九重の境   作:モレ(一般人?)

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祈り【陸】

 翌朝、陽奈が目を覚ましたとき、祖母はもう一度学校へ行った後だった。

 

 台所のテーブルに、朝食と一緒に小さな紙が置かれている。

 

 ――境、異常なし。水も越えていない。

 

 その下に、少し間を空けて、

 ――朝ご飯を食べて、普通に学校へ行くこと。

 とあった。

 陽奈は紙を持ったまま、しばらく立っていた。

「分かってるって。」

 誰もいない台所で言ってから、椅子へ座る。

 

 味噌汁は鍋に残っていた。温め直し、冷蔵庫から卵焼きを出す。

 昨日、自分が置いた杭を思い出した。

 あの後、祖母は夜にも学校へ行ったらしい。

 水は境を越えなかった。

 それなら、少なくとも今すぐ誰かが巻き込まれる状態ではない。

 陽奈は味噌汁を飲んだ。

 

 今日は学校へ行く。

 それも、今の自分がするべきことなのだと思った。

 

 

 

 

 北階段は、まだ使えなかった。

 朝のホームルームで、担任から簡単な説明があった。

 原因を調べていること。

 念のため、北階段と校舎北側の一部には近づかないこと。

 それ以上の話はない。

 

 教室では、昨日ほど話題にもならなかった。

「今日も遠回りせないかんの、だるい。」

「中央階段、人多すぎるんよ。」

「帰りだけ開けてくれんかな。」

 そんな声が聞こえる。

 

 陽奈は教科書を机へ出した。

 誰も、返水の話はしない。

 当たり前だった。

 数日前まで、自分だって知らなかった。

 

 一時間目が始まる。

 水音はしなかった。

 二時間目も。

 三時間目も。

 昼休みには、昨日足に冷たさを感じた男子生徒が廊下で友人とふざけ、先生に「走るな」と注意されていた。

 何も知らないまま、学校の一日は進んでいく。

 

 陽奈は窓から外を見る。

 北側は校舎の陰になって見えない。

 その向こうに、昨日の杭がある。

 古い石がある。

 水がある。

 それでも、こちらでは友人が購買のパンを半分にしている。

 

「陽奈、いる?」

「何を?」

「メロンパン。」

「半分なら。」

「じゃあ半分百円。」

「高くなってない?」

「手数料。」

「いらない。」

「待って、今のなし。」

 陽奈は笑った。

 

 怪異を調べていても、こういう時間はなくならない。

 なくしてはいけないのだとも思った。

 

 

 

 

 放課後、祖母は校門の外で待っていた。

 昨日まで持っていた細長い包みはない。

 代わりに、大きめの布袋を下げている。

「今日は杭、持ってないんだ。」

「昨日のが残ってるからね。」

 祖母は陽奈の鞄を見る。

 

「教科書、多くない?」

「今日、置いて帰ったら怒られるやつが重なったの。」

「それは……怪異より大変だね。」

「比べないで。」

 二人で歩き出す。

 

 すぐ学校へは入らなかった。

「先に寄るところがあるよ。」

 祖母が向かったのは、学校から少し離れた住宅地だった。

 老婦人の家ではない。

 陽奈の知らない細い道へ入り、古い平屋の前で止まる。

 

 庭先に男性がいた。

 七十代くらいだろうか。

 植木鉢を動かしている。

 祖母が声をかけると、男性は腰を伸ばした。

「昨日お電話した九重です。」

「ああ、返水の。」

 その言葉が、ごく普通に返ってきた。

 

 陽奈は少し驚いた。

 男性は手袋を外しながら、二人を玄関先へ招いた。

 祖母から聞いていた話では、この男性は水場預りだった女性の親族にあたるらしい。

 直系ではない。

 家同士の行き来があったため、晩年のことを知っている可能性があるという。

 

 祖母は返水の習慣について詳しく尋ねなかった。

 知りたいのは、もっと後のことだった。

 返水がなくなった後も石の方へ通っていた女性が、いつ頃までそこへ行っていたのか。

 男性はすぐには答えられなかった。

 

「俺が子どもの頃には、もう婆さんやったけんなあ。」

 そう言って、縁側の柱へ背中を預ける。

「学校ができてからも行きよったんですか。」

 祖母が尋ねると、男性は庭の方を見た。

「行きよったと思うよ。学校っちゅうても、今みたいに全部きれいになっとらん頃やったし。裏の方は草ばっかりでな。」

 植木鉢の土を、靴の先で少し落とす。

 

「何しに行ってたかは、聞いたことありますか?」

「そこまでは知らん。掃除しよったんやないかな。箒持っとったのは覚えとる。」

 昨日、老婦人から聞いた話と重なる。

 

 陽奈は黙って聞いていた。

「誰か一緒に行っていましたか。」

「いやあ……。」

 男性はしばらく考えた。

「晩年は一人やったんやないかね。その前は知らんよ。俺ら子どもは、あっちに行っても面白いもんなかったし。」

 

 話しているうちに、男性は別のことを思い出した。

 学校のフェンスが昔は今より低かったこと。

 北側に空き地のような場所があったこと。

 そこへ野球のボールを取りに入って叱られたこと。

 

 返水とは関係のない話がしばらく続いた。

 祖母は急かさなかった。

 陽奈も、途中で戻そうとはしなかった。

 男性が笑いながら昔の悪さを話し終えた後、不意に表情を変えた。

「そういや、行かんようになったんは、足が悪うなってからやったかもしれん。」

 祖母が顔を上げる。

 

 男性は自分の膝を軽く叩いた。

「杖つくようになってな。あっちまで歩けんようになったんよ。誰かが車で連れて行くような場所でもなかったし。」

「その後、代わりに通った人は?」

「聞かんなあ。」

 男性は首を傾げた。

 

「そもそも、何のために行きよったか、俺らは知らんかったけんね。」

 その言葉は、思っていたより軽かった。

 誰かが禁じたわけではない。

 喧嘩があったわけでもない。

 習慣を終わらせようと決めた人もいない。

 一人の女性が年を取り、歩けなくなった。

 周りの人たちは、なぜ彼女がそこへ通っていたのか知らなかった。

 

 だから、代わりに行く人もいなかった。

 ただ、それだけだった。

 帰り際、男性は思い出したように言った。

「婆さんが行かんようになってから、あの石のことなんか誰も話さんようになったな。学校のもんやと思っとる人もおったんやないか。」

 

 祖母が礼を言う。

 陽奈も頭を下げた。

 門を出てしばらく歩いてから、陽奈は振り返った。

 男性はもう植木鉢を動かす作業へ戻っていた。

 

 

 

 

 学校へ戻る道で、陽奈はしばらく黙っていた。

 もっと大きな理由があると思っていた。

 返水が閉じられたときに何かあった。

 誰かが習慣を禁止した。

 あるいは、九重家の知らない出来事が起きた。

 

 そんなものを、どこかで期待していたのかもしれない。

 けれど、実際は違った。

「足が悪くなったんだね。」

 陽奈が言うと、祖母は隣で頷いた。

「今聞けた範囲ではね。」

「それで、誰も代わらなかった。」

「代わる理由を、誰も知らなかったんだと思うよ。」

 

 住宅地を抜ける。

 遠くに学校の校舎が見える。

 陽奈は歩きながら考えた。

 返水が閉じられても、石は残った。

 水場預りだった女性は通い続けた。

 けれど、その理由を次の人へ渡せなかった。

 あるいは、渡す必要があると思わなかったのかもしれない。

 そして歩けなくなった。

 それで終わった。

 

「誰も悪くないね。」

 口にすると、祖母はすぐには答えなかった。

「そうさね。少なくとも、今まで調べた中に、誰か一人を悪者にするような話はなかった。」

 

 陽奈は校舎を見る。

 水路を埋めた人も。

 学校を建てた人も。

 石のことを知らなかった人も。

 習慣を引き継がなかった人も。

 今ここで生活している生徒たちも。

 

 誰かが忘れようとしたわけではない。

 必要がなくなった。

 話す人が減った。

 知っている人がいなくなった。

 それだけで、人は大切だったはずの何かを忘れることができる。

 

 

 

 

 北側へ回ると、昨日置いた境はそのままだった。

 

 四本の杭。

 白い紙。

 石の周囲に溜まった水。

 水量は昨日とほとんど変わっていない。

 校舎側へ越えた形跡もなかった。

 

 祖母はまず写真を撮った。

 時刻を記録する。

 陽奈も昨日の写真と見比べる。

「水は増えてないと思う。」

「私にも、そう見える。」

 祖母は布袋を地面へ置いた。

 

 中から出てきたのは、軍手と小さな箒、剪定ばさみ、それから何枚かの紙だった。

 瓶も。

 祭具もない。

「今日は掃除?」

「まずはね。」

 祖母は軍手を陽奈へ渡す。

 

「石を動かすつもりはないよ。周りの草と、触って問題のない範囲の汚れだけ。」

 陽奈は軍手を受け取った。

 石を清める。

 昨夜読んだ記録にも、その行為はあった。

 だからこそ、一度確認した。

「昔のやり方を真似するためじゃないよね。」

「違うよ。」

 祖母は箒を手に取る。

「今ここにある石が草に埋もれているから、見えるようにする。それだけさ。」

 陽奈は頷いた。

 

 言葉にしておくことが大事なのだと思った。

 同じ動作でも、何のためにするかで違う。

 二人は境の内側へ入った。

 陽奈は石の周囲に伸びた草を少しずつ除く。

 根まで無理に抜かない。

 石に絡んでいるものだけを外す。

 祖母は水のない側から落ち葉を掃いた。

 しばらくすると、埋もれていた石の形が少し見えてきた。

 

 思っていたより大きい。

 地面から出ている部分だけでも、陽奈の両腕では抱えられそうにない。

「これを工事のときに動かしたんだ。」

「同じ石ならね。」

「そうだった。」

 

 陽奈は軍手についた土を払った。

 断定しない。

 ここ数日で、それがずいぶん自然になった。

 石の上には泥が乾いてこびりついている。

 陽奈が布で拭おうとすると、祖母が水の入った小さな容器を差し出した。

 

「これ、使いな。」

 陽奈は受け取ろうとして、手を止めた。

 透明な水。

「何の水?」

「水道。」

 祖母は何でもないことのように答えた。

 

「布を濡らすために持ってきた。」

 陽奈は容器を見た。

 昨日まで調べてきたことが、一度に頭へ戻ってくる。

 

 雨の後。

 水。

 石。

 戻す。

 老婦人の父親が持っていた桶。

 家の井戸の水だったかもしれないという記憶。

 帳面にあった「水を返す」という記述。

 そして、今も聞こえる声。

 

 ――返して。

 

 陽奈は容器を受け取らなかった。

「乾いた布で取れるところだけにしない?」

 祖母は陽奈の顔を見る。

「そうしたい?」

「うん。掃除のための水でも、ここで石に水をかけたら、私にはどこからが掃除で、どこからが昔のことを真似してるのか分からなくなりそう。」

 少し考えてから、続けた。

 

「水を返してたことは分かった。でも、どうして返したのかは全部分かってない。今ここで水を使ったら、私たちが勝手に意味を決めることになる気がする。」

 祖母は何も言わず、容器を布袋へ戻した。

 

「じゃあ、今日は使わない。」

 それだけだった。

 陽奈は少し拍子抜けして祖母を見る。

「いいの?」

「そのために一緒に調べたんでしょう。」

 祖母は箒で落ち葉を集めながら続けた。

「調べるのは、何をすればいいか知るためだけじゃないよ。やってはいけないことや、まだやらない方がいいことを見つけるためでもあるから。」

 陽奈は石へ目を戻した。

 

 昨日、自分で置いた杭も同じだった。

 何日も調べたから、置く場所を決められた。

 そして今日。

 何日も調べたから、水を使わないことを決められた。

 陽奈は乾いた布で、石の表面を軽く払った。

 落ちる土だけを落とす。

 それ以上は触らない。

 

 

 

 

 石の周囲が整ったところで、祖母は布袋から紙を出した。

 札ではなかった。

 厚手の白い紙と、透明な袋。

 それから、小さな木の板。

「教頭先生には話してあるよ。」

「何て?」

「この場所に昔の水場があったことが、地域の記録から分かった。学校の土地の歴史として、簡単な表示をしばらく置かせてもらえないかって。」

 

「大丈夫だった?」

「正式なものにするなら学校で検討するけど、調査中の表示なら構わないって。」

 祖母は紙を陽奈へ渡した。

「書いてみる?」

 

 陽奈は受け取った。

 怪異へ向けた札ではない。

 命令するための言葉でもない。

 ここを通る人が読むためのもの。

 それでも、何を書くか迷った。

 

 返水。

 水場。

 雨乞い。

 雨後。

 水を返す。

 石。

 書けることはたくさんある。

 けれど、その全部を一枚へ詰め込めば、分からなかった部分まで分かったように見えてしまう。

 

 陽奈は木板を膝の上に置き、鉛筆で下書きを始めた。

 何度か消した。

 祖母は横から口を出さない。

 最初に大きく、

 

「返水」

 

 と書く。

 その下に文章を続けた。

 

 ――この付近には、かつて「返水」と呼ばれた場所があり、水場として人々の生活に関わっていました。

 

 そこで一度止める。

 雨を願った記録もある。

 雨の後に水を返した記録もある。

 けれど、それを「返水の決まった儀式」と書いていいのかは分からない。

 陽奈は少し考え、続きを書いた。

 

 ――残された記録には、雨を願って人々が水場に集まったことや、雨の後にも水場を訪れていたことが記されています。

 

 最後の一文は、すぐに決まった。

 

 ――当時の詳しい習わしや、この場所の名の由来については、現在では分かっていません。

 

 陽奈は鉛筆を置いた。

「こんな感じでどう?」

 祖母が最初から読む。

「『分かっていません』まで書くんだね。」

「そこが一番大事な気がする。」

 陽奈は自分の文章を見た。

 

「分からないのに、きれいな話にしたくないから。」

 祖母は少し笑った。

「いいと思うよ。」

 

 清書する。

 一文字ずつ。

 

 返水。

 

 数日前まで、陽奈には意味の分からなかった二文字。

 今も、全部分かったわけではない。

 けれど、ここにその名で呼ばれた場所があったことは知っている。

 書き終えた紙を透明な袋へ入れ、木板へ固定する。

 祖母と二人で、石から少し離れた場所へ立てた。

 

 石のための札ではない。

 怪異を封じるためでもない。

 ここを訪れた人が読める場所。

 それだけだった。

 

 何も起こらない。

 陽奈は少し待った。

 水も動かない。

 声もない。

「……何も起きないね。」

 思わず言うと、祖母が笑った。

「何か起こすために置いたんじゃないでしょうに。」

「あ、そっか。」

 自分で言って、陽奈も笑った。

 

 そうだった。

 これを怪異へ効かせるために書いたのなら、結局また新しい術を作ったことになる。

 これは人間のために置いたものだ。

 何も起きなくていい。

 二人は掃除道具を片付け始めた。

 

 

 

 

 祖母が境の杭を一本ずつ確認する。

 まだ抜かない。

 水が完全に落ち着いたと判断できるまでは、残すことになった。

 陽奈は使った軍手を布袋へ入れた。

 そのときだった。

 

 ぴちゃ。

 

 水音がした。

 陽奈の手が止まる。

 祖母も顔を上げた。

 石の周囲に残った水。

 風はない。

 

 ぴちゃ。

 

 もう一度。

 昨日までのように、いくつもの場所からは聞こえない。

 一か所だけだった。

 

 石の前。

 陽奈は近づかなかった。

 その場から水面を見る。

 白いものが映る。

 女だった。

 これまで何度も見た姿。

 白い衣服。

 長い髪。

 顔は見えない。

 けれど、その輪郭の向こうに、別の影が重なっていく。

 

 一人。

 

 また一人。

 

 大人らしい影。

 小さな影。

 背を曲げた人。

 輪郭はどれも曖昧で、誰なのかは分からない。

 白い女だけが怪異なのか。

 全部が一つの怪異なのか。

 それとも、陽奈が水面の揺れをそう見ているだけなのか。

 決められなかった。

 

 人影は石の周囲にいる。

 こちらへは来ない。

 水面が揺れる。

 そして。

 

「……返して。」

 

 声がした。

 初めて聞いた夜と、同じ言葉だった。

 陽奈の胸が強く鳴った。

 ここまで調べた。

 それでも、何を返せと言っているのかは分からなかった。

 水なのかもしれない。

 昔の習わしなのかもしれない。

 石なのかもしれない。

 なくなった返水そのものなのかもしれない。

 どれも、確かめる方法がない。

 

 陽奈は尋ねなかった。

 何を返せばいいのか。

 あなたは誰なのか。

 その名前は何なのか。

 

 聞けば答えが得られる気がした。

 でも、その答えが本当に答えなのか、自分には判断できない。

 陽奈は水面の向こうではなく、さっき立てた表示を見る。

 

 返水。

 

 その二文字が、夕方の光の中にある。

 今まで蔵の紙の中にしかなかった名前。

 老婦人の記憶の中に残っていた名前。

 今は、この学校の片隅にもう一度書かれている。

 陽奈は白い姿へ向き直った。

 

「ここにあったことは、残すよ。」

 

 声が少し震えた。

 怖くないわけではない。

 それでも、続けた。

「全部は分からなかったし、昔と同じこともできない。でも、返水っていう場所があったことを、私たちはもう知ってる。」

 

 水面の人影が揺れる。

 陽奈はそれ以上、約束しなかった。

 忘れない、とは言えなかった。

 自分だっていつか忘れることがある。

 記録も永遠には残らない。

 九重家の聞書でさえ、一冊なくなっている。

 

「分かったことは、ちゃんと書いておく。」

 それだけ言った。

 返事はない。

 祖母も何も言わない。

 しばらくして、水面に小さな波紋が広がった。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 いくつもの影が、その波紋の中で重なる。

 

 陽奈には一瞬、雨の中に立つ人たちのように見えた。

 誰かが顔を上げている。

 誰かが隣の人へ何かを言っている。

 小さな影が、その間を走っている。

 けれど、次の瞬間にはただの揺れに戻った。

 白い女の姿も薄くなる。

 最後まで顔は見えなかった。

 

 そして、消えた。

 水だけが残った。

 陽奈は待った。

 また「返して」と聞こえるかもしれない。

 何か別のことが起きるかもしれない。

 

 一分ほど経っても、何もなかった。

 やがて、石の周囲に溜まっていた水が少しずつ減り始めた。

 急に消えるのではない。

 土へ染み込む。

 普通の水と同じように。

 水位が下がり、草の先が出てくる。

 石の周りの土が見える。

 陽奈はそれを、最後まで見ていた。

 

 

 

 

「終わったのかな。」

 陽奈が言ったのは、水がほとんどなくなってからだった。

 祖母は石の周囲を見回した。

「今ここで起きていたことは、落ち着いたように見えるね。」

「表示を置いたから?」

 

 祖母は首を傾げた。

「それは分からない。」

 陽奈は表示を見る。

「じゃあ、私が話したから?」

「それも分からない。」

「掃除したから?」

「それもさ。」

 陽奈は祖母を見た。

 

「何にも分からないじゃん。」

「でも、分かってることもあるよ。」

 祖母は石の近くへしゃがみ、地面を確認する。

「水が減った。境を越えていない。今は声も聞こえない。」

 陽奈は少しだけ笑った。

 

「そういう意味じゃなくて。」

「分かってる。」

 祖母も笑った。

 それから立ち上がり、表示へ目を向ける。

「でも、どれが効いたか分からないなら、勝手に『これが正しい鎮め方だった』って記録しないことだね。」

 陽奈は頷いた。

 

 もし今日、水を流していたら。

 水が消えたとき、自分たちはきっと考えただろう。

 水を返したから静まったのだと。

 そして、それが九重家の記録へ残ったかもしれない。

 次に同じことが起きたとき、誰かがその記録を読んで水を返す。

 本当は関係がなかったとしても。

 そうやって、意味の分からない新しい習わしが一つ生まれることだってある。

 

 陽奈は少し怖くなった。

「記録って、残せばいいってものでもないんだね。」

「そうだよ。」

 祖母は道具をまとめる。

「間違った記録は、忘れるより長く残ることもあるから。」

 陽奈は、さっき自分が書いた文章をもう一度読んだ。

 

 ――当時の詳しい習わしや、この場所の名の由来については、現在では分かっていません。

 

 その一文を入れてよかったと思った。

  

 

 

 

 帰る前に、二人でもう一度石の周囲を確認した。

 土は湿っている。

 けれど、新しい水は出てこない。

 境の杭は、念のため明日の朝まで残す。

 

 祖母が学校へ説明することになった。

 陽奈は石の前に立つ。

 草を払ったことで、昨日よりよく見える。

 古い。

 欠けている。

 白い筋が一本走っている。

 特別な石には見えなかった。

 だからこそ、少し不思議だった。

 

 こんなものが、長い間残っていた。

 返水がなくなっても。

 水路が変わっても。

 学校が建っても。

 そこへ通う人がいなくなっても。

 石だけは残った。

 

 陽奈は頭を下げようとして、やめた。

 何に対する礼なのか、自分で分からなかったからだ。

 代わりに、表示の傾きを直した。

 

 少しだけ右へ。

 離れて見る。

「そっちの方がまっすぐかい?」

 祖母が聞く。

「たぶん。」

「さっきもそう言ってたよ。」

 

「多分、地面の方が斜めなんだって。」

「明日来たら倒れてたりして。」

「縁起悪いこと言わないで。」

 二人で笑った。

 校舎の方から、生徒たちの声が聞こえてくる。

 

 ボールの跳ねる音。

 笛の音。

 誰かが大きな声で友人を呼んでいる。

 そのすぐそばに、返水と書かれた小さな表示が立っている。

 昔へ戻ったわけではない。

 水場も戻らない。

 あの頃の人たちも戻らない。

 

 ただ、ここに何かがあったことを示す言葉が、一つ増えた。

 それで何が変わるのか、陽奈にはまだ分からない。

 

 

 帰り道。

 祖母が少し前を歩いている。

 陽奈は一度だけ学校を振り返った。

 水音はしなかった。

 静かだった。

 それでも陽奈は、「返して」という声の意味が分かったとは思わなかった。

 

 それは水だったのかもしれない。

 場所だったのかもしれない。

 人が続けていた何かだったのかもしれない。

 あるいは、そのどれでもなかったのかもしれない。

 分からないまま、声は聞こえなくなった。

 

 陽奈は前を向く。

 それでいいのだと、なんとなく思った。

 分からないものを、分かったことにしない。

 それでも、どう向き合うかは選べる。

 

 夕方の道を、祖母と並んで歩いた。

 今度は、どこからも水を踏む音は聞こえてこなかった。

 

 

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