九重の境   作:モレ(一般人?)

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祈り【弐】

 学校を出たのは、五時を少し過ぎた頃だった。

 

 西日が校舎の窓に当たり、ところどころ白く光っている。運動場からはまだ声が聞こえていたが、校門を離れるにつれて少しずつ遠くなった。

 祖母は歩きながら、一度だけ携帯電話を取り出した。

 

 さっき撮った写真を確認している。

 陽奈は隣から画面を覗き込んだ。

「ちゃんと写ってる?」

「位置は分かる。石そのものは、もう少し近くから撮りたかったけどね。」

「近づかなかったもんね。」

「近づく理由がなかったからね。」

 祖母は画面を閉じた。

 

「見つけたからって、すぐ触る必要はないよ。」

「うん。」

 陽奈は手帳を鞄へ戻した。

 石の周りから現れた水のことが気になっていた。

 雨は降っていない。

 周囲の土は乾き始めていた。

 それなのに、あの場所だけ湿っていた。

 しかも水は、低い方ではなく、わずかに高い方へ進んだ。

 見間違いではない。

 祖母も見ていた。

 だからこそ、余計な意味を急いでつける必要はなかった。

 二人はそのまま家へ戻った。

     

 

 

 

 玄関を開けると、朝見つけた小石が目に入った。

 飛び石の端。

 黒い小さな石は、まだ同じ場所にあった。

 陽奈は靴を脱ぐ前に庭を見た。

「まだある。」

「あるね。」

 祖母もそれ以上は言わなかった。

 朝は濡れていた表面が、今は乾いている。

 庭の石と比べても、特別変わったところは見えない。

 

「これも調べる?」

「あとでね。まずは学校の方。」

 陽奈は頷いた。

 手を洗い、制服から着替える。

 台所へ行くと、祖母が冷蔵庫から麦茶を出していた。

 陽奈はコップ一杯をほとんど一息で飲んだ。

「もう一杯いる?」

「ほしい。」

「今日は暑かったからね。」

 昨日までの雨で忘れていたが、六月も半ばを過ぎている。晴れれば、空気にはもう夏の気配があった。

 祖母が二杯目を注ぐ。

 陽奈はコップを持ったまま、庭を見た。

 

「昔の人も、こういう日に返水の水を使ってたのかな。」

「使っていた時期はあったんだろうね。」

「今日みたいに暑い日に?」

「そこまでは分からないよ。」

「そうだよね。」

 陽奈は麦茶を飲んだ。

 

 冷たいものが喉を通る。

 老婦人が話していた水のことを思い出した。

 冷たかった。

 子どもが足を入れると怒られた。

 大人たちは水を汲み、洗い物にも使っていた。

 記録の中では「水場」としか書かれていなかった場所に、昨日初めて温度がついたような気がした。

「行こうか。」

 祖母が立ち上がる。

 向かったのは、また蔵だった。

 

 

 

 

 昨日広げた資料は、ある程度まとめられていた。

 古い地図。

 返水を閉じたことが記された記録。

 水路工事の書類。

 老婦人に見せた写真。

 そして、「水場預り」と書かれた冊子。

 祖母は学校で撮った写真を机の上へ置いた携帯電話に表示した。

 

「まず、大きさ。」

 写真には、草の中から上部だけを見せる石が写っている。

 陽奈は古い写真を隣へ置いた。

 写真の奥には、低い石積みのようなものが見える。

 そして、その近くに大きめの石があった。

「これと今日の石、同じかな。」

「写真だけでは難しいさね。」

「形も全部見えてないし。」

「今日の方は半分以上埋まってる。」

 祖母は写真を拡大した。

 

 石の側面。

 あの浅い窪みが写っている。

「こっちは気になる。」

「削れてるところ?」

「うん。」

 祖母は立ち上がり、棚から薄い紙束を持ってきた。

 昨日見たものとは別の資料だった。

 

「それ、何?」

「工事の記録に挟まってた図面。昨日は土地の位置ばかり見てたから、細かいところまで確認してない。」

 二人で紙を広げる。

 現在の設計図ほど精密ではない。水路や道、土地の境が線で描かれ、ところどころに寸法らしい数字が書かれている。

 

 祖母が指で一つずつ追った。

「ここが返水。」

「閉じる前?」

「そう。」

 水路が少し広がっている場所がある。

 その脇に、小さな丸。

 昨日見つけた印だった。

 さらに、その横に短い線が引かれている。

 陽奈は顔を近づけた。

「これ、何だろう。」

「文字が消えてるね。」

 鉛筆だったのか、墨が薄れたのか。

 線の先に何か書かれていた痕跡だけが残っている。

 

「石って書いてあったとか?」

「そう読めたら楽なんだけどね。」

 祖母は笑った。

「見えない字を、欲しい字にしてはいけないよ。」

「分かってる。」

「昨日から少し上手になった。」

「まだ二日目だけど。」

「二日目だから言ってるのさ。」

 陽奈はもう一度、図へ目を戻した。

 

 丸の位置。

 水路。

 道。

 その三つを閉鎖後の図と比べる。

 閉鎖後、水路の線は変わっている。

 返水という文字はない。

 けれど、少し離れた位置に同じような丸がある。

 

「やっぱり、動いてるように見える。」

「図だけならね。」

 祖母は別の紙を引き寄せた。

 水路を閉じた工事について書かれた記録だった。

 昨日は「返水を閉ず」という一文を中心に読んだ。

 今日はその前後を見る。

 

 土を入れたこと。

 流れを別の水路へつないだこと。

 道幅を広げたこと。

 いくつかの土地について、所有者らしい名前。

 工事の日数。

 陽奈は一行ずつ追った。

 やがて、途中で指が止まった。

 

「ここ。」

「どこ?」

「これ、読める?」

 祖母が顔を寄せた。

 短い一文だった。

 墨が薄く、一部が紙の染みに重なっている。

 祖母はしばらく黙っていた。

 

「『石一基』までは読めると思う。」

「その後は?」

「『移す』……かな。」

 陽奈も目を細める。

 確かに、そう見えなくもない。

 だが、その後ろが分からない。

 

「場所は書いてない?」

「この行にはないね。」

 二人は続きを読んだ。

 次の行には別の作業が書かれている。

 その次も。

 石についての記述は、それだけだった。

「一基って、石にも使うの?」

「石造物なら使うことはある。でも、この『石』が何を指しているのかまでは、この一行だけじゃ分からない。」

「じゃあ、あの丸と同じものかも分からない。」

「そういうこと。」

 

 それでも、陽奈の胸は少しだけ高鳴った。

 閉鎖後の図で位置を変えた丸。

 工事記録にある「石一基」と「移す」と読めそうな文字。

 今日、図の位置に近い場所で見つけた、半ば埋まった石。

 三つが重なり始めている。

「もう少し、この工事の資料を見たい。」

「私もそう思ってた。」

 祖母は箱を机へ載せた。

 返水の記録だけではない。

 

 道路。

 用地。

 水路。

 工事費。

 土地の受け渡し。

 陽奈は最初、何を探せばいいのか分からなかった。

 けれど、昨日までとは少し違う。

 返水という文字だけを追わなくなっていた。

 石が動いたなら、その作業は返水とは別の項目に書かれているかもしれない。

 道を造る人にとって、返水の歴史は重要ではない。

 必要なのは、どこに何を移すかということだけだ。

 そう考えて読むと、今まで読み飛ばしていた紙にも目が止まった。

 しばらくして、陽奈は一枚の小さな紙を見つけた。

 

「これ、工事の費用かな。」

 祖母が受け取る。

「そうみたいだね。」

 

 土。

 木材。

 人夫。

 運搬。

 いくつかの項目が縦に並んでいる。

 その中に、

「石移」

 と読める文字があった。

 金額らしい数字も書かれている。

 

「これなら、実際に何かの石を動かしたって考えていい?」

「少なくとも、工事の中で石を移す作業があった可能性はかなり高くなったね。」

「今日見つけた石かどうかは、まだ別。」

「そう。」

 祖母が頷く。

 陽奈は少し笑った。

 

 そして陽奈は紙を元の位置へ戻した。

 そのとき、祖母が別の束をめくる手を止めた。

「陽奈。」

「何?」

「これを見て。」

 一枚の紙が机に置かれた。

 工事そのものの記録ではない。

 それより少し後に書かれたらしい、土地についての簡単な覚え書きだった。

 

 筆跡も違う。

 陽奈は上から読んだ。

 道。

 畑。

 水路跡。

 いくつかの家の名。

 そして、途中に見覚えのある姓があった。

 老婦人が写真を見ながら教えてくれた、あの女性の姓。

 

「この人。」

「うん。」

 名前まで同じだった。

 水場預り。

 返水がなくなった後も、そちらへ通っていたという女性。

 その名前の横に、短い書き込みがある。

 陽奈は読もうとした。

「『石……』」

「『石の手入れ』かな。」

 祖母が言った。

 文字は古びていたが、今度は比較的はっきりしている。

 その後ろに、もう一言。

 

「『雨後』。」

 陽奈が読んだ。

 昨日見つけた紙片にもあった言葉だった。

 

 ――雨後。

 ――石。

 ――戻す。

 ――水。

 

 胸の奥で、それらが並ぶ。

 けれど陽奈は、口に出して一つの答えにはしなかった。

「この人、返水が閉じられた後も、石の手入れをしてたんだ。」

「そう読めるね。」

「それも、雨の後に?」

 祖母は覚え書きをもう一度確かめた。

「『石の手入れ、雨後』。文章じゃないから、雨の後に手入れしたという意味なのか、別々の覚え書きなのかは分からない。」

「でも、昨日の紙にも雨後ってあった。」

「そうだね。」

 祖母の声が少し変わった。

 否定するためではない。

 今まで離れていたものが、同じ場所へ寄り始めたときの声だった。

 

 陽奈は老婦人の話を思い返した。

 返水がなくなった後も、女性は「あっちの方へ行っていた」。

 その行き先が、返水の跡ではなかったとしたら。

 移された石だったとしたら。

「おばあさんが見てたの、この人が石のところへ行く姿だったのかな。」

「可能性はあるね。」

「石の手入れをするために。」

「それも、今なら考えられる。」

 祖母はそこで紙を机へ置いた。

 

「でも、それだけだったと思う?」

 陽奈はすぐには答えなかった。

 石を掃除する。

 苔を落とす。

 周囲の草を刈る。

 それなら「手入れ」という言葉で十分だったはずだ。

 けれど、同じところに「雨後」とある。

 そして別の紙には「戻す」と「水」。

「何か、ほかにもしてたのかもしれない。」

「私も、それが気になってる。」

 祖母は写真を手に取った。

 

 返水がまだあった頃の写真。

 子どもの頃の老婦人。

 水場預りだった女性。

 その後ろにある石。

「この人が何をしていたのか、もう少し聞いてみたいね。」

「昨日のおばあさんに?」

「覚えているかどうかは分からないけどね。」

 陽奈は写真を見た。

 昨日は、水場で撮られた昔の写真にしか見えなかった。

 今は、その中の一人だけが少し違って見える。

 けれど、それも自分が事情を知ったからだ。

 写真の女性が特別な表情をしているわけではない。

 ただ、そこに立っている。

 

「昨日、雨が降った後に大人が返水へ行ってたって話してたよね。」

「うん。」

「子どもは連れていってもらえなかった。」

 陽奈は写真の端を見つめた。

 

「本人が何をしてたか見てなくても、その前とか後なら覚えてることがあるかもしれない。」

 祖母は頷いた。

「じゃあ、明日もう一度電話してみよう。」

「今日じゃなくていいの?」

「昨日長いこと話してもらったからね。急ぎすぎなくていいよ。」

 陽奈は時計を見た。

 六時を過ぎている。

 

「そっか。」

「それに、聞くことを考えてからの方がいい。」

 祖母は資料を整理し始めた。

 陽奈も手伝う。

 覚え書きは別にして、写真と一緒に置いた。

 

 工事記録も元の順番へ戻す。

 最後に閉鎖後の図を畳もうとして、陽奈はもう一度、丸印を見た。

 返水は消えている。

 水路も形を変えている。

 けれど、丸だけが別の場所に残っている。

 もし、それが本当に石だったなら。

 人々は返水を閉じたとき、全部をなくしたわけではなかったことになる。

「おばあちゃん。」

「うん?」

「なんで石は残したんだろう。」

 祖母の手が止まった。

 しばらく図を見ていた。

「残したかった人がいたのかもしれないね。」

「水場預りの人?」

「それはまだ分からないさ。」

 祖母は図を畳んだ。

 

「工事の邪魔にならない場所へ動かしただけかもしれない。捨てるより運ぶ方が都合がよかったのかもしれない。理由はいくつも考えられるよ。」

「うん。」

「でも。」

 祖母は机の上の覚え書きを見た。

「移した後も、その石のところへ通った人がいたらしい。それは、工事の都合だけでは説明できないね。」

 陽奈もその紙を見る。

 

 石の手入れ。

 雨後。

 たったそれだけの文字だった。

 何をしたのか。

 なぜしたのか。

 書いた人には説明する必要がなかったのだろう。

 その意味を知っている人が、まだ周りにいたから。

 陽奈は、昨日聞いた老婦人の声を思い出しかけた。

 場所がなくなると――。

 そこまで浮かんで、消えた。

 今はまだ、その言葉を考えるときではないような気がした。

 

 

 

 

 夕食の前に、陽奈は縁側へ出た。

 庭の小石を見るためだった。

 朝と同じ飛び石の上。

 黒い石は、そこにある。

 陽奈は縁側から眺めた。

 

 学校で見つけた石とは、色も大きさも違う。

 あちらは両手でも抱えられそうにない。

 こちらは手のひらにも収まる。

 関係があるとは限らない。

 それでも、朝から気になっていた。

 

「触らないなら、近くで見てもいいよ。」

 後ろから祖母の声がした。

「いいの?」

「一日何も起きてないからね。ただし、石そのものには触らないように。」

 陽奈は靴を履き、庭へ下りた。

 

 しゃがみ込む。

 近くで見ても、やはり普通の小石に見えた。

 黒というより、濃い灰色。

 表面には白い筋が一本入っている。

 角は丸い。

 川原にあっても気に留めないだろう。

 

「これ、庭にある石と種類が違う?」

「どうだろうね。私は石には詳しくないから。」

「おばあちゃんでも分からないこと、多いね。」

「今頃気づいたの?」

 陽奈は笑った。

 

 そして立ち上がろうとして、ふと止まる。

 小石が載っている飛び石。

 その表面に、細い線が見えた。

 水だった。

 小石の下から、一筋だけ。

 

「おばあちゃん。」

 祖母もすぐに気づいた。

 二人とも近づかない。

 水はゆっくりと飛び石の表面を進んだ。

 数センチ。

 十センチ。

 そして、縁まで来たところで止まった。

 

 落ちない。

 丸い雫になって、石の端に留まっている。

 陽奈は息を潜めた。

 雫の表面が震えた。

 声はしなかった。

 代わりに。

 

 ぴちゃ。

 

 学校で聞いたのと同じ音が、庭のどこかで響いた。

 祖母が小さく息を吐いた。

「明日、お話を聞く前に、一つ調べよう。」

「何を?」

 祖母は飛び石の上の小石を見ていた。

「この石が、どこから来たものなのか。」

 陽奈も視線を戻した。

 

 小さな石。

 移された大きな石。

 雨の後。

 水。

 まだ、どれも一本にはつながっていない。

 けれど、昨日まで遠くにあったものが、少しずつ自分たちのいる場所へ近づいてきている。

 陽奈には、そんな気がした。

 

 

 

 

 翌朝、飛び石の上に小石はなかった。

 陽奈は縁側に立ったまま、しばらく庭を見ていた。

 昨夜、確かにそこにあった。

 濃い灰色の、小さな石。

 表面に白い筋が一本入っていた。

 その下から水が伸び、飛び石の縁まで来て、落ちずに留まった。

 祖母も見ている。

 写真も撮った。

 だから、見間違いではない。

 

 けれど、今朝はない。

 飛び石の表面も乾いていた。

「落ちたかな。」

 後ろから祖母が言った。

 二人で庭へ下りた。

 飛び石の周り。

 植え込みの下。

 砂利の間。

 昨夜の石は見つからなかった。

 

「猫が持っていったとか。」

「持ってくるより難しそうだね。」

「じゃあ鳥?」

「気に入ったのかもしれない。」

 祖母が植え込みの枝を持ち上げる。

「白い筋の入った石が好きな鳥。」

「いるの?」

「知らないさ。」

 陽奈は思わず笑った。

 祖母も枝から手を離した。

 

「見つからないものは仕方ないね。」

「昨日の写真は残ってるよね。」

「残ってる。」

「じゃあ、それでいいか。」

 陽奈はもう一度だけ庭を見た。

 気にはなる。

 けれど、小石を探すために学校を休むわけにもいかない。

 

 朝食を済ませ、制服に着替えた。

 家を出る前、祖母が声をかけた。

「今日、学校が終わったら昨日のお宅へ行こうと思う。」

「電話したの?」

「朝一番は早いから、もう少ししてからね。都合が悪ければ別の日にする。」

「分かった。」

「それと、昨日見つけた石のことは、最初から細かく話さない方がいいね。」

 陽奈は靴を履きながら振り返った。

「こっちから答えを作らないため?」

「そう。『石が移されたんですよね』って聞けば、そうだったような気がしてくることもあるから。」

「じゃあ、昨日の続きから聞く?」

「そのつもり。」

 陽奈は頷いた。

 玄関を出る。

 

 今日は昨日より雲が多かった。

 それでも雨の気配はなく、道路はすっかり乾いている。

 

 

 

 

 学校では、何も起こらなかった。

 少なくとも、午前中は。

 一時間目も、二時間目も、水の音は聞こえなかった。

 昨日の掃除時間のことがあったから、陽奈は廊下を歩くたびに少し耳を澄ませてしまったが、聞こえるのは上履きの音や、教室から漏れてくる先生の声ばかりだった。

 昼休み。

 友人と机を寄せて弁当を食べていると、窓際にいた生徒が外を見た。

 

「今日、降るんかな。」

「降水確率低かったよ。」

「でも空暗くない?」

「昨日まで降ってたから、もういい。」

「洗濯物?」

「部活。外使えんと走らされる。」

 それを聞いて何人かが笑った。

 陽奈も笑いながら窓を見る。

 

 薄い雲が空を覆っている。

 雨を待っていた人たちのことを思った。

 今なら、雨が降るかどうかは携帯電話を見ればある程度分かる。

 雨雲の位置まで分かる。

 明日降るのか、何時頃から降るのか。

 それでも予報が外れれば困ることはある。

 昔、田畑の水を空に頼っていた人たちにとっては、もっと切実だったのだろう。

 

「陽奈、卵焼きいらん?」

「なんで?」

「今日甘いやつだった。」

「甘いの嫌いだったっけ。」

「今日はしょっぱい気分。」

「そんな気分ある?」

「ある。」

 差し出された卵焼きを受け取る。

 雨のことは、そこでいったん頭から離れた。

 

 午後も、授業は普通に終わった。

 放課後、陽奈が昇降口へ向かっていると、後ろから同じクラスの生徒が追いついてきた。

「九重さん。」

「どうしたの?」

「昨日さ、掃除のとき何か聞こえたって言ってたやん。」

 陽奈は足を少し緩めた。

「うん。水が落ちたみたいな音。」

「私、今日聞いたかも。」

「どこで?」

「北階段のところ。なんか、靴が濡れた床に当たるみたいな音がして。」

 生徒は自分で言ってから、少し首を傾げた。

 

「でも誰か手洗っただけかもしれん。見に行ったら何もなかったし。」

「何時くらいだった?」

「六時間目の前。移動教室から戻るとき。」

「そのとき、ほかに誰かいた?」

「いたけど、みんな普通に歩いてたよ。私も気のせいかなと思って、そのまま教室戻った。」

「そっか。」

 

「昨日、九重さんも聞いたって言ってたから思い出しただけ。」

「教えてくれてありがとう。」

「うん。じゃ、また明日。」

 生徒は昇降口を出ていった。

 

 陽奈はその背中を見送った。

 昨日までは、自分だけだった。

 もっと前には、同じような話をする生徒もいた。

 水の音。

 濡れた足跡。

 誰もいない場所。

 いったん収まりかけたように見えていたものが、また学校の中へ広がり始めている。

 陽奈は鞄を持ち直した。

 

 

 

 

 老婦人の家を訪ねたのは、四時を少し回った頃だった。

 祖母は校門の外で待っていた。

 途中で、今聞いたばかりの話を伝えた。

「北階段か。」

「うん。」

「昨日の石に近い側だね。」

「私もそう思った。でも、その子は濡れてるところを見たわけじゃない。」

「それでも、聞いた人が増えたことは覚えておこう。」

 

 老婦人の家に着く。

 昨日と同じ低い生け垣。

 玄関先には、小さな鉢植えがいくつか並んでいる。

 呼び鈴を押すと、少しして戸が開いた。

「あら、来たのね。」

「昨日は長いことお邪魔して、すみませんでした。」

 祖母が頭を下げる。

「いいわよ。暇してるもの。」

 老婦人は陽奈を見る。

「学校は行ったの?」

「今日はちゃんと行きました。」

 

「昨日休んで、おばあさんと昔のこと調べてたんでしょ。」

「はい。」

「変わった高校生やねえ。」

 笑いながら中へ招かれた。

 昨日と同じ部屋だった。

 

 窓辺の風鈴が、今日は鳴っていない。

 麦茶が出てくる。

「昨日の話で、まだ分からないところがあったの?」

「はい。昨日見せていただいた写真のことで、もう少し伺いたくて。」

 祖母は写真を机へ置いた。

 老婦人は眼鏡をかける。

「これね。」

「昨日、この方が返水が使われなくなった後も、そちらの方へ行っていたとおっしゃっていましたよね。」

 老婦人は写真を見る。

「言いましたね。」

「どんなときに行っていたか、覚えていらっしゃいますか。」

「どんなときねえ。」

 老婦人は腕を組んだ。

 すぐには答えなかった。

 陽奈も待った。

 

 時計の秒針が進む音がする。

「しょっちゅう行っていたわけじゃなかった気がするわ。」

「そうなんですね。」

「私も子どもやったしねえ。人がどこ行っているかなんて、いちいち見てなかったもの。」

 老婦人は笑った。

「遊ぶ方が忙しかったの。」

 陽奈も笑った。

「どんな遊びをしてたんですか。」

「何でもしてたわ。缶蹴りもしたし、ゴム跳びもしたし。夏は返水の方にも行って。怒られるけどね。」

「足を入れたら怒られたって、昨日話してくれましたよね。」

「そうそう。子どもは汚いって。」

「汚いって言われてたんですか。」

「外で遊んでいるから、足なんか泥だらけやろ。洗う水に入るなって。今考えたら当たり前だわ。」

 老婦人は麦茶を一口飲んだ。

 話は一度、返水から離れた。

 

 夏休み。

 虫取り。

 夕方まで遊んで怒られたこと。

 川へ行こうとして止められたこと。

 祖母は急かさなかった。

 陽奈も、聞きたいことへ無理に戻そうとはしなかった。

 やがて老婦人が、自分から写真へ目を戻した。

「この人はね、雨が降ったらよく外に出てたわ。」

 陽奈は顔を上げた。

 

 祖母は何も言わない。

「雨の日に、ですか。」

「雨が降っている最中じゃないわ。上がってから。」

 老婦人は写真の女性を指した。

「雨が上がった次の日とかね。道がまだ濡れとるときに。」

 陽奈は昨日見つけた覚え書きを思い出した。

 

 雨後。

 

「何をしに行っていたか、聞いたことはありますか。」

「そこまでは知らんねえ。」

 老婦人は首を振った。

「箒みたいなん持っとったことはあるかな。あと、桶。」

「桶?」

「木の桶だったと思うわ。いや、金物だったかな。」

 眉間に皺を寄せる。

「そこは当てにせんでね。昔のことだから。」

「大丈夫です。」

 陽奈は答えた。

 

「桶に何か入っていたかは覚えていますか。」

「水。」

 返事は早かった。

 陽奈は一瞬、祖母を見そうになって、やめた。

 老婦人は写真を見たまま続ける。

 

「水が入っとったのは覚えてるわ。重そうに持ってたから。」

「どこから持ってきた水だったんでしょう。」

「それはわからないわ。」

 老婦人は困ったように笑った。

 

「家からかもしれないし、どっかで汲んだのかもしれない。」

 陽奈は頷いた。

 そこを埋めてはいけない。

「その水をどうしていたかは、見たことありますか。」

「ないねえ。」

 老婦人は少し考えた。

「子どもはついて行ったらダメだったから。」

「返水がなくなった後も?」

「そうだったと思うわ。」

「その頃は、どこへ行っていたんですか。」

 老婦人の指が止まった。

 

「どこって……あっちよ。」

 窓の外を指す。

 学校のある方角だった。

「返水があったところですか。」

 祖母ではなく、陽奈が尋ねた。

 老婦人はしばらく考えた。

 

「いや。」

 小さく首を傾げる。

「なくなった後でしょ?」

「はい。」

「なら、返水のところじゃないわね。」

 陽奈の背筋が伸びた。

 老婦人はまだ考えている。

 

「道が変わってね。水もなくなったし。あの人が行きよったのは……もうちょっと向こうだったと思う。」

 昨日まで曖昧だった「あっち」が、初めて返水跡から離れた。

 祖母が閉鎖後の図を出した。

 

「今の場所で言うと、どの辺りだったか分かりますか。」

「今は学校になってるからねぇ。」

 老婦人は図を覗き込む。

 すぐには指を置かない。

 道を探し、昔あった家を探し、しばらく図の上を行き来する。

 

「この道がこれなら……こっちかな。」

 指が止まった。

 陽奈は息を呑んだ。

 昨日、石を見つけた場所と近かった。

 完全に同じとは言えない。

 けれど、返水跡ではない。

 

「そこに何があったか、覚えていますか。」

「何がって……。」

 老婦人は目を閉じた。

「水はなかった。」

 ゆっくりと言う。

「石は?」

 陽奈は尋ねてから、少し早かったかと思った。

 老婦人は目を開けた。

「石。」

 その言葉を口の中で転がすように繰り返した。

「大きな石が移されていた、という記憶はありますか。」

 今度は祖母が補った。

 

「大きい……。」

 老婦人は写真を見る。

 返水の奥に写る石。

「ああ。」

 声が変わった。

「あったかもしれないわ。」

 陽奈は黙って待った。

「あの石、なくならなかったんだわ。」

 老婦人は自分に言い聞かせるように呟いた。

「水場を埋めるとき、邪魔になるから捨てるのかと思ってた。でも、父が何かを言っていたわ。」

「どんなことですか。」

「何だったかなあ。」

 老婦人は額へ手を当てた。

 

「石まで捨てたらいかん、とか……いや、違うわね。」

 しばらく沈黙した。

 陽奈は待った。

 やがて老婦人が手を下ろす。

「『あれまでなくすことはない』だったかな。」

 陽奈の中に、その言葉が残った。

 

 返水はなくなる。

 水路も変わる。

 それでも、石までなくすことはない。

「誰が石を移したかは覚えていますか。」

「工事の人だろうね。そこまでは覚えてないわ。」

「移した理由も?」

「知らないわ。」

 老婦人はあっさり答えた。

 

「大人は子どもに、いちいち説明をしなかったからね。」

 昨日と同じだった。

 大切だったはずのことほど、説明されていない。

 知っている者同士では、言葉にする必要がなかったのかもしれない。

 祖母が写真の女性を指した。

「この方が、移した後の石へ行っていた可能性はありそうですか。」

「そうかもしれないねえ。」

 老婦人はしばらく女性の顔を見ていた。

「水を持って?」

 陽奈が尋ねた。

 

「そうだね。」

 老婦人は頷きかけて、途中で止まった。

「いや、毎回かはわからないわ。」

「はい。」

「私が覚えてるのは、一回か二回かも。何度も見たような気がするけど、昔の記憶だから……。」

「一回でも、覚えている場面があれば聞きたいです。」

 陽奈がそう言うと、老婦人は少し笑った。

「上手に聞くね。」

「昨日、おばあちゃんに教えてもらいました。」

「怖い先生がいるわね。」

「聞こえてますよ。」

 祖母が言う。

 三人で少し笑った。

 

 その笑いが収まってから、老婦人は麦茶のコップへ手を伸ばした。

「そういえば。」

 手が途中で止まる。

「うちの父も、水を持って行ったことがあったわ。」

 陽奈は顔を上げた。

「お父さまも?」

「一回だけ覚えてる。」

 老婦人は遠くを見るような目をした。

「雨がずっと降らない年があったって、昨日話したでしょう。」

「はい。」

「やっと降った日の次の日だったかな。」

 老婦人の声がゆっくりになる。

「朝から親父が何かしていてね。私もついて行くって言ったの。でも駄目って言われたわ。」

「そのとき、お水を?」

「うん。たしか持ってたわ。」

 老婦人は頷いた。

「家の井戸の水だったと思う。」

「返水の水じゃなくて?」

「その頃、返水がまだあったかどうか……。」

 

 老婦人は考える。

「いや、あった頃だね。私がまだ小さかったから。」

 陽奈は祖母を見る。

 祖母もこちらを見た。

 

 返水がある時代にも。

 雨が降った後に。

 返水とは別のところから水を持っていった。

「お父さまは、何か言っていましたか。」

 祖母が静かに尋ねた。

「何かねえ。」

 老婦人は目を閉じた。

 長い沈黙だった。

 

 外を車が一台通った。

 風鈴が、ようやく一度鳴った。

「もらったもんを、そのままにしとったらいかん。」

 老婦人が言った。

 

 陽奈は動かなかった。

「そんなことを言っていた気がする。」

「もらったもの、ですか。」

「何を指していたのかは、わからないけどね。」

 老婦人はすぐに付け加えた。

「雨かもしれんし、水かもしれん。子どもの私には分からなかったわ。」

「そのあと、お父さまは返水へ?」

「たぶんね。」

 老婦人は苦笑した。

 

 祖母が頷いた。

「十分です。ありがとうございます。」

「こんなんで役に立つの?」

「はい。」

 陽奈が答えた。

「すごく、役に立ちました。ありがとうございます。」

 老婦人は照れたように麦茶を飲んだ。

 

 

 

 

 帰り道。

 陽奈と祖母は、しばらく返水の話をしなかった。

 夕方の道を、自転車に乗った小学生が追い越していく。

 どこかの家から夕飯の匂いがする。

 交差点で信号を待っていると、陽奈がようやく口を開いた。

 

「雨が降った後に水を持っていくっていうのは、返水があった頃からなんだよね。それが、水場がなくなってからも続いてたのなら……。」

 祖母はすぐには答えず、信号が変わるのを待ちながら、

「そこまでは見えてきたね。」

 

 信号が青になる。

 二人は歩き出した。

「だったら、『戻す』って……。」

 そこまで言って、陽奈は止めた。

 

 祖母は先を促さなかった。

「まだ分からない。」

 陽奈は自分で言った。

「水を戻してたのかもしれないし、全然違うことかもしれない。」

「うん。」

「でも、雨が降ったら終わりではなかった。」

 祖母が陽奈を見る。

 陽奈は前を向いたまま続けた。

「雨を待って、降ったら喜んで。それで終わりじゃなくて、その後にも何かしてた。」

「そこは、今までより少し見えてきたね。」

 陽奈は老婦人の父親の言葉を思い出した。

 

 もらったものを、そのままにしてはいけない。

 それが何を意味していたのかは、もう本人には聞けない。

 雨だったのか。

 水だったのか。

 それとも、もっと別の何かなのか。

 

 家に着く頃には、雲の隙間から西日が差していた。

 玄関を開ける。

 陽奈は靴を脱ぐ前に、庭を見た。

 小石は戻っていなかった。

 飛び石だけが、夕方の光を受けている。

「おばあちゃん。」

「何?」

「昨日の紙、もう一回見たい。」

「雨後、石、戻す、水?」

「うん。」

 陽奈は頷いた。

 

「今度は、言葉を一つずつじゃなくて、その紙が何のために書かれたものなのかも考えてみたい。」

 祖母は少しだけ目を細めた。

「じゃあ、ご飯の前に三十分だけね。」

「三十分?」

「放っておいたら、夕飯忘れるでしょ。」

「忘れないよ。」

「昨日は素麺が伸びるところだった。」

「あれは資料が途中だったから。」

「そういうのを忘れるって言うんだよ。」

 祖母が家へ上がる。

 陽奈も靴を脱いだ。

 

 廊下を歩きながら、ふと老婦人の言葉が重なった。

 場所がなくなると、話もせんようになる。

 そして今日聞いた、もう一つの言葉。

 もらったものを、そのままにしてはいけない。

 どちらも、きちんとした記録には残っていなかった。

 誰かが何気なく口にした言葉を、子どもが覚えていただけだった。

 陽奈は蔵へ向かう祖母の背中を追った。

 今度は、その言葉が消えてしまう前に。

 

 

 

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