九重の境   作:モレ(一般人?)

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祈り【伍】

 水は、ゆっくりと校舎の方へ伸びていた。

 

 草の根元を縫う細い筋が、途中で二つに分かれる。一方は土へ染み込み、もう一方はさらに先へ進んでいる。

 陽奈は杭を握ったまま、その動きを見ていた。

 

 祖母はすぐに杭を置こうとはしなかった。

 足元へ道具を置き、鞄から三枚の紙を取り出す。

 一枚は、返水がまだ残っていた頃の図。

 一枚は、それが閉じられた後の図。

 もう一枚は、現在の学校周辺を書き写したものだった。

 

 風に飛ばされないよう、端へ筆箱を置く。

「陽奈、最初の日だったら、あんたはどこに杭を置いていた?」

 祖母が唐突に尋ねた。

 

 陽奈は少し考えた。

 最初の日。

 雨の中、校舎の裏へ行った。そして古い石を見つけた。

 そこから水音が聞こえた。

 

「たぶん、最初に見つけた石の周り。」

「だね。私でも、まずそこを確かめたと思う。」

 祖母は閉鎖前の図を開いた。

「でも、今は違うでしょう?」

 陽奈は頷いた。

 

 最初に見つけた大きな石は、返水そのものではなかった。

 古い地図を見て、返水と書かれた場所がそこから少しずれていることを知った。

 その場所を歩いて、水路の跡らしい窪みも見つけた。

 さらに、返水が閉じられた後の図では、石らしい印が別の場所へ移っていた。

 工事記録には、石を動かしたらしい記述が残っていた。

 そして、老婦人の話。

 

 返水がなくなった後も、水場預りだった女性は「あっちの方」へ通っていた。

 その行き先は、返水の跡ではなかったかもしれない。

 昨日見つけた石のある場所と近かった。

 

「もし最初の日に境を取ってたら、全然違うところを囲ってた。」

「そういうこと。」

 祖母はまだ杭を持ち上げない。

「石だけ見つけた昨日の時点でも危なかったね。」

 

 陽奈は閉鎖後の図を見る。

「昨日なら、この石の周りだけ囲ってたかもしれない。」

「それも、たぶん足りなかった。」

 祖母の指が、閉鎖前と閉鎖後の図を往復する。

「返水はなくなった。でも、石は残った。しかも、その後も誰かがここへ来ていたらしい。雨の後に水を持って。」

 陽奈は昨夜読んだ帳面を思い出した。

 

 雨後。

 水を返す。

 石を清める。

 受けたるものを忘れぬため。

 そこまで調べて、ようやく今の石がただの残骸ではないと分かった。

「じゃあ、今囲わないといけないのは、石そのものじゃない。」

 陽奈は口にしてから、目の前の土地を見る。

 

「返水があった場所と、移された石と、そこに続いてたこと……その関わり?」

 祖母は少しだけ頷いた。

「近いね。」

 陽奈はもう一度、水の筋を見る。

 

 校舎へ伸びている。

 北階段。

 教室。

 音を聞く生徒。

 冷たさを感じた生徒。

 今の学校も、もう無関係ではない。

「でも、学校まで全部入れたら、生徒もこっち側になる。」

「そう。」

「昔の水路だけを内側にしたら、石が外れる。」

「うん。」

「石だけを囲ったら、今度は返水と石の間を切ることになる。」

 祖母はそこで初めて、陽奈を見た。

 

「そこまで分かっていれば、置き場所を考えられる。」

 陽奈は杭を見下ろした。

 ただの木の杭だった。

 何の模様もない。

 光るわけでもない。

 それでも、どこへ置くかで意味が変わる。

 

 陽奈は少しずつ、祖母たちが言ってきたことの意味を理解し始めていた。

 術は、力をぶつけることではない。

 何と何がつながっているのかを知り、その間に手を入れる。

 もし地図を見ていなければ、昔の水路を間違えていた。

 工事記録を読んでいなければ、石が移された可能性にも気づかなかった。

 老婦人から話を聞いていなければ、返水がなくなった後も人が石へ通っていたことを知らなかった。

 昨夜の帳面を見つけていなければ、雨の後にも行為が続いていたことを知らなかった。

 

 どれも、それだけでは水を止めない。

 怪異を祓う力もない。

 けれど、それがなければ、今ここで何を分ければいいのかさえ分からなかった。

 祖母が現在の学校図を閉鎖後の図へ重ねる。

「昔の道が、今の敷地境界と近くなる場所がある。」

 陽奈もしゃがみ込む。

 

 北側。

 現在のフェンス。

 古い図に残る細い道。

 完全には一致していない。

 けれど、ずっとずれているわけでもない。

「ここなら、石を返水側に残せる。」

「校舎は外になるね。」

 陽奈は実際の土地へ視線を上げた。

 

 草。

 フェンス。

 校舎。

 石。

 地図の線は現実には見えない。

 けれど、見えないから存在しないわけでもない。

 

 昔、人がここを歩いた。

 土地を分けた。

 水路が通っていた。

 今は学校の境として使われている。

 古い境と新しい境が、たまたま少し重なっている。

 

「一本目は、ここでいいと思う。」

 陽奈が言った。

 祖母はすぐには答えなかった。

「どうして?」

 陽奈は自分の考えを言葉にする。

「今の学校と、昔の返水につながってる場所を分けたい。でも、石まで学校側に入れたくない。ここなら、石を残したまま校舎側を切れる。」

 祖母はようやく頷いた。

 

「置いてみよう。」

 陽奈は杭を両手で持った。

 その瞬間、不思議な重さを感じた。

 木そのものは軽い。

 家で練習に使ったものと変わらない。

 でも、この一本の場所を決めるまでに、二日以上かかっている。

 

 地図を読み。

 水路を歩き。

 記録を探し。

 人の記憶を聞き。

 消えた場所の続きを探した。

 

 陽奈は土へ杭の先を当てた。

 一度押す。

 小石に当たる。

 少しずらした。

 

 祖母は何も言わない。

 陽奈が自分で位置を確かめる。

 ここから先が学校。

 こちら側に石を残す。

 今の生徒たちを巻き込まない。

 

 もう一度、今度は強く押し込んだ。

 今度は土へ入る。

 ゆっくりと。

 そして、はるか昔に教えられた深さで杭を止めた。

 

 祖母が白い紙を差し出した。

「今日は、あなたが置いたから。」

 陽奈は紙を受け取った。

 何も書かれていない。

 家で何度もやった。

 霊力を大量に込める必要はない。

 強く念じれば効くわけでもない。

 自分が何を境として扱うのかを、曖昧にしない。

 

 陽奈は紙を両手で挟んだ。

 目を閉じなかった。

 杭の向こうにある石を見る。

 その先にある、もうなくなった返水を思い浮かべる。

 

 そして背後にある学校を見る。

 今、生徒たちが生活している場所。

 自分が毎日通っている場所。

 紙の表面がわずかに温かくなった。

 祖母が麻紐で杭へ結ぶ。

 白い紙が風に揺れた。

 

 

 何も起こらない。

 光もしない。

 音も鳴らない。

 けれど、陽奈はそれを見ていた。

 たった一本の杭。

 この一本を、ここへ置くために、あれだけ調べた。

 

 初めて、そのことが少し誇らしかった。

 祖母が二本目を持つ。

「次は私が置く。陽奈は、どうしてそこなのかを考えながら見てなさい。」

 二人は石を遠く迂回した。

 水へ足を入れないようにする。

 

 二本目。

 昔の道と現在の敷地境界が、もう一度近づくところ。

 

 三本目。

 人が普段通る場所を避けながら、返水側を残す位置。

 

 四本目。

 石のある場所と校舎側の間を、無理なく閉じる位置。

 

 四本は正方形にはならなかった。

 見た目だけなら、ひどく歪んでいる。

 けれど、それぞれの杭には理由があった。

 陽奈は以前まで、境界とは形だと思っていた。

 

 四角。

 円。

 内と外。

 でも違った。

 境界は、土地の形に合わせるだけでもない。

 そこに何があったのか。

 今は何があるのか。

 何を残し、何を入れないのか。

 それを決めた結果として、線ができる。

 

 祖母が最後の杭を確認し、麻紐の端を陽奈へ渡した。

「結んで。」

 陽奈は受け取る。

 

 四本を一周させるわけではない。

 杭と杭の間を短く渡す。

 途中には、あえて紐を通さない場所もある。

 陽奈は昔、家で尋ねたことがあった。

 どうして全部閉じないのか。

 

 ――全部閉じたら、出るところがなくなるでしょう。

 

 あのときは、何となく分かったつもりだった。

 今は違う。

 怪異を閉じ込めることだけが目的ではない。

 何かが残る場所を作るために、完全には閉じないこともある。

 

 最後の結び目を作る。

 祖母がその上へ指を置いた。

 声を張ることはなかった。

 古い言葉を長々と唱えることもしない。

 

 土地の名。

 現在の場所。

 残す側。

 入れない側。

 必要なことだけを、順に確認する。

 

 陽奈はその言葉を聞きながら、一本目の杭を見る。

 これまでの調査が、ひとつずつ杭の位置へ変わっていく。

 地図がなければ、ここには置けなかった。

 工事記録がなければ、石を残す意味が分からなかった。

 老婦人の話がなければ、人がここへ通い続けていたことを知らなかった。

 帳面がなければ、雨の後にも続いていた行為を知らなかった。

 調べたことの一つひとつが、ようやく術の中へ入っていく。

 

 最後の言葉が終わる。

 何も光らなかった。

 風も止まらない。

 運動場からは部活動の声が聞こえている。

 

 それでも。

 石から校舎へ向かっていた水の先端が、同じ場所で止まった。

 陽奈は息を呑んだ。

 

 水は消えない。

 ただ、境を越えなくなった。

「止まった。」

 祖母は返事をせず、水の先を見ていた。

 しばらく待つ。

 

 一分。

 

 二分。

 

 水は学校側へ来ない。

 代わりに、石の周囲へ少しずつ集まっていく。

 陽奈は自分の杭を見る。

 白い紙が風に揺れている。

 初めて本当の現場で、自分のしたことが作用した。

 けれど、嬉しさより先に不安が来た。

 

「……これでいいのかな。」

 祖母が陽奈を見る。

「どうしてそう思う?」

「学校には行かなくなった。でも、その分ここに溜まってる。」

 石の周り。

 水面が少しずつ広がっている。

「止めることはできても、このまま置いておいていいかは別だよね。」

「そうさね。」

 祖母は少しだけ口元を緩めた。

 

「そこまで考えられたなら、今日のあんたの一本には、ちゃんと意味があったよ。」

 陽奈はもう一度、杭を見る。

 杭を立てたことが術なのではない。

 どこへ立てるかを決めるまでに調べたことも含めて、術だった。

 ようやく、そう思えた。

 

「少し離れよう。境は取れたから、次は向こうがどう動くか見る。」

 二人はさらに下がった。

 

 数分が過ぎる。

 石の周りの水は増えていた。

 靴が沈むほどではない。

 それでも、昨日より明らかに広い。

 

 ぴちゃ。

 

 音がした。

 石の向こう。

 陽奈はそちらを見る。

 誰もいない。

 

 ぴちゃ。

 

 少し右。

 今度は左。

 昨日までは、誰かが一人で歩いているように聞こえた。

 今日は違う。

 いくつもの場所で水音がする。

 石の周りを歩いているようだった。

 陽奈は、自分の頭に浮かんだ言葉をすぐには信じなかった。

 複数の足音。

 そう聞こえるだけだ。

 

 ぴちゃ。

 

 ぴちゃ。

 

 音は境の外へ出ようとしない。

 杭へ向かってくる様子もない。

 ただ、石の周りへ集まっている。

 やがて、水面に白いものが映った。

 

 女だった。

 白い衣服。

 背中を向け、石の前に立っている。

 陽奈は反射的に水面ではなく、実際の石の向こうを見る。

 

 誰もいない。

 水の中にだけ、姿がある。

 女の横に、別の影が一瞬だけ重なった。

 背の低い人。

 消える。

 次は大きな人影。

 それもすぐに薄れた。

 

 最後には、白い女だけが残った。

 陽奈の腕に鳥肌が立つ。

 

 怖かった。

 今までより近い。

 今までよりはっきりしている。

 それでも、陽奈は目を逸らさなかった。

 

 女は、こちらを見ていない。

 境にも近づかない。

 石の方だけを向いている。

 

 陽奈はこれまでのことを思い返した。

 校舎の裏。

 古い水路。

 庭。

 北階段。

 石。

 音はあちこちへ現れた。

 でも、今目の前にいるものは、外へ出ようとしていない。

 

 祖母が何も言わずに見ている。

 陽奈はしばらく考えた。

 そして、ようやく口を開く。

「おばあちゃん。この人、学校へ行きたいわけじゃないと思う。」

 祖母は陽奈を見ず、水面を見たまま聞いた。

「そう思ったのは、どうしてだい?」

「今、境から出ようとしてないもん。それに、ずっと石の方を向いてる。」

 陽奈は昨日までの音を頭の中でたどる。

 

「庭で聞こえた音も、最後はこっちの方へ消えた。最初に校舎の裏で聞いたときも、返水の近くだったよね。」

 そこで少し迷った。

 自分の考えを、一度飲み込む。

 言葉にしてから決めつけたくなかった。

 

「水が学校に入ったのも、私たちを追いかけてたからじゃなくて……行く場所がなくなってたからなのかもしれない。」

 祖母はすぐには答えなかった。

 

 杭。

 水。

 石。

 図面。

 ひとつずつ見ている。

 陽奈の言葉を、そのまま正解にはしない。

 しばらくして祖母が頷いた。

「その見方は、残しておこう。」

 陽奈はそれ以上言わなかった。

 

 祖母が鞄から白紙を一枚出す。

「境はこのままにする。でも、祓う準備はまだしない。」

「うん。」

「もし今の見方が合っているなら、必要なのは追い払うことじゃないかもしれない。」

 祖母はそこで一度、水面から目を離した。

 

「ただし、昔のことを想像だけでやり直すのも違うよ。」

 陽奈も頷く。

 昨夜読んだ。

 

 水を返す。

 石を清める。

 けれど、どこの水を、どうやって、誰が、どんな言葉で返したのかまでは分からない。

「分からないところを勝手に埋めたら、今度は私たちが新しい習慣を作ることになるもんね。」

「そういうこと。」

 祖母は紙をしまった。

 

「だから今日はここまで。」

 陽奈は少し驚いた。

「帰るの?」

「境は残す。学校にも、北側へ入らないようお願いしておく。私も夜に一度見に来るよ。」

 祖母は石の周りへ集まった水を見る。

 

「その前に、まだ一つ調べたいことがある。」

 陽奈は何のことか考えた。

 水場預りだった女性。

 返水がなくなった後も、ここへ通っていた人。

「最後に、この人がいつまで来てたのか?」

「それも知りたい。でも、もっと大きいところさ。」

 

 祖母は校舎を見る。

「返水がなくなったあとも続いたのなら、その行為がいつ、どうして途切れたのか。」

 陽奈は石へ目を戻した。

 誰かが悪意を持ってやめたとは限らない。

 

 水道ができた。

 土地が変わった。

 学校が建った。

 年を取った。

 引っ越した。

 子どもへ話す必要がなくなった。

 

 それだけだったのかもしれない。

「そこが分からないまま昔と同じことをしたら、今の私たちが勝手に続きを作ることになるもんね、おばあちゃん。」

 祖母が少し笑う。

「今日はずいぶん慎重だね。」

「誰のせいだと思ってるの。」

「さあ。」

 

 陽奈も少し笑った。

 そのとき、水面が揺れた。

 二人の視線が戻る。

 

 白い女の姿が、ゆっくり薄くなる。

 消える直前。

 その手が見えた。

 石の上へ差し出されている。

 手のひらは上を向いていた。

 何かを掴んでいるようには見えない。

 

 空の手。

 

 そこへ水面の光が重なり、姿は消えた。

 陽奈はしばらく動けなかった。

 夢の中では、女が石の上へ何かを置こうとしていた。

 今見た手が同じだったのか。

 違ったのか。

 

 自信はない。

 夢の記憶に引っぱられている可能性もある。

 だから、陽奈は見えたことだけを祖母へ伝えた。

「最後に手が見えた。石の上に出してたと思う。手のひらが上を向いてた。」

 祖母は頷き、手帳へ書く。

 

 意味は書かなかった。ただ、事実だけを。

 陽奈も、それでいいと思った。

 水面には、もう誰も映っていない。

 残っているのは、古い石と、そこへ集まった水だけだった。

 境の外では、部活動を終えるチャイムが鳴った。

 生徒たちの声が、校舎の方から聞こえる。

 

 陽奈は最後に、自分の置いた一本目の杭を見た。

 光らない。

 音も鳴らない。

 見た目だけなら、ただ地面に刺さった木の杭だ。

 けれど、その一本をここへ置くために、何日もかけて土地を調べた。

 

 過去を知った。

 今を見た。

 人の記憶を聞いた。

 なくなったものと、残されたものを分けた。

 陽奈はようやく理解した。

 

 九重家が記録を残す理由。

 怪異と向き合う前に、何度も調べる理由。

 それは、答えを知るためだけではない。

 間違った場所に線を引かないためだ。

 

 陽奈は杭からその手を離した。

 明日、その線の内側で何をするのか。

 それはまだ決まっていなかった。

 

 

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