九重の境   作:モレ(一般人?)

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善意
帰れない道【壱】


 一学期の梅雨が、もうずいぶん前のことのように思える。

 

 九月に入っても暑い日は続いていたが、朝の風には、ときどき夏とは違う匂いが混じるようになった。

 

 陽奈は自転車を押して、学校へ続く坂を上っていた。

 道沿いの植え込みでは、まだ蝉が鳴いている。少し先を歩く小学生が、ランドセルの背を揺らしながら日陰へ走った。

 

 坂の途中で、陽奈は民家の脇に残った古い石垣へ目を向けた。

 以前なら、そのまま通り過ぎていたと思う。

 梅雨の頃、学校の裏に埋もれていた返水のことを知ってから、こういうものが時々目に留まるようになった。

 

 もっとも、立ち止まってまで調べるほどではない。

 陽奈は石垣から目を離した。

 坂の上には、いつもの校舎が見えている。

 今日も今日とて、暑くなりそうだった。

     

 

 

 

「暑い。」

 教室へ入って最初に聞こえてきたのが、それだった。

 窓際の席で、友人が机に頬をつけている。陽奈が鞄を置くと、顔だけこちらへ向けた。

「九月って、秋やないん?」

「暦の上ではね。」

「じゃあ、この暑さは何なん。」

友人がこの暑さにたまらずボヤいた。

「九月の暑さ。」

「答えになってない。」

 陽奈は笑いながら椅子を引いた。

 

 始業式から一週間ほど経って、学校はすっかり普段の調子に戻っていた。

 夏休みの宿題が終わっていないと騒いでいた者も、休み時間のたびに旅行の話をしていた者も、いつの間にか次の小テストや週末の予定の話をしている。

 

 陽奈も同じだった。

 朝起きて、学校へ来る。

 授業を受ける。

 友人と話す。

 家へ帰る。

 夕食を食べて、宿題をして、眠る。

 梅雨の頃、放課後になるたび学校の裏へ足を運び、古い地図を広げ、人の記憶を訪ね歩いていた日々の方が、今では少し現実味を失っている。

 

 返水のことを忘れたわけではない。

 家の蔵には、自分で書いた記録が残っている。

 けれど、だからといって毎日思い出すものでもなかった。

「陽奈、聞いてる?」

「聞いてるよ。」

「じゃあ、何の話しよった?」

「……暑いって話。」

「最初しか聞いてないやん。」

 友人が起き上がった。

 

「文化祭の話。クラスで何するかって。」

「ああ、そっち。」

「今日決めるらしいよ。絶対まとまらんと思う。」

「始まる前から諦めんでよ。」

 予鈴が鳴った。

 

 廊下から生徒が戻ってくる。

 教室の前では、担任がプリントの束を抱えたまま、誰かに捕まって話をしていた。

 陽奈は教科書を机の中から出した。

 たったそれだけのことで、いつもの一日が始まった。

 

 

 

 

 三時間目の体育が終わる頃には、朝の予想どおり気温が上がっていた。

 教室へ戻ってきた生徒たちは、冷房の風が当たる場所に集まった。

「そこ、私の席なんやけど。」

「一分だけ。」

「さっきも一分って言いよったやん。」

「じゃあ、あと三十秒。」

「増えとるし。」

 

 そんなやり取りを横で聞きながら、陽奈は水筒の水を飲んだ。

 窓の外では、グラウンドが白く光っている。

 夏休み前とほとんど変わらない景色だった。

 

 違うところがあるとすれば、校舎の裏手くらいだろうか。

 梅雨の大雨で、斜面の一部から土が流れた。

 大きな被害ではなかったらしい。夏休みの間に危ないところは片づけられ、今は立入禁止の表示もほとんど外されている。

 

 始業式の日、担任からも「裏の斜面はまだ土が緩いところがあるから、用事がないなら近づかないように」と言われた。

 陽奈も一度だけ、廊下の窓から見た。

 草の間に茶色い土が覗いていた。

 それだけだった。

 あの雨なら、土くらい流れるだろうと思った。

 

 

「九重。」

 名前を呼ばれた。

 振り向くと、体育係の男子がプリントを差し出している。

「これ後ろに回して。」

「あ、うん。」

 陽奈は受け取り、後ろの席へ渡した。

 

 窓の外から視線を戻す。

 四時間目の教師が入ってきた。

 

 

 

 

 昼休み。

 机を寄せて弁当を食べていると、向かいの友人が卵焼きを箸で持ち上げた。

「これ、甘いやつと思う?」

「知らないよ。」

「見た目で。」

「分からんって。」

「陽奈、そういうの得意そうやん。」

「どういうイメージ?」

「何か見たら分かりそう。」

「私、超能力者じゃないんだけど。」

 友人が卵焼きを食べる。

 数秒、真顔で噛んだ。

 

「しょっぱい。」

「知らんって言ったじゃん。」

 

「お母さん、今日間違えとる。」

「たまにはいいじゃん。」

「朝から甘い口やったのに。」

「今は昼だけどね。」

 隣で聞いていた別の友人が吹き出した。

 そのまま話は、購買のパンの話へ移った。

 新しく入ったパンがおいしいとか、いつ行けば売り切れていないとか、そんな話だった。

 

 陽奈は弁当を食べながらそんな話を聞いていた。

 窓の外を風が通り、カーテンが少し膨らんだ。

 どこか遠くで、工事の音がしている。

 何度か金属を打つような音が続き、やがて止まった。

 誰も気に留めなかった。

 陽奈も気にしなかった。

   

 

 

 

 午後の授業は眠かった。

 五時間目の途中で、斜め前の男子が欠伸をした。

 教師が黒板へ向き直る。

 また欠伸をする。

 

 三回目になると、近くの生徒が肩を震わせ始めた。

 四回目。

 陽奈もさすがに笑った。

 教師が振り返る。

「そんなに眠いなら、一回立つか?」

「大丈夫です。」

「その大丈夫は信用できんな。」

 教室に笑いが起きた。

 

 男子は恥ずかしそうに背筋を伸ばした。

 十分ほどすると、また欠伸をした。

 今度は教師まで笑った。

 

 放課後になる頃には、そんなことも忘れていた。

 帰りのホームルームが終わると、教室が一気に騒がしくなる。

 椅子を引く音。

 鞄のファスナー。

 グラウンドへ急ぐ生徒の足音。

 陽奈は教科書を鞄へ入れた。

「陽奈、今日コンビニ寄らん?」

 朝から暑いと言っていた友人が、隣から顔を出す。

「何買うの?」

「アイス。」

「朝あれだけ暑いって文句言ってたもんね。」

 

「一日耐えたご褒美。」

「何もしてないじゃん。」

「いんや、頑張って学校来た。」

「それはみんな一緒。」

「じゃあ、みんなアイス食べたらいい。」

 

 妙に堂々としている。

 陽奈は笑って鞄を持った。

「いいよ。寄ろう。」

 二人で教室を出る。

 階段を下りながら、友人は何味にするか本気で悩んでいた。

 

「チョコかな。」

「さっきバニラって言ってなかった?」

「階段下りながら気が変わった。」

「早いね。」

「でも抹茶もある。」

「着いてから考えれば?」

「それじゃ遅い。」

「何が?」

「心の準備。」

 陽奈は笑った。

 

 昇降口で靴を履き替え、外へ出る。

 午後の日差しはまだ強い。

 けれど、朝より風があった。

 自転車置き場へ向かう途中、校舎の角から裏手が少しだけ見えた。

 斜面の草が途切れたところに、雨で流れた土が露出している。

 その端に、夏休み前には見覚えのなかったものが覗いていた。

 

 石だろうか。

 土に半分埋もれていて、ここからではよく分からない。

 陽奈は歩きながら、ほんの少しだけそちらを見た。

 

 

「陽奈?」

 前を歩いていた友人が振り返る。

「何しよるん。置いてくよ。」

「あ、ごめん。」

 陽奈は足を速めた。

 わざわざ見に行くほどのものでもない。

 石なら、この町にはいくらでもある。

 

 二人で自転車を出す。

 正門を抜けると、友人がすぐに先へ出た。

「早く。アイスなくなる。」

「そんなすぐなくならんって。」

「分からんやん。」

「いくつ買うつもりなのよ。」

 笑いながらペダルを踏む。

 

 

 学校が少しずつ遠ざかっていく。

 坂を下れば、夕方の町が広がっていた。

 朝に見た古い石垣の前を、今度は自転車で通り過ぎる。

 陽奈はそちらを見なかった。

 

 風が髪を揺らす。

 蝉の声に混じって、どこかで秋の虫が鳴いていた。

 梅雨は終わった。

 夏休みも終わった。

 学校では、いつもの毎日が始まっている。

 陽奈もその中にいた。

 陽奈は友人の自転車を追って、坂道を下っていった。

 夕方の町には、まだ夏の日差しが残っていた。

 

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