翌朝、陽奈が目を覚ましたとき、祖母はもう一度学校へ行った後だった。
台所のテーブルに、朝食と一緒に小さな紙が置かれている。
――境、異常なし。水も越えていない。
その下に、少し間を空けて、
――朝ご飯を食べて、普通に学校へ行くこと。
とあった。
陽奈は紙を持ったまま、しばらく立っていた。
「分かってるって。」
誰もいない台所で言ってから、椅子へ座る。
味噌汁は鍋に残っていた。温め直し、冷蔵庫から卵焼きを出す。
昨日、自分が置いた杭を思い出した。
あの後、祖母は夜にも学校へ行ったらしい。
水は境を越えなかった。
それなら、少なくとも今すぐ誰かが巻き込まれる状態ではない。
陽奈は味噌汁を飲んだ。
今日は学校へ行く。
それも、今の自分がするべきことなのだと思った。
◇
北階段は、まだ使えなかった。
朝のホームルームで、担任から簡単な説明があった。
原因を調べていること。
念のため、北階段と校舎北側の一部には近づかないこと。
それ以上の話はない。
教室では、昨日ほど話題にもならなかった。
「今日も遠回りせないかんの、だるい。」
「中央階段、人多すぎるんよ。」
「帰りだけ開けてくれんかな。」
そんな声が聞こえる。
陽奈は教科書を机へ出した。
誰も、返水の話はしない。
当たり前だった。
数日前まで、自分だって知らなかった。
一時間目が始まる。
水音はしなかった。
二時間目も。
三時間目も。
昼休みには、昨日足に冷たさを感じた男子生徒が廊下で友人とふざけ、先生に「走るな」と注意されていた。
何も知らないまま、学校の一日は進んでいく。
陽奈は窓から外を見る。
北側は校舎の陰になって見えない。
その向こうに、昨日の杭がある。
古い石がある。
水がある。
それでも、こちらでは友人が購買のパンを半分にしている。
「陽奈、いる?」
「何を?」
「メロンパン。」
「半分なら。」
「じゃあ半分百円。」
「高くなってない?」
「手数料。」
「いらない。」
「待って、今のなし。」
陽奈は笑った。
怪異を調べていても、こういう時間はなくならない。
なくしてはいけないのだとも思った。
◇
放課後、祖母は校門の外で待っていた。
昨日まで持っていた細長い包みはない。
代わりに、大きめの布袋を下げている。
「今日は杭、持ってないんだ。」
「昨日のが残ってるからね。」
祖母は陽奈の鞄を見る。
「教科書、多くない?」
「今日、置いて帰ったら怒られるやつが重なったの。」
「それは……怪異より大変だね。」
「比べないで。」
二人で歩き出す。
すぐ学校へは入らなかった。
「先に寄るところがあるよ。」
祖母が向かったのは、学校から少し離れた住宅地だった。
老婦人の家ではない。
陽奈の知らない細い道へ入り、古い平屋の前で止まる。
庭先に男性がいた。
七十代くらいだろうか。
植木鉢を動かしている。
祖母が声をかけると、男性は腰を伸ばした。
「昨日お電話した九重です。」
「ああ、返水の。」
その言葉が、ごく普通に返ってきた。
陽奈は少し驚いた。
男性は手袋を外しながら、二人を玄関先へ招いた。
祖母から聞いていた話では、この男性は水場預りだった女性の親族にあたるらしい。
直系ではない。
家同士の行き来があったため、晩年のことを知っている可能性があるという。
祖母は返水の習慣について詳しく尋ねなかった。
知りたいのは、もっと後のことだった。
返水がなくなった後も石の方へ通っていた女性が、いつ頃までそこへ行っていたのか。
男性はすぐには答えられなかった。
「俺が子どもの頃には、もう婆さんやったけんなあ。」
そう言って、縁側の柱へ背中を預ける。
「学校ができてからも行きよったんですか。」
祖母が尋ねると、男性は庭の方を見た。
「行きよったと思うよ。学校っちゅうても、今みたいに全部きれいになっとらん頃やったし。裏の方は草ばっかりでな。」
植木鉢の土を、靴の先で少し落とす。
「何しに行ってたかは、聞いたことありますか?」
「そこまでは知らん。掃除しよったんやないかな。箒持っとったのは覚えとる。」
昨日、老婦人から聞いた話と重なる。
陽奈は黙って聞いていた。
「誰か一緒に行っていましたか。」
「いやあ……。」
男性はしばらく考えた。
「晩年は一人やったんやないかね。その前は知らんよ。俺ら子どもは、あっちに行っても面白いもんなかったし。」
話しているうちに、男性は別のことを思い出した。
学校のフェンスが昔は今より低かったこと。
北側に空き地のような場所があったこと。
そこへ野球のボールを取りに入って叱られたこと。
返水とは関係のない話がしばらく続いた。
祖母は急かさなかった。
陽奈も、途中で戻そうとはしなかった。
男性が笑いながら昔の悪さを話し終えた後、不意に表情を変えた。
「そういや、行かんようになったんは、足が悪うなってからやったかもしれん。」
祖母が顔を上げる。
男性は自分の膝を軽く叩いた。
「杖つくようになってな。あっちまで歩けんようになったんよ。誰かが車で連れて行くような場所でもなかったし。」
「その後、代わりに通った人は?」
「聞かんなあ。」
男性は首を傾げた。
「そもそも、何のために行きよったか、俺らは知らんかったけんね。」
その言葉は、思っていたより軽かった。
誰かが禁じたわけではない。
喧嘩があったわけでもない。
習慣を終わらせようと決めた人もいない。
一人の女性が年を取り、歩けなくなった。
周りの人たちは、なぜ彼女がそこへ通っていたのか知らなかった。
だから、代わりに行く人もいなかった。
ただ、それだけだった。
帰り際、男性は思い出したように言った。
「婆さんが行かんようになってから、あの石のことなんか誰も話さんようになったな。学校のもんやと思っとる人もおったんやないか。」
祖母が礼を言う。
陽奈も頭を下げた。
門を出てしばらく歩いてから、陽奈は振り返った。
男性はもう植木鉢を動かす作業へ戻っていた。
◇
学校へ戻る道で、陽奈はしばらく黙っていた。
もっと大きな理由があると思っていた。
返水が閉じられたときに何かあった。
誰かが習慣を禁止した。
あるいは、九重家の知らない出来事が起きた。
そんなものを、どこかで期待していたのかもしれない。
けれど、実際は違った。
「足が悪くなったんだね。」
陽奈が言うと、祖母は隣で頷いた。
「今聞けた範囲ではね。」
「それで、誰も代わらなかった。」
「代わる理由を、誰も知らなかったんだと思うよ。」
住宅地を抜ける。
遠くに学校の校舎が見える。
陽奈は歩きながら考えた。
返水が閉じられても、石は残った。
水場預りだった女性は通い続けた。
けれど、その理由を次の人へ渡せなかった。
あるいは、渡す必要があると思わなかったのかもしれない。
そして歩けなくなった。
それで終わった。
「誰も悪くないね。」
口にすると、祖母はすぐには答えなかった。
「そうさね。少なくとも、今まで調べた中に、誰か一人を悪者にするような話はなかった。」
陽奈は校舎を見る。
水路を埋めた人も。
学校を建てた人も。
石のことを知らなかった人も。
習慣を引き継がなかった人も。
今ここで生活している生徒たちも。
誰かが忘れようとしたわけではない。
必要がなくなった。
話す人が減った。
知っている人がいなくなった。
それだけで、人は大切だったはずの何かを忘れることができる。
◇
北側へ回ると、昨日置いた境はそのままだった。
四本の杭。
白い紙。
石の周囲に溜まった水。
水量は昨日とほとんど変わっていない。
校舎側へ越えた形跡もなかった。
祖母はまず写真を撮った。
時刻を記録する。
陽奈も昨日の写真と見比べる。
「水は増えてないと思う。」
「私にも、そう見える。」
祖母は布袋を地面へ置いた。
中から出てきたのは、軍手と小さな箒、剪定ばさみ、それから何枚かの紙だった。
瓶も。
祭具もない。
「今日は掃除?」
「まずはね。」
祖母は軍手を陽奈へ渡す。
「石を動かすつもりはないよ。周りの草と、触って問題のない範囲の汚れだけ。」
陽奈は軍手を受け取った。
石を清める。
昨夜読んだ記録にも、その行為はあった。
だからこそ、一度確認した。
「昔のやり方を真似するためじゃないよね。」
「違うよ。」
祖母は箒を手に取る。
「今ここにある石が草に埋もれているから、見えるようにする。それだけさ。」
陽奈は頷いた。
言葉にしておくことが大事なのだと思った。
同じ動作でも、何のためにするかで違う。
二人は境の内側へ入った。
陽奈は石の周囲に伸びた草を少しずつ除く。
根まで無理に抜かない。
石に絡んでいるものだけを外す。
祖母は水のない側から落ち葉を掃いた。
しばらくすると、埋もれていた石の形が少し見えてきた。
思っていたより大きい。
地面から出ている部分だけでも、陽奈の両腕では抱えられそうにない。
「これを工事のときに動かしたんだ。」
「同じ石ならね。」
「そうだった。」
陽奈は軍手についた土を払った。
断定しない。
ここ数日で、それがずいぶん自然になった。
石の上には泥が乾いてこびりついている。
陽奈が布で拭おうとすると、祖母が水の入った小さな容器を差し出した。
「これ、使いな。」
陽奈は受け取ろうとして、手を止めた。
透明な水。
「何の水?」
「水道。」
祖母は何でもないことのように答えた。
「布を濡らすために持ってきた。」
陽奈は容器を見た。
昨日まで調べてきたことが、一度に頭へ戻ってくる。
雨の後。
水。
石。
戻す。
老婦人の父親が持っていた桶。
家の井戸の水だったかもしれないという記憶。
帳面にあった「水を返す」という記述。
そして、今も聞こえる声。
――返して。
陽奈は容器を受け取らなかった。
「乾いた布で取れるところだけにしない?」
祖母は陽奈の顔を見る。
「そうしたい?」
「うん。掃除のための水でも、ここで石に水をかけたら、私にはどこからが掃除で、どこからが昔のことを真似してるのか分からなくなりそう。」
少し考えてから、続けた。
「水を返してたことは分かった。でも、どうして返したのかは全部分かってない。今ここで水を使ったら、私たちが勝手に意味を決めることになる気がする。」
祖母は何も言わず、容器を布袋へ戻した。
「じゃあ、今日は使わない。」
それだけだった。
陽奈は少し拍子抜けして祖母を見る。
「いいの?」
「そのために一緒に調べたんでしょう。」
祖母は箒で落ち葉を集めながら続けた。
「調べるのは、何をすればいいか知るためだけじゃないよ。やってはいけないことや、まだやらない方がいいことを見つけるためでもあるから。」
陽奈は石へ目を戻した。
昨日、自分で置いた杭も同じだった。
何日も調べたから、置く場所を決められた。
そして今日。
何日も調べたから、水を使わないことを決められた。
陽奈は乾いた布で、石の表面を軽く払った。
落ちる土だけを落とす。
それ以上は触らない。
◇
石の周囲が整ったところで、祖母は布袋から紙を出した。
札ではなかった。
厚手の白い紙と、透明な袋。
それから、小さな木の板。
「教頭先生には話してあるよ。」
「何て?」
「この場所に昔の水場があったことが、地域の記録から分かった。学校の土地の歴史として、簡単な表示をしばらく置かせてもらえないかって。」
「大丈夫だった?」
「正式なものにするなら学校で検討するけど、調査中の表示なら構わないって。」
祖母は紙を陽奈へ渡した。
「書いてみる?」
陽奈は受け取った。
怪異へ向けた札ではない。
命令するための言葉でもない。
ここを通る人が読むためのもの。
それでも、何を書くか迷った。
返水。
水場。
雨乞い。
雨後。
水を返す。
石。
書けることはたくさんある。
けれど、その全部を一枚へ詰め込めば、分からなかった部分まで分かったように見えてしまう。
陽奈は木板を膝の上に置き、鉛筆で下書きを始めた。
何度か消した。
祖母は横から口を出さない。
最初に大きく、
「返水」
と書く。
その下に文章を続けた。
――この付近には、かつて「返水」と呼ばれた場所があり、水場として人々の生活に関わっていました。
そこで一度止める。
雨を願った記録もある。
雨の後に水を返した記録もある。
けれど、それを「返水の決まった儀式」と書いていいのかは分からない。
陽奈は少し考え、続きを書いた。
――残された記録には、雨を願って人々が水場に集まったことや、雨の後にも水場を訪れていたことが記されています。
最後の一文は、すぐに決まった。
――当時の詳しい習わしや、この場所の名の由来については、現在では分かっていません。
陽奈は鉛筆を置いた。
「こんな感じでどう?」
祖母が最初から読む。
「『分かっていません』まで書くんだね。」
「そこが一番大事な気がする。」
陽奈は自分の文章を見た。
「分からないのに、きれいな話にしたくないから。」
祖母は少し笑った。
「いいと思うよ。」
清書する。
一文字ずつ。
返水。
数日前まで、陽奈には意味の分からなかった二文字。
今も、全部分かったわけではない。
けれど、ここにその名で呼ばれた場所があったことは知っている。
書き終えた紙を透明な袋へ入れ、木板へ固定する。
祖母と二人で、石から少し離れた場所へ立てた。
石のための札ではない。
怪異を封じるためでもない。
ここを訪れた人が読める場所。
それだけだった。
何も起こらない。
陽奈は少し待った。
水も動かない。
声もない。
「……何も起きないね。」
思わず言うと、祖母が笑った。
「何か起こすために置いたんじゃないでしょうに。」
「あ、そっか。」
自分で言って、陽奈も笑った。
そうだった。
これを怪異へ効かせるために書いたのなら、結局また新しい術を作ったことになる。
これは人間のために置いたものだ。
何も起きなくていい。
二人は掃除道具を片付け始めた。
◇
祖母が境の杭を一本ずつ確認する。
まだ抜かない。
水が完全に落ち着いたと判断できるまでは、残すことになった。
陽奈は使った軍手を布袋へ入れた。
そのときだった。
ぴちゃ。
水音がした。
陽奈の手が止まる。
祖母も顔を上げた。
石の周囲に残った水。
風はない。
ぴちゃ。
もう一度。
昨日までのように、いくつもの場所からは聞こえない。
一か所だけだった。
石の前。
陽奈は近づかなかった。
その場から水面を見る。
白いものが映る。
女だった。
これまで何度も見た姿。
白い衣服。
長い髪。
顔は見えない。
けれど、その輪郭の向こうに、別の影が重なっていく。
一人。
また一人。
大人らしい影。
小さな影。
背を曲げた人。
輪郭はどれも曖昧で、誰なのかは分からない。
白い女だけが怪異なのか。
全部が一つの怪異なのか。
それとも、陽奈が水面の揺れをそう見ているだけなのか。
決められなかった。
人影は石の周囲にいる。
こちらへは来ない。
水面が揺れる。
そして。
「……返して。」
声がした。
初めて聞いた夜と、同じ言葉だった。
陽奈の胸が強く鳴った。
ここまで調べた。
それでも、何を返せと言っているのかは分からなかった。
水なのかもしれない。
昔の習わしなのかもしれない。
石なのかもしれない。
なくなった返水そのものなのかもしれない。
どれも、確かめる方法がない。
陽奈は尋ねなかった。
何を返せばいいのか。
あなたは誰なのか。
その名前は何なのか。
聞けば答えが得られる気がした。
でも、その答えが本当に答えなのか、自分には判断できない。
陽奈は水面の向こうではなく、さっき立てた表示を見る。
返水。
その二文字が、夕方の光の中にある。
今まで蔵の紙の中にしかなかった名前。
老婦人の記憶の中に残っていた名前。
今は、この学校の片隅にもう一度書かれている。
陽奈は白い姿へ向き直った。
「ここにあったことは、残すよ。」
声が少し震えた。
怖くないわけではない。
それでも、続けた。
「全部は分からなかったし、昔と同じこともできない。でも、返水っていう場所があったことを、私たちはもう知ってる。」
水面の人影が揺れる。
陽奈はそれ以上、約束しなかった。
忘れない、とは言えなかった。
自分だっていつか忘れることがある。
記録も永遠には残らない。
九重家の聞書でさえ、一冊なくなっている。
「分かったことは、ちゃんと書いておく。」
それだけ言った。
返事はない。
祖母も何も言わない。
しばらくして、水面に小さな波紋が広がった。
一つ。
二つ。
いくつもの影が、その波紋の中で重なる。
陽奈には一瞬、雨の中に立つ人たちのように見えた。
誰かが顔を上げている。
誰かが隣の人へ何かを言っている。
小さな影が、その間を走っている。
けれど、次の瞬間にはただの揺れに戻った。
白い女の姿も薄くなる。
最後まで顔は見えなかった。
そして、消えた。
水だけが残った。
陽奈は待った。
また「返して」と聞こえるかもしれない。
何か別のことが起きるかもしれない。
一分ほど経っても、何もなかった。
やがて、石の周囲に溜まっていた水が少しずつ減り始めた。
急に消えるのではない。
土へ染み込む。
普通の水と同じように。
水位が下がり、草の先が出てくる。
石の周りの土が見える。
陽奈はそれを、最後まで見ていた。
◇
「終わったのかな。」
陽奈が言ったのは、水がほとんどなくなってからだった。
祖母は石の周囲を見回した。
「今ここで起きていたことは、落ち着いたように見えるね。」
「表示を置いたから?」
祖母は首を傾げた。
「それは分からない。」
陽奈は表示を見る。
「じゃあ、私が話したから?」
「それも分からない。」
「掃除したから?」
「それもさ。」
陽奈は祖母を見た。
「何にも分からないじゃん。」
「でも、分かってることもあるよ。」
祖母は石の近くへしゃがみ、地面を確認する。
「水が減った。境を越えていない。今は声も聞こえない。」
陽奈は少しだけ笑った。
「そういう意味じゃなくて。」
「分かってる。」
祖母も笑った。
それから立ち上がり、表示へ目を向ける。
「でも、どれが効いたか分からないなら、勝手に『これが正しい鎮め方だった』って記録しないことだね。」
陽奈は頷いた。
もし今日、水を流していたら。
水が消えたとき、自分たちはきっと考えただろう。
水を返したから静まったのだと。
そして、それが九重家の記録へ残ったかもしれない。
次に同じことが起きたとき、誰かがその記録を読んで水を返す。
本当は関係がなかったとしても。
そうやって、意味の分からない新しい習わしが一つ生まれることだってある。
陽奈は少し怖くなった。
「記録って、残せばいいってものでもないんだね。」
「そうだよ。」
祖母は道具をまとめる。
「間違った記録は、忘れるより長く残ることもあるから。」
陽奈は、さっき自分が書いた文章をもう一度読んだ。
――当時の詳しい習わしや、この場所の名の由来については、現在では分かっていません。
その一文を入れてよかったと思った。
◇
帰る前に、二人でもう一度石の周囲を確認した。
土は湿っている。
けれど、新しい水は出てこない。
境の杭は、念のため明日の朝まで残す。
祖母が学校へ説明することになった。
陽奈は石の前に立つ。
草を払ったことで、昨日よりよく見える。
古い。
欠けている。
白い筋が一本走っている。
特別な石には見えなかった。
だからこそ、少し不思議だった。
こんなものが、長い間残っていた。
返水がなくなっても。
水路が変わっても。
学校が建っても。
そこへ通う人がいなくなっても。
石だけは残った。
陽奈は頭を下げようとして、やめた。
何に対する礼なのか、自分で分からなかったからだ。
代わりに、表示の傾きを直した。
少しだけ右へ。
離れて見る。
「そっちの方がまっすぐかい?」
祖母が聞く。
「たぶん。」
「さっきもそう言ってたよ。」
「多分、地面の方が斜めなんだって。」
「明日来たら倒れてたりして。」
「縁起悪いこと言わないで。」
二人で笑った。
校舎の方から、生徒たちの声が聞こえてくる。
ボールの跳ねる音。
笛の音。
誰かが大きな声で友人を呼んでいる。
そのすぐそばに、返水と書かれた小さな表示が立っている。
昔へ戻ったわけではない。
水場も戻らない。
あの頃の人たちも戻らない。
ただ、ここに何かがあったことを示す言葉が、一つ増えた。
それで何が変わるのか、陽奈にはまだ分からない。
帰り道。
祖母が少し前を歩いている。
陽奈は一度だけ学校を振り返った。
水音はしなかった。
静かだった。
それでも陽奈は、「返して」という声の意味が分かったとは思わなかった。
それは水だったのかもしれない。
場所だったのかもしれない。
人が続けていた何かだったのかもしれない。
あるいは、そのどれでもなかったのかもしれない。
分からないまま、声は聞こえなくなった。
陽奈は前を向く。
それでいいのだと、なんとなく思った。
分からないものを、分かったことにしない。
それでも、どう向き合うかは選べる。
夕方の道を、祖母と並んで歩いた。
今度は、どこからも水を踏む音は聞こえてこなかった。