傘を開いた陽奈は、すぐには歩き出さなかった。
昇降口の屋根を打つ雨が、絶え間なく辺りに響いている。校庭へ続く階段の先は、降りしきる雨で白く霞み、少し離れただけの木々さえ輪郭を失っていた。
さっきの音が、まだ耳に残っている。水の中を、誰かが歩いたような音。
そんなことがあるはずはない、と陽奈は思う。
校舎の裏手には、確かに水が溜まりやすい場所がある。古い側溝も残っているし、雨が強く降れば、そこから水があふれることもある。誰かがそこを歩けば、似たような音がするだろう。
それだけのことだ。
「陽奈、帰らないの?」
振り返ると、友達が傘を差したまま、昇降口の軒下からこちらを見ていた。
「ごめん。ちょっとだけいい?」
「何か忘れたの?」
「ううん……。」
陽奈は校舎の裏へ目を向けた。
雨の向こうに、体育館の壁が見える。そのさらに奥に、古い倉庫と、校庭の端を囲む木立がある。普段なら部活動の生徒が行き来する場所だが、今日は雨のせいで人影がない。
「さっき、あっちから音がした気がして。」
「音?」
「うん。水の音。」
友達はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「こんな雨だし、いろんなところから聞こえるんじゃない?」
「……そうだよね。」
「風邪ひくよ。先に行ってるからね。」
「うん。」
友達はそう言って、傘を少し傾けながら校門の方へ歩いていった。
陽奈はその背中をただ見送った。
雨の中へ消えていく友達の姿が、二、三度傘の陰から見えなくなる。そのたびに、雨音だけが大きくなるような気がした。
陽奈は小さく息を吐いた。
自分でも、どうして気になっているのか分からない。
音を聞いただけだ。しかも、こんな雨の日なのだから、水の音くらいどこにでもある。
それなのに、足は校門とは反対の方へと向いていた。
昇降口を出て、校舎の脇を回る。
傘の上で雨粒が細かく跳ねた。
コンクリートの通路には薄く水が流れていて、靴底がその水を踏むたび、くぐもった音が返ってくる。校舎の壁には雨の筋がいくつも走り、窓から漏れる明かりが濡れた地面にぼんやりと映っていた。
いつも通っている場所なのに、雨の日は少し違って見える。
昼間には気にならない建物の古さも、こうして人の少ない時間に歩いていると妙に目についた。壁際に残された古い配管や、使われなくなった蛇口。塗り直された跡の下から、以前の色がところどころ覗いている。
校舎は、陽奈が生まれるずっと前からここにある。
何十年も前には、今とは違う生徒たちがこの廊下を歩いていたのだろう。制服も、教室の机も、先生たちの顔も違う。それでも、この場所そのものは残っている。
そう考えると、学校というものは少し不思議だった。
毎年、生徒は入れ替わっていく。
卒業していった人たちのことを、今の生徒はほとんど知らない。それでも、誰かが座っていた机に別の誰かが座り、同じ階段を上り、同じ窓から校庭を見る。
何も残っていないように見えて、実際には何かが積み重なっている。
陽奈はそんなことを考えながら、校舎の角を曲がった。
雨音が、少し遠くなった。建物が風を遮っているらしい。
その代わりに、別の音が聞こえてきた。
水が流れている。
さっきよりも、はっきりとしていた。
陽奈は立ち止まった。
校舎の裏には、古い排水路がある。
普段はほとんど水など流れていない。雨が降ったときだけ、校庭や屋根から集まった水がそこを通って、敷地の外へ流れていく。
けれど今日は、その流れがかなり速いようだった。
陽奈は傘を少し上げ、排水路の方へ近づいた。
水は濁っている。
落ち葉や小さな枝が流され、ところどころで渦をつくっていた。
「……やっぱり、これが原因かな。」
独り言が雨に紛れる。
これなら、さっきの音がしてもおかしくない。
そう思ったところで、陽奈はふと顔を上げた。
排水路の向こうに、古い石垣が見える。
その上には、校庭の端に立つ大きな楠が枝を広げていた。
昼休みに廊下から見たときより、ずっと近い。
幹は雨で黒く濡れ、ところどころに苔がついている。根元のあたりには土が盛り上がり、太い根が地面から這い出していた。
その木のそばに、小さな石が置かれている。
石碑というほど大きくはない。
ただの自然石にも見える。
けれど、陽奈はその前で足を止めた。
見覚えがあった。
先月、神社の石が動いていたことを祖母に話したとき、祖母は何も答えなかった。
そのときと同じような感覚が、胸の奥に残った。
理由は分からない。
ただ、近づいてはいけないような気がする。
陽奈は石を見つめた。
雨が、その表面を何度も滑っていく。
すると、
ぽちゃん。
石のすぐ脇で、水が跳ねた。
陽奈は反射的に身を引いた。
けれど、そこには何もない。
排水路から少し離れた場所なのに、水たまりができているわけでもない。
ただ濡れた土があるだけだった。陽奈はしばらく動けなかった。
雨は降っている。
木の葉から落ちた雫かもしれない。
そう思い直そうとして、ふと気づく。
楠の葉は、ほとんど揺れていなかった。
風がない。
それなのに、もう一度、水が跳ねた。
今度は、陽奈のすぐ後ろで。
ぱしゃん。
誰かが、濡れた地面を踏んだ。
そんな音だった。
陽奈はゆっくり振り返った。
そこには、誰もいなかった。
陽奈は、振り返ったまま動かなかった。
校舎の壁と石垣に挟まれた細い通路には、雨に濡れた景色があるだけだった。少し先に古い倉庫の扉が見え、その脇には使われなくなった植木鉢がいくつか並んでいる。どれも雨を受けて黒く沈んでいた。
人の姿はない。
念のため、傘を少し傾けて周囲を見回した。
誰かが隠れているような場所もない。倉庫の裏に回るには、陽奈のいる場所からはっきり見えるところを通らなければならないし、石垣の向こうは校庭だ。雨の中を誰かが走っていけば、それなりに目につくはずだった。
それでも、陽奈はすぐには安心できなかった。
さっき、確かに聞こえた。
足音だった。水を踏む音。
しかも、音がしたのは自分のすぐ後ろだった。
「……誰かいるの?」
声に出してから、少しおかしなことをしたと思った。
返事があるはずもない。
それでも、しばらく待ってみた。
雨が降っている。
屋根から落ちる水が、一定の間隔で地面を叩いている。排水路では濁った水が流れ続け、楠の葉から落ちた雫が、土の上に小さな穴をつくっていた。
その音の中に、誰かの気配が混じっていないか。陽奈は耳を澄ませた。
何も聞こえない。
……いや。
水の音がする。
さっきからずっと聞こえている排水路の音とは、少し違う。
もっと近い。
陽奈は足元へ目を落とした。
濡れた地面に、自分の靴跡が残っている。
昇降口からここまで歩いてきた跡だ。雨が強いせいで、靴底の形はすぐに崩れかけている。
そのすぐ隣に、別の跡があった。
陽奈は息を止めた。
一つだけではない。
地面に残った水の跡が、排水路の方からこちらへ続いている。
靴跡に見えた。
けれど、普通の靴跡とは少し違う。
細長く、輪郭がぼやけている。
まるで、濡れた足で歩いたような跡だった。
ひとつ。
ふたつ。
その先は、陽奈の足元で途切れている。
陽奈はしゃがみ込んだ。
指先を伸ばしかけて、やめた。
触らない方がいい。
そんな考えが、理由もなく浮かんだ。
代わりに傘を少し傾け、跡を眺める。
雨が降り続いているのに、その水の跡だけが妙にはっきり残っていた。
普通なら、こんな雨の中で地面に残った水など、すぐに周りの雨水と混ざってしまう。なのに、その跡は消えない。
陽奈はゆっくり立ち上がった。
排水路を見る。
濁った水が流れている。
流れは校舎の裏から、石垣に沿って外へ向かっている。
足跡も、その方向から来ていた。
陽奈は一歩だけ後ろへ下がった。
そのとき、傘の柄を握っていた手に、冷たいものが触れた。
雨水だと思った。
けれど、違った。
手の甲に落ちた水滴は、雨よりもずっと冷たかった。
陽奈は反射的に手を引いた。
見上げる。
傘の内側には、雨粒など入っていない。
それなのに、手の甲には一滴の水が残っていた。
透明な雫が、ゆっくりと指の付け根へ流れていく。
陽奈はそれを見つめた。
そして、もう一度、周囲を見回した。
誰もいない。
楠も、石垣も、古い倉庫も、雨に濡れてそこにあるだけだった。
なのに。
陽奈には、誰かがこちらを見ているような気がした。
視線を感じる、というよりも、そこに「誰かがいる」という感覚だけが、妙にはっきりと残っている。
陽奈は傘を閉じなかった。
そのまま、楠の根元に置かれた石へ目を向ける。
雨に濡れた石の表面に、何かが刻まれている。
さっきまでは気づかなかった。
苔の下から、細い線がいくつか覗いている。
文字なのか、ただの傷なのかも分からない。
陽奈は目を細めた。
その瞬間だった。
排水路の向こうから、女の声がした。
小さな声だった。
雨音に紛れてしまいそうなほど、かすかな声。
けれど、陽奈には聞こえた。
「……返して」
陽奈の指が、傘の柄を強く握った。
声は、もう聞こえなかった。
ただ、濁った水だけが、何事もなかったように流れていた。