翌日の空は、朝から白かった。
雲は薄い。雨が降りそうな暗さではなく、日差しだけをぼかすような雲だった。
陽奈は制服に着替え、階段を下りた。
台所では祖母が弁当を包んでいる。
いつもの紺色の布。その隣に、見慣れない細長い包みが置かれていた。
陽奈は冷蔵庫から麦茶を出しながら、その包みを見た。
「今日、学校に持っていくもの?」
「そう。」
祖母は弁当の結び目を整えた。
陽奈は中身を尋ねようとして、やめた。
細長いからといって、何が入っているかは分からない。
祖母がそんな陽奈を見て笑った。
「聞いてもいいよ。」
「今、勝手に決めつけないようにしたところ。」
「そこまで慎重にならなくてもいいんだけどね。」
包みを少し開く。
中から出てきたのは、木でできた細い杭だった。陽奈の前腕ほどの長さで、表面には何も書かれていない。
もう一つ、小さな布袋。
白い紙。
墨。
細い麻紐。
陽奈には、どれも見覚えがあった。
「境を取るの?」
幼い頃から何度か手伝ったことがある。
家の祭事。
蔵の整理。
古いものを動かす前。
祖母や父たちが杭や紙を置き、その内と外を分ける。
陽奈自身も、紙へ印を入れる練習はしていた。
ただ、それはいつも九重家の敷地の中だった。
「必要になればね。」
祖母は道具を包み直した。
「昨日までと違って、今日は学校に人がいる。石の周りで何か起きるなら、まず近づかせないようにする方が先になる。」
「先生にはどうするの?」
「昨日のうちに話をしてあるよ。古い水路の跡を確認したいから、放課後に学校の北側を見せてほしいって。」
「それで通ったの?」
「土地の歴史を調べているおばあさんに見えるよう、ちゃんとしてきたからね。」
陽奈は笑った。
「実際、おばあさんではあるけど……。」
「お弁当いらない?」
「いります。」
祖母から弁当を受け取った。
いつもの重さだった。
それだけで、なんだか少しだけ安心した。
◇
三時間目が終わるまでは、何もなかった。
四時間目。
教室で問題を解いているとき、廊下を誰かが走った。
先生が顔を上げる。
「廊下は走らない。」
返事はなかった。
そもそも、足音は一度きりだった。
陽奈は鉛筆を動かしながら、廊下側へ目を向けた。
教室の扉は開いている。
誰もいない。
また問題へ戻る。
しばらくして、
ぴちゃ。
音がした。
陽奈の手が止まった。
近い。
廊下ではない。
教室の中だった。
顔を上げる。
前の席の生徒はノートを取っている。
窓際では、誰かが消しゴムを落として拾った。
先生は黒板に式を書いている。
誰も気にしていない。
陽奈は足元を見た。
乾いている。
ぴちゃ。
今度は後ろ。
振り返りそうになり、こらえた。
授業中だ。
それに、音だけを追っても仕方がない。
陽奈は鉛筆を握り直した。
その直後、後ろの席から小さな声がした。
「冷たっ。」
先生が振り返る。
「どうした?」
「すみません。何か冷たいものが足に落ちてきた気がして。」
男子生徒が机の下を覗いている。
それにつられて、周りの生徒も床を見る。
何もなかった。
「気のせいかもしれません。」
男子生徒は少し恥ずかしそうに座り直した。
授業が再開する。
陽奈はノートへ視線を戻したが、さっきまで読めていた式が頭に入ってこなかった。
自分以外にも……。昨日までは音だった。
今日は、誰かが冷たさを感じた。
◇
昼休み、陽奈はその男子生徒に声をかけた。
弁当を食べ終え、友人と話していたところだった。
「さっきの授業のとき、足に何か落ちたって言ってたよね。」
「ああ、あれ? たぶん気のせい。なんもなかったし。」
「どの辺が冷たかったの?」
男子生徒は自分の右足を指した。
「このへん。靴下の上。でも見たら何もなかった。」
「雨漏りする場所でもないよね。」
「今日、雨降ってないやん。」
隣にいた友人が笑う。
「幽霊じゃね?」
「やめろって。」
「水かけてくる幽霊、地味すぎるやろ。」
「もっと他にすることあるやろな。」
二人が笑う。
陽奈も少し笑った。
「ごめん。変なこと聞いて。」
「全然。九重さん、こういうの気になるタイプ?」
「最近ちょっとだけ。」
「怖い話好きなん?」
「好きっていうより……。」
説明に困った。
まさか、家で怪異について調べていますとは言えない。
「昔の学校のことを調べてて。」
「何それ、自由研究?」
「高校生に自由研究ある?」
隣の生徒が口を挟み、また話が別の方向へ流れていった。
陽奈は自分の席へ戻った。
教室の床は乾いている。
窓の外も。
雲は朝より薄くなっていた。
◇
異変が起きたのは、六時間目が終わる少し前だった。
陽奈のクラスではなかった。
突然、廊下が騒がしくなった。
何人かの先生が北階段の方へ向かっていく。
教室の生徒たちも窓や扉から顔を出そうとする。
「席を立たない。」
先生が止めた。
すぐにチャイムが鳴る。
帰りの会はいつもより少し遅れて始まった。
担任は詳しい説明をしなかった。
北階段の一部が濡れているため、今日は使わないこと。
下校時は中央階段を使うこと。
それだけだった。
陽奈は昨日の友人の話を思い出した。
北階段で聞いた、濡れた床を歩くような音。
帰りの会が終わる。
生徒たちが一斉に動き出した。
「水道壊れたんかな。」
「雨漏りじゃない?」
「晴れとるやん。」
「誰か水ぶちまけたとか。」
そんな声を聞きながら、陽奈は教室を出た。
北階段へは行かなかった。
行きたい気持ちはあった。
けれど、先生が使うなと言った場所へ、確かめるためだけに近づくのは違う。
昇降口へ向かう。
途中で、廊下の向こうから先生が歩いてきた。
手にはモップ。
その後ろを別の先生がバケツを持っている。
「先生、水道だったんですか?」
近くの生徒が聞いた。
「まだ分からん。とにかく北階段は使わんように。」
「めっちゃ濡れてた?」
「質問はあと。部活に行け。」
先生は困ったように笑いながら通り過ぎた。
陽奈はそのモップを見る。
先が濡れている。
少なくとも、誰かの気のせいではなかった。
◇
祖母はすでに学校へ来ていた。
校門ではなく、職員玄関の近くにいる。隣には、教頭らしい男性が立っていた。
陽奈が近づくと、祖母は軽く手を上げた。
「終わった?」
「うん。」
教頭が陽奈を見る。
「九重さんのお孫さん?」
「はい。」
「おばあちゃん、地域の昔のことに詳しいんやね。ちょうど学校の水路のことを教えてもらっとったんよ。今日、北階段で水漏れもあったし。」
陽奈は祖母を見る。
「そうみたいです。」
祖母は何も言わない。
教頭は北階段の方へ視線を向けた。
「しかし変なんですよ。上から漏れた形跡がないんです。水道管も今のところ異常なしで。」
「どのくらい濡れていました?」
祖母が尋ねる。
「踊り場から十段くらいですね。水を流したみたいになってて。生徒が一人滑りかけたんですけど、けがはありませんでした。」
陽奈の胸が少し詰まった。
昨日、祖母が言っていた。
誰かが転んでから考えるのでは遅いこともある。
まだ怪我人はいない。
けれど、もう音だけではない。
祖母の表情は変わらなかった。
「北側の古い水路と関係があるかは分かりませんが、調査のついでに、一応、水の通りがないかも確認しておきますね。あそこにある石の周辺も。」
「お願いします。生徒は近づけないようにしますので。」
教頭はそこで職員室へ戻った。
姿が見えなくなってから、陽奈は祖母の隣へ寄った。
「北階段、水が出たって。」
「聞いたよ。」
「今日、教室でもあった。水は見えなかったけど、同じクラスの子が足に何か落ちてきたみたいに冷たかったって。」
祖母は歩き出しかけた足を止めた。
陽奈は昼までのことを話した。
教室で聞いた二度の音。
男子生徒の反応。
床には水がなかったこと。
祖母は途中で質問を挟まず、最後まで聞いた。
「分かった。今日は先に石のところへ行こう。」
「階段は見なくていいの?」
「先生たちが調べてる。それに、今の話を聞く限り、階段だけを見ても原因は分からないと思う。」
祖母は持ってきた細長い包みを持ち直した。
昨日より少し重そうに見えた。
◇
学校の北側は静かだった。
部活動の生徒には近づかないよう話が通っているらしい。
運動場から掛け声が聞こえる。
その音を背に、二人は草の生えた細い場所へ入った。
昨日見つけた石は、同じ場所にあった。
だが、昨日とは違う。
陽奈は数歩手前で気づいた。
「水が増えてる。」
石の周囲。
昨日は土と草が湿っている程度だった。
今日は、浅い水溜まりになっている。
雨は降っていない。
水道もない。
水は石の下から滲み出していた。
祖母はその場で立ち止まり、携帯電話を取り出した。
写真を撮る。
陽奈は石ではなく、水の動きを見た。
水は一方向へ流れていない。
石を中心に、細い筋がいくつも伸びている。
草の間を抜けるもの。
土へ消えるもの。
学校側へ向かっているもの。
陽奈はその一本を目で追った。
「おばあちゃん。」
祖母が顔を上げる。
「この水、校舎の方へ行ってる。」
実際に北階段まで続いているわけではない。
途中で土へ染み込み、見えなくなる。
けれど、方角は同じだった。
祖母はしゃがまず、立ったまま水の筋を確認した。
「昨日より範囲が広がってるね。」
風が吹いた。
草が揺れる。
その中で、水面だけが別の動きをした。
小さな波紋。
一つ。
少し離れて、もう一つ。
ぴちゃ。
陽奈の右手側。
ぴちゃ。
今度は左。
音が一か所に留まらない。
昨日までは、誰かが歩いているように聞こえた。
今日は違った。
何人かが、石の周りを歩いている。
そんな音だった。
陽奈は自分の考えに気づき、すぐに決めつけるのをやめた。
聞こえているのは、複数の場所からする水音。
そこまでが、今分かることだ。
祖母が包みを地面へ置いた。
「陽奈。少し下がってなさい。」
声は静かだった。
陽奈は言われた通り、二歩下がる。
祖母は包みを解いた。
朝見た木の杭。
白い紙。
麻紐。
それに、小さな筆。
陽奈の胸が速くなる。
家で見たことはある。
手伝ったこともある。
けれど、その向こうに怪異がいるかもしれない場所で見るのは初めてだった。
「今から祓うの?」
陽奈の口から出た声は、自分で思っていたより小さかった。
祖母は杭を一本取り出し、石の周囲を見た。
「まだ祓わないよ。」
祖母の指が、校舎側へ伸びる水の筋を示した。
「これ以上広がらないようにする。」
それから陽奈を見る。
「ここからは、教えたことを思い出して。」
陽奈は祖母の手にある杭を見た。
境を取る。
ただ囲えばいいわけではない。
どこを内にして、どこを外にするのか。
何と何の間に線を置くのか。
それを間違えれば、形だけ囲っても意味がない。
幼い頃、何度も言われた。
祖母が杭を一本、陽奈へ差し出した。
「一本、お願いできる?」
陽奈はすぐには手を伸ばさなかった。
学校の裏。
見知らぬ石。
足元から滲み出す、説明のつかない水。
家の庭で練習したときとは違う。
怖くないわけではなかった。
むしろ、手を伸ばしたらもう見学ではなくなることの方が怖かった。
祖母は急かさない。
陽奈は一度、息を吐いた。
それから杭を受け取った。
乾いた木の感触が手のひらに触れる。
「どこに置けばいい?」
「それを今から一緒に決める。」
祖母は石ではなく、周囲の土地を見た。
「昨日まで調べたことを使うよ。」
旧い水路。
返水があった場所。
閉じられた後に石が移された場所。
現在の学校。
今の道。
今、生徒たちが生活している場所。
何日もかけて調べたものが、初めて一つの現場に重なった。
陽奈は杭を握ったまま、祖母の隣に立つ。
そのとき、石の下から出ていた水が大きく揺れた。
水面に、細長い影が映った。
陽奈でも祖母でもない。
白い服の裾のようなものが、一瞬だけ水の中を横切る。
ぴちゃ。
石の向こうで音がした。
続いて、女の声。
「……返して。」
今までで一番近かった。
陽奈の指に力が入った。
それでも、杭はまだ地面へ置かなかった。
どこへ置くのか。
何と何とを分けるのか。
それを知らないまま置いてはいけない。
祖母も動いていなかった。
二人の前で、水だけが少しずつ学校の方へ広がっていく。
陽奈は手の中の杭を握り直した。
これまで調べてきたことは、答えを知るためだけではなかった。
今、ここで何をするのか。
そのために必要だったのだと、ようやく分かった。