九重の境   作:モレ(一般人?)

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祈り【終】

 翌朝、陽奈は少し早く家を出た。

 

 祖母はもっと早かった。

 玄関には、昨日まで置かれていた道具の包みがない。学校へ境を確認し、そのまま杭を回収してくると言っていた。

 

 外へ出ると、朝の空気にはまだ少し湿り気が残っていた。

 雨は降っていない。

 道路の端にも水溜まりはなく、側溝から聞こえてくるのも、いつものわずかな水音だけだった。

 

 陽奈は何度か耳を澄ませそうになって、そのたびにやめた。

 学校へ着いた頃には、北階段を塞いでいた表示も外されていた。

 昇降口では、いつもと同じように靴箱の前が混んでいる。

 

「そこ立たんで。靴取れん。」

「取れるやろ。」

「無理やって。鞄で塞いどるもん。」

 陽奈は二人の間を抜け、自分の上履きを取った。

 

 誰かが走っていく。

 別の誰かが、教室に忘れ物をしたと戻ってくる。

 廊下の奥から先生の声が飛んだ。

 北階段の前を通る。

 

 床は乾いていた。

 昨日まで水が広がっていた場所には、跡らしいものもない。

 陽奈は立ち止まった。

 

 ほんの数秒だった。

 最初に感じたのは、ほっとした気持ちだった。

 誰も滑らない。

 冷たい水を感じて足元を見る生徒もいない。

 聞こえるはずのない水音に、振り返る必要もない。

 

 これでいい。

 そう思った。

 それなのに、乾いた床を見ているうちに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。

 あれだけ調べた。

 地図を広げ、昔の水路を歩き、知らない人の家を訪ねた。

 夜中に水音を聞き、白い姿を見た。

 昨日は、自分の手で杭まで置いた。

 それが朝になれば、ここには何も残っていない。

 

 階段を下りてきた生徒が、陽奈の横を通り過ぎる。

 何も知らない顔だった。

 当たり前なのに、自分だけが昨日までとは少し違う場所に立っているような気がした。

 

「九重、そこおったら邪魔になるぞ。」

 後ろから男子生徒に言われ、陽奈は慌てて脇へ寄った。

「ごめん。」

「何見よったん?」

「ううん。何でもないよ。」

 男子生徒はそれ以上気にせず階段を上がっていく。

 陽奈も教室へ向かった。

 

 

 

 

 一時間目の前。

 昨日まで北階段の水について話していた生徒たちは、もう別のことで盛り上がっていた。

 

 週末にどこへ行くか。

 次の小テスト。

 部活の練習試合。

 誰かが提出物を忘れたこと。

 水漏れの話をする者はいない。

 

 陽奈は席へ座り、筆箱を出した。

 ほんの数日前まで、自分も同じだった。

 学校の裏に古い水路があったことを知らなかった。

 返水という名の場所があったことも。

 雨を待った人たちがいたことも。

 雨が降ったあと、またそこへ向かった人たちがいたことも。

 

 知らなくても、学校生活には何も困らない。

 授業を受けるのに、返水のことを知る必要はない。

 

 部活動にも。

 進路にも。

 明日の天気にも。

 そのことに安心している自分もいた。

 

 学校は、いつもの学校に戻った。

 自分が調べたもののせいで、誰かの日常が変わらずに済んだ。

 昨日、境を取ったのも、そのためだった。

 

 けれど、みんなの会話を聞いていると、朝に感じたものがまた胸の奥に浮かんだ。

 寂しい、というのとは少し違う。

 忘れないでほしい、と言いたいわけでもない。

 ただ、自分の中にはまだあの数日間が続いているのに、周りではもう終わったことになっている。

 

 そのずれを、どう扱えばいいのか分からなかった。

 陽奈の頭に、老婦人の言葉が浮かぶ。

 

 ――場所がなくなるとね、話もしないようになるのよ。

 

 あのときは、なくなった返水のことを言っているのだと思った。

 今も、それは変わらない。

 ただ、少しだけ重く聞こえるようになった。

 

 場所がなくなる。

 話さなくなる。

 話さなくなれば、知っている人が減っていく。

 そしていつか、そこに何かがあったこと自体が、誰の生活にも関係のないものになる。

 誰かが消そうとしなくても。

 

 

「九重。」

 名前を呼ばれ、陽奈は顔を上げた。

 教師が教科書を持って立っている。

「そこ、続き読んで。」

「あ、はい。」

 慌ててページを探す。

 隣の席から小さな笑い声がした。

 陽奈は少しだけ顔をしかめ、指定されたところから読み始めた。

 自分の声を聞いているうちに、さっきまでの考えは少し遠のいた。

 

 それでよかった。

 今は授業中だ。

 

 

 

 

 昼休み。

 陽奈は一人で校舎の北側へ向かった。

 立入禁止は解除されている。

 昨日まであった杭も、すべてなくなっていた。

 境を取った痕跡は、小さな穴がいくつか残っているだけだ。

 石の周囲も乾いている。

 

 陽奈は少し離れたところで立ち止まった。

 昨日、祖母と一緒に立てた仮の調査表示は残っていた。

 風で飛ばされてもいない。

 傾いてもいない。

 それを見つけた瞬間、朝から胸の中にあった引っかかりが、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 近づいて、文章を読む。

 自分で書いたものなのに、学校で見ると少し変な感じがした。

 

 ――返水。

 

 ――この付近には、かつて「返水」と呼ばれた場所があり、水場

   として人々の生活に関わっていました。

 

 ――残された記録には、雨を願って人々が水場に集まったこと

   や、雨の後にも水場を訪れていたことが記されています。

 

 ――当時の詳しい習わしや、この場所の名の由来については、現

   在では分かっていません。

 

 最後の一文を、もう一度読む。

 

 分かっていません。

 

 数日前の自分なら、その言葉をこんなふうには書けなかった気がする。

 

「返して」と言ったのは誰なのか。

 何を返せと言っていたのか。

 返水とは何だったのか。

 分からないところがあるたびに、答えを見つけなければ先へ進めないように思っていた。

 

 今も、知りたい気持ちはある。

 十四番の聞書が明日見つかれば、きっとすぐに読む。

 それでも、分からないまま残っていることが、前ほど落ち着かなくはなかった。

 

「あ、これ?」

 後ろから声がして、陽奈は振り返った。

 同じクラスの女子が二人立っていた。

 一人はパンの袋を持っている。

 

「何しよん?陽奈。」

「ちょっと見に来ただけ。」

「昨日の水漏れのとこやろ?」

「うん。」

 女子の一人が表示へ近づく。

「この板の『返水』って、どう読むん?」

 その二文字が誰かの声になった瞬間、陽奈は思っていたより強く反応した。

 驚いたというより、胸の奥に張っていたものが、ふっと緩んだ。

「たぶん、かえりみず。」

「たぶんなん?」

「昔の呼び方だから。」

 答えながら、自分でも不思議だった。

 

 この二人に詳しく知ってほしいと思っていたわけではない。

 怪異の話をするつもりもない。

 それでも、自分と祖母だけではない誰かが「返水」と口にしたことが、少し嬉しかった。

 

 もう一人も横から覗き込む。

「ここ、水場やったん?」

「学校ができる前に、この辺にあったみたい。」

「へえ。」

 それだけだった。

 もっと驚くかと思った。

 詳しく聞かれるかとも思った。

 けれど、一人はパンの袋を折りながら、

「昔って、この辺何もなかったんかな。」

 と言い、もう一人は、

「田んぼとかじゃない?」

 と返した。

 

「知らんけど。」

「知らんのかい。」

 二人が笑う。

 陽奈もつられて笑った。

 それくらいでいいのかもしれない。

 返水について話すことが、特別な人だけのものになる必要はない。

 

 やがて、二人は昼休みが終わる時間を気にして、校舎へ戻っていった。

 陽奈も後を追おうとして、一度だけ表示を振り返った。

 

 返水。

 

 意味を理解したわけではない。

 昔の習慣を知ったわけでもない。

 明日には忘れているかもしれない。

 それでも、さっきまで自分の中にしかなかったものの一部が、ほんの少し外へ出ていったような気がした。

 

 

 

 

 その日の夕方。

 陽奈は祖母と一緒に蔵へ入った。

 机の上には、ここ数日で使った資料が積まれている。

 

 古い地図。

 工事の記録。

 雨乞いについて書かれた帳面。

 水場預りの名が残る紙。

 写真。

 聞き取った話を書いた手帳。

 そして、見つからなかった十四番に関する資料。

 返水聞書。

 それだけは、最後まで出てこなかった。

 

 祖母が箱へ資料を戻していく。

「十四番、結局なかったね。」

「うん。別の箱に入ってるかもしれないし、昔誰かが持ち出したままかもしれない。なくなった理由も分からないね。」

「いつか出てくるかな。」

「出てきたら、そのとき読めばいいよ。」

 祖母は簡単に言った。

 

 陽奈は、棚に残された十四番の空白を見る。

 以前なら、そこで話が終わることが嫌だったかもしれない。

 今は、少し違った。

「見つかったら教えて。」

「もちろん。」

 

 それで話を終えられた。

 机の端には、新しい紙の束が置かれている。

 陽奈はそれを見る。

「これ、使っていい?」

「何に?」

「今回の記録に。」

 祖母の手が止まった。

 

「陽奈、あんたが書くのかい?」

「書く。」

 自分でも、思っていたより迷いなく言えた。

 陽奈は椅子を引いた。

 

 祖母は何も言わず、紙を陽奈の前へ置いた。

 新しい紙は、古い記録の隣に置くと妙に白かった。

 

 少し緊張した。

 自分が書いたものも、いつかこの蔵のどこかに収められるのだろうか。

 誰かが読むかもしれない。

 自分が知らない誰かが。

 その人は、自分の書いた言葉から今回の出来事を知ることになる。

 そう考えると、筆を持つ手が急に重くなった。

 

 陽奈は日付を書く。

 場所。

 調査のきっかけ。

 最初に聞いた水音。

 濡れた足跡。

「返して」という声。

 

 書き始めてすぐ、手が止まった。

 どこまで書けばいいのだろう。

 起きたことを全部書けば、かなり長くなる。

 けれど、短くしすぎれば、何かを落とす。

 何を残して、何を削るのか。

 

 それを決めるのも、書く人間なのだ。

 陽奈は、祈雨について書かれた古い紙を手に取った。

 そこには、雨を願ったことがある。

 人が集まったことがある。

 そして、その後。

 降雨。

 その二文字だけが残っている。

 

「おばあちゃん。」

「なに?」

「この『降雨』って書いた人、雨が降ったときにそこにいたのかな。」

「さあ。後からまとめた人かもしれないし、その場にいた人かもしれない。」

「そっか。」

 陽奈は二文字を見つめた。

 

 間違ってはいない。

 雨は降った。

 記録として必要なことも、きっとそれだった。

 なのに、妙に胸の内側がざらついた。

 老婦人が話してくれた光景を思い出す。

 

 乾いた田。

 空を見ていた大人たち。

 待ち続けた雨が落ちてくる。

 外へ出る。

 笑っていた。

 その声を、老婦人は何十年も経って覚えていた。

 でも、紙の上にはない。

 

 陽奈は新しい記録へ書き足した。

 

 ――当時を知る住民への聞き取りでは、長い日照りの後に雨が降  

   った際、大人たちが外へ出て喜び、笑っていたという記憶が  

   残っている。

 

 祖母が横から紙を見る。

「それも残すの?」

「うん。」

 陽奈は古い記録の「降雨」を指で示した。

「『雨が降った』だけだと、あの人たちが笑ってたことは残らないから。」

 祖母はしばらく紙を見ていた。

 

「全部は残せないよ。」

 その言葉に、陽奈は少しだけ手元を見る。

 分かっている。

 老婦人が覚えていたことだって、全部聞けたわけではない。

 今日、自分が書くことも、起きたことの全部にはならない。

 

「うん。」

 陽奈は筆を持ち直した。

「だから、私が残したいと思ったことは、残しておく。」

 祖母はそれ以上何も言わなかった。

 

 蔵の外で、鳥の声がした。

 陽奈は続きを書く。

 返水は、学校建設以前に閉じられた。

 水路も形を変えた。

 石と考えられるものは移された可能性があるが、現在学校北側に残る石と同一であるかは確認できない。

 水場預りと記された女性は、返水閉鎖後も石のある方向へ通っていたという証言がある。

 

 雨の後、水を返したこと。

 石を清めたこと。

 その行為について、「受ケタルモノヲ忘レヌタメ」とする記録があること。

 しかし、どのような水を、どのような手順で返したのかは不明。

「返して」という声との関係も不明。

 

 水面に現れた白い人影についても、水場預りだった女性と同一とは確認できない。

 複数の人影に見える現象もあった。

 

 陽奈はそこで手を止めた。

 書けば書くほど、「不明」が増えていく。

 数日前なら、その多さが怖かったと思う。

 自分たちは結局、何も分かっていないのではないか。

 もっと調べなければならないのではないか。

 そんなふうに考えただろう。

 

 今は、紙の上に並んだ不明の文字を見ても、筆を置こうとは思わなかった。

「分からなかったことも書くんだね。」

 祖母が言った。

 陽奈は頷く。

「次にこれを読む人が、そこを勝手に埋めなくて済むように。」

 言ってから、自分が昨日したことを思い出した。

 

 水を使わなかった。

 昔の習わしを作り直さなかった。

 分からなかったから、やらなかった。

「それに、分からなかったことを分かったことにしたら、今日まで調べた意味がなくなる気がする。」

 祖母は小さく頷いた。

 

 陽奈は最後の部分を書く。

 学校北側で境を取り、水の広がりを止めたこと。

 境の位置は、旧水路、返水の位置、移された可能性のある石、現在の学校敷地を照合して決めたこと。

 石の周囲を整えたこと。

 昔の習わしを再現することはしなかったこと。

 返水について、現在確認できる事実と不明点を記した仮表示を設置したこと。

 その後の水の減少。

 声と人影は確認されていない。

 そこで、また筆が止まった。

 

 ――鎮魂、成功。

 

 頭に浮かんだ。

 そう書けば簡単だった。

 けれど、その言葉を書いた瞬間、昨日の出来事に答えができてしまう。

 

 表示を置いたからなのか。

 石の周囲を整えたからなのか。

 自分が声をかけたからなのか。

 境を取ったことまで含めて作用したのか。

 あるいは、まったく別の理由だったのか。

 陽奈には分からない。

 だから、

 

 ――現時点では、怪異は沈静化している。

 

 と書いた。

 書き終えると、不思議な気持ちになった。

 初めて「返して」と聞いた夜なら、こんな終わり方には納得できなかったかもしれない。

 何だったのか知りたかった。

 どうすれば終わるのか知りたかった。

 終わったのなら、なぜ終わったのかも知りたかった。

 今だって知りたい。

 

 けれど、その気持ちと、分からないことを分からないまま残すことは、同時にできるのだと初めて思った。

「慎重だね。」

 祖母が笑う。

 

「だって誰かさんに教わったから。」

「いい先生だったんだね。」

「自分で言う?」

 陽奈も笑った。

 

 少し肩の力が抜けた。

 最後に自分の名を書く。

 

 九重陽奈。

 

 書いた名前を見て、また少し緊張した。

 自分が調べた。

 自分が見た。

 自分が判断した。

 そのことを、名前をつけて残す。

 

 杭を置いたときとは違う重さだった。

 祖母が窓を少し開ける。

 夕方の風が入ってきた。

 古い紙の匂いが動く。

 陽奈の新しい記録も、その中にある。

 

 

 

 

 紙が乾くまでの間、陽奈は蔵の棚を眺めていた。

 ここには、何十年、何百年分もの記録がある。

 それでも、全部ではない。

 十四番はない。

 返水の名の由来も分からない。

 昔の人が何を思って水を返したのかも、完全には残っていない。

 九重家が記録を続けても、消えるものはある。

 祖母たちが守ってきたものの中にも、理由の分からなくなった決まりがある。

 

 記録すれば、何もかも失われずに済むわけではない。

 そのことが、以前よりよく分かった。

 それでも自分は、さっきまで紙に向かっていた。

 

 

「ねえ、おばあちゃん。」

「なに?」

「返水のこと、みんなが知らなくなったのって、悪いことだったのかな。」

 祖母は箱へ紐を掛けながら、少し考えた。

「陽奈はどう思うかい?」

 すぐには答えられなかった。

 

 以前なら、祖母から答えを聞きたかったと思う。

「分からない。」

 口にしてみる。

 その言葉は、思ったより軽かった。

 

「水場がなくなって、水道ができて、学校が建って。あの人も歩けなくなった。誰かが忘れさせようとしたわけじゃないでしょう。」

「だね。」

「今の学校の人が知らないことだって、責められないと思う。私も、この前まで知らなかったし。」

 祖母は紐を結び終える。

 

「そうだね。」

 陽奈は新しく書いた記録を見る。

 自分が知らなかったことが、そこに並んでいる。

 知らなかった自分と、知っている今の自分。

 何か大きく変わったようには見えない。

 

 明日も学校へ行く。

 友人と話す。

 授業を受ける。

 でも、学校の北側を通れば、もう以前と同じようには見えないだろう。

 

「でも、知ったあとにどうするかは、また別なのかな。」

 祖母は、その言葉には答えなかった。

 乾きかけた紙を一枚持ち上げ、陽奈へ返す。

「それは、これから考えればいいんじゃない?」

 陽奈は紙を受け取った。

 まだ少しだけ、墨の匂いがした。

 

 

 

 

 翌日。

 昼休みの校舎北側では、何人かの生徒が仮の表示の前に立っていた。

「返水って何?」

「ここに書いとるやん。」

「いや、読んでもよう分からん。」

「昔、水あったんやろ。」

「池?」

「水場って書いとる。」

 陽奈は少し離れたところを通りながら、その会話を聞いた。

 

 足が少しだけ遅くなった。

 説明しに行こうとは思わなかった。

 怪異のことを話すつもりもない。

 けれど、また誰かが「返水」と言った。

 

 昨日感じたのと同じ、小さな温かさが胸の奥に生まれた。

 大げさなものではなかった。

 誰かに分かってもらえた、というほどでもない。

 ただ、名前が自分の手を離れて、誰かの言葉になっている。

 それが少し嬉しかった。

 老婦人の声が蘇る。

 

 ――場所がなくなるとね、話もしないようになるのよ。

 

 陽奈は表示を見る。

 場所そのものは戻らない。

 昔の水路も戻らない。

 それでも今、ほんの短い間だけ、その場所について話している人がいる。

 

 それを見て、なんだか無性にそれを老婦人に報告したくなった。

 返水のこと、学校の子が話していましたよ。

 そう言ったら、あの人はどんな顔をするだろう。

 

 想像すると、陽奈の口元が少し緩んだ。

 石の周囲は乾いていた。

 水音もしない。

 白い姿も見えない。

 仮の表示の紙が、風に小さく揺れている。

 

 やがて予鈴が鳴った。

「やば、戻ろ。」

「次なんやった?」

「数学。」

「最悪じゃん。」

 生徒たちが校舎へ走っていく。

 陽奈も教室へ戻ろうとした。

 

 数歩進んで、一度だけ振り返る。

 あの声が、本当は何を返してほしかったのか。

 陽奈には、最後まで分からなかった。

 

 水だったのかもしれない。

 石だったのかもしれない。

 雨の後に続けられていた何かだったのかもしれない。

 あるいは、そのどれでもなかったのかもしれない。

 

 数日前なら、その答えがないことが怖かった。

 今も、気にならないわけではない。

 けれど、胸の中に残った空白を、急いで何かで埋めたいとは思わなかった。

 

 校舎の北側。

 かつてこの土地にあった場所の名前が、白い紙の上にある。

 

 返水。

 

 風が吹いた。

 紙が揺れる。

 それを見ていた生徒の一人が、もう一度その名前を口にした。

「返水って、変な名前やな。」

「昔の名前なんやろ。」

 二人はそれだけ話して、校舎へ戻っていった。

 

 予鈴が鳴り終わる。

 廊下の向こうで、友人が手を振っていた。

「陽奈、早くいこ。先生来るよ。」

「今行く。」

 陽奈は前を向いた。

 

 友人のところまで小走りで追いつく。

 そのまま二人で教室へ入った。

 窓の外には、いつもの校舎と、いつもの空が見えていた。

 もう、水を踏む音は聞こえない。

 ただ、昨日まで誰も口にしなかった名前が、一つだけ残っていた。

 そうして、またいつもの午後が始まった。

 

 

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