九重の境   作:モレ(一般人?)

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祈り【参】

 蔵へ入ると、昼間の熱がまだ残っていた。

 

 祖母が窓を少し開ける。網戸の向こうから風が入り、机の上に置かれていた薄紙の端を持ち上げた。

 陽奈は昨日見つけた小さな覚え書きを取り出した。

 

 雨後。

 石。

 戻す。

 水。

 並んでいるのは、たった四つの言葉だった。

 

 昨日までは、一つずつ意味を考えていた。

 今日は、その紙自体を見る。

 手のひらより少し大きい。端は不揃いで、何かの紙を切ったものらしい。表に四つの言葉。裏返してみても、何も書かれていない。

 

「これ、誰が書いたんだろう。」

 陽奈は紙を光へかざした。

 祖母は向かいで別の資料を開きながら答えた。

「そこから調べてみようか。見つかった場所は聞書の箱だったけど、この紙に番号はないからね。十四番から抜けたものだと決めない方がいい。」

「紙の種類で分からない?」

「似たものを探せば、何か見つかるかもしれないさね。」

 二人で箱の中を見直した。

 

 祭りについて聞いたもの。

 井戸を埋めたときの記録。

 道祖神を移したときの覚え書き。

 盆の迎え火について、土地の老人から聞き取った紙。

 寺の行事と村の祭りが同じ日に行われていた頃の話。

 

 内容はばらばらだった。

 けれど、陽奈はしばらくして、紙の形がよく似たものを見つけた。

「おばあちゃん、これ。」

 祖母が隣へ来る。

 

 紙の色。

 切り方。

 墨の濃さ。

 確かによく似ていた。

 上の方に小さく名前がある。

 陽奈の知らない人物だった。

 

「九重の人?」

「そう。私の祖父の弟。」

 陽奈は思わず祖母を見る。

「そんな人いたんだ。」

「いたよ。若い頃に家を出たから、あんたは名前を聞く機会がなかったかもしれないね。」

 祖母は紙を手に取った。

「土地の話をよく聞いて回っていた人だったらしい。正式な記録を書く前に、こういう紙へ言葉だけ控える癖があったって聞いてるよ。」

 陽奈は四つの言葉が書かれた紙と並べた。

 

「じゃあ、これもその人が?」

「筆跡は似てるさね。」

 祖母は断定せず、二枚を写真に撮った。

「もしそうなら、誰かの話を聞いてる途中で書いたのかな。」

「その可能性は高いね。」

 陽奈は紙へ目を戻した。

 

 雨後。

 石。

 戻す。

 水。

 文章ではない理由が、少しだけ分かった気がした。

 誰かの話を聞きながら、あとで詳しく書くために残した言葉。

 だとすれば、本来はこの先があったはずだった。

 

 十四番。

 返水聞書。

 今は見つからない記録。

「この四つだけ残って、肝心の話がなくなったんだ。」

 祖母は箱の中を整えながら、「そうかもしれないね」と答えた。

 陽奈は少し考え、手帳を開いた。

「今日、おばあさんが話してくれたことも書いておくね。今ならまだ、どこまで本人が覚えていて、どこから曖昧だったかも分かるから。」

「それがいいね。特に『井戸の水だったと思う』は、井戸の水だったと書かないように。」

「そこは分けるよ、おばあちゃん。」

 陽奈は日付を書いた。

 

 老婦人の父親が、雨の後に水を持って出た記憶。

 その水は家の井戸からだったと思うこと。

 子どもはついていくことを許されなかったこと。

 そして、

 

 ――もらったもんを、そのままにしとったらいかん。

 

 その言葉の前で、鉛筆が止まった。

「これは、どう書けばいいかな。」

 祖母が陽奈の手帳を覗く。

「そのまま残していいんじゃないかい?」

「何をもらったのか分からないのに?」

「だから、その言葉だけを残すんだよ。意味まで足さなければいいさ。」

 陽奈は老婦人が話したときの様子も短く添えた。

 父親の言葉として記憶している。ただし、正確な文言かは本人も確信していない。

 書いてしまうと、ずいぶん頼りない。

 けれど、その頼りなさまで含めて記録なのだと、ふと、そう思った。

 

 

 

 

 それから、四つの言葉を書いた人物が分かったことで、探す場所も少し変わった。

 その人が残した記録を集める。

 同じ箱だけではなかった。

 蔵の奥に、彼の名前が書かれた細長い木箱が一つあった。

 中には大学ノートほどの帳面が六冊。

 封筒が三つ。

 古い地図。

 名刺。

 紙に包まれた鉛筆まで入っていた。

 

「鉛筆まで取ってある……。」

「誰が入れたんだろうね。」

「おばあちゃんの家なのに。」

「九重の家だよ、陽奈。」

「そういうときだけ大きくするよね、話を。」

 祖母が笑う。

 陽奈も帳面を一冊取った。

 

 表紙には年だけが書かれていた。

 返水が閉じられるより前のものだった。

 ページをめくる。

 村の祭り。

 川沿いの祠。

 大雨で流された橋。

 ある家で正月にだけ使っていた井戸。

 聞いた相手の名前と年齢が丁寧に記されているところもあれば、走り書きしかないページもある。

 陽奈は一冊目を閉じた。

 

 二冊目。

 三冊目。

 返水という文字は出てこない。

 祖母は向かい側で別の帳面を読んでいる。

 時計を見ると、約束の三十分はとっくに過ぎていた。

「おばあちゃん。」

「もう少し。」

「夕飯忘れるの、私じゃなかったね。」

 祖母が時計を見た。

 

「あら。」

「昨日、何て言ってたっけ?」

「覚えてない。」

「さすが私のおばあちゃん。都合がいいなあ。」

 二人でいったん蔵を出た。

 

 

 

 

 夕食は焼き魚だった。

 大根おろしを添え、冷ややっこと味噌汁。

 食べ始めてしばらくは、返水の話をしなかった。

 祖母が味噌汁を飲み、陽奈は魚の小骨を皿の端へよける。

 テレビでは週末の天気予報が流れていた。

 

 しばらくは晴れ。

 来週半ばから、また雨が降る。

「梅雨なのに、しばらく降らないんだ。」

 陽奈がテレビを見る。

「昔なら、もっと空を気にしてたんだろうね、おばあちゃん。」

 祖母が箸を置いた。

「今だって気にしてる人はいるよ。農家の人も、工事する人も、外で仕事する人も。」

「そっか。」

 陽奈は大根おろしを魚に載せた。

 

 自分にとって雨は、傘が必要かどうかとか、体育が外でできるかとか、そのくらいのものだった。

 必要とする人によって、同じ雨でも意味は変わる。

 

 食事を終え、二人で皿を洗った。

 祖母が泡を流し、陽奈が布巾で拭いて棚へ戻す。

 水道の水が絶えず流れている。

 蛇口をひねれば出る。

 陽奈はコップを拭きながら、その音を聞いていた。

「おばあちゃん。返水がなくなったあとも、あの人たちが水を持って行ってたのって、水に困ってたからじゃないよね。」

 祖母は皿をすすぐ手を止めなかった。

「少なくとも、水を汲みに行っていたのとは違いそうだね。」

「水場はもうないのに、石のところには行ってる。雨が降ったあとにも……。」

 陽奈は乾いたコップを棚へ戻した。

 

「必要な水をもらいに行く場所じゃなくなっても、やめなかったんだ。」

 蛇口が閉まった。

 急に台所が静かになる。

 祖母は濡れた手を布巾で拭いた。

「昔の習慣って、理由が一つとは限らないからね。最初は水が必要だったのかもしれないし、雨を願ったのかもしれない。そこへ後から別の意味が重なったことだってある。」

「じゃあ、雨乞いと水を戻すことも、最初から一緒だったとは限らないんだ。」

「そう考えておいた方がいいと思うよ。」

 祖母は洗った皿を一枚取り、光に透かして汚れが残っていないか確かめた。

 

「何百年も同じ形で続く方が珍しいさね。人が変われば、やり方も変わる。でも、それでも残るものがある。それを大事にするんだよ。」

 陽奈は最後の皿を受け取った。

 

 祖母が何を言おうとしているのか、すぐには分からなかった。

 でも、蔵へ戻ってから、その意味が少し見えた。

 

 

 

 

 四冊目の帳面だった。

 返水という文字はなかった。

 代わりに、陽奈が見つけたのは「雨礼」という二文字だった。

 

「おばあちゃん、ここに雨のことがある。」

 祖母が椅子を寄せる。

 そのページは、雨についての習俗を何人かから聞いた記録らしい。

 地域ごとに話が分かれている。

 

 雨を願って寺で読経した話。

 山へ登った話。

 村中で集まった話。

 子どもが参加した話。

 参加させなかった話。

 どれも少しずつ違う。

 その中の一つに、返水周辺と同じ集落名があった。

 

 陽奈は声に出さず、指で文字を追った。

 旱天ノ折、水場二集ウ。

 祈雨。

 降雨ノ後――。

 そこから先が、次のページへ続いている。

 

 陽奈はゆっくりとめくった。

 文字が急に細かくなっていた。

 聞き取った話をそのまま書いたのか、ところどころ言葉が崩れている。

 祖母と二人で読み進める。

「ここ。」

 陽奈が指を止めた。

 雨が降った後について書かれている。

 

 水場ヘ赴ク。

 水ヲ――。

 

 次の文字が読みにくい。

 陽奈は顔を近づけた。

「『返ス』に見える。」

「私にもそう見えるね。」

 その後ろにも文章があった。

 だが、「水を返す」と読める一節だけで終わってはいなかった。

 

 水ヲ返シ、石ヲ清メル。

 

 さらに短い文が続く。

 祖母がそこを見ていた。

 陽奈も祖母に聞きながらそれを読む。

 

 ――受ケタルモノヲ忘レヌタメ。

 

 陽奈の指が止まった。

 蔵の中で、外の虫の声が急にはっきり聞こえた。

「これ……。」

 言いかけた陽奈を、祖母は止めなかった。

 陽奈はもう一度、最初から読んだ。

 

 旱天美ノ折、水場ニ集ウ。

 祈雨。

 降雨ノ後、水場へ赴く。

 水ヲ返ス。

 水ヲ返シ、石ヲ清メル。

 受ケタルモノヲ忘レヌタメ。

 

 昨日まで散らばっていた言葉が、初めて文章の中に現れた。

「あの人のお父さんが言ってたことと、似てる。」

「確かに似ているね。」

「『もらったもんを、そのままにしとったらいかん』って。」

 

 祖母は帳面から目を離さなかった。

「同じ習慣について話していた可能性は、かなり高くなったと思う。」

 陽奈は四つの言葉を書いた紙を横へ置いた。

 

 雨後。

 石。

 戻す。

 水。

 

 今度は、無理に並べなくても意味が通る。

 雨の後。

 石を清める。

 水を戻す。

「じゃあ、『返して』って言ってたのは、この水なのかな。」

 口にしてから、陽奈は夢を思い出した。

 

 浅い水。

 背を向けた女。

 大きな石。

 その上へ何かを置こうとする手。

 夢の中でも、声は同じだった。

 

 ――返して。

 

 祖母は帳面を閉じなかった。

「そうかもしれない。でも、この記録だけで、あの声が何を求めているかまでは決められないよ。」

 陽奈もすぐに頷いた。

「昔の人が水を返してたことと、今聞こえてる声が同じ意味だとは限らないもんね。」

「それに、『返す』がどんな行為だったのかも、まだ分からない。」

 祖母は一節を指でなぞった。

「どこの水を、どれだけ、どうやって返したのか。決まった言葉があったのか。誰が行ったのか。この帳面にはそこまで書いてない。」

 

 陽奈は少し残念に思った。

 答えが見えたと思った瞬間、その先にまた分からないことが現れる。

 けれど、以前ほど焦りはしなかった。

 分からないところを、自分の想像で埋めてはいけない。

 そのことを、この数日で何度も教えられている。

 

「でも、これなら分かると思う。」

 陽奈は帳面の最後の一文を見た。

「雨を降らせてもらうことだけが、祈りじゃなかったんだね。」

 祖母が顔を上げた。

 陽奈はこの何とも言えない高揚を、上手く言葉に整理しようと、言葉を考えた。

「雨が欲しいときだけお願いして、降ったらそれで終わりじゃなかった。降った後にも水場へ行ってた。そのときのことまで含めて、続けてたんだ……。」

 祖母はしばらく陽奈を見ていたが、やがて帳面へ視線を戻した。

 

「そう読むことはできるね。」

 陽奈もそれ以上は言わなかった。

 

 祈り。

 

 その言葉から、陽奈が最初に思い浮かべていたものとは少し違う。

 願うことだけではない。

 叶った後に何をするか。

 受け取ったものをどう扱うか。

 それも、同じ行為の中にあったのかもしれない。

 祖母が帳面の表紙を確認した。

「これを書いたのは、さっきの人だね。」

「じゃあ、あの四つの言葉は、この話を聞いたときのメモ?」

「年代は合う。ただ、同じ聞き取りだと確認できるものはないね。」

 

 陽奈は帳面の余白を見る。

「十四番って書いてない?」

 二人で表紙や裏表紙まで調べたが、番号はなかった。

 なくなった「返水聞書」と同じものではないらしい。

 むしろ、別の聞き取りにも同じ習慣が残っていたことになる。

 陽奈はその方が気になった。

 

 一人だけが覚えていた話ではない。

 かつては、何人かが知っていた。

 それが今では、老婦人の曖昧な記憶と、蔵の帳面の中にしか残っていない。

 

 

 

 

 夜九時を過ぎて、二人は蔵を出た。

 外の空気は少し涼しくなっていた。

 陽奈は帳面の必要なページを撮影した携帯電話を持っている。

 

 庭を横切る。

 朝、小石が消えていた飛び石の横を通った。

 そこには何もない。

「明日、学校の石をもう一度見に行く?」

 陽奈が尋ねた。

 祖母はすぐには答えず、庭の方を見た。

 

「行こう。ただ、今度は見るだけじゃ済まないかもしれないから、私も準備しておく。」

 その言葉に、陽奈は足を止めた。

「何かするの?」

「必要ならね。」

 祖母は玄関へ向かいかけて、振り返った。

 

「今日、あなたのクラスの子も音を聞いたんだろう?これまでは、あんたの周りに現れることが多かった。でも、学校の中で聞く人が増えているなら、様子を見るだけでいい時期が終わることも考えておかないと。」

 陽奈は昼間の話を思い出した。

 

 北階段。

 濡れた床を歩くような音。

 何もなかったと言った友人。

 

「危なくなってるってこと?」

「まだ、そうとは言わないよ。ただ、誰かが転んでから考えるのでは遅いこともある。」

 祖母はそう言って玄関を開けた。

 陽奈も後に続こうとした。

 そのとき。

 

 ぴちゃ。

 

 背後で音がした。

 足が止まる。

 祖母も振り返った。

 庭は暗い。

 飛び石。

 植え込み。

 小石があった場所。

 何も見えない。

 

 ぴちゃ。

 

 もう一度。

 今度は少し離れた場所だった。

 陽奈は目で追う。

 水は見えない。

 けれど音だけが、庭を横切っていく。

 学校で見つけた石がある方角へ。

 

 ぴちゃ。

 

 少し先。

 

 ぴちゃ。

 

 さらに先。

 誰かが浅い水の中を歩いていくように。

 陽奈は呼びかけなかった。

 祖母も動かない。

 やがて音は、塀の向こうへ消えた。

 静けさが戻る。

 陽奈は暗い庭を見たまま、蔵で読んだ言葉を思い出していた。

 

 受ケタルモノヲ忘レヌタメ。

 

 昔の人たちは、雨が降った後も水場へ行った。

 水を返し、石を清めた。

 返水がなくなった後も、石だけは別の場所へ移された。

 そして誰かが、そこへ通い続けた。

 けれど、その人もいなくなった。

 

 いつから途絶えたのかは、まだ分からない。

 陽奈は庭の向こうを見つめた。

 返されなくなったものが水だったのか。

 それとも、水と一緒に続いていた何かだったのか。

 今夜も、その答えだけは聞こえてこなかった。

 

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