目を覚ましたとき、雨は上がっていた。
陽奈は布団の中で、しばらく天井を見ていた。
障子を透かす光が明るい。梅雨どきの朝にしては珍しく、雲が薄くなっているらしい。庭では雀が鳴き、少し離れた道路を走る車の音が、濡れた町の静けさの中を通り過ぎていく。
昨夜のことだけが、そこから切り離されているように思えた。
午前二時。
雨はもう止んでいた。
それなのに廊下には水の跡があり、玄関の外には白い人影が立っていた。
――返して。
陽奈は布団から起き上がった。
机の上を見る。
昨夜拾った紙片は、小さな白い皿に載せられていた。
眠る前には、そのまま机の端に置いたはずだった。
近づいて確かめる。
紙は乾いている。端だけが波打ち、昨夜そこに水が染み込んでいたことを残していた。
中央には、一文字。
返。
裏には何もない。
紙を窓から差す光に透かしてみても、ほかに文字らしいものは見えなかった。
階下から包丁の音が聞こえてきた。
とん、とん、と少し間を空けながら、まな板を叩いている。
味噌汁の匂いも上がってくる。
その匂いを嗅いで、ようやく朝になったのだと思った。
昨夜、祖母は言った。
明日は学校を休みなさい。
調べなければならないから。
陽奈は制服には手を伸ばさず、薄手のシャツと動きやすいパンツに着替えた。
階段を下りると、祖母は台所にいた。
鍋の火を弱め、焼いた鮭を皿へ移している。
「おはよう、陽奈。」
「おはよう、おばあちゃん。ご飯、食べるね。」
陽奈は炊飯器を開け、二人分のご飯をよそった。
向かい合って座る。
窓の外では、紫陽花がまだ雨粒を抱えていた。風が吹くたびに葉が揺れ、雫が庭石へ落ちる。
「学校には、もう連絡したの?」
「したよ。今日は家の用事で休ませますって。」
「学校の裏まで行くんでしょう?」
「だから、なるべく授業中に済ませたいんだよ。放課後になれば、部活動の子もいるでしょう?」
「先生に見つかったら?」
「そのときは私が話すよ。昔の土地のことで確認したいものがあるってね。」
祖母は味噌汁を一口すすった。
「校舎に入るわけじゃない。石を見て、水路の跡を確かめるだけだから。」
「それなら、学校が終わってからでもよかったんじゃない?」
「昨日は人が多かったでしょう?」
言われて、陽奈は昨日の放課後を思い出した。
昇降口には雨が弱まるのを待つ生徒が残っていた。部活動へ向かう者もいたし、傘を忘れた友人を迎えに戻ってくる者もいた。
学校の裏まで行けば人目は減る。
それでも、長くうろついていれば誰かに見られる。
「それに、雨が止んでいるうちに見ておきたいからね。」
祖母は鮭の骨を外しながら続けた。
「昨日はどこを見ても濡れていた。今朝なら、残っている水と新しく出た水を少しは見分けられるかもしれない。」
陽奈は箸を止めた。
昨夜まで降り続いた雨は、今朝には上がっている。
校舎の裏で最初に聞いた水音も、濡れた足跡も、雨のせいだと言おうと思えば言えた。
ならば、雨のない朝に同じことが起きるのか。
確かめる意味はある。
「昨日の人影、おばあちゃんにも見えてたよね。」
「見えてたよ。」
「あれ、何だったと思う?」
「今のところは分からないね。」
あまりに迷いなく答えるので、陽奈は祖母の顔を見た。
「本当に分からないの?」
「分からないよ。」
「でも、全然驚いてなかった。」
「驚いた顔をすれば、正体が分かるのかい?」
「そういうことじゃなくて。」
「なら、そういうことだよ。」
祖母は箸を進める。
陽奈は納得しきれないまま、味噌汁を口に運んだ。
昔から、この人はそうだった。
分からないことを、分からないまま置いておける。
陽奈には、それが難しい。
昨夜から頭の中では、同じ言葉が何度も繰り返されている。
返して。
何を返せというのか。
誰が返すのか。
そもそも、あれは自分に向けて発せられた言葉だったのか。
「陽奈。」
考え込んでいたらしい。
祖母に呼ばれ、顔を上げた。
「今、何を考えてた?」
「『返して』って、どういう意味なんだろうって……。」
「なるほどね。考えるのはいいよ。でも、答えを作っちゃいけないよ。」
「答えを作る?」
「『返して』と言った。だから何かを奪われた怪異なんだろう、とかね。」
陽奈は口を閉じた。
まさに、少し考えていた。
「声が聞こえた。それは事実として覚えておけばいい。何を意味するのかは、調べてから考えなさい。」
「怪異かどうかも?」
「まだ決めてはいけない。」
「人の形だったのに?」
「人の形をしているものなんて、いくらでもあるよ。」
祖母はそこで一度言葉を切った。
「逆もあるしね。」
「逆?」
「人の形をしていないからといって、人と無関係とは限らない。」
陽奈は聞き返そうとした。
だが、祖母はもう味噌汁に口をつけている。
それ以上話す気はないらしい。
九重の家では、見たものに早く名前をつけるなと教えられる。
名が分かれば、扱いやすくなる。
けれど、間違った名で呼べば、見えていたはずのものまで見えなくなる。
幼い頃、それを聞いた陽奈は、言葉遊びのようなものだと思っていた。
今は少し違う。
「今日は、学校の裏を見たあと、どうするの?」
「家に戻るよ。」
「それだけ?」
「現場を見てから記録を読むんだよ。」
祖母は湯呑みに茶を注いだ。
「昨日見せた地図を覚えてる?」
「学校の辺りに、昔の水路があったやつでしょう。」
「そう。その地図と今の地形を比べる。石の位置も、水路の跡も、覚えて帰る。そのあとで古い記録を探す。」
「先に記録を全部調べた方が早くない?」
「早いかもしれないね。」
祖母は茶を一口飲んだ。
「でも、記録に書いてあることばかりを探すようになる。」
陽奈は少し考えた。
「先に『ここに水場がありました』って読んだら、何でも水場の跡に見えるってこと?」
「そういうことよ。」
祖母は頷いた。
「書いた人が間違っていることもある。途中で意味が変わった言葉もある。後から書き直された記録だってある。紙に残っているから正しい、とは限らないよ。」
それは意外だった。
九重家は記録を重んじる。
古い文書や帳面を保管し、怪異に関わる出来事を代々書き残してきた家だ。
陽奈自身、記録は過去の出来事を知るための答えに近いものだと思っていた。
「じゃあ、何のために残してるの?」
「忘れないため。」
祖母は言った。
「正しい答えを残すためじゃない。」
窓の外から、雫の落ちる音がした。
陽奈は祖母を見た。
何でもないことのように言っている。
けれど、その言葉だけが妙に耳に残った。
「返水も?」
「昨日見たのは、地図にそう書かれていた。それだけだね。」
「普通に読んだら、水が返る?」
「そう読める。」
「場所の名前かもしれない?」
「かもしれない。」
「何かの行事とか。」
「それも調べる。」
祖母は空になった茶碗を置いた。
「今の段階で可能性を増やしても仕方ないさ。まず、見に行こう。」
食事を終えると、二人で食器を片づけた。
陽奈が蛇口をひねる。
水が勢いよく流れ出した。
陶器に当たり、細かく跳ねる。
陽奈の手が止まった。
ただの水道の音だ。
分かっている。
それでも、昨夜から水の音に耳が反応する。
雨樋。
側溝。
濡れた道路を車が走る音。
どれも知っている音なのに、その向こうに別の音が混じっていないか確かめてしまう。
浅い水の中を、人が歩く音。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
あれだけは、雨の音とは違っていた。
「陽奈。」
祖母の声に、我に返った。
蛇口の水が流れたままだった。
「あ、ごめん。」
慌てて止める。
「寝不足なら、帰ってきてから少し寝なさい。」
「違うの。水の音を聞いてたの。」
「何か聞こえた?」
「普通の水道の音だった。」
「なら、その音を覚えておきなさい。」
祖母は濡れた皿を布巾で拭いた。
「普通の音もね。」
陽奈は一瞬、その意味を考えた。
怪異の音だけを覚えていても、何が違うのか分からない。
そういうことなのだろう。
片づけを終えると、陽奈は二階へ紙片を取りに戻った。
白い皿から持ち上げる。
完全に乾いていた。
封筒へ入れる前に、もう一度「返」の字を見る。
墨なのだろうか。
上手いとも下手とも言えない字だった。
筆で書いたようには見えるのに、線の端にかすれがない。紙へ墨が染み込んだというより、濡れた紙の内側から色が浮いてきたようにも見える。
指でなぞりかけて、やめた。
封筒へ入れる。
一階へ戻ると、祖母は玄関にいた。
肩から古い布鞄を下げている。
「それも持っていくの?」
「念のためにね。」
祖母が鞄を開いた。
白い紙の束。
細い筆。
小さな木箱。
陽奈にも見覚えがある。
九重家で使う祭具だった。
「調査だけでしょう?」
「そのつもりだよ。」
「じゃあ、それは?」
「何も起きなければ、ただの荷物さ。」
祖母は鞄を閉じた。
「何か起きたときに、家まで取りに帰るのは嫌だからね。」
陽奈も靴を履いた。
玄関の引き戸を開ける。
雨上がりの空気が入ってきた。
湿っているが、昨日までとは匂いが違う。濡れた土と葉の青い匂いが混じっている。
雲の切れ間から、淡い青空が見えた。
陽奈が外へ出ようとしたときだった。
「待ちなさい。」
祖母の声がした。
振り返る。
祖母は陽奈ではなく、その足元を見ていた。
「そこ、踏まないで。」
陽奈は片足を浮かせたまま、視線を落とした。
玄関のたたき。
靴のすぐ後ろに、小さな水滴があった。
一つだけではない。
奥へ向かって、いくつか並んでいる。
昨夜のような水溜まりではなかった。
足跡と呼ぶには形もない。
ただ、誰かが濡れた指先から水を垂らしながら歩いたように、点々と続いている。
「朝からあった?」
「なかったよ。」
祖母がしゃがみ込んだ。
水滴には触れず、顔を近づける。
「陽奈、靴の裏を見せなさい。」
片方ずつ見せる。
乾いている。
祖母自身の履物も同じだった。
「二階から?」
陽奈が廊下を見る。
水滴は玄関から廊下へ続いていた。
数は少ない。
少し離れた場所に一つ。
さらに先に、もう一つ。
階段の手前で途切れている。
「昨日の紙が濡れてたから、それじゃない?」
「かもしれないね。」
祖母は立ち上がった。
「でも、昨夜のうちに拭いた。」
陽奈は祖母を見る。
「じゃあ、今朝?」
「それを決めるには、見てない時間が長すぎるさ。」
祖母は玄関脇から雑巾を取り、水滴を一つずつ拭き取った。
陽奈はその様子を見ていた。
「残しておかなくていいの?」
「写真は撮ったよ。」
いつの間に、と言いかけて、やめた。
祖母は最後の一滴を拭き取ると、雑巾を小さなビニール袋へ入れた。
「行こう。」
二人で外へ出る。
門を閉めると、住宅地の向こうに学校の校舎が見えた。雨に洗われた白い壁が、朝の光を鈍く返している。
あの裏側に、石がある。
水のない場所から聞こえた、水の音。
誰もいない場所に残った、濡れた足跡。
そして、古い地図に書かれていた「返水」という二文字。
祖母と並んで歩き始める。
道路の脇には、昨夜までの雨水がまだ残っていた。
緩い傾斜に沿って流れ、側溝へ落ちていく。
陽奈は何となく、その水を目で追った。
側溝に入った水は、すぐに見えなくなる。
どこへ流れていくのだろう。
そんなことを考えてから、陽奈はふと足を緩めた。
昨日までなら、気にも留めなかった。
水は流れる。
高いところから低いところへ。
川へ。
それから海へ。
それが当たり前だと思っていた。
では。
返る水とは、何なのだろう。
陽奈は前を歩く祖母の背中を追った。
答えはまだ考えない。
今は、見る。
雨の止んだ学校の裏に、何が残っているのかを。