ないね。」
「昨日の写真は残ってるよね。」
「残ってる。」
「じゃあ、それでいいか。」
陽奈はもう一度だけ庭を見た。
気にはなる。
けれど、小石を探すために学校を休むわけにもいかない。
朝食を済ませ、制服に着替えた。
家を出る前、祖母が声をかけた。
「今日、学校が終わったら昨日のお宅へ行こうと思う。」
「電話したの?」
「朝一番は早いから、もう少ししてからね。都合が悪ければ別の日にする。」
「分かった。」
「それと、昨日見つけた石のことは、最初から細かく話さない方がいいね。」
陽奈は靴を履きながら振り返った。
「こっちから答えを作らないため?」
「そう。『石が移されたんですよね』って聞けば、そうだったような気がしてくることもあるから。」
「じゃあ、昨日の続きから聞く?」
「そのつもり。」
陽奈は頷いた。
玄関を出る。
今日は昨日より雲が多かった。
それでも雨の気配はなく、道路はすっかり乾いている。
◇
学校では、何も起こらなかった。
少なくとも、午前中は。
一時間目も、二時間目も、水の音は聞こえなかった。
昨日の掃除時間のことがあったから、陽奈は廊下を歩くたびに少し耳を澄ませてしまったが、聞こえるのは上履きの音や、教室から漏れてくる先生の声ばかりだった。
昼休み。
友人と机を寄せて弁当を食べていると、窓際にいた生徒が外を見た。
「今日、降るんかな。」
「降水確率低かったよ。」
「でも空暗くない?」
「昨日まで降ってたから、もういい。」
「洗濯物?」
「部活。外使えんと走らされる。」
それを聞いて何人かが笑った。
陽奈も笑いながら窓を見る。
薄い雲が空を覆っている。
雨を待っていた人たちのことを思った。
今なら、雨が降るかどうかは携帯電話を見ればある程度分かる。
雨雲の位置まで分かる。
明日降るのか、何時頃から降るのか。
それでも予報が外れれば困ることはある。
昔、田畑の水を空に頼っていた人たちにとっては、もっと切実だったのだろう。
「陽奈、卵焼きいらん?」
「なんで?」
「今日甘いやつだった。」
「甘いの嫌いだったっけ。」
「今日はしょっぱい気分。」
「そんな気分ある?」
「ある。」
差し出された卵焼きを受け取る。
雨のことは、そこでいったん頭から離れた。
午後も、授業は普通に終わった。
放課後、陽奈が昇降口へ向かっていると、後ろから同じクラスの生徒が追いついてきた。
「九重さん。」
「どうしたの?」
「昨日さ、掃除のとき何か聞こえたって言ってたやん。」
陽奈は足を少し緩めた。
「うん。水が落ちたみたいな音。」
「私、今日聞いたかも。」
「どこで?」
「北階段のところ。なんか、靴が濡れた床に当たるみたいな音がして。」
生徒は自分で言ってから、少し首を傾げた。
「でも誰か手洗っただけかもしれん。見に行ったら何もなかったし。」
「何時くらいだった?」
「六時間目の前。移動教室から戻るとき。」
「そのとき、ほかに誰かいた?」
「いたけど、みんな普通に歩いてたよ。私も気のせいかなと思って、そのまま教室戻った。」
「そっか。」
「昨日、九重さんも聞いたって言ってたから思い出しただけ。」
「教えてくれてありがとう。」
「うん。じゃ、また明日。」
生徒は昇降口を出ていった。
陽奈はその背中を見送った。
昨日までは、自分だけだった。
もっと前には、同じような話をする生徒もいた。
水の音。
濡れた足跡。
誰もいない場所。
いったん収まりかけたように見えていたものが、また学校の中へ広がり始めている。
陽奈は鞄を持ち直した。
◇
老婦人の家を訪ねたのは、四時を少し回った頃だった。
祖母は校門の外で待っていた。
途中で、今聞いたばかりの話を伝えた。
「北階段か。」
「うん。」
「昨日の石に近い側だね。」
「私もそう思った。でも、その子は濡れてるところを見たわけじゃない。」
「それでも、聞いた人が増えたことは覚えておこう。」
老婦人の家に着く。
昨日と同じ低い生け垣。
玄関先には、小さな鉢植えがいくつか並んでいる。
呼び鈴を押すと、少しして戸が開いた。
「あら、来たのね。」
「昨日は長いことお邪魔して、すみませんでした。」
祖母が頭を下げる。
「いいわよ。暇してるもの。」
老婦人は陽奈を見る。
「学校は行ったの?」
「今日はちゃんと行きました。」
「昨日休んで、おばあさんと昔のこと調べてたんでしょ。」
「はい。」
「変わった高校生やねえ。」
笑いながら中へ招かれた。
昨日と同じ部屋だった。
窓辺の風鈴が、今日は鳴っていない。
麦茶が出てくる。
「昨日の話で、まだ分からないところがあったの?」
「はい。昨日見せていただいた写真のことで、もう少し伺いたくて。」
祖母は写真を机へ置いた。
老婦人は眼鏡をかける。
「これね。」
「昨日、この方が返水が使われなくなった後も、そちらの方へ行っていたとおっしゃっていましたよね。」
老婦人は写真を見る。
「言いましたね。」
「どんなときに行っていたか、覚えていらっしゃいますか。」
「どんなときねえ。」
老婦人は腕を組んだ。
すぐには答えなかった。
陽奈も待った。
時計の秒針が進む音がする。
「しょっちゅう行っていたわけじゃなかった気がするわ。」
「そうなんですね。」
「私も子どもやったしねえ。人がどこ行っているかなんて、いちいち見てなかったもの。」
老婦人は笑った。
「遊ぶ方が忙しかったの。」
陽奈も笑った。
「どんな遊びをしてたんですか。」
「何でもしてたわ。缶蹴りもしたし、ゴム跳びもしたし。夏は返水の方にも行って。怒られるけどね。」
「足を入れたら怒られたって、昨日話してくれましたよね。」
「そうそう。子どもは汚いって。」
「汚いって言われてたんですか。」
「外で遊んでいるから、足なんか泥だらけやろ。洗う水に入るなって。今考えたら当たり前だわ。」
老婦人は麦茶を一口飲んだ。
話は一度、返水から離れた。
夏休み。
虫取り。
夕方まで遊んで怒られたこと。
川へ行こうとして止められたこと。
祖母は急かさなかった。
陽奈も、聞きたいことへ無理に戻そうとはしなかった。
やがて老婦人が、自分から写真へ目を戻した。
「この人はね、雨が降ったらよく外に出てたわ。」
陽奈は顔を上げた。
祖母は何も言わない。
「雨の日に、ですか。」
「雨が降っている最中じゃないわ。上がってから。」
老婦人は写真の女性を指した。
「雨が上がった次の日とかね。道がまだ濡れとるときに。」
陽奈は昨日見つけた覚え書きを思い出した。
雨後。
「何をしに行っていたか、聞いたことはありますか。」
「そこまでは知らんねえ。」
老婦人は首を振った。
「箒みたいなん持っとったことはあるかな。あと、桶。」
「桶?」
「木の桶だったと思うわ。いや、金物だったかな。」
眉間に皺を寄せる。
「そこは当てにせんでね。昔のことだから。」
「大丈夫です。」
陽奈は答えた。
「桶に何か入っていたかは覚えていますか。」
「水。」
返事は早かった。
陽奈は一瞬、祖母を見そうになって、やめた。
老婦人は写真を見たまま続ける。
「水が入っとったのは覚えてるわ。重そうに持ってたから。」
「どこから持ってきた水だったんでしょう。」
「それはわからないわ。」
老婦人は困ったように笑った。
「家からかもしれないし、どっかで汲んだのかもしれない。」
陽奈は頷いた。
そこを埋めてはいけない。
「その水をどうしていたかは、見たことありますか。」
「ないねえ。」
老婦人は少し考えた。
「子どもはついて行ったらダメだったから。」
「返水がなくなった後も?」
「そうだったと思うわ。」
「その頃は、どこへ行っていたんですか。」
老婦人の指が止まった。
「どこって……あっちよ。」
窓の外を指す。
学校のある方角だった。
「返水があったところですか。」
祖母ではなく、陽奈が尋ねた。
老婦人はしばらく考えた。
「いや。」
小さく首を傾げる。
「なくなった後でしょ?」
「はい。」
「なら、返水のところじゃないわね。」
陽奈の背筋が伸びた。
老婦人はまだ考えている。
「道が変わってね。水もなくなったし。あの人が行きよったのは……もうちょっと向こうだったと思う。」
昨日まで曖昧だった「あっち」が、初めて返水跡から離れた。
祖母が閉鎖後の図を出した。
「今の場所で言うと、どの辺りだったか分かりますか。」
「今は学校になってるからねぇ。」
老婦人は図を覗き込む。
すぐには指を置かない。
道を探し、昔あった家を探し、しばらく図の上を行き来する。
「この道がこれなら……こっちかな。」
指が止まった。
陽奈は息を呑んだ。
昨日、石を見つけた場所と近かった。
完全に同じとは言えない。
けれど、返水跡ではない。
「そこに何があったか、覚えていますか。」
「何がって……。」
老婦人は目を閉じた。
「水はなかった。」
ゆっくりと言う。
「石は?」
陽奈は尋ねてから、少し早かったかと思った。
老婦人は目を開けた。
「石。」
その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「大きな石が移されていた、という記憶はありますか。」
今度は祖母が補った。
「大きい……。」
老婦人は写真を見る。
返水の奥に写る石。
「ああ。」
声が変わった。
「あったかもしれないわ。」
陽奈は黙って待った。
「あの石、なくならなかったんだわ。」
老婦人は自分に言い聞かせるように呟いた。
「水場を埋めるとき、邪魔になるから捨てるのかと思ってた。でも、父が何かを言っていたわ。」
「どんなことですか。」
「何だったかなあ。」
老婦人は額へ手を当てた。
「石まで捨てたらいかん、とか……いや、違うわね。」
しばらく沈黙した。
陽奈は待った。
やがて老婦人が手を下ろす。
「『あれまでなくすことはない』だったかな。」
陽奈の中に、その言葉が残った。
返水はなくなる。
水路も変わる。
それでも、石までなくすことはない。
「誰が石を移したかは覚えていますか。」
「工事の人だろうね。そこまでは覚えてないわ。」
「移した理由も?」
「知らないわ。」
老婦人はあっさり答えた。
「大人は子どもに、いちいち説明をしなかったからね。」
昨日と同じだった。
大切だったはずのことほど、説明されていない。
知っている者同士では、言葉にする必要がなかったのかもしれない。
祖母が写真の女性を指した。
「この方が、移した後の石へ行っていた可能性はありそうですか。」
「そうかもしれないねえ。」
老婦人はしばらく女性の顔を見ていた。
「水を持って?」
陽奈が尋ねた。
「そうだね。」
老婦人は頷きかけて、途中で止まった。
「いや、毎回かはわからないわ。」
「はい。」
「私が覚えてるのは、一回か二回かも。何度も見たような気がするけど、昔の記憶だから……。」
「一回でも、覚えている場面があれば聞きたいです。」
陽奈がそう言うと、老婦人は少し笑った。
「上手に聞くね。」
「昨日、おばあちゃんに教えてもらいました。」
「怖い先生がいるわね。」
「聞こえてますよ。」
祖母が言う。
三人で少し笑った。
その笑いが収まってから、老婦人は麦茶のコップへ手を伸ばした。
「そういえば。」
手が途中で止まる。
「うちの父も、水を持って行ったことがあったわ。」
陽奈は顔を上げた。
「お父さまも?」
「一回だけ覚えてる。」
老婦人は遠くを見るような目をした。
「雨がずっと降らない年があったって、昨日話したでしょう。」
「はい。」
「やっと降った日の次の日だったかな。」
老婦人の声がゆっくりになる。
「朝から親父が何かしていてね。私もついて行くって言ったの。でも駄目って言われたわ。」
「そのとき、お水を?」
「うん。たしか持ってたわ。」
老婦人は頷いた。
「家の井戸の水だったと思う。」
「返水の水じゃなくて?」
「その頃、返水がまだあったかどうか……。」
老婦人は考える。
「いや、あった頃だね。私がまだ小さかったから。」
陽奈は祖母を見る。
祖母もこちらを見た。
返水がある時代にも。
雨が降った後に。
返水とは別のところから水を持っていった。
「お父さまは、何か言っていましたか。」
祖母が静かに尋ねた。
「何かねえ。」
老婦人は目を閉じた。
長い沈黙だった。
外を車が一台通った。
風鈴が、ようやく一度鳴った。
「もらったもんを、そのままにしとったらいかん。」
老婦人が言った。
陽奈は動かなかった。
「そんなことを言っていた気がする。」
「もらったもの、ですか。」
「何を指していたのかは、わからないけどね。」
老婦人はすぐに付け加えた。
「雨かもしれんし、水かもしれん。子どもの私には分からなかったわ。」
「そのあと、お父さまは返水へ?」
「たぶんね。」
老婦人は苦笑した。
祖母が頷いた。
「十分です。ありがとうございます。」
「こんなんで役に立つの?」
「はい。」
陽奈が答えた。
「すごく、役に立ちました。ありがとうございます。」
老婦人は照れたように麦茶を飲んだ。
◇
帰り道。
陽奈と祖母は、しばらく返水の話をしなかった。
夕方の道を、自転車に乗った小学生が追い越していく。
どこかの家から夕飯の匂いがする。
交差点で信号を待っていると、陽奈がようやく口を開いた。
「雨が降った後に水を持っていくっていうのは、返水があった頃からなんだよね。それが、水場がなくなってからも続いてたのなら……。」
祖母はすぐには答えず、信号が変わるのを待ちながら、
「そこまでは見えてきたね。」
信号が青になる。
二人は歩き出した。
「だったら、『戻す』って……。」
そこまで言って、陽奈は止めた。
祖母は先を促さなかった。
「まだ分からない。」
陽奈は自分で言った。
「水を戻してたのかもしれないし、全然違うことかもしれない。」
「うん。」
「でも、雨が降ったら終わりではなかった。」
祖母が陽奈を見る。
陽奈は前を向いたまま続けた。
「雨を待って、降ったら喜んで。それで終わりじゃなくて、その後にも何かしてた。」
「そこは、今までより少し見えてきたね。」
陽奈は老婦人の父親の言葉を思い出した。
もらったものを、そのままにしてはいけない。
それが何を意味していたのかは、もう本人には聞けない。
雨だったのか。
水だったのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
家に着く頃には、雲の隙間から西日が差していた。
玄関を開ける。
陽奈は靴を脱ぐ前に、庭を見た。
小石は戻っていなかった。
飛び石だけが、夕方の光を受けている。
「おばあちゃん。」
「何?」
「昨日の紙、もう一回見たい。」
「雨後、石、戻す、水?」
「うん。」
陽奈は頷いた。
「今度は、言葉を一つずつじゃなくて、その紙が何のために書かれたものなのかも考えてみたい。」
祖母は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、ご飯の前に三十分だけね。」
「三十分?」
「放っておいたら、夕飯忘れるでしょ。」
「忘れないよ。」
「昨日は素麺が伸びるところだった。」
「あれは資料が途中だったから。」
「そういうのを忘れるって言うんだよ。」
祖母が家へ上がる。
陽奈も靴を脱いだ。
廊下を歩きながら、ふと老婦人の言葉が重なった。
場所がなくなると、話もせんようになる。
そして今日聞いた、もう一つの言葉。
もらったものを、そのままにしてはいけない。
どちらも、きちんとした記録には残っていなかった。
誰かが何気なく口にした言葉を、子どもが覚えていただけだった。
陽奈は蔵へ向かう祖母の背中を追った。
今度は、その言葉が消えてしまう前に。