九重の境   作:モレ(一般人?)

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第2話 水の記憶【壱】

 目を覚ましたとき、雨は上がっていた。

 

 陽奈は布団の中で、しばらく天井を見ていた。

 障子を透かす光が明るい。梅雨どきの朝にしては珍しく、雲が薄くなっているらしい。庭では雀が鳴き、少し離れた道路を走る車の音が、濡れた町の静けさの中を通り過ぎていく。

 

 昨夜のことだけが、そこから切り離されているように思えた。

 午前二時。

 雨はもう止んでいた。

 それなのに廊下には水の跡があり、玄関の外には白い人影が立っていた。

 

 ――返して。

 

 陽奈は布団から起き上がった。

 机の上を見る。

 昨夜拾った紙片は、小さな白い皿に載せられていた。

 眠る前には、そのまま机の端に置いたはずだった。

 

 近づいて確かめる。

 紙は乾いている。端だけが波打ち、昨夜そこに水が染み込んでいたことを残していた。

 中央には、一文字。

 

 返。

 

 裏には何もない。

 紙を窓から差す光に透かしてみても、ほかに文字らしいものは見えなかった。

 階下から包丁の音が聞こえてきた。

 とん、とん、と少し間を空けながら、まな板を叩いている。

 味噌汁の匂いも上がってくる。

 その匂いを嗅いで、ようやく朝になったのだと思った。

 

 昨夜、祖母は言った。

 明日は学校を休みなさい。

 調べなければならないから。

 陽奈は制服には手を伸ばさず、薄手のシャツと動きやすいパンツに着替えた。

 

 階段を下りると、祖母は台所にいた。

 鍋の火を弱め、焼いた鮭を皿へ移している。

「おはよう、陽奈。」

「おはよう、おばあちゃん。ご飯、食べるね。」

 

 陽奈は炊飯器を開け、二人分のご飯をよそった。

 向かい合って座る。

 窓の外では、紫陽花がまだ雨粒を抱えていた。風が吹くたびに葉が揺れ、雫が庭石へ落ちる。

 

「学校には、もう連絡したの?」

「したよ。今日は家の用事で休ませますって。」

「学校の裏まで行くんでしょう?」

「だから、なるべく授業中に済ませたいんだよ。放課後になれば、部活動の子もいるでしょう?」

 

「先生に見つかったら?」

「そのときは私が話すよ。昔の土地のことで確認したいものがあるってね。」

 祖母は味噌汁を一口すすった。

「校舎に入るわけじゃない。石を見て、水路の跡を確かめるだけだから。」

「それなら、学校が終わってからでもよかったんじゃない?」

「昨日は人が多かったでしょう?」

 

 言われて、陽奈は昨日の放課後を思い出した。

 昇降口には雨が弱まるのを待つ生徒が残っていた。部活動へ向かう者もいたし、傘を忘れた友人を迎えに戻ってくる者もいた。

 学校の裏まで行けば人目は減る。

 

 それでも、長くうろついていれば誰かに見られる。

「それに、雨が止んでいるうちに見ておきたいからね。」

 祖母は鮭の骨を外しながら続けた。

「昨日はどこを見ても濡れていた。今朝なら、残っている水と新しく出た水を少しは見分けられるかもしれない。」

 

 陽奈は箸を止めた。

 昨夜まで降り続いた雨は、今朝には上がっている。

 校舎の裏で最初に聞いた水音も、濡れた足跡も、雨のせいだと言おうと思えば言えた。

 ならば、雨のない朝に同じことが起きるのか。

 確かめる意味はある。

 

「昨日の人影、おばあちゃんにも見えてたよね。」

「見えてたよ。」

「あれ、何だったと思う?」

「今のところは分からないね。」

 あまりに迷いなく答えるので、陽奈は祖母の顔を見た。

「本当に分からないの?」

「分からないよ。」

 

「でも、全然驚いてなかった。」

「驚いた顔をすれば、正体が分かるのかい?」

「そういうことじゃなくて。」

「なら、そういうことだよ。」

 

 祖母は箸を進める。

 陽奈は納得しきれないまま、味噌汁を口に運んだ。

 昔から、この人はそうだった。

 分からないことを、分からないまま置いておける。

 陽奈には、それが難しい。

 昨夜から頭の中では、同じ言葉が何度も繰り返されている。

 

 返して。

 

 何を返せというのか。

 誰が返すのか。

 そもそも、あれは自分に向けて発せられた言葉だったのか。

 

 

「陽奈。」

 考え込んでいたらしい。

 祖母に呼ばれ、顔を上げた。

「今、何を考えてた?」

「『返して』って、どういう意味なんだろうって……。」

「なるほどね。考えるのはいいよ。でも、答えを作っちゃいけないよ。」

 

「答えを作る?」

「『返して』と言った。だから何かを奪われた怪異なんだろう、とかね。」

 陽奈は口を閉じた。

 まさに、少し考えていた。

 

「声が聞こえた。それは事実として覚えておけばいい。何を意味するのかは、調べてから考えなさい。」

「怪異かどうかも?」

「まだ決めてはいけない。」

「人の形だったのに?」

「人の形をしているものなんて、いくらでもあるよ。」

 祖母はそこで一度言葉を切った。

 

「逆もあるしね。」

「逆?」

「人の形をしていないからといって、人と無関係とは限らない。」

 陽奈は聞き返そうとした。

 だが、祖母はもう味噌汁に口をつけている。

 それ以上話す気はないらしい。

 

 九重の家では、見たものに早く名前をつけるなと教えられる。

 名が分かれば、扱いやすくなる。

 けれど、間違った名で呼べば、見えていたはずのものまで見えなくなる。

 幼い頃、それを聞いた陽奈は、言葉遊びのようなものだと思っていた。

 今は少し違う。

 

「今日は、学校の裏を見たあと、どうするの?」

「家に戻るよ。」

「それだけ?」

「現場を見てから記録を読むんだよ。」

 

 祖母は湯呑みに茶を注いだ。

「昨日見せた地図を覚えてる?」

「学校の辺りに、昔の水路があったやつでしょう。」

「そう。その地図と今の地形を比べる。石の位置も、水路の跡も、覚えて帰る。そのあとで古い記録を探す。」

「先に記録を全部調べた方が早くない?」

「早いかもしれないね。」

 祖母は茶を一口飲んだ。

 

「でも、記録に書いてあることばかりを探すようになる。」

 陽奈は少し考えた。

「先に『ここに水場がありました』って読んだら、何でも水場の跡に見えるってこと?」

「そういうことよ。」

 祖母は頷いた。

 

「書いた人が間違っていることもある。途中で意味が変わった言葉もある。後から書き直された記録だってある。紙に残っているから正しい、とは限らないよ。」

 

 それは意外だった。

 九重家は記録を重んじる。

 古い文書や帳面を保管し、怪異に関わる出来事を代々書き残してきた家だ。

 陽奈自身、記録は過去の出来事を知るための答えに近いものだと思っていた。

 

「じゃあ、何のために残してるの?」

「忘れないため。」

 祖母は言った。

「正しい答えを残すためじゃない。」

 窓の外から、雫の落ちる音がした。

 

 陽奈は祖母を見た。

 何でもないことのように言っている。

 けれど、その言葉だけが妙に耳に残った。

「返水も?」

「昨日見たのは、地図にそう書かれていた。それだけだね。」

「普通に読んだら、水が返る?」

「そう読める。」

 

「場所の名前かもしれない?」

「かもしれない。」

 

「何かの行事とか。」

「それも調べる。」

 祖母は空になった茶碗を置いた。

「今の段階で可能性を増やしても仕方ないさ。まず、見に行こう。」

 

 食事を終えると、二人で食器を片づけた。

 陽奈が蛇口をひねる。

 水が勢いよく流れ出した。

 陶器に当たり、細かく跳ねる。

 陽奈の手が止まった。

 ただの水道の音だ。

 分かっている。

 それでも、昨夜から水の音に耳が反応する。

 雨樋。

 側溝。

 濡れた道路を車が走る音。

 どれも知っている音なのに、その向こうに別の音が混じっていないか確かめてしまう。

 

 浅い水の中を、人が歩く音。

 

 ぴちゃ。

 

 ぴちゃ。

 

 あれだけは、雨の音とは違っていた。

 

「陽奈。」

 祖母の声に、我に返った。

 蛇口の水が流れたままだった。

「あ、ごめん。」

 慌てて止める。

「寝不足なら、帰ってきてから少し寝なさい。」

「違うの。水の音を聞いてたの。」

 

「何か聞こえた?」

「普通の水道の音だった。」

「なら、その音を覚えておきなさい。」

 

 祖母は濡れた皿を布巾で拭いた。

 

「普通の音もね。」

 

 陽奈は一瞬、その意味を考えた。

 怪異の音だけを覚えていても、何が違うのか分からない。

 そういうことなのだろう。

 片づけを終えると、陽奈は二階へ紙片を取りに戻った。

 白い皿から持ち上げる。

 完全に乾いていた。

 封筒へ入れる前に、もう一度「返」の字を見る。

 墨なのだろうか。

 上手いとも下手とも言えない字だった。

 筆で書いたようには見えるのに、線の端にかすれがない。紙へ墨が染み込んだというより、濡れた紙の内側から色が浮いてきたようにも見える。

 

 指でなぞりかけて、やめた。

 封筒へ入れる。

 一階へ戻ると、祖母は玄関にいた。

 肩から古い布鞄を下げている。

「それも持っていくの?」

「念のためにね。」

 祖母が鞄を開いた。

 

 白い紙の束。

 細い筆。

 小さな木箱。

 陽奈にも見覚えがある。

 九重家で使う祭具だった。

「調査だけでしょう?」

「そのつもりだよ。」

「じゃあ、それは?」

「何も起きなければ、ただの荷物さ。」

 

 祖母は鞄を閉じた。

「何か起きたときに、家まで取りに帰るのは嫌だからね。」

 陽奈も靴を履いた。

 玄関の引き戸を開ける。

 

 雨上がりの空気が入ってきた。

 湿っているが、昨日までとは匂いが違う。濡れた土と葉の青い匂いが混じっている。

 雲の切れ間から、淡い青空が見えた。

 陽奈が外へ出ようとしたときだった。

 

「待ちなさい。」

 祖母の声がした。

 振り返る。

 祖母は陽奈ではなく、その足元を見ていた。

「そこ、踏まないで。」

 陽奈は片足を浮かせたまま、視線を落とした。

 玄関のたたき。

 靴のすぐ後ろに、小さな水滴があった。

 一つだけではない。

 奥へ向かって、いくつか並んでいる。

 

 昨夜のような水溜まりではなかった。

 足跡と呼ぶには形もない。

 ただ、誰かが濡れた指先から水を垂らしながら歩いたように、点々と続いている。

 

「朝からあった?」

「なかったよ。」

 祖母がしゃがみ込んだ。

 水滴には触れず、顔を近づける。

「陽奈、靴の裏を見せなさい。」

 片方ずつ見せる。

 乾いている。

 祖母自身の履物も同じだった。

 

「二階から?」

 陽奈が廊下を見る。

 水滴は玄関から廊下へ続いていた。

 数は少ない。

 少し離れた場所に一つ。

 さらに先に、もう一つ。

 階段の手前で途切れている。

「昨日の紙が濡れてたから、それじゃない?」

「かもしれないね。」

 祖母は立ち上がった。

「でも、昨夜のうちに拭いた。」

 

 陽奈は祖母を見る。

「じゃあ、今朝?」

「それを決めるには、見てない時間が長すぎるさ。」

 祖母は玄関脇から雑巾を取り、水滴を一つずつ拭き取った。

 

 陽奈はその様子を見ていた。

「残しておかなくていいの?」

「写真は撮ったよ。」

 いつの間に、と言いかけて、やめた。

 祖母は最後の一滴を拭き取ると、雑巾を小さなビニール袋へ入れた。

 

「行こう。」

 二人で外へ出る。

 門を閉めると、住宅地の向こうに学校の校舎が見えた。雨に洗われた白い壁が、朝の光を鈍く返している。

 あの裏側に、石がある。

 水のない場所から聞こえた、水の音。

 誰もいない場所に残った、濡れた足跡。

 そして、古い地図に書かれていた「返水」という二文字。

 

 祖母と並んで歩き始める。

 道路の脇には、昨夜までの雨水がまだ残っていた。

 緩い傾斜に沿って流れ、側溝へ落ちていく。

 陽奈は何となく、その水を目で追った。

 側溝に入った水は、すぐに見えなくなる。

 どこへ流れていくのだろう。

 そんなことを考えてから、陽奈はふと足を緩めた。

 昨日までなら、気にも留めなかった。

 

 水は流れる。

 高いところから低いところへ。

 川へ。

 それから海へ。

 それが当たり前だと思っていた。

 

 では。

 返る水とは、何なのだろう。

 陽奈は前を歩く祖母の背中を追った。

 答えはまだ考えない。

 今は、見る。

 雨の止んだ学校の裏に、何が残っているのかを。

 

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