放課後、陽奈は昇降口を出て、自転車置き場へ向かった。
空には薄い雲が広がっていた。風が吹くたび、運動場の端に並んだ木々がざわめく。昼間の暑さは残っていたが、日陰に入ればいくらか楽だった。
自転車の鍵を外し、鞄を籠に入れる。
そのとき、体育館の脇から一人の女子生徒が歩いてきた。
二年生だった。
裏門のある方から、校内へ向かって歩いてくる。
それ自体はおかしなことではない。部活動へ向かう生徒もいれば、忘れ物を取りに戻る生徒もいる。
ただ、その先輩は自転車置き場の手前で足を止めた。
それから校舎を見た。
次に、体育館を振り返った。
もう一度、校舎を見る。
それはまるで、自分が今どこにいるのか確かめているようだった。
「……あれ。」
小さな声が漏れる。
そして近くで自転車を出していた同級生らしき女子生徒が、その声に気づいた。
「香織、どうしたん?」
香織と呼ばれた先輩は、すぐには答えなかった。
鞄からスマートフォンを取り出す。
「今、四時三十分よね。」
「うん。たぶん。」
友人も自分のスマートフォンを見た。
「そっか。」
香織先輩は画面を消さず、その時刻をしばらく見ていた。
「何かあった?」
「うーん……。」
返事を濁しながら、香織先輩はまた後ろを振り返った。
体育館の脇を抜けた先に、この学校の裏門がある。
「私、今どっちから来た?」
友人が首を傾げた。
「裏の方から来よったよ。体育館の横。」
「そうよね。」
「忘れ物?」
「いや、それが分からんとよ。」
香織先輩は困ったように笑った。
「私、帰りよったはずなんになぁ。」
友人の表情が少し変わる。
陽奈は自転車のハンドルを握ったまま、二人の近くを通ろうとしていた。
聞こうとしなくても、声は届いた。
「裏門から?」
「うん。家、あっちから帰った方が近いけん。」
香織先輩は体育館の向こうを指した。
「門を出て、道路まで行った。そこまでは覚えとる。」
「じゃあ戻ってきたんやない?」
「たぶん、そうなんやろうけど……。」
香織先輩は眉を寄せた。
「なんでやか、戻ってきたところだけ、全然覚えとらん。」
その言葉に、友人が何か言おうとして、香織先輩の顔を見た。
「もしかして気分悪い?」
「それは大丈夫。」
「ほんと?」
「うん。頭も痛くないし、気持ち悪くもない。」
香織先輩は少し考えてから、手にしていたスマートフォンを鞄へ戻した。
「でも、今日は正門から帰る。家着いたらちょっと休むよ。」
「一人で大丈夫?」
「大丈夫。心配なら、着いたら連絡する。」
「して。」
「分かった。」
香織先輩は素直に頷いた。
そのまま二人で正門の方へ歩いていく。
陽奈も自転車を押し始めた。
前を歩く二人から、まだ声が聞こえた。
「ほんとに覚えてないん?」
「うん。」
香織先輩は歩きながら、自分でも確かめるように言った。
「門を出て、道路を少し歩いたところまでは覚えとるんよ。向かいから自転車が来たけん、端に寄ったのも覚えとる。」
そこで一度、後ろを振り返った。
「その次が、この体育館の横。」
「もしかして寝不足やない?」
「いや、昨日は普通に寝たよ。でも、疲れとるんかもしれんね。」
香織先輩は否定しきらなかった。
正門の近くまで来ると、友人が自転車にまたがった。
「帰ったら、ほんとに連絡してよ。」
「するって。」
「絶対ばい。忘れんでよ。」
「えー、私、そこまで信用ない?」
「うん。今日だけは。」
「ひどいなあ。」
香織先輩が笑う。
友人もようやく笑って、先に走っていった。
香織先輩は歩いて正門を出た。
陽奈も少し遅れて門を抜ける。
その後ろ姿は、交差点を曲がるまで一度も学校へ戻らなかった。
◇
翌日。
昼休みに陽奈が階段を下りていると、踊り場で昨日の先輩とすれ違った。
顔を見ただけで分かった。
香織先輩の方も、陽奈を見て一瞬だけ足を緩めた。
けれど、互いに知り合いではない。
そのまますれ違う。
香織先輩は友人と話しながら階段を上がっていった。
「昨日、大丈夫やった?」
「うん。家帰ってからは何ともなかったよ。」
「でも連絡遅かったやん。」
「ごめんって。帰ってすぐ寝とった。」
「ほらやっぱり。やっぱ疲れとったんやない?」
「そうかもね。」
声が上の階へ遠ざかっていく。
陽奈も階段を下りた。
◇
その日の放課後。
陽奈は教室で提出物を書き終えてから、少し遅れて昇降口へ下りた。
靴を履き替え、外へ出る。
運動場では、すでに部活動が始まっていた。笛の音が一度響き、それを追うように掛け声が上がる。
自転車置き場へ向かう途中で、前を歩いている女子生徒に気づいた。
昨日の先輩だった。
今日は一人だった。
昇降口から出てきた先輩は、自転車置き場には寄らず、そのまま体育館の方へ歩いていく。
昨日の会話が、陽奈の頭に残っていた。
確か先輩の家は、あちらから帰った方が近い。
先輩は立ち止まることもなく体育館の脇へ入り、角の向こうへ姿を消した。
陽奈はそれをしり目に、自分の自転車のところまで行った。
鞄を籠へ入れ、鍵を開ける。
隣の自転車とハンドルが絡んでいた。
少し引く。
抜けない。
前輪を持ち上げ、隣の自転車を倒さないように気をつけながら向きを変える。そうやってようやく外れたとき、体育館の方から足音が聞こえた。
陽奈は顔を上げる。
先ほどの先輩が歩いてきた。
裏門のある方からだった。
先輩は数歩進んだところで、自転車置き場に気づいたようだった。
先輩の足が止まる。
それから校舎を見る。
体育館を振り返る。
昨日と同じ様子だった。
「……また。」
先輩は鞄からスマートフォンを取り出した。
それから画面を眺める。
そのまま、しばらく動かなかった。
陽奈は自転車を押し出した。
声をかけるべきか迷った。
昨日の話をたまたま聞いただけで、名前も知らない。向こうからすれば、陽奈は近くにいただけの一年生だ。
けれど、先輩の顔色が気になった。
「あの。」
意を決して、先輩へと声をかけた。
その声に、先輩が振り向いた。
「大丈夫ですか?」
「あ……うん。」
先輩は反射的に答えたようだった。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。」
しかしその声は、陽奈には昨日より小さく聞こえた。
陽奈はそれ以上聞かなかった。
「そうですか。」
「うん。」
先輩はスマートフォンを握ったまま、陽奈に軽く頭を下げた。
陽奈も頭を下げる。
それだけだった。
自転車を押して正門へ向かう。
数歩進んだところで、後ろから靴音がした。
振り返ると、先輩もこちらへ歩いてきていた。
裏門へ戻るのではなく、正門へ向かっている。
陽奈は再び歩き始めた。
それから少しして、校門の手前で、後ろから小さく息を吐く音が聞こえた。
先輩が立ち止まっていた。
正門の外を見ている。
車が一台、道路を通り過ぎる。
先輩はそれを待ってから門を出た。
何も起こらない。
先輩は歩道へ出て、学校から離れていく。
陽奈も自転車にまたがった。
少し先を歩く先輩は、交差点まで来ると足を止めた。
右へ行けば、そのまま大きな通りへ出る。
けれど、先輩はすぐには曲がらなかった。
一度だけ、学校を振り返った。
先輩の視線の先にあったのは、正門ではなかった。
校舎の向こう。
体育館と、そのさらに奥。
裏門のある方だった。
やがて先輩は前を向き、交差点を曲がった。
陽奈は少し遅れてそこを通り過ぎた。
自転車のタイヤが、乾いた路面を転がっていく。
昨日は、体育館の脇から戻ってくるところを見た。
今日も、同じだった。
けれど、その前に何があったのかを、陽奈は見ていない。
風が道路脇の草を揺らした。
その向こうに学校の裏手が見える。
梅雨の雨に削られた斜面だけが、周囲より少し明るい土の色を残していた。