翌朝になっても、雨は降っていた。
夜の間に少しは弱くなるかと思っていたが、目を覚まして最初に聞こえてきたのは、昨日と変わらない雨音だった。
陽奈は、布団の中でしばらく天井を見つめていた。
昨夜のことを思い出す。
廊下に残っていた水の跡。
祖母の顔。
そして、最後に増えた一つの跡。
あれから祖母は何も言わなかった。
水の跡をどうしたのかも、陽奈には分からない。朝起きて廊下を見に行くと、床はきれいに乾いていた。濡れた形跡はどこにも残っていない。
まるで、最初から何もなかったように。
「……夢じゃないよね。」
独り言をこぼして、陽奈は布団から出た。
階下へ降りると、祖母はいつも通り朝食の支度をしていた。
「おはよう、おばあちゃん。」
「おはよう、陽奈。」
味噌汁の湯気が上がっている。
焼いた魚の匂いと、炊きたてのご飯の香り。テレビから流れる天気予報では、今日も一日雨が続くという話をしていた。
昨夜のことなど、何もなかったような朝だった。
陽奈は席についた。
「おばあちゃん。」
「何?」
「昨日の夜のことだけど。」
「学校、遅れないようにね。」
「……話を変えた。」
「そう?」
祖母は味噌汁を椀によそっている。
顔を上げない。
陽奈はそれ以上、聞かなかった。
家を出るころになって、玄関先で祖母から声をかけられた。
「陽奈。」
「ん?」
「今日は、学校が終わったら寄り道しないで帰ってきなさい。」
「どうして?」
「雨が強いから。」
それだけだった。
けれど、祖母の目は笑っていなかった。
陽奈は少し考えてから、「分かった」と答えた。
傘を開く。
門を出る。
昨日と同じ道を歩いて学校へと向かった。
朝の町は、雨のせいでいつもより静かだった。
通学する生徒たちは傘を並べ、車が通るたびに道路脇の水が跳ねる。コンビニの前には大きな水たまりができ、店の軒下には雨宿りをしている人がいた。
川の水も増えている。
昨日よりも流れが速い。
陽奈は橋の上から川を見下ろした。
濁った水が、橋脚の脇を勢いよく流れている。
その水面を眺めていると、どこからか小さな声が聞こえた気がした。
――返して。
陽奈は足を止めた。
振り返る。
後ろには、傘を差した通行人が何人かいるだけだった。
今のは、雨の音だ。
そう思うことにした。
学校に着くと、昇降口はいつもより騒がしかった。
濡れた傘を傘立てに入れる生徒、靴下が濡れたと騒いでいる生徒、教室へ急ぐ生徒。
いつもの朝と変わらない。
陽奈も靴を履き替え、教室へ向かった。
「おはよう。」
「おはよ。」
席につくと、昨日の友達がやってきた。
「昨日、大丈夫だった?」
「何が?」
「帰り。めちゃくちゃ雨降ってたじゃん。」
「ああ……うん。」
陽奈は少し迷った。
昨日のことを話そうかと思ったが、結局やめた。
「そっちは?」
「私は駅までお母さんが迎えに来たよ。」
「いいなぁ」
「でしょ。」
友達が笑う。
その笑顔を見ていると、昨日の出来事が急に遠いものに感じられた。
学校に来てしまえば、いつも通りだ。
朝の会があり、授業があり、休み時間には誰かがくだらない話をしている。
陽奈も笑った。
笑っているうちに、本当に昨日のことを気にしなくてもいいような気がしてきた。
ところが、一時間目が始まる直前だった。
教室の後ろから、男子生徒の声がした。
「なあ、昨日の放課後、裏行ったやついる?」
「裏って?」
「校舎の裏。」
何人かが振り返る。
「なんで?」
「いや、なんか水たまりがすごかったから。」
「そりゃ雨だし。」
「それがさ……。」
男子生徒は声を少し落とした。
「誰もいないのに、足跡あったんだよ。」
陽奈の手が止まった。
「足跡?」
「うん。なんか裸足みたいなやつ。」
「怖っ。」
誰かが笑った。
「お前、見間違いじゃね?」
「いや、ほんとだって!」
「写真は?」
「撮ってない。」
「じゃあ嘘じゃん。」
教室の中に笑い声が広がった。
男子生徒も笑った。
「まあ、いいけど。」
それで話は終わった。
先生が入ってきて、みんなが席につく。
陽奈も教科書を開いた。
けれど、文字が頭に入ってこない。
裸足のような足跡。
校舎の裏。
陽奈が昨日見たものと同じなのか。
偶然かもしれない。
雨が降っているのだから、水の跡くらいどこにでもできる。
そう考えようとした。
それでも、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
やがて、一時間目の授業が始まった。
先生の声が教室に響く。
窓の外では、雨が降り続いている。
その雨音の中に混じって、どこか遠くから水の流れる音が聞こえていた。
陽奈は窓の外を見た。
校舎の裏は、ここからは見えない。
それなのに。
なぜか、あの楠の木の下に誰かが立っているような気がした。
一時間目が終わると、陽奈はすぐに席を立った。
教室を出る生徒の流れに混じって廊下へ出る。友達に呼び止められ、次の授業の話をしながら歩いているうちに、さっきまで感じていた違和感は少し薄れていった。
それでも、頭の片隅には残っている。
校舎の裏。
水の跡。
そして、楠の木。
昼休みになったら、もう一度見に行こうか。
そんなことを考えていた。
ところが、二時間目と三時間目の間の休み時間、教室の前を通りかかった別のクラスの生徒が、廊下で話している声が聞こえた。
「昨日さ、体育館の裏で変な音しなかった?」
「何の?」
「水の音。」
陽奈は足を止めた。
話している二人は、陽奈に気づいていない。
「なんか、誰か歩いてるみたいな。」
「雨だったじゃん。」
「それはそうなんだけどさ。」
そこでチャイムが鳴った。
二人は慌てて教室へ戻っていく。
陽奈も自分の教室へ戻った。
席に座りながら、昨日から聞いたことを頭の中で並べてみる。
自分が聞いた水音。
校舎裏に残っていた足跡。
夜、九重家の廊下に現れた水の跡。
そして、今の話。
偶然で片づけるには、少し重なりすぎている。
けれど、それ以上のことは分からない。
陽奈は授業中、何度も窓の外を見た。
雨は降り続いていた。
昼休みになっても、雨脚は変わらなかった。
友達から一緒に昼食を食べようと誘われたが、陽奈は断った。
「ごめん、ちょっと用事がある。」
「また図書室?」
「うん、そんな感じ。」
「そっかぁ、残念。じゃあ、またあとで。」
友達はそれ以上聞かなかった。
陽奈は教室を出た。
向かったのは図書室ではない。
職員室でもない。
昇降口を抜け、昨日と同じように校舎の裏へ向かった。
雨に濡れた通路を歩く。
昨日と同じ場所に、楠が立っていた。
その根元に置かれた石も変わっていない。
けれど、昨日とは少し違っていた。
石の周りに、細い水の筋ができている。
雨が流れてきたのだろうと思った。
けれど、地面全体が濡れているわけではない。
石の周囲だけが、輪を描くように湿っていた。
陽奈はしゃがみ込んだ。
石の表面を見る。
昨日見つけた細い線が、雨に洗われて少しだけはっきりしている。
文字だった。
古い字なのか、ただの傷なのか。
陽奈には判別できない。
指を伸ばしかけたところで、背後から声がした。
「陽奈。」
振り返る。
そこにいたのは、祖母だった。
「……おばあちゃん?」
祖母は傘を差し、校舎の壁際に立っていた。
「どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だよ。」
祖母はゆっくり近づいてきた。
石の前まで来ると、しゃがみ込んで表面を見る。
陽奈は祖母の顔を見た。
「これ、何?」
「まだ分からない。」
「知ってるんじゃないの?」
祖母は答えなかった。
代わりに、石の周囲を見回す。
楠の幹。
排水路。
濡れた地面。
そして、校舎の壁。
「ここは昔からこうだった?」
「学校が建つ前のこと?」
「そうだよ。」
「分かんない。」
祖母は立ち上がった。
「でも、調べれば分かるかもしれない。」
「調べるって?」
「家に帰ったら話すよ。」
祖母はそれだけ言った。
陽奈は石を見た。
「学校の先生には?」
「まだ話さなくていい。」
「どうして?」
「まだ、怪異だと決まったわけじゃないから」
その言葉に、陽奈は顔を上げた。
祖母は静かに続けた。
「音がした。水の跡があった。それだけなら、いくらでも別の理由が考えられるでしょう。」
「でも、昨日の夜のことは……。」
「だから、調べるんだよ。」
祖母は陽奈を見る。
「九重の仕事は、怪異を見つけたら何でも祓えばいい、というものじゃない。」
陽奈は黙っていた。
祖母がこんな言い方をするのを、久しぶりに聞いた気がした。
「まず、何が起きているのかを見る。それから、どこから来たものなのかを調べる。」
「それで、怪異だったら?」
「そのときに決める。」
祖母は石をもう一度見た。
「祓うのか、鎮めるのか、それとも別の方法があるのか。」
雨音が二人の間を埋めていく。
「大事なのは、最初から答えを決めないことだよ。」
陽奈はその言葉を聞きながら、昨日の夜、祖母が言ったことを思い出していた。
――これは、あなたが確かめることじゃない。
あのときは、自分を遠ざけようとしているのだと思った。
けれど今は、少し違うように感じる。
祖母は何かを恐れている。
それだけではない。
何かを知っている。
「おばあちゃん。」
「何?」
「これ、九重家の記録にある?」
祖母は一瞬、陽奈を見た。
「……あるかもしれないね。」
「見せて。」
「まだ駄目。」
「どうして?」
「記録は、読むだけで分かるものじゃないから。」
祖母はそう言って、少しだけ笑った。
「書いた人が何を見て、何を見なかったのかまで考えないと、かえって間違えるのよ。」
陽奈は石を見る。
雨に濡れた表面には、細い線がいくつも走っていた。
それが文字なら、誰かがここに何かを残したことになる。
何のために。
誰のために。
陽奈は立ち上がった。
「帰ったら、記録を見せて。」
「考えておくよ。」
「それ、見せないときの言い方じゃん。」
祖母が小さく笑った。
「少しは分かってきたね。」
二人は校舎へ戻った。
楠の下には、誰もいなくなった。
雨だけが降り続いている。
その日の放課後、陽奈が九重家へ帰ると、祖母はいつもの夕食の支度をせず、座敷の奥にある古い襖を開けていた。
普段はほとんど使わない部屋だった。
中には、古い文書や写真、地図、帳面が木箱に収められている。
陽奈が入ると、祖母は一冊の厚い帳面を畳の上に置いた。
「これ。」
表紙には、墨で短く文字が書かれている。
水瀬郡 水場記録
陽奈は、その題を見つめた。
「……水場?」
「学校の周辺に昔からある、水に関わる場所をまとめた記録だよ。」
祖母は帳面を開いた。
黄ばんだ紙の間から、古い地図が現れる。
現在の道路とは違う。
川の流れも、道の位置も、今とはかなり違っていた。
けれど。
学校の建っている場所だけは、昔の地図にも印がついていた。
陽奈は、その小さな印を見つめた。
その横に、古い字で一言だけ書かれている。
返水。
陽奈の胸が、わずかにざわついた。
祖母は何も言わなかった。
ただ、雨の音を聞きながら、その文字をじっと見ていた。
「返水」。
陽奈は、その二文字から目を離せなかった。
見慣れない言葉だった。
辞書で見れば、文字どおり水が戻ることを意味するのだろう。けれど、この古い地図に書かれた一言は、単なる水の流れを記したものには見えなかった。
印のついた場所は、現在の学校とほぼ重なっている。
「これ、どういう意味?」
陽奈が尋ねると、祖母はすぐには答えなかった。
古い帳面のページを指先で押さえながら、紙の端に残った小さな書き込みを眺めている。
「まだ分からない。」
「またそれぇ?」
「本当に分からないんだよ・」
祖母は苦笑した。
「古い記録は、書いた人が分かっていることを全部書いてくれているわけじゃないからね。後から読む人間には、分からないことの方が多いのさ。」
陽奈は地図を覗き込んだ。
学校の場所を示す印の周囲には、細い線がいくつも引かれている。昔の川筋らしい。
今では道路になっているところを水が流れ、その先で大きな川につながっている。
「ここ、昔は川だったの?」
「川というより、水の通り道だね。雨が続いたときだけ水が集まる場所もあったらしい。」
「じゃあ、昨日の水の跡も……。」
「それだけでは説明できない。」
祖母の返事は静かだった。
陽奈は顔を上げた。
祖母は地図を閉じなかった。
「明日、学校へ行ったら、昨日の場所をもう一度見ておいで。」
「いいの?」
「昼間ならね。」
「おばあちゃんは?」
「私は、少し調べることがある。」
そう言って、祖母は別の帳面を手に取った。
「陽奈。」
「うん。」
「もし、また何か聞こえても」
祖母はそこで言葉を切った。
「名前を聞こうとしなくていい。」
「名前?」
「何かが名乗ってきても、こちらから聞き返さないこと。」
陽奈は意味が分からず、眉を寄せた。
「どうして?」
「名前というのはね、ただの呼び方じゃないからだよ。」
祖母はそれ以上説明しなかった。
その夜、陽奈はなかなか眠れなかった。
雨はまだ降っている。
布団に横になりながら、昼間の学校と、古い地図のことを考えていた。
返水。
水の跡。
あの石。
そして、あの声。
――返して。
何度考えても、つながらない。
物思いが深まるにつれ、やがて雨音が少し遠くなり、陽奈はようやく眠りについた。どれくらい経ったのか分からない。
ふと、目が覚めた。
部屋は暗かった。
時計を見ると、午前二時を少し過ぎている。
雨は止んでいた。
陽奈はしばらく布団の中でぼんやりしていたが、何かがおかしいことに気づいた。
静かすぎる。
雨が止んだのだから当然なのかもしれない。
けれど、家の中の音まで消えている。
冷蔵庫の音も、時計の音も聞こえない。
陽奈は上半身を起こした。
そのとき。
廊下から、水の流れる音がした。
さらさらと、細い流れが床を這っているような音だった。
陽奈は扉を見つめた。
昨日と同じだ。
そう思った。
けれど、昨日とは違う。
音が、部屋の前で止まった。
扉の向こうに何かがいる。
陽奈は布団から降りた。
裸足で床に立つ。
扉へ近づく。
手を伸ばした。
―そして、ゆっくりと開ける。
廊下には誰もいなかった。
ただ、床に水が流れている。
陽奈の部屋の前から、階段へ向かって。
昨日と同じだった。
けれど、その先が違った。
水の跡は階段を下りて、一階へ続いている。
陽奈は階段の上から、暗い玄関を見下ろした。
玄関の引き戸が、少しだけ開いている。
そこから外の空気が入り込んでいた。
―雨は止んでいる。
それなのに、玄関のたたきには水が溜まっていた。
陽奈は一段ずつ階段を下りた。
水の跡を追う。
玄関まで来ると、そこで足を止めた。
門の向こうに、誰かが立っていた。
遠くて顔は見えない。
白い服のようなものを着ている。
髪が長い。
雨は降っていないのに、その人の足元だけが濡れている。
陽奈は息を呑んだ。
そしてその人影が、ゆっくり顔を上げた。
こちらを見た。
距離があるはずなのに、目が合ったような気がした。
そして、声がした。
「……返して。」
陽奈は動けなかった。
人影は、それ以上何も言わない。
ただ、門の前に立っている。
やがて、その姿が暗闇に溶けるように薄くなった。
消えたのか。
そう思った瞬間、玄関の外から小さな水音がした。
ぱしゃん。
陽奈は門の方へ駆け寄った。
けれど、そこには誰もいなかった。
道路にも、庭にも、人の姿はない。
ただ、門の外から玄関まで、濡れた足跡が続いている。
陽奈はその跡を見つめた。
最後の一つだけが、玄関のたたきで途切れている。
その足跡の中に、小さな白いものが落ちていた。
紙だった。
陽奈はしゃがみ込み、それを拾い上げた。
古い紙片。
水に濡れている。
そこには、墨で一文字だけ書かれていた。
返。
陽奈は、その文字を見つめたまま動かなかった。
背後から、祖母の声がした。
「陽奈。」
振り返る。
いつからそこにいたのか、祖母が階段の上に立っている。
その顔を見た瞬間、陽奈は悟った。
祖母は驚いていない。
昨日の夜も。
学校で話したときも。
ずっと何かを知っていたのだ。
祖母はゆっくり階段を下りてくる。
陽奈の手にある紙を見て、目を細めた。
「……そう。」
それだけ呟いた。
「おばあちゃん、これ何?」
祖母はすぐには答えなかった。
玄関の外には、雨上がりの夜が広がっている。
濡れた道路が街灯を映し、遠くで車が一台走っていった。
いつもの町だった。
何も変わっていないように見える。
それでも、陽奈にはもう分かっていた。
学校の裏にあるものは、昨日だけの出来事ではない。
そして、それを九重家は知っている。
「明日、学校を休みなさい。」
祖母が言った。
「どうして?」
「……調べなければいけないからさ。」
祖母は玄関の外へ目を向けた。
「この雨が、何を戻しているのかをね。」
陽奈は手の中の紙を見た。
墨で書かれた一文字が、まだ乾かないまま滲んでいる。
返。
その意味を、陽奈はまだ知らなかった。