陽奈は、もう一度だけ石を見た。
さっき聞こえた声は、それきりだった。
雨は変わらず降っている。排水路の水も、楠の葉から落ちる雫も、何事もなかったように同じ場所を流れていた。
けれど、もうここに長くいたくはなかった。
陽奈は傘を握り直し、校舎の裏から離れた。
来た道を戻る。
途中で何度か振り返ったが、誰かがついてくる気配はなかった。昇降口まで戻ると、先ほどまで大勢いた生徒の姿もほとんどなく、濡れた床に傘から落ちた水だけが細い筋をつくっていた。
靴を履き替え、校舎を出る。
門を出たところで、陽奈は足を止めた。
雨の向こうに、町がある。
学校から少し離れたところを川が流れ、その両岸に古い家と新しい住宅が混じって並んでいる。駅へ向かう道にはコンビニや飲食店が増えたけれど、一本裏へ入れば、昔から残っている細い道や石垣がまだいくつも残っていた。
雨の日は、そうしたものがいつもより目につく。
側溝を流れる水。
軒先から落ちる雫。
道の角に置かれた小さな石。
昔からそこにあったものと、最近できたものが、何の区別もなく雨に濡れている。
陽奈は傘を少し傾けた。
家までは歩いて二十分ほどだった。
普段なら友達と話しながら帰る道も、今日は一人だった。
雨のせいか、通りを歩く人も少ない。
交差点を渡り、古い商店街を抜ける。魚屋の軒先では、店主が濡れた看板を拭いていた。閉まった店のシャッターには雨水が流れ、道路脇の排水溝では、小さな葉が水の流れに押されてくるくる回っている。
その水音を聞くたびに、学校で聞いた声が頭に浮かんだ。
――返して。
何を。
誰に。
何を返せというのか。
そうこう考えているうちに、九重家の門が見えてきた。
古い家だった。
大きな屋敷というほどではない。道路から少し奥まったところに木造の家が建ち、庭を囲むように低い塀が続いている。門の脇には、昔から使われている石灯籠があり、その隣に一本の梅の木が植えられていた。
雨に濡れた瓦が、鈍い光を返している。
陽奈はいつもと変わらぬように門を開けた。
「ただいま。」
「おかえり、陽奈。」
奥から祖母の声が返ってきた。
玄関を開けると、出汁の匂いがした。
外の冷たい空気とは違って、家の中には夕食の準備をしている温かさがある。台所では祖母が鍋を覗き込み、その横には濡れた布巾と、切ったばかりの大根が置かれていた。
「ずいぶん濡れたねぇ。」
「学校出るとき、急に雨が強くなったから……。」
「傘は?」
「ちゃんと差してたよ。」
「それならいいけど……。」
祖母は鍋の火を弱め、陽奈を見る。
ほんの一瞬だった。
けれど、陽奈には分かった。
祖母の目が、自分の顔ではなく、その後ろを見た。
「……どうしたの?」
「いんや。」
祖母は視線を戻した。
「何でもないよ。」
祖母の漏らしたその言葉に、昼休みの友達の声が重なった。
――そうやって急に黙るところ。
陽奈は少しだけ眉を寄せた。
「おばあちゃん。」
「何?」
「今日、学校で変なことがあった。」
祖母の手が止まった。
包丁を置く音が、やけに大きく聞こえた。
「どんなこと?」
「校舎の裏に、古い石があって。」
「石?」
「うん。楠のところ。」
祖母は答えなかった。
陽奈は鞄を置き、濡れた制服の袖を見た。
「そこで、水の音がしたの。」
「雨が降っていたんでしょう。」
「そうなんだけど。」
陽奈は少し迷った。
声まで聞こえたことを話すべきか。
結局、口にした。
「女の人の声も聞こえた。」
祖母の顔から、わずかに表情が消えた。
「何て?」
「……返して、って。」
台所の時計が、秒針を刻んでいる。
外では雨が屋根を打っていた。
祖母はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「その石には、近づかなかった?」
「近づいたけど、触ってない。」
「そう。」
それだけ言うと、祖母は鍋の蓋を閉めた。
「今日はもう、そのことは考えなくていいよ。」
「でも……。」
「陽奈。」
いつもの穏やかな声だった。
それなのに、妙に強かった。
「今夜は、早く休みなさい。」
陽奈は祖母の顔を見た。
何かを知っている。
そう思った。
けれど、祖母はそれ以上何も話さなかった。
陽奈は諦めて、自分の部屋へ向かった。
廊下を歩きながら、ふと壁に掛けられた古い額縁が目に入る。
九重家の古い家系図だった。
何代も前の名前が並び、その中には陽奈には読めない古い字もある。
子どものころから何度も見てきたものなのに、その日はなぜか足を止めた。
家系図の下には、祖父の代から使われている古い木箱が置かれている。
普段は誰も触らない。
その箱の蓋に、薄く墨で文字が書かれていた。
九重。
陽奈は指先で、その文字をなぞろうとして――やめた。
台所から、祖母が食器を置く音が聞こえてくる。
家の外では、まだ雨が降っていた。
陽奈は自分の部屋へ入り、窓を閉めた。
その夜。
布団に入ってしばらくしても、雨の音は止まなかった。目を閉じる。
眠ろうとすると、昼間の光景が浮かんでくる。
濡れた石。
楠の根元。
水の跡。
そして、あの声。
――返して。
陽奈は目を開けた。
暗い部屋の中で、窓の外だけがぼんやりと白く見えている。
そのとき、庭の方から水の音がした。
ぱしゃん。
陽奈は起き上がった。
家の中は静かだった。
しばらく待つ。
もう一度。
今度は、少し遠い。
庭ではない。
門の向こう。
道路の方から聞こえた。
思わず、陽奈は布団を出た。
窓には近づかず、暗い部屋の中でじっと耳を澄ませる。
水の音は、しばらく続いていた。
まるで誰かが、雨の中をゆっくり歩いているように。
陽奈は、しばらく暗い部屋の中で耳を澄ませていた。
雨の音は途切れない。
屋根を叩く音、雨樋を流れる音、庭の木々から雫が落ちる音。それらが重なって、夜の家全体を包んでいる。
その中に、時折、水を踏む音が混じった。
ぱしゃ。
少し間を置いて、また、ぱしゃ。
音はゆっくりと近づいているようだった。
陽奈は布団の上に座ったまま、じっと窓を見ていた。
カーテンは閉じている。
その向こうには庭がある。昼間なら、廊下から見下ろせば、石灯籠や梅の木、その奥にある小さな池まで見える。けれど今は、雨と暗闇のせいで何も見えないだろう。
見ない方がいい。
そう思った。
それでも、耳だけは外の様子を追っている。
ぱしゃ。
今度は、はっきり聞こえた。
庭ではない。
廊下だった。
陽奈は息を止めた。
二階には、自分しかいないはずだった。
祖母は一階にいる。父は仕事で遅くなることが多く、今夜もまだ帰っていない。
つまり、この二階の廊下を歩く理由のある人間はいない。
陽奈はゆっくり立ち上がった。
床板が小さく鳴る。
その音に反応したように、廊下の向こうで水の音が止まった。
静かになった。
雨の音だけが残る。
陽奈は部屋の扉へ近づいた。
手を伸ばす。
そのまま、しばらく動かなかった。
昼間なら、何でもないことだった。
廊下に出て、祖母に声をかければいい。誰かがいるなら確認すればいいし、何もいなければ部屋に戻ればいい。
けれど、今は違う。
さっきから聞こえているものが、昼間の出来事と同じものだとしたら。
陽奈は一度、目を閉じた。
九重家では、幼いころからいくつかのことを教えられてきた。
見えないものを、最初から存在しないと決めつけないこと。
音や気配を感じても、すぐに意味を与えないこと。
そして、異常を感じたときほど、確かめる前に近づかないこと。
祖母が何度も口にしていた言葉だ。
――分からないものには、分からないまま向き合いなさい。
怖がるな、という意味ではなかった。
むしろ逆だった。
分からないものを、分かったつもりになる方が危ない。
陽奈は扉から手を離した。
部屋の隅に置いてある机へ戻り、引き出しを開ける。
中には、学校で使う文房具のほかに、小さな白い紙片が何枚か入っていた。
紙には何も書かれていない。
九重家では、こうした紙を身近に置いておくことが珍しくなかった。特別な道具というわけではない。必要なときに使うためのものとして、昔から家の中に用意されている。
陽奈はその一枚を取り出した。
紙を手にしたまま、もう一度、扉を見る。
何も起こらない。
廊下も静かだった。
「……気のせいかも。」
そう呟いた。
自分に言い聞かせるような声だった。
そのとき。
扉の向こうから、ぽたり、と水が落ちる音がした。
陽奈の肩がわずかに強張る。
続いて、もう一度。
ぽたり。
ぽたり。
床に水が落ちている。
それも、一か所ではない。
少しずつ、こちらへ近づいている。
陽奈は紙を握ったまま、動かなかった。
扉の向こうで、誰かが立ち止まった気配がする。
気配、と呼ぶにはあまりにも曖昧なものだった。
人の体温も、息遣いもない。
ただ、扉一枚を隔てた向こう側に、何かがある。
そんな感覚だけがあった。
陽奈は息を整えた。
そして、意を決して扉を開けた。
廊下には誰もいなかった。
電灯は消えている。
階段の方から、二階の廊下へ薄い明かりが差していた。古い木の床は乾いている。
ただし。
陽奈の部屋の前から、階段の方へ向かって、水の跡が続いていた。
細長い跡だった。
昼間、学校で見たものとよく似ている。
陽奈はしゃがみ込み、床を見つめた。
水はまだ乾いていなかった。
けれど、どこから来たのかは分からない。
廊下には窓がない。
雨が吹き込むような場所でもない。
陽奈は視線を上げた。
水の跡は、階段の途中で途切れている。
その先は一階だ。
陽奈は少し迷ったあと、階段へ向かった。
一段目に足をかける。
木の床が、きしんだ。
その瞬間。
階下から、祖母の声がした。
「陽奈?」
「……おばあちゃん?」
「そこにいるの?」
「うん。」
返事をすると、祖母が階段の下から顔を出した。
陽奈の姿を見て、祖母は少し驚いたようだった。
「どうしたの、こんな時間に。」
「……水の跡があって。」
陽奈が階段の上を振り返る。
祖母も視線を追った。
しばらく、何も言わなかった。
やがて祖母は階段を上がり、陽奈の隣まで来た。
水の跡を見る。
その顔から、昼間と同じように表情が消えた。
「おばあちゃん……。」
「……部屋に戻りなさい。」
「でも……。」
「陽奈。」
今度の声には、昼間よりも強いものがあった。
祖母は水の跡から目を離さない。
「これは、あなたが確かめることじゃない。」
陽奈は祖母の横顔を見た。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
祖母は、「何か分からないものだから」と言ったのではない。
まるで。
何なのかを知っている人の言い方だった。
陽奈が何かを尋ねる前に、廊下の奥で水が跳ねた。
ぱしゃん。
二人とも、同時にそちらを見る。
けれど、そこには誰もいなかった。
ただ、暗い廊下の先で、水の跡がひとつ増えていた。