九重の境   作:モレ(一般人?)

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雨の町【参】

 陽奈は、もう一度だけ石を見た。

 

 さっき聞こえた声は、それきりだった。

 雨は変わらず降っている。排水路の水も、楠の葉から落ちる雫も、何事もなかったように同じ場所を流れていた。

 

 けれど、もうここに長くいたくはなかった。

 陽奈は傘を握り直し、校舎の裏から離れた。

 

 来た道を戻る。

 途中で何度か振り返ったが、誰かがついてくる気配はなかった。昇降口まで戻ると、先ほどまで大勢いた生徒の姿もほとんどなく、濡れた床に傘から落ちた水だけが細い筋をつくっていた。

 

 靴を履き替え、校舎を出る。

 門を出たところで、陽奈は足を止めた。

 雨の向こうに、町がある。

 

 学校から少し離れたところを川が流れ、その両岸に古い家と新しい住宅が混じって並んでいる。駅へ向かう道にはコンビニや飲食店が増えたけれど、一本裏へ入れば、昔から残っている細い道や石垣がまだいくつも残っていた。

 

 雨の日は、そうしたものがいつもより目につく。

 側溝を流れる水。

 軒先から落ちる雫。

 道の角に置かれた小さな石。

 昔からそこにあったものと、最近できたものが、何の区別もなく雨に濡れている。

 

 陽奈は傘を少し傾けた。

 家までは歩いて二十分ほどだった。

 普段なら友達と話しながら帰る道も、今日は一人だった。

 雨のせいか、通りを歩く人も少ない。

 

 交差点を渡り、古い商店街を抜ける。魚屋の軒先では、店主が濡れた看板を拭いていた。閉まった店のシャッターには雨水が流れ、道路脇の排水溝では、小さな葉が水の流れに押されてくるくる回っている。

 その水音を聞くたびに、学校で聞いた声が頭に浮かんだ。

 ――返して。

 

 何を。

 誰に。

 何を返せというのか。

 

 そうこう考えているうちに、九重家の門が見えてきた。

 古い家だった。

 大きな屋敷というほどではない。道路から少し奥まったところに木造の家が建ち、庭を囲むように低い塀が続いている。門の脇には、昔から使われている石灯籠があり、その隣に一本の梅の木が植えられていた。

 

 雨に濡れた瓦が、鈍い光を返している。

 陽奈はいつもと変わらぬように門を開けた。

 

「ただいま。」

「おかえり、陽奈。」

 

 奥から祖母の声が返ってきた。

 玄関を開けると、出汁の匂いがした。

 外の冷たい空気とは違って、家の中には夕食の準備をしている温かさがある。台所では祖母が鍋を覗き込み、その横には濡れた布巾と、切ったばかりの大根が置かれていた。

 

「ずいぶん濡れたねぇ。」

「学校出るとき、急に雨が強くなったから……。」

「傘は?」

「ちゃんと差してたよ。」

「それならいいけど……。」

 

 祖母は鍋の火を弱め、陽奈を見る。

 ほんの一瞬だった。

 けれど、陽奈には分かった。

 祖母の目が、自分の顔ではなく、その後ろを見た。

「……どうしたの?」

「いんや。」

 祖母は視線を戻した。

「何でもないよ。」

 

 祖母の漏らしたその言葉に、昼休みの友達の声が重なった。

 

 ――そうやって急に黙るところ。

 

 陽奈は少しだけ眉を寄せた。

 

「おばあちゃん。」

「何?」

「今日、学校で変なことがあった。」

 

 祖母の手が止まった。

 包丁を置く音が、やけに大きく聞こえた。

「どんなこと?」

「校舎の裏に、古い石があって。」

「石?」

「うん。楠のところ。」

 祖母は答えなかった。

 

 陽奈は鞄を置き、濡れた制服の袖を見た。

「そこで、水の音がしたの。」

「雨が降っていたんでしょう。」

「そうなんだけど。」

 

 陽奈は少し迷った。

 声まで聞こえたことを話すべきか。

 結局、口にした。

「女の人の声も聞こえた。」

 

 祖母の顔から、わずかに表情が消えた。

「何て?」

「……返して、って。」

 台所の時計が、秒針を刻んでいる。

 外では雨が屋根を打っていた。

 

 祖母はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「その石には、近づかなかった?」

「近づいたけど、触ってない。」

「そう。」

 それだけ言うと、祖母は鍋の蓋を閉めた。

 

「今日はもう、そのことは考えなくていいよ。」

「でも……。」

「陽奈。」

 いつもの穏やかな声だった。

 それなのに、妙に強かった。

「今夜は、早く休みなさい。」

 陽奈は祖母の顔を見た。

 

 何かを知っている。

 そう思った。

 けれど、祖母はそれ以上何も話さなかった。

 陽奈は諦めて、自分の部屋へ向かった。

 廊下を歩きながら、ふと壁に掛けられた古い額縁が目に入る。

 九重家の古い家系図だった。

 何代も前の名前が並び、その中には陽奈には読めない古い字もある。

 

 子どものころから何度も見てきたものなのに、その日はなぜか足を止めた。

 家系図の下には、祖父の代から使われている古い木箱が置かれている。

 普段は誰も触らない。

 その箱の蓋に、薄く墨で文字が書かれていた。

 九重。

 陽奈は指先で、その文字をなぞろうとして――やめた。

 

 台所から、祖母が食器を置く音が聞こえてくる。

 家の外では、まだ雨が降っていた。

 陽奈は自分の部屋へ入り、窓を閉めた。

 

 

 その夜。

 布団に入ってしばらくしても、雨の音は止まなかった。目を閉じる。

 眠ろうとすると、昼間の光景が浮かんでくる。

 

 濡れた石。

 楠の根元。

 水の跡。

 そして、あの声。

 

 ――返して。

 

 陽奈は目を開けた。

 暗い部屋の中で、窓の外だけがぼんやりと白く見えている。

 そのとき、庭の方から水の音がした。

 

 ぱしゃん。

 

 陽奈は起き上がった。

 家の中は静かだった。

 しばらく待つ。

 

 もう一度。

 今度は、少し遠い。

 庭ではない。

 門の向こう。

 道路の方から聞こえた。

 思わず、陽奈は布団を出た。

 窓には近づかず、暗い部屋の中でじっと耳を澄ませる。

 水の音は、しばらく続いていた。

 まるで誰かが、雨の中をゆっくり歩いているように。

 

 

 

 陽奈は、しばらく暗い部屋の中で耳を澄ませていた。

 雨の音は途切れない。

 屋根を叩く音、雨樋を流れる音、庭の木々から雫が落ちる音。それらが重なって、夜の家全体を包んでいる。

 その中に、時折、水を踏む音が混じった。

 

 ぱしゃ。

 

 少し間を置いて、また、ぱしゃ。

 

 音はゆっくりと近づいているようだった。

 陽奈は布団の上に座ったまま、じっと窓を見ていた。

 カーテンは閉じている。

 

 その向こうには庭がある。昼間なら、廊下から見下ろせば、石灯籠や梅の木、その奥にある小さな池まで見える。けれど今は、雨と暗闇のせいで何も見えないだろう。

 

 見ない方がいい。

 そう思った。

 それでも、耳だけは外の様子を追っている。

 

 ぱしゃ。

 

 今度は、はっきり聞こえた。

 庭ではない。

 廊下だった。

 陽奈は息を止めた。

 二階には、自分しかいないはずだった。

 祖母は一階にいる。父は仕事で遅くなることが多く、今夜もまだ帰っていない。

 つまり、この二階の廊下を歩く理由のある人間はいない。

 

 陽奈はゆっくり立ち上がった。

 床板が小さく鳴る。

 その音に反応したように、廊下の向こうで水の音が止まった。

 静かになった。

 雨の音だけが残る。

 

 陽奈は部屋の扉へ近づいた。

 手を伸ばす。

 そのまま、しばらく動かなかった。

 昼間なら、何でもないことだった。

 廊下に出て、祖母に声をかければいい。誰かがいるなら確認すればいいし、何もいなければ部屋に戻ればいい。

 けれど、今は違う。

 さっきから聞こえているものが、昼間の出来事と同じものだとしたら。

 

 陽奈は一度、目を閉じた。

 九重家では、幼いころからいくつかのことを教えられてきた。

 見えないものを、最初から存在しないと決めつけないこと。

 音や気配を感じても、すぐに意味を与えないこと。

 そして、異常を感じたときほど、確かめる前に近づかないこと。

 祖母が何度も口にしていた言葉だ。

 

 ――分からないものには、分からないまま向き合いなさい。

 

 怖がるな、という意味ではなかった。

 むしろ逆だった。

 分からないものを、分かったつもりになる方が危ない。

 陽奈は扉から手を離した。

 

 部屋の隅に置いてある机へ戻り、引き出しを開ける。

 中には、学校で使う文房具のほかに、小さな白い紙片が何枚か入っていた。

 紙には何も書かれていない。

 九重家では、こうした紙を身近に置いておくことが珍しくなかった。特別な道具というわけではない。必要なときに使うためのものとして、昔から家の中に用意されている。

 

 陽奈はその一枚を取り出した。

 紙を手にしたまま、もう一度、扉を見る。

 何も起こらない。

 廊下も静かだった。

「……気のせいかも。」

 そう呟いた。

 自分に言い聞かせるような声だった。

 

 そのとき。

 扉の向こうから、ぽたり、と水が落ちる音がした。

 陽奈の肩がわずかに強張る。

 続いて、もう一度。

 

 ぽたり。

 

 ぽたり。

 

 床に水が落ちている。

 それも、一か所ではない。

 少しずつ、こちらへ近づいている。

 陽奈は紙を握ったまま、動かなかった。

 

 扉の向こうで、誰かが立ち止まった気配がする。

 気配、と呼ぶにはあまりにも曖昧なものだった。

 人の体温も、息遣いもない。

 ただ、扉一枚を隔てた向こう側に、何かがある。

 そんな感覚だけがあった。

 

 陽奈は息を整えた。

 そして、意を決して扉を開けた。

 廊下には誰もいなかった。

 電灯は消えている。

 階段の方から、二階の廊下へ薄い明かりが差していた。古い木の床は乾いている。

 ただし。

 陽奈の部屋の前から、階段の方へ向かって、水の跡が続いていた。

 細長い跡だった。

 昼間、学校で見たものとよく似ている。

 陽奈はしゃがみ込み、床を見つめた。

 

 水はまだ乾いていなかった。

 けれど、どこから来たのかは分からない。

 

 廊下には窓がない。

 雨が吹き込むような場所でもない。

 陽奈は視線を上げた。

 水の跡は、階段の途中で途切れている。

 その先は一階だ。

 

 陽奈は少し迷ったあと、階段へ向かった。

 一段目に足をかける。

 木の床が、きしんだ。

 

 その瞬間。

 階下から、祖母の声がした。

「陽奈?」

「……おばあちゃん?」

「そこにいるの?」

「うん。」

 返事をすると、祖母が階段の下から顔を出した。

 陽奈の姿を見て、祖母は少し驚いたようだった。

「どうしたの、こんな時間に。」

「……水の跡があって。」

 

 陽奈が階段の上を振り返る。

 祖母も視線を追った。

 しばらく、何も言わなかった。

 やがて祖母は階段を上がり、陽奈の隣まで来た。

 

 水の跡を見る。

 その顔から、昼間と同じように表情が消えた。

「おばあちゃん……。」

「……部屋に戻りなさい。」

「でも……。」

「陽奈。」

 今度の声には、昼間よりも強いものがあった。

 祖母は水の跡から目を離さない。

 

「これは、あなたが確かめることじゃない。」

 

 陽奈は祖母の横顔を見た。

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。

 祖母は、「何か分からないものだから」と言ったのではない。

 

 まるで。

 何なのかを知っている人の言い方だった。

 陽奈が何かを尋ねる前に、廊下の奥で水が跳ねた。

 

 ぱしゃん。

 

 二人とも、同時にそちらを見る。

 けれど、そこには誰もいなかった。

 ただ、暗い廊下の先で、水の跡がひとつ増えていた。

 

 

 

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