水は、ゆっくりと校舎の方へ伸びていた。
草の根元を縫う細い筋が、途中で二つに分かれる。一方は土へ染み込み、もう一方はさらに先へ進んでいる。
陽奈は杭を握ったまま、その動きを見ていた。
祖母はすぐに杭を置こうとはしなかった。
足元へ道具を置き、鞄から三枚の紙を取り出す。
一枚は、返水がまだ残っていた頃の図。
一枚は、それが閉じられた後の図。
もう一枚は、現在の学校周辺を書き写したものだった。
風に飛ばされないよう、端へ筆箱を置く。
「陽奈、最初の日だったら、あんたはどこに杭を置いていた?」
祖母が唐突に尋ねた。
陽奈は少し考えた。
最初の日。
雨の中、校舎の裏へ行った。そして古い石を見つけた。
そこから水音が聞こえた。
「たぶん、最初に見つけた石の周り。」
「だね。私でも、まずそこを確かめたと思う。」
祖母は閉鎖前の図を開いた。
「でも、今は違うでしょう?」
陽奈は頷いた。
最初に見つけた大きな石は、返水そのものではなかった。
古い地図を見て、返水と書かれた場所がそこから少しずれていることを知った。
その場所を歩いて、水路の跡らしい窪みも見つけた。
さらに、返水が閉じられた後の図では、石らしい印が別の場所へ移っていた。
工事記録には、石を動かしたらしい記述が残っていた。
そして、老婦人の話。
返水がなくなった後も、水場預りだった女性は「あっちの方」へ通っていた。
その行き先は、返水の跡ではなかったかもしれない。
昨日見つけた石のある場所と近かった。
「もし最初の日に境を取ってたら、全然違うところを囲ってた。」
「そういうこと。」
祖母はまだ杭を持ち上げない。
「石だけ見つけた昨日の時点でも危なかったね。」
陽奈は閉鎖後の図を見る。
「昨日なら、この石の周りだけ囲ってたかもしれない。」
「それも、たぶん足りなかった。」
祖母の指が、閉鎖前と閉鎖後の図を往復する。
「返水はなくなった。でも、石は残った。しかも、その後も誰かがここへ来ていたらしい。雨の後に水を持って。」
陽奈は昨夜読んだ帳面を思い出した。
雨後。
水を返す。
石を清める。
受けたるものを忘れぬため。
そこまで調べて、ようやく今の石がただの残骸ではないと分かった。
「じゃあ、今囲わないといけないのは、石そのものじゃない。」
陽奈は口にしてから、目の前の土地を見る。
「返水があった場所と、移された石と、そこに続いてたこと……その関わり?」
祖母は少しだけ頷いた。
「近いね。」
陽奈はもう一度、水の筋を見る。
校舎へ伸びている。
北階段。
教室。
音を聞く生徒。
冷たさを感じた生徒。
今の学校も、もう無関係ではない。
「でも、学校まで全部入れたら、生徒もこっち側になる。」
「そう。」
「昔の水路だけを内側にしたら、石が外れる。」
「うん。」
「石だけを囲ったら、今度は返水と石の間を切ることになる。」
祖母はそこで初めて、陽奈を見た。
「そこまで分かっていれば、置き場所を考えられる。」
陽奈は杭を見下ろした。
ただの木の杭だった。
何の模様もない。
光るわけでもない。
それでも、どこへ置くかで意味が変わる。
陽奈は少しずつ、祖母たちが言ってきたことの意味を理解し始めていた。
術は、力をぶつけることではない。
何と何がつながっているのかを知り、その間に手を入れる。
もし地図を見ていなければ、昔の水路を間違えていた。
工事記録を読んでいなければ、石が移された可能性にも気づかなかった。
老婦人から話を聞いていなければ、返水がなくなった後も人が石へ通っていたことを知らなかった。
昨夜の帳面を見つけていなければ、雨の後にも行為が続いていたことを知らなかった。
どれも、それだけでは水を止めない。
怪異を祓う力もない。
けれど、それがなければ、今ここで何を分ければいいのかさえ分からなかった。
祖母が現在の学校図を閉鎖後の図へ重ねる。
「昔の道が、今の敷地境界と近くなる場所がある。」
陽奈もしゃがみ込む。
北側。
現在のフェンス。
古い図に残る細い道。
完全には一致していない。
けれど、ずっとずれているわけでもない。
「ここなら、石を返水側に残せる。」
「校舎は外になるね。」
陽奈は実際の土地へ視線を上げた。
草。
フェンス。
校舎。
石。
地図の線は現実には見えない。
けれど、見えないから存在しないわけでもない。
昔、人がここを歩いた。
土地を分けた。
水路が通っていた。
今は学校の境として使われている。
古い境と新しい境が、たまたま少し重なっている。
「一本目は、ここでいいと思う。」
陽奈が言った。
祖母はすぐには答えなかった。
「どうして?」
陽奈は自分の考えを言葉にする。
「今の学校と、昔の返水につながってる場所を分けたい。でも、石まで学校側に入れたくない。ここなら、石を残したまま校舎側を切れる。」
祖母はようやく頷いた。
「置いてみよう。」
陽奈は杭を両手で持った。
その瞬間、不思議な重さを感じた。
木そのものは軽い。
家で練習に使ったものと変わらない。
でも、この一本の場所を決めるまでに、二日以上かかっている。
地図を読み。
水路を歩き。
記録を探し。
人の記憶を聞き。
消えた場所の続きを探した。
陽奈は土へ杭の先を当てた。
一度押す。
小石に当たる。
少しずらした。
祖母は何も言わない。
陽奈が自分で位置を確かめる。
ここから先が学校。
こちら側に石を残す。
今の生徒たちを巻き込まない。
もう一度、今度は強く押し込んだ。
今度は土へ入る。
ゆっくりと。
そして、はるか昔に教えられた深さで杭を止めた。
祖母が白い紙を差し出した。
「今日は、あなたが置いたから。」
陽奈は紙を受け取った。
何も書かれていない。
家で何度もやった。
霊力を大量に込める必要はない。
強く念じれば効くわけでもない。
自分が何を境として扱うのかを、曖昧にしない。
陽奈は紙を両手で挟んだ。
目を閉じなかった。
杭の向こうにある石を見る。
その先にある、もうなくなった返水を思い浮かべる。
そして背後にある学校を見る。
今、生徒たちが生活している場所。
自分が毎日通っている場所。
紙の表面がわずかに温かくなった。
祖母が麻紐で杭へ結ぶ。
白い紙が風に揺れた。
何も起こらない。
光もしない。
音も鳴らない。
けれど、陽奈はそれを見ていた。
たった一本の杭。
この一本を、ここへ置くために、あれだけ調べた。
初めて、そのことが少し誇らしかった。
祖母が二本目を持つ。
「次は私が置く。陽奈は、どうしてそこなのかを考えながら見てなさい。」
二人は石を遠く迂回した。
水へ足を入れないようにする。
二本目。
昔の道と現在の敷地境界が、もう一度近づくところ。
三本目。
人が普段通る場所を避けながら、返水側を残す位置。
四本目。
石のある場所と校舎側の間を、無理なく閉じる位置。
四本は正方形にはならなかった。
見た目だけなら、ひどく歪んでいる。
けれど、それぞれの杭には理由があった。
陽奈は以前まで、境界とは形だと思っていた。
四角。
円。
内と外。
でも違った。
境界は、土地の形に合わせるだけでもない。
そこに何があったのか。
今は何があるのか。
何を残し、何を入れないのか。
それを決めた結果として、線ができる。
祖母が最後の杭を確認し、麻紐の端を陽奈へ渡した。
「結んで。」
陽奈は受け取る。
四本を一周させるわけではない。
杭と杭の間を短く渡す。
途中には、あえて紐を通さない場所もある。
陽奈は昔、家で尋ねたことがあった。
どうして全部閉じないのか。
――全部閉じたら、出るところがなくなるでしょう。
あのときは、何となく分かったつもりだった。
今は違う。
怪異を閉じ込めることだけが目的ではない。
何かが残る場所を作るために、完全には閉じないこともある。
最後の結び目を作る。
祖母がその上へ指を置いた。
声を張ることはなかった。
古い言葉を長々と唱えることもしない。
土地の名。
現在の場所。
残す側。
入れない側。
必要なことだけを、順に確認する。
陽奈はその言葉を聞きながら、一本目の杭を見る。
これまでの調査が、ひとつずつ杭の位置へ変わっていく。
地図がなければ、ここには置けなかった。
工事記録がなければ、石を残す意味が分からなかった。
老婦人の話がなければ、人がここへ通い続けていたことを知らなかった。
帳面がなければ、雨の後にも続いていた行為を知らなかった。
調べたことの一つひとつが、ようやく術の中へ入っていく。
最後の言葉が終わる。
何も光らなかった。
風も止まらない。
運動場からは部活動の声が聞こえている。
それでも。
石から校舎へ向かっていた水の先端が、同じ場所で止まった。
陽奈は息を呑んだ。
水は消えない。
ただ、境を越えなくなった。
「止まった。」
祖母は返事をせず、水の先を見ていた。
しばらく待つ。
一分。
二分。
水は学校側へ来ない。
代わりに、石の周囲へ少しずつ集まっていく。
陽奈は自分の杭を見る。
白い紙が風に揺れている。
初めて本当の現場で、自分のしたことが作用した。
けれど、嬉しさより先に不安が来た。
「……これでいいのかな。」
祖母が陽奈を見る。
「どうしてそう思う?」
「学校には行かなくなった。でも、その分ここに溜まってる。」
石の周り。
水面が少しずつ広がっている。
「止めることはできても、このまま置いておいていいかは別だよね。」
「そうさね。」
祖母は少しだけ口元を緩めた。
「そこまで考えられたなら、今日のあんたの一本には、ちゃんと意味があったよ。」
陽奈はもう一度、杭を見る。
杭を立てたことが術なのではない。
どこへ立てるかを決めるまでに調べたことも含めて、術だった。
ようやく、そう思えた。
「少し離れよう。境は取れたから、次は向こうがどう動くか見る。」
二人はさらに下がった。
数分が過ぎる。
石の周りの水は増えていた。
靴が沈むほどではない。
それでも、昨日より明らかに広い。
ぴちゃ。
音がした。
石の向こう。
陽奈はそちらを見る。
誰もいない。
ぴちゃ。
少し右。
今度は左。
昨日までは、誰かが一人で歩いているように聞こえた。
今日は違う。
いくつもの場所で水音がする。
石の周りを歩いているようだった。
陽奈は、自分の頭に浮かんだ言葉をすぐには信じなかった。
複数の足音。
そう聞こえるだけだ。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
音は境の外へ出ようとしない。
杭へ向かってくる様子もない。
ただ、石の周りへ集まっている。
やがて、水面に白いものが映った。
女だった。
白い衣服。
背中を向け、石の前に立っている。
陽奈は反射的に水面ではなく、実際の石の向こうを見る。
誰もいない。
水の中にだけ、姿がある。
女の横に、別の影が一瞬だけ重なった。
背の低い人。
消える。
次は大きな人影。
それもすぐに薄れた。
最後には、白い女だけが残った。
陽奈の腕に鳥肌が立つ。
怖かった。
今までより近い。
今までよりはっきりしている。
それでも、陽奈は目を逸らさなかった。
女は、こちらを見ていない。
境にも近づかない。
石の方だけを向いている。
陽奈はこれまでのことを思い返した。
校舎の裏。
古い水路。
庭。
北階段。
石。
音はあちこちへ現れた。
でも、今目の前にいるものは、外へ出ようとしていない。
祖母が何も言わずに見ている。
陽奈はしばらく考えた。
そして、ようやく口を開く。
「おばあちゃん。この人、学校へ行きたいわけじゃないと思う。」
祖母は陽奈を見ず、水面を見たまま聞いた。
「そう思ったのは、どうしてだい?」
「今、境から出ようとしてないもん。それに、ずっと石の方を向いてる。」
陽奈は昨日までの音を頭の中でたどる。
「庭で聞こえた音も、最後はこっちの方へ消えた。最初に校舎の裏で聞いたときも、返水の近くだったよね。」
そこで少し迷った。
自分の考えを、一度飲み込む。
言葉にしてから決めつけたくなかった。
「水が学校に入ったのも、私たちを追いかけてたからじゃなくて……行く場所がなくなってたからなのかもしれない。」
祖母はすぐには答えなかった。
杭。
水。
石。
図面。
ひとつずつ見ている。
陽奈の言葉を、そのまま正解にはしない。
しばらくして祖母が頷いた。
「その見方は、残しておこう。」
陽奈はそれ以上言わなかった。
祖母が鞄から白紙を一枚出す。
「境はこのままにする。でも、祓う準備はまだしない。」
「うん。」
「もし今の見方が合っているなら、必要なのは追い払うことじゃないかもしれない。」
祖母はそこで一度、水面から目を離した。
「ただし、昔のことを想像だけでやり直すのも違うよ。」
陽奈も頷く。
昨夜読んだ。
水を返す。
石を清める。
けれど、どこの水を、どうやって、誰が、どんな言葉で返したのかまでは分からない。
「分からないところを勝手に埋めたら、今度は私たちが新しい習慣を作ることになるもんね。」
「そういうこと。」
祖母は紙をしまった。
「だから今日はここまで。」
陽奈は少し驚いた。
「帰るの?」
「境は残す。学校にも、北側へ入らないようお願いしておく。私も夜に一度見に来るよ。」
祖母は石の周りへ集まった水を見る。
「その前に、まだ一つ調べたいことがある。」
陽奈は何のことか考えた。
水場預りだった女性。
返水がなくなった後も、ここへ通っていた人。
「最後に、この人がいつまで来てたのか?」
「それも知りたい。でも、もっと大きいところさ。」
祖母は校舎を見る。
「返水がなくなったあとも続いたのなら、その行為がいつ、どうして途切れたのか。」
陽奈は石へ目を戻した。
誰かが悪意を持ってやめたとは限らない。
水道ができた。
土地が変わった。
学校が建った。
年を取った。
引っ越した。
子どもへ話す必要がなくなった。
それだけだったのかもしれない。
「そこが分からないまま昔と同じことをしたら、今の私たちが勝手に続きを作ることになるもんね、おばあちゃん。」
祖母が少し笑う。
「今日はずいぶん慎重だね。」
「誰のせいだと思ってるの。」
「さあ。」
陽奈も少し笑った。
そのとき、水面が揺れた。
二人の視線が戻る。
白い女の姿が、ゆっくり薄くなる。
消える直前。
その手が見えた。
石の上へ差し出されている。
手のひらは上を向いていた。
何かを掴んでいるようには見えない。
空の手。
そこへ水面の光が重なり、姿は消えた。
陽奈はしばらく動けなかった。
夢の中では、女が石の上へ何かを置こうとしていた。
今見た手が同じだったのか。
違ったのか。
自信はない。
夢の記憶に引っぱられている可能性もある。
だから、陽奈は見えたことだけを祖母へ伝えた。
「最後に手が見えた。石の上に出してたと思う。手のひらが上を向いてた。」
祖母は頷き、手帳へ書く。
意味は書かなかった。ただ、事実だけを。
陽奈も、それでいいと思った。
水面には、もう誰も映っていない。
残っているのは、古い石と、そこへ集まった水だけだった。
境の外では、部活動を終えるチャイムが鳴った。
生徒たちの声が、校舎の方から聞こえる。
陽奈は最後に、自分の置いた一本目の杭を見た。
光らない。
音も鳴らない。
見た目だけなら、ただ地面に刺さった木の杭だ。
けれど、その一本をここへ置くために、何日もかけて土地を調べた。
過去を知った。
今を見た。
人の記憶を聞いた。
なくなったものと、残されたものを分けた。
陽奈はようやく理解した。
九重家が記録を残す理由。
怪異と向き合う前に、何度も調べる理由。
それは、答えを知るためだけではない。
間違った場所に線を引かないためだ。
陽奈は杭からその手を離した。
明日、その線の内側で何をするのか。
それはまだ決まっていなかった。