九重の境   作:モレ(一般人?)

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帰れない道【弐】

 放課後、陽奈は昇降口を出て、自転車置き場へ向かった。

 

 空には薄い雲が広がっていた。風が吹くたび、運動場の端に並んだ木々がざわめく。昼間の暑さは残っていたが、日陰に入ればいくらか楽だった。

 

 自転車の鍵を外し、鞄を籠に入れる。

 そのとき、体育館の脇から一人の女子生徒が歩いてきた。

 

 二年生だった。

 裏門のある方から、校内へ向かって歩いてくる。

 それ自体はおかしなことではない。部活動へ向かう生徒もいれば、忘れ物を取りに戻る生徒もいる。

 ただ、その先輩は自転車置き場の手前で足を止めた。

 それから校舎を見た。

 次に、体育館を振り返った。

 もう一度、校舎を見る。

 

 それはまるで、自分が今どこにいるのか確かめているようだった。

 

「……あれ。」

 

 小さな声が漏れる。

 そして近くで自転車を出していた同級生らしき女子生徒が、その声に気づいた。

 

「香織、どうしたん?」

 香織と呼ばれた先輩は、すぐには答えなかった。

 鞄からスマートフォンを取り出す。

「今、四時三十分よね。」

「うん。たぶん。」

 友人も自分のスマートフォンを見た。

「そっか。」

 香織先輩は画面を消さず、その時刻をしばらく見ていた。

「何かあった?」

「うーん……。」

 返事を濁しながら、香織先輩はまた後ろを振り返った。

 

 体育館の脇を抜けた先に、この学校の裏門がある。

「私、今どっちから来た?」

 友人が首を傾げた。

「裏の方から来よったよ。体育館の横。」

「そうよね。」

「忘れ物?」

「いや、それが分からんとよ。」

 香織先輩は困ったように笑った。

 

「私、帰りよったはずなんになぁ。」

 友人の表情が少し変わる。

 陽奈は自転車のハンドルを握ったまま、二人の近くを通ろうとしていた。

 聞こうとしなくても、声は届いた。

「裏門から?」

「うん。家、あっちから帰った方が近いけん。」

 香織先輩は体育館の向こうを指した。

 

「門を出て、道路まで行った。そこまでは覚えとる。」

「じゃあ戻ってきたんやない?」

「たぶん、そうなんやろうけど……。」

 香織先輩は眉を寄せた。

「なんでやか、戻ってきたところだけ、全然覚えとらん。」

 

 その言葉に、友人が何か言おうとして、香織先輩の顔を見た。

「もしかして気分悪い?」

「それは大丈夫。」

「ほんと?」

「うん。頭も痛くないし、気持ち悪くもない。」

 香織先輩は少し考えてから、手にしていたスマートフォンを鞄へ戻した。

「でも、今日は正門から帰る。家着いたらちょっと休むよ。」

「一人で大丈夫?」

「大丈夫。心配なら、着いたら連絡する。」

「して。」

「分かった。」

 香織先輩は素直に頷いた。

 そのまま二人で正門の方へ歩いていく。

 陽奈も自転車を押し始めた。

 

 前を歩く二人から、まだ声が聞こえた。

「ほんとに覚えてないん?」

「うん。」

 香織先輩は歩きながら、自分でも確かめるように言った。

「門を出て、道路を少し歩いたところまでは覚えとるんよ。向かいから自転車が来たけん、端に寄ったのも覚えとる。」

 そこで一度、後ろを振り返った。

 

「その次が、この体育館の横。」

「もしかして寝不足やない?」

「いや、昨日は普通に寝たよ。でも、疲れとるんかもしれんね。」

 香織先輩は否定しきらなかった。

 

 正門の近くまで来ると、友人が自転車にまたがった。

「帰ったら、ほんとに連絡してよ。」

「するって。」

「絶対ばい。忘れんでよ。」

「えー、私、そこまで信用ない?」

「うん。今日だけは。」

「ひどいなあ。」

 香織先輩が笑う。

 友人もようやく笑って、先に走っていった。

 

 香織先輩は歩いて正門を出た。

 陽奈も少し遅れて門を抜ける。

 その後ろ姿は、交差点を曲がるまで一度も学校へ戻らなかった。

 

 

 

 

 翌日。

 昼休みに陽奈が階段を下りていると、踊り場で昨日の先輩とすれ違った。

 顔を見ただけで分かった。

 香織先輩の方も、陽奈を見て一瞬だけ足を緩めた。

 けれど、互いに知り合いではない。

 そのまますれ違う。

 

 香織先輩は友人と話しながら階段を上がっていった。

「昨日、大丈夫やった?」

「うん。家帰ってからは何ともなかったよ。」

「でも連絡遅かったやん。」

「ごめんって。帰ってすぐ寝とった。」

「ほらやっぱり。やっぱ疲れとったんやない?」

「そうかもね。」

 声が上の階へ遠ざかっていく。

 陽奈も階段を下りた。

 

 

 

 

 その日の放課後。

 陽奈は教室で提出物を書き終えてから、少し遅れて昇降口へ下りた。

 靴を履き替え、外へ出る。

 運動場では、すでに部活動が始まっていた。笛の音が一度響き、それを追うように掛け声が上がる。

 自転車置き場へ向かう途中で、前を歩いている女子生徒に気づいた。

 

 昨日の先輩だった。

 今日は一人だった。

 昇降口から出てきた先輩は、自転車置き場には寄らず、そのまま体育館の方へ歩いていく。

 昨日の会話が、陽奈の頭に残っていた。

 確か先輩の家は、あちらから帰った方が近い。

 先輩は立ち止まることもなく体育館の脇へ入り、角の向こうへ姿を消した。

 

 陽奈はそれをしり目に、自分の自転車のところまで行った。

 鞄を籠へ入れ、鍵を開ける。

 隣の自転車とハンドルが絡んでいた。

 少し引く。

 抜けない。

 前輪を持ち上げ、隣の自転車を倒さないように気をつけながら向きを変える。そうやってようやく外れたとき、体育館の方から足音が聞こえた。

 

 陽奈は顔を上げる。

 先ほどの先輩が歩いてきた。

 裏門のある方からだった。

 先輩は数歩進んだところで、自転車置き場に気づいたようだった。

 

 先輩の足が止まる。

 それから校舎を見る。

 体育館を振り返る。

 昨日と同じ様子だった。

 

 

「……また。」

 先輩は鞄からスマートフォンを取り出した。

 それから画面を眺める。

 そのまま、しばらく動かなかった。

 陽奈は自転車を押し出した。

 

 声をかけるべきか迷った。

 昨日の話をたまたま聞いただけで、名前も知らない。向こうからすれば、陽奈は近くにいただけの一年生だ。

 けれど、先輩の顔色が気になった。

 

「あの。」

 意を決して、先輩へと声をかけた。

 その声に、先輩が振り向いた。

「大丈夫ですか?」

「あ……うん。」

 先輩は反射的に答えたようだった。

「ありがとう。でも、大丈夫だよ。」

 

 しかしその声は、陽奈には昨日より小さく聞こえた。

 陽奈はそれ以上聞かなかった。

 

「そうですか。」

「うん。」

 先輩はスマートフォンを握ったまま、陽奈に軽く頭を下げた。

 陽奈も頭を下げる。

 それだけだった。

 

 自転車を押して正門へ向かう。

 数歩進んだところで、後ろから靴音がした。

 振り返ると、先輩もこちらへ歩いてきていた。

 裏門へ戻るのではなく、正門へ向かっている。

 陽奈は再び歩き始めた。

 それから少しして、校門の手前で、後ろから小さく息を吐く音が聞こえた。

 先輩が立ち止まっていた。

 正門の外を見ている。

 

 車が一台、道路を通り過ぎる。

 先輩はそれを待ってから門を出た。

 

 何も起こらない。

 先輩は歩道へ出て、学校から離れていく。

 陽奈も自転車にまたがった。

 少し先を歩く先輩は、交差点まで来ると足を止めた。

 右へ行けば、そのまま大きな通りへ出る。

 けれど、先輩はすぐには曲がらなかった。

 一度だけ、学校を振り返った。

 

 先輩の視線の先にあったのは、正門ではなかった。

 校舎の向こう。

 体育館と、そのさらに奥。

 裏門のある方だった。

 

 やがて先輩は前を向き、交差点を曲がった。

 陽奈は少し遅れてそこを通り過ぎた。

 自転車のタイヤが、乾いた路面を転がっていく。

 昨日は、体育館の脇から戻ってくるところを見た。

 今日も、同じだった。

 けれど、その前に何があったのかを、陽奈は見ていない。

 

 風が道路脇の草を揺らした。

 その向こうに学校の裏手が見える。

 梅雨の雨に削られた斜面だけが、周囲より少し明るい土の色を残していた。

 

 

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