蔵へ入ると、昼間の熱がまだ残っていた。
祖母が窓を少し開ける。網戸の向こうから風が入り、机の上に置かれていた薄紙の端を持ち上げた。
陽奈は昨日見つけた小さな覚え書きを取り出した。
雨後。
石。
戻す。
水。
並んでいるのは、たった四つの言葉だった。
昨日までは、一つずつ意味を考えていた。
今日は、その紙自体を見る。
手のひらより少し大きい。端は不揃いで、何かの紙を切ったものらしい。表に四つの言葉。裏返してみても、何も書かれていない。
「これ、誰が書いたんだろう。」
陽奈は紙を光へかざした。
祖母は向かいで別の資料を開きながら答えた。
「そこから調べてみようか。見つかった場所は聞書の箱だったけど、この紙に番号はないからね。十四番から抜けたものだと決めない方がいい。」
「紙の種類で分からない?」
「似たものを探せば、何か見つかるかもしれないさね。」
二人で箱の中を見直した。
祭りについて聞いたもの。
井戸を埋めたときの記録。
道祖神を移したときの覚え書き。
盆の迎え火について、土地の老人から聞き取った紙。
寺の行事と村の祭りが同じ日に行われていた頃の話。
内容はばらばらだった。
けれど、陽奈はしばらくして、紙の形がよく似たものを見つけた。
「おばあちゃん、これ。」
祖母が隣へ来る。
紙の色。
切り方。
墨の濃さ。
確かによく似ていた。
上の方に小さく名前がある。
陽奈の知らない人物だった。
「九重の人?」
「そう。私の祖父の弟。」
陽奈は思わず祖母を見る。
「そんな人いたんだ。」
「いたよ。若い頃に家を出たから、あんたは名前を聞く機会がなかったかもしれないね。」
祖母は紙を手に取った。
「土地の話をよく聞いて回っていた人だったらしい。正式な記録を書く前に、こういう紙へ言葉だけ控える癖があったって聞いてるよ。」
陽奈は四つの言葉が書かれた紙と並べた。
「じゃあ、これもその人が?」
「筆跡は似てるさね。」
祖母は断定せず、二枚を写真に撮った。
「もしそうなら、誰かの話を聞いてる途中で書いたのかな。」
「その可能性は高いね。」
陽奈は紙へ目を戻した。
雨後。
石。
戻す。
水。
文章ではない理由が、少しだけ分かった気がした。
誰かの話を聞きながら、あとで詳しく書くために残した言葉。
だとすれば、本来はこの先があったはずだった。
十四番。
返水聞書。
今は見つからない記録。
「この四つだけ残って、肝心の話がなくなったんだ。」
祖母は箱の中を整えながら、「そうかもしれないね」と答えた。
陽奈は少し考え、手帳を開いた。
「今日、おばあさんが話してくれたことも書いておくね。今ならまだ、どこまで本人が覚えていて、どこから曖昧だったかも分かるから。」
「それがいいね。特に『井戸の水だったと思う』は、井戸の水だったと書かないように。」
「そこは分けるよ、おばあちゃん。」
陽奈は日付を書いた。
老婦人の父親が、雨の後に水を持って出た記憶。
その水は家の井戸からだったと思うこと。
子どもはついていくことを許されなかったこと。
そして、
――もらったもんを、そのままにしとったらいかん。
その言葉の前で、鉛筆が止まった。
「これは、どう書けばいいかな。」
祖母が陽奈の手帳を覗く。
「そのまま残していいんじゃないかい?」
「何をもらったのか分からないのに?」
「だから、その言葉だけを残すんだよ。意味まで足さなければいいさ。」
陽奈は老婦人が話したときの様子も短く添えた。
父親の言葉として記憶している。ただし、正確な文言かは本人も確信していない。
書いてしまうと、ずいぶん頼りない。
けれど、その頼りなさまで含めて記録なのだと、ふと、そう思った。
◇
それから、四つの言葉を書いた人物が分かったことで、探す場所も少し変わった。
その人が残した記録を集める。
同じ箱だけではなかった。
蔵の奥に、彼の名前が書かれた細長い木箱が一つあった。
中には大学ノートほどの帳面が六冊。
封筒が三つ。
古い地図。
名刺。
紙に包まれた鉛筆まで入っていた。
「鉛筆まで取ってある……。」
「誰が入れたんだろうね。」
「おばあちゃんの家なのに。」
「九重の家だよ、陽奈。」
「そういうときだけ大きくするよね、話を。」
祖母が笑う。
陽奈も帳面を一冊取った。
表紙には年だけが書かれていた。
返水が閉じられるより前のものだった。
ページをめくる。
村の祭り。
川沿いの祠。
大雨で流された橋。
ある家で正月にだけ使っていた井戸。
聞いた相手の名前と年齢が丁寧に記されているところもあれば、走り書きしかないページもある。
陽奈は一冊目を閉じた。
二冊目。
三冊目。
返水という文字は出てこない。
祖母は向かい側で別の帳面を読んでいる。
時計を見ると、約束の三十分はとっくに過ぎていた。
「おばあちゃん。」
「もう少し。」
「夕飯忘れるの、私じゃなかったね。」
祖母が時計を見た。
「あら。」
「昨日、何て言ってたっけ?」
「覚えてない。」
「さすが私のおばあちゃん。都合がいいなあ。」
二人でいったん蔵を出た。
◇
夕食は焼き魚だった。
大根おろしを添え、冷ややっこと味噌汁。
食べ始めてしばらくは、返水の話をしなかった。
祖母が味噌汁を飲み、陽奈は魚の小骨を皿の端へよける。
テレビでは週末の天気予報が流れていた。
しばらくは晴れ。
来週半ばから、また雨が降る。
「梅雨なのに、しばらく降らないんだ。」
陽奈がテレビを見る。
「昔なら、もっと空を気にしてたんだろうね、おばあちゃん。」
祖母が箸を置いた。
「今だって気にしてる人はいるよ。農家の人も、工事する人も、外で仕事する人も。」
「そっか。」
陽奈は大根おろしを魚に載せた。
自分にとって雨は、傘が必要かどうかとか、体育が外でできるかとか、そのくらいのものだった。
必要とする人によって、同じ雨でも意味は変わる。
食事を終え、二人で皿を洗った。
祖母が泡を流し、陽奈が布巾で拭いて棚へ戻す。
水道の水が絶えず流れている。
蛇口をひねれば出る。
陽奈はコップを拭きながら、その音を聞いていた。
「おばあちゃん。返水がなくなったあとも、あの人たちが水を持って行ってたのって、水に困ってたからじゃないよね。」
祖母は皿をすすぐ手を止めなかった。
「少なくとも、水を汲みに行っていたのとは違いそうだね。」
「水場はもうないのに、石のところには行ってる。雨が降ったあとにも……。」
陽奈は乾いたコップを棚へ戻した。
「必要な水をもらいに行く場所じゃなくなっても、やめなかったんだ。」
蛇口が閉まった。
急に台所が静かになる。
祖母は濡れた手を布巾で拭いた。
「昔の習慣って、理由が一つとは限らないからね。最初は水が必要だったのかもしれないし、雨を願ったのかもしれない。そこへ後から別の意味が重なったことだってある。」
「じゃあ、雨乞いと水を戻すことも、最初から一緒だったとは限らないんだ。」
「そう考えておいた方がいいと思うよ。」
祖母は洗った皿を一枚取り、光に透かして汚れが残っていないか確かめた。
「何百年も同じ形で続く方が珍しいさね。人が変われば、やり方も変わる。でも、それでも残るものがある。それを大事にするんだよ。」
陽奈は最後の皿を受け取った。
祖母が何を言おうとしているのか、すぐには分からなかった。
でも、蔵へ戻ってから、その意味が少し見えた。
◇
四冊目の帳面だった。
返水という文字はなかった。
代わりに、陽奈が見つけたのは「雨礼」という二文字だった。
「おばあちゃん、ここに雨のことがある。」
祖母が椅子を寄せる。
そのページは、雨についての習俗を何人かから聞いた記録らしい。
地域ごとに話が分かれている。
雨を願って寺で読経した話。
山へ登った話。
村中で集まった話。
子どもが参加した話。
参加させなかった話。
どれも少しずつ違う。
その中の一つに、返水周辺と同じ集落名があった。
陽奈は声に出さず、指で文字を追った。
旱天ノ折、水場二集ウ。
祈雨。
降雨ノ後――。
そこから先が、次のページへ続いている。
陽奈はゆっくりとめくった。
文字が急に細かくなっていた。
聞き取った話をそのまま書いたのか、ところどころ言葉が崩れている。
祖母と二人で読み進める。
「ここ。」
陽奈が指を止めた。
雨が降った後について書かれている。
水場ヘ赴ク。
水ヲ――。
次の文字が読みにくい。
陽奈は顔を近づけた。
「『返ス』に見える。」
「私にもそう見えるね。」
その後ろにも文章があった。
だが、「水を返す」と読める一節だけで終わってはいなかった。
水ヲ返シ、石ヲ清メル。
さらに短い文が続く。
祖母がそこを見ていた。
陽奈も祖母に聞きながらそれを読む。
――受ケタルモノヲ忘レヌタメ。
陽奈の指が止まった。
蔵の中で、外の虫の声が急にはっきり聞こえた。
「これ……。」
言いかけた陽奈を、祖母は止めなかった。
陽奈はもう一度、最初から読んだ。
旱天美ノ折、水場ニ集ウ。
祈雨。
降雨ノ後、水場へ赴く。
水ヲ返ス。
水ヲ返シ、石ヲ清メル。
受ケタルモノヲ忘レヌタメ。
昨日まで散らばっていた言葉が、初めて文章の中に現れた。
「あの人のお父さんが言ってたことと、似てる。」
「確かに似ているね。」
「『もらったもんを、そのままにしとったらいかん』って。」
祖母は帳面から目を離さなかった。
「同じ習慣について話していた可能性は、かなり高くなったと思う。」
陽奈は四つの言葉を書いた紙を横へ置いた。
雨後。
石。
戻す。
水。
今度は、無理に並べなくても意味が通る。
雨の後。
石を清める。
水を戻す。
「じゃあ、『返して』って言ってたのは、この水なのかな。」
口にしてから、陽奈は夢を思い出した。
浅い水。
背を向けた女。
大きな石。
その上へ何かを置こうとする手。
夢の中でも、声は同じだった。
――返して。
祖母は帳面を閉じなかった。
「そうかもしれない。でも、この記録だけで、あの声が何を求めているかまでは決められないよ。」
陽奈もすぐに頷いた。
「昔の人が水を返してたことと、今聞こえてる声が同じ意味だとは限らないもんね。」
「それに、『返す』がどんな行為だったのかも、まだ分からない。」
祖母は一節を指でなぞった。
「どこの水を、どれだけ、どうやって返したのか。決まった言葉があったのか。誰が行ったのか。この帳面にはそこまで書いてない。」
陽奈は少し残念に思った。
答えが見えたと思った瞬間、その先にまた分からないことが現れる。
けれど、以前ほど焦りはしなかった。
分からないところを、自分の想像で埋めてはいけない。
そのことを、この数日で何度も教えられている。
「でも、これなら分かると思う。」
陽奈は帳面の最後の一文を見た。
「雨を降らせてもらうことだけが、祈りじゃなかったんだね。」
祖母が顔を上げた。
陽奈はこの何とも言えない高揚を、上手く言葉に整理しようと、言葉を考えた。
「雨が欲しいときだけお願いして、降ったらそれで終わりじゃなかった。降った後にも水場へ行ってた。そのときのことまで含めて、続けてたんだ……。」
祖母はしばらく陽奈を見ていたが、やがて帳面へ視線を戻した。
「そう読むことはできるね。」
陽奈もそれ以上は言わなかった。
祈り。
その言葉から、陽奈が最初に思い浮かべていたものとは少し違う。
願うことだけではない。
叶った後に何をするか。
受け取ったものをどう扱うか。
それも、同じ行為の中にあったのかもしれない。
祖母が帳面の表紙を確認した。
「これを書いたのは、さっきの人だね。」
「じゃあ、あの四つの言葉は、この話を聞いたときのメモ?」
「年代は合う。ただ、同じ聞き取りだと確認できるものはないね。」
陽奈は帳面の余白を見る。
「十四番って書いてない?」
二人で表紙や裏表紙まで調べたが、番号はなかった。
なくなった「返水聞書」と同じものではないらしい。
むしろ、別の聞き取りにも同じ習慣が残っていたことになる。
陽奈はその方が気になった。
一人だけが覚えていた話ではない。
かつては、何人かが知っていた。
それが今では、老婦人の曖昧な記憶と、蔵の帳面の中にしか残っていない。
◇
夜九時を過ぎて、二人は蔵を出た。
外の空気は少し涼しくなっていた。
陽奈は帳面の必要なページを撮影した携帯電話を持っている。
庭を横切る。
朝、小石が消えていた飛び石の横を通った。
そこには何もない。
「明日、学校の石をもう一度見に行く?」
陽奈が尋ねた。
祖母はすぐには答えず、庭の方を見た。
「行こう。ただ、今度は見るだけじゃ済まないかもしれないから、私も準備しておく。」
その言葉に、陽奈は足を止めた。
「何かするの?」
「必要ならね。」
祖母は玄関へ向かいかけて、振り返った。
「今日、あなたのクラスの子も音を聞いたんだろう?これまでは、あんたの周りに現れることが多かった。でも、学校の中で聞く人が増えているなら、様子を見るだけでいい時期が終わることも考えておかないと。」
陽奈は昼間の話を思い出した。
北階段。
濡れた床を歩くような音。
何もなかったと言った友人。
「危なくなってるってこと?」
「まだ、そうとは言わないよ。ただ、誰かが転んでから考えるのでは遅いこともある。」
祖母はそう言って玄関を開けた。
陽奈も後に続こうとした。
そのとき。
ぴちゃ。
背後で音がした。
足が止まる。
祖母も振り返った。
庭は暗い。
飛び石。
植え込み。
小石があった場所。
何も見えない。
ぴちゃ。
もう一度。
今度は少し離れた場所だった。
陽奈は目で追う。
水は見えない。
けれど音だけが、庭を横切っていく。
学校で見つけた石がある方角へ。
ぴちゃ。
少し先。
ぴちゃ。
さらに先。
誰かが浅い水の中を歩いていくように。
陽奈は呼びかけなかった。
祖母も動かない。
やがて音は、塀の向こうへ消えた。
静けさが戻る。
陽奈は暗い庭を見たまま、蔵で読んだ言葉を思い出していた。
受ケタルモノヲ忘レヌタメ。
昔の人たちは、雨が降った後も水場へ行った。
水を返し、石を清めた。
返水がなくなった後も、石だけは別の場所へ移された。
そして誰かが、そこへ通い続けた。
けれど、その人もいなくなった。
いつから途絶えたのかは、まだ分からない。
陽奈は庭の向こうを見つめた。
返されなくなったものが水だったのか。
それとも、水と一緒に続いていた何かだったのか。
今夜も、その答えだけは聞こえてこなかった。