九重の境   作:モレ(一般人?)

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水の記憶【弐】

 学校までは、歩いて十五分ほどだった。

 

 雨上がりの町は、普段より輪郭がはっきりして見えた。

 アスファルトはまだ黒く濡れている。塀の上には細かな水滴が並び、道沿いの植え込みからは、風が吹くたびに葉の擦れる音がした。雲は東へ流れていたが、空の大半はまだ白い。ときおり日が差すと、屋根や電線に残った水が一斉に光った。

 

 祖母は学校へ向かう近道を使わなかった。

 住宅地を抜ける道を曲がらず、そのまま古い商店の並ぶ通りへ入っていく。

 

「学校、こっちじゃないよ。」

「知ってるさ。」

 

 祖母は歩調を緩めなかった。

「少し遠回りする。」

 陽奈はそれ以上聞かず、隣を歩いた。

 

 通りには、シャッターを下ろしたままの店が何軒かあった。昔からある金物店。看板の文字が薄くなった理髪店。小さな青果店の前では、店主らしい男性が濡れた段ボールを片づけている。

 

 何度も通ったことのある道だった。

 ただ、祖母と歩くと、見ているものが少し違った。

 

「ここ、昔は道じゃなかったんだよ。」

 祖母が言った。

 陽奈は足元を見る。

 どこにでもある二車線の道路だった。

「何があったの?」

「水路。」

 祖母は道路の端を指した。

 

「正確には、今の道と完全に重なるわけじゃない。あっちから来て、この辺りで曲がってた。」

 指の先には、駐車場と新しい住宅が並んでいる。

 水路らしいものは何もない。

「昨日の地図にあったやつ?」

「たぶんね。」

 

 祖母はそこで立ち止まり、布鞄から透明なファイルを取り出した。

 中に入っていたのは、一枚の紙だった。

 昨夜見せてもらった古地図の写しだ。

 原本ではなく、必要な部分だけを複写したものらしい。古い墨書きの線が、白い紙の上に灰色で浮いている。

 

「これを持ってきたの?」

「現地で見るための写しだからね。」

 祖母は紙を陽奈に渡した。

 

「今いる場所、分かる?」

 陽奈は地図を見る。

 昨日は学校の位置ばかり気にしていた。

 改めて見ると、道の形そのものが今とはかなり違う。

 

 現在の大通りはない。

 住宅地もない。

 代わりに、細い道がいくつも曲がりながら伸び、その間を水路が走っている。

 目印になりそうなのは、今も残っている神社と川だった。

 

「神社がここだから……。」

 陽奈は地図の上で指を動かした。

 

「今いるのは、この辺?」

 祖母が頷いた。

 

「じゃあ、この線が。」

「そうさね、昨日話した水路だと思う。」

 細い線は、川から直接伸びているわけではなかった。

 地図の端から入り、集落の間を曲がりながら南へ流れている。途中で枝分かれし、田畑らしい区画へ向かう線もある。

 

 陽奈は紙から顔を上げた。

 目の前には道路がある。

 車が走る。

 自転車に乗った学生が通り過ぎる。

 けれど地図の上では、その場所を水が流れていた。

 

「全然分からないね。」

「なくなったものは、そんなもんだよ。」

 祖母は歩き出した。

 二人は地図の水路をなぞるように進んだ。

 完全に同じ場所を歩くことはできない。

 家が建っている。

 塀がある。

 駐車場になっている。

 

 水路は何度も私有地の下へ消え、別の場所から現れるように地図の上を進んでいく。

 実際には、もうどこにも現れない。

 それでも、ときどき痕跡らしいものがあった。

 不自然に細長い土地。

 家と家の間を抜ける狭い通路。

 道路に対して斜めに切られた敷地の境界。

 祖母はそうした場所で足を止めた。

 

「こういう形は残るんだよ。」

「水路がなくなっても?」

「土地は、全部きれいに引き直せるわけじゃないからね。水を埋めても、境目まで消えるとは限らない。」

 

 陽奈は細い路地の奥を見た。

 突き当たりにはブロック塀がある。

 何の変哲もない。

 それなのに、かつてそこを水が流れていたと言われると、塀の向こうにも細い流れが続いているような気がした。

 

「ここを通って、学校の方へ?」

「地図ではね。」

 

 二人は再び歩いた。

 しばらくすると、見慣れた通学路に合流した。

 学校の校舎が近くなる。

 一時間目はすでに始まっている時間だった。校門の前に生徒はいない。

 グラウンドも静かだった。

 

 昨夜までの雨で土が濃く変色し、ところどころに浅い水溜まりが残っている。

 校舎の窓が開いている。

 

 風に乗って、教師の声がかすかに聞こえてきた。

 いつもなら自分も、あの中にいる。そう思うと、少し変な気分になった。

 祖母は正門へ向かわず、学校の外周に沿って歩いた。

「おばあちゃん、中に入らないの?」

「まずは外から見る。」

 フェンス越しにグラウンドを眺めながら進む。

 祖母は何度か地図を確認した。

 陽奈も横から覗き込む。

 

 古い水路は、現在の学校の敷地へ斜めに入っている。

 ちょうど体育館の端をかすめ、そのまま校舎の裏へ向かう形だった。

 陽奈は地図と実際の景色を交互に見た。

「ここから入ってる。」

「そう見えるね。」

 祖母はフェンスの向こうを見た。

 

 体育館。

 その脇の細い通路。さらに奥に、昨日の場所がある。

「でも、返水って書いてあるのはもう少し先だね。」

 陽奈が地図を指した。

 水路の途中。

 線がわずかに膨らんでいる場所がある。池というほど大きくはない。

 水路が一度広がり、また細くなっている。

 その横に「返水」と書かれていた。

 

「今の学校の裏だよね。」

「位置だけなら、かなり近いね。」

「おばあちゃん、多分ここ、昨日の石があるところだと思う。」

「それを確かめる。」

 

 祖母はファイルを鞄へ戻した。

 学校の裏手へ回る。

 こちら側には住宅が少なく、古い擁壁と細い道路が続いている。校舎との間には植え込みがあり、その向こうに倉庫の屋根が見えた。

 昨日、陽奈が一人で来た場所だった。

 

 雨が降っていないだけで、印象がまるで違う。

 明るい。鳥の声もする。

 校舎からは授業の声が漏れている。

 怖い場所には見えなかった。

 

 陽奈には、それが少し嫌だった。

 昨日感じたものまで、自分の思い込みだったように見えてしまう。

 

 祖母が立ち止まった。

「昨日、最初に音を聞いたのは?」

 陽奈は周囲を見る。

「あっちだよ。」

 校舎の角を指した。

「昇降口から裏に回って、あの辺で一度止まったの。水の中を歩いてるみたいな音がして……。」

「そのとき、雨は?」

「降ってた。でも、音は雨と違ったと思う。」

「どっちから聞こえた?」

 

 陽奈は答えようとして、少し迷った。

 昨日は後ろから聞こえたと思った。

 そのあと、別の場所からも聞こえた。

「最初は、校舎の裏側から。でも、場所が動いてた気がする。」

「気がする?」

「振り返っても誰もいなかったし、次に聞こえたときは、さっきと違うところだったから……。」

 祖母は頷いただけだった。

 詳しく思い出させようとはしない。疑いもしない。ただ、陽奈の主観も含めて、参考にしようという感じだった。

 

「陽奈、あんたが見た足跡は?」

「もう少し先。」

 二人は進んだ。

 古い排水溝。壁際の配管。

 使われていない蛇口。

 倉庫。

 そして、楠。

 

 昨日と同じものが並んでいる。

 そして当然、楠の根元近くに、あの石があった。

 

 陽奈は自然と歩みを遅くした。

 祖母も何も言わない。

 石は乾いていた。

 少なくとも、遠目にはそう見えた。

 

 陽奈は少し安心した。

 同時に、なぜ安心したのか自分でも分からなかった。

 二人は石から数歩離れた場所で止まった。

 祖母はすぐには近づかない。

 まず周囲を見た。

 

 地面。

 木の根。

 排水溝。

 校舎の壁。

 陽奈も同じように見る。

 雨は止んでいる。地面はまだ湿っているが、水溜まりはない。

 排水溝にも、わずかに水が残っているだけだった。

 

「昨日は、石の周りに水があったはず。」

 陽奈が言った。

「輪みたいになってた。」

「どのくらい?」

 陽奈は両手で大きさを示した。

「これくらい。石だけ濡れてるっていうより、周りに薄く広がってた感じ。」

 

 祖母は石へ近づいた。

 陽奈も続く。

 そこで気づいた。

「おばあちゃん。」

 祖母も見ていた。

 石そのものは乾いている。

 表面には白っぽい斑点があり、細かな苔が端に残っている。

 だが、石の周囲だけ、土の色が濃かった。

 

 きれいな円ではない。

 雨が残っていると言われれば、それまでのものだ。

 陽奈はしゃがみ込んだ。

 指で触れようとすると、祖母が手首を軽くつかんだ。

 

「素手では触らないよ。」

「でも、ただの土だよ?」

「昨日、何があった場所か知ってるでしょう。」

 

 祖母は鞄から薄い白布を取り出し、自分の指に巻いた。

 土に触れる。

 少しこする。

 布には泥がついた。

 それだけだった。

 祖母は今度は石の脇に手を伸ばした。

 陽奈は黙って見ていた。

 

「濡れてる?」

「湿ってはいるね。」

「雨の残りかな?」

「それなら、周りも同じくらい湿っていてほしいもんだね。」

 祖母は立ち上がった。

 陽奈も周囲を見る。

 

 確かに、楠の根元は比較的乾いている。

 枝葉が雨を遮ったのだろう。

 それなのに、石の周りだけ色が違う。

「おばあちゃん、昨日よりも減ってる気がする。」

「何が?」

「水。」

 陽奈は石を見た。

「昨日はもっと濡れてた。」

 祖母は答えなかった。

 

 鞄から地図の写しを取り出す。

 石の位置を確認する。

 校舎。

 旧水路。

 返水。

 何度か周囲を見比べたあと、祖母が陽奈に紙を渡した。

「持ってて。」

 

 祖母は校舎の壁際まで歩いた。

 古い排水溝を覗き込み、そのまま倉庫の方へ進む。

 陽奈は地図を持ったまま後を追った。

「何を見てるの?」

「水がどこへ流れるかさ。」

 祖母は排水溝を指した。

「今の排水はこっち。昨日の雨も、基本的にはここへ集まる。」

 

 排水溝は校舎沿いに延びている。

 石がある場所とは少し離れていた。

「じゃあ、あの石のところに水が残るのは変?」

「変とまでは言わないよ。地面の高さもあるし、土の性質も違う。」

 

 祖母はしゃがみ、地面を横から見る。

「でも、調べる理由にはなるさね。」

 陽奈は地図へ目を戻した。

 古い水路の線。

 今の排水溝。

 二つは同じ方向には走っていなかった。

 

 現在の水は校舎沿いに流れる。

 昔の水路は、そこを斜めに横切っていた。

 そして、返水と書かれた場所は――。

 

「おばあちゃん。」

 陽奈は地図を持ち上げた。

「これ、石の場所と少しずれてない?」

 祖母が戻ってくる。

 二人で地図を見る。

「昨日は同じ場所だと思ってたけど、学校の形と合わせると、返水はもう少し向こうじゃない?」

 陽奈は倉庫の先を指した。

 

 校舎の裏手は、その先で少し狭くなっている。

 フェンスと古い擁壁の間に、雑草の生えた空間が続いていた。

 祖母はしばらく地図を見た。

 

「行ってみよう。」

 二人は倉庫の脇を抜けた。

 普段、生徒が来ることはほとんどない場所だった。

 草が伸びている。

 雨粒を残した葉が、パンツの裾に触れる。

 足元には小石が多く、ところどころ地面が窪んでいた。

 十メートルほど進んだところで、祖母が止まった。

 

「陽奈。」

 声が低くなった。

 陽奈も足を止める。

 目の前に、細長い窪みがあった。幅は一メートルにも満たない。

 雑草に覆われ、ところどころ土で埋まっている。

 知らなければ、ただ地面が少しへこんでいるだけに見えるだろう。

 けれど、一度気づくと、その窪みが奥まで続いていることに気がついた。

 

 陽奈は手元の地図を見る。

 線の向きが一致している。

「水路の跡?」

「可能性はあるね。」

 祖母は窪みの縁にしゃがんだ。

 陽奈も少し離れて覗き込む。

 

 底には枯れ葉が溜まっている。

 水はない。

 昨日まであれほど雨が降っていたのに、ほとんど残っていなかった。

 

「乾いてる。」

 陽奈が言った。

「上から見る限りではね。」

 祖母は枯れ枝を一本拾い、窪みの底を軽く突いた。

 柔らかな土の感触が伝わったのか、枝先が少し沈む。

 

 それから引き抜く。

 黒い泥がついていた。

 祖母はそれを見て、何も言わなかった。

 そのまま数歩先へ移動する。

 陽奈も地図を見ながら進んだ。

 古い水路は、この先でわずかに広がっている。

 

 返水。

 

 文字が記されているのは、その辺りだった。

 あと数歩。

 陽奈が足を出した。その時だった。

 

 ぴちゃ。

 

 思わず陽奈の足が止まった。

 祖母も振り返った。

「陽奈、今の音、聞こえたかい?」

 陽奈は小さく頷いた。

 二人とも動かなかった。

 

 風が草を揺らす。

 校舎の向こうから、教師の声がかすかに聞こえる。

 水の音はしない。

「昨日と同じ?」

「多分そう。かなり似てる。」

 陽奈は周囲を見た。

 足元に水はない。

 祖母も窪みの底を見ている。

 

 しばらく待った。

 しかし何も起こらない。

「進む?」

 陽奈が尋ねた。

 祖母はすぐには答えなかった。

 やがて、窪みの先へ視線を向けた。

 

「ゆっくり。」

 二人は歩き出した。

 今度は一歩ごとに足元を見る。

 窪みは少しずつ幅を広げていた。

 雑草が途切れ、地面が見える。その中央に、小さな石がいくつか並んでいる。

 自然に転がったものにも見える。

 

 陽奈は地図を見る。

 返水の文字は、ほとんどこの位置に重なっていた。

 祖母が足を止めた。

 陽奈も止まる。

 

 音がした。

 ぴちゃ。

 今度は、はっきり聞こえた。

 前方からだった。

 陽奈は息を潜める。

 ぴちゃ。

 

 もう一度。

 浅い水を踏む音。

 一歩。

 間を置いて、もう一歩。

 こちらへ近づいてくる。けれど、目の前には誰もいない。水さえない。

 

 祖母は鞄へ手を伸ばした。

 しかし祭具を取り出すことはしなかった。

 ただ、鞄に手をかけたまま待っている。

 陽奈は前方を見つめた。

 音が止まった。

 静寂が戻る。

 

 そのとき、雲の切れ間から日が差した。

 窪みの底が明るくなる。

 陽奈は目を細めた。

 何かが光った。

 

「おばあちゃん。あそこ。」

 窪みの中央。

 土と枯れ葉の間に、水があった。ほんのわずかだった。

 手のひらほどの大きさ。浅い水溜まり。

 陽奈は近づかなかった。

 光の加減で、その水面だけが白く見える。

 昨日の雨が残ったものなら、何も不思議ではない。

 そう思った。

 

 だが、水面が揺れた。

 一度。

 小さな波紋が広がった。風ではない。

 上から雫が落ちたわけでもない。

 波紋は、水溜まりの中央から生まれていた。

 そしてもう一度。

 水の内側から、何かが触れたように。

 

 祖母が静かに息を吐いた。

「今日は、ここまでにしよう。」

 陽奈は思わず祖母を見た。

「調べないの?」

「もちろん、調べるさ。」

 祖母は水溜まりから目を離さなかった。

 

「だから、いったん帰る。」

「でも……。」

「今分かったのは、昨日の雨だけでは説明しにくい水が、古い水路の跡らしい場所に残っていること。それから、あんたが昨日聞いたものと似た音を、私も聞いたこと。」

 

 祖母はそこで初めて陽奈を見た。

「今はそれで十分さ。」

 陽奈はもう一度、水溜まりを見る。

 波紋は消えていた。

 

 何の変哲もない水が、土の窪みに溜まっているだけだった。

「帰ったらどうするの?」

「地図をもう一度見る。それから、この場所が何だったのか記録を探すさ。」

 祖母は鞄から小さな手帳を取り出し、時刻と場所を書き留めた。

 続けて、スマートフォンで周囲を数枚撮影する。

 

 陽奈はその手元を見ていた。

 祓わない。

 呼びかけない。

 水にも触れない。

 怪異がいるのなら姿を現せと、術を使うこともしない。

 ただ、見て、聞いて、残す。

 それが陽奈には少しもどかしかった。

 

 昨夜、自分の家まで来たものがいる。

 何かを返せと言っている。

 ならば、早く正体を突き止めるべきではないのか。

 そんな陽奈の考えを知っているかのように、祖母が手帳を閉じた。

「行くよ。」

 陽奈は頷いた。

 

 二人は無言で来た道を戻った。

 石のそばを通り、倉庫の脇を抜ける。

 陽奈は一度だけ振り返った。

 雑草に隠れた窪みは、もうほとんど見えない。

 その向こうに、水溜まりがあることも。

 地図を持っていなければ、そこに昔の水路があったかもしれないことすら気づかなかっただろう。

 

 校舎の裏を離れようとしたとき、二時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

 聞き慣れた音が、校舎から響く。その直後だった。

 陽奈は足を止めた。

 チャイムの余韻に重なるように、背後から水音がした。

 

 ぴちゃ。

 

 今度は、一度だけ。陽奈は思わず足を止め、前を歩く祖母を見る。

 祖母もまた、立ち止まっていた。

 祖母にも聞こえていた。

 

 陽奈はそれだけを確かめて、再び歩き出した。

 帰れば、記録を調べる。

 昔、この場所に何があったのか。

 返水とは何なのか。

 あの水が、どこから来ているのか。

 

 けれど、学校から離れる途中、陽奈の頭に残っていたのは別のことだった。

 水の音は、こちらへ近づいていた。

 昨日も。

 今日も。

 では、あれは水が流れる音ではなく。

 誰かが、水の中を歩いている音なのではないか。

 その考えだけは、まだ祖母には言わなかった。

 

 

 

 

 学校を離れてから、祖母はほとんど話さなかった。

 来たときとは違い、帰りはまっすぐ家へ向かった。

 陽奈も無理に祖母へは話しかけなかった。

 歩きながら、何度か後ろを振り返りたくなった。けれど、そのたびにやめた。

 学校の裏で最後に聞いた水音が、耳に残っている。

 

 ぴちゃ。

 

 一度だけ。

 誰もいなかった。

 水もなかった。

 それでも、あれが何かの足音なのだと考えてしまうと、今歩いている道路の向こうから同じ音が聞こえてきそうな気がした。

 

 住宅地へ入る。

 軒下に干された傘。

 雨水の溜まった植木鉢。

 側溝を流れる細い水。

 どれも昨日までなら気にも留めなかったものだった。

 

 陽奈は足元の水を避けて歩いた。

 家に着くと、祖母は玄関を開ける前に足元を確認した。

 朝にあった水滴は、もうない。

 二人で中へ入る。

 

「着替えなくていいから、手だけ洗っておいで。」

「おばあちゃんは?」

「お茶を淹れる。」

 陽奈は洗面所へ向かった。

 蛇口をひねる。

 水が流れる。

 今度は、意識してその音を聞いた。

 

 一定だった。

 水量を変えれば音も変わる。

 手の位置を動かせば、跳ね方も変わる。

 当然のことなのに、確かめている自分がおかしく思えた。

 

 学校で聞いた音とは違う。

 あれには間があった。

 一歩。

 止まる。

 また一歩。

 手を拭いて居間へ戻ると、祖母は湯を沸かしていた。

 

 陽奈が座るのを待たずに、祖母は言った。

「今から記録を見るよ。」

「返水の?」

「いんや、返水だけを探さない。」

 朝にも似たことを言われた。

 

 祖母は急須へ湯を注ぎながら続ける。

「場所から調べる。あの辺りに昔何があったのか。水路がいつまで使われていたのか。学校ができる前はどういう土地だったのか。その中に返水が出てきたら拾う感じさ。」

「『返して』っていう言葉は?」

「その言葉が出てきたら読む。でも、その言葉を探すために読むのはやめよう。」

 祖母は湯呑みを陽奈の前へ置いた。

 

「人は見つけたいものを見つけるのが上手だからね。まだ、その言葉に込められた祈りもわからないうちはやめておこう。」

 

 陽奈は湯呑みに両手を添えた。

 少し熱い。

 

 祖母は一口飲んでから立ち上がった。

「行こうか。」

 二人は庭へ出た。奥の蔵へ向かう。

 母屋から十数歩ほどしか離れていないが、陽奈がここへ入ることは滅多になかった。

 白い漆喰の壁。

 黒い瓦。

 分厚い木の扉。

 祖母が鍵束を取り出した。

 いくつもの鍵の中から、黒ずんだ一本を選ぶ。

 鍵穴へ差し込み、少し持ち上げるようにして回した。

 

 重い音がした。

 扉が開く。

 乾いた紙と木、それに防虫香の匂いが流れ出してきた。

 中は薄暗かった。

 祖母が照明をつける。

 壁際には棚が並び、木箱や帳面、巻物、封筒が収められている。比較的新しいファイルもある。棚の側面には小さな札が下がり、年代や地域らしい文字が記されていた。

 

 陽奈は入口で一度足を止めた。

 九重家に古い記録があることは知っている。

 それでも、こうして目の前にすると、その量には圧倒される。

「これ、全部読むの?」

「今日中に読みたければ止めないよ。」

「この量は無理。」

「だろうね。」

 祖母は迷わず棚の間を進んだ。

 

 奥から二番目。

 下の段。

 木箱を一つ引き出す。

「この辺りの土地の記録は、だいたいここ。」

「だいたい?」

「整理した時代によって分け方が違うんだよ。昔の地名と今の地名も一致しないしね。」

 祖母は箱を抱え、中央の机へ運んだ。

 陽奈も向かいに座る。

 

 蓋が開けられた。

 帳面が七冊。

 薄い紙束がいくつか。

 折り畳まれた地図。

 祖母はまず地図を広げた。

 学校へ持っていった写しより、範囲が広い。

「原本?」

「これは写し。原本は別の場所。」

「写しばっかりなんだ。」

「外で使ったり、調べたりするものはね。古い紙は、開くだけでも傷むから。」

 陽奈は地図を覗き込んだ。

 

 朝歩いた水路が、さらに先まで続いている。

 水路の周囲には田畑らしい区画が広がり、家々は今よりずっと少ない。

 学校の場所には当然、校舎もグラウンドもなかった。

 

 祖母が帳面を二冊、陽奈の方へ寄せた。

「読めない字があったら聞きなさい。」

「全部読めなかったら?」

「そのときは国語の先生に謝りなさい。」

「おばあちゃん、古文書までは流石に授業でやらないよ……。」

 祖母は笑いながら、自分の帳面を開いた。

 

 最初のうちは、何も見つからなかった。

 田の境界。

 水路の補修。

 橋の架け替え。

 井戸を掘った記録。

 大雨で道が崩れた年。

 日照りで作物が傷んだ年。

 

 陽奈は何度もページを戻った。

 最初は関係がありそうな言葉を見落としているのではないかと思った。

 けれど、読んでも読んでも、怪異らしい話は出てこない。

 

「昔の陰陽師って、こういうのも記録してたの?」

 陽奈は帳面から顔を上げた。

「井戸の深さとか。」

「してたさ。必要ならね。」

「怪異と関係なくても?」

「そのときは関係ないように見えても、後で必要になることがあるから。」

 祖母は自分の帳面から目を離さない。

 

「水が出なくなった。井戸を掘り直した。道を変えた。橋が流れた。そういうことの方が、後から怪異の話につながることもあるのさ。」

 陽奈は手元のページを見る。

 怪異について知りたいのに、書かれているのは人の暮らしばかりだった。

 

 どこで水を取った。

 誰が土地を管理した。

 どの田に水を回した。

 いつ雨が降った。

 いつ降らなかった。

 けれど、読み続けるうちに、それらが少しずつ同じものを指しているように思えてきた。

 

 水だ。

 この土地に暮らしていた人々は、驚くほど多くのことを水について書き残している。

 

「おばあちゃん。」

 陽奈は一つの記述を指した。

「これ、何て読むの?」

 祖母が席を立ち、陽奈の横へ来る。

 墨が薄くなった数行だった。

 陽奈にも「六月」と「雨」という字は読めた。

 その後が難しい。

 

「『六月、雨なく』。」

 祖母が指で追う。

「その次は……『諸田、乾く』かな。」

「田んぼが乾いた?」

「そうさね。」

 さらに下へ進む。

 

 何人かの名前。

 米や酒らしい品目。

 そして、日付。

 

「これは?」

 陽奈が聞く。

 祖母はしばらく文字を見た。

「『水場に集う』。」

 陽奈の目が止まった。

「水場って、今日見たところ?」

「恐らくね。でも、まだ分からない。」

 祖母は自分の席へ戻らず、隣に座った。

 

 二人で続きを読む。

 文章というより、覚え書きに近かった。

 六月。

 雨がない。

 田が乾く。

 何人かの名。

 酒。

 米。

 水場に集う。

 その次の行には、少し大きな字があった。

 

「祈雨。」

 

 祖母が読んだ。

「雨乞い?」

「そう考えていいと思う。」

 陽奈はもう一度、その文字を見た。

 学校の授業や本の中でなら知っている。

 雨が降らないとき、人々が雨を願って行う儀礼。

 けれど、それが自分の学校の下にあったかもしれない水場と結びつくと、急に遠い昔の話ではなくなった。

 

「ここで雨乞いをしてたってこと?」

「この記録だけなら、水場で雨を願う何かをしたところまでは読めるね。」

「何をしたの?」

「そこまでは書いてないさ。」

「お供えはあるよ。酒と米。」

「供えたとは書いてないよ。」

 陽奈は記録を見る。

 確かに、品物の名前が並んでいるだけだった。

 

「持っていっただけかもしれない?」

「人に配ったのかもしれない。別の用途かもしれない。」

「細かいね。」

「細かくないと、百年後にあんたみたいな子が勝手に話を作るからね。」

 

 陽奈は口を尖らせた。

 祖母は少し笑って、次のページをめくった。

 そこには何もない。

 

 次も。

 さらにその次も。

 しかし数日後の日付で、短い記録があった。

 

 雨。

 

 それだけだった。

 

「雨、降ったんだ……。」

「みたいだね。」

 陽奈は先ほどのページへ戻った。

 雨がない。

 人が集まる。

 雨を願う。

 そして、数日後に雨が降る。

「これだけ見たら、雨乞いが効いたみたい。」

「そう見えるね。」

「違うの?」

「雨が降ったことと、祈ったことは記録から分かる。その二つに因果関係があるかは、紙には書いてない。」

「昔の人は、あると思ってたんじゃない?」

「そう思った人はいただろうね。」

 

 祖母は記録を閉じなかった。

「でも、みんなが同じように信じていたとも限らないよ。」

「雨乞いなのに?」

「陽奈。」

 祖母は机の上の帳面を軽く指で叩いて陽奈の目を見た。

「昔の人だって、人だよ。」

 

 陽奈は祖母を見る。

「信じる人もいれば、付き合いで来た人もいる。雨が降れば何でもいいと思っていた人もいたかもしれない。神様に本気で祈った人も、隣の家が行くから自分も行った人もいる。百年前だからって、村中が同じことを考えていたわけじゃない。」

 

 陽奈は少しだけ恥ずかしくなった。

 古い記録を読んでいると、そこに書かれている人たちを、ひとまとめに「昔の人」と考えてしまう。

 けれど、その一人一人に暮らしがあった。

 雨が降らなければ困る理由も、それぞれ違ったはずだ。

 

「雨乞いって、こういう水場でやるものなの?」

「土地によるよ。」

 祖母は帳面を閉じ、別の一冊を開いた。

「神社で行うところもある。山へ登るところもある。川や滝、池みたいに水と結びついた場所で祈ることもある。やり方も一つじゃない。」

 

「九重家がやってたの?」

「この記録では分からない。」

「でも、うちに残ってる。」

「うちが関わったから残したとは限らないよ。」

 祖母はそこでページをめくる手を止めた。

「覚えておきなさい。九重の記録にあるものが、全部九重の仕事だったと思わないこと。」

 陽奈は何となく祖母の顔を見た。

 いつもの調子だった。

 ただ、その言い方が少しだけ気になった。

「どうして?」

「見聞きしたものも残すからだよ。」

 

 祖母は次のページを開いた。

 それ以上の説明はなかった。

 陽奈も追及しなかった。

 再び帳面を読む。

 しばらくして、同じ年の別の記述が見つかった。

 

 また六月だった。

 今度は、先ほどより少し後の日付。

 人名がいくつか並んでいる。

 その中の一つを、祖母が指で押さえた。

 

「この名前。」

「何?」

「さっきもあった。」

 前のページへ戻る。

 確かに同じ名前がある。

 さらに別の帳面を開く。

 水路の補修について書かれた記録。

 そこにも同じ姓があった。

「水路を管理してた人?」

「そうかもしれない。」

 祖母は名前を手帳に写した。

 陽奈も覚えようと、文字を目で追う。

 珍しい姓ではない。

 この辺りなら今でも見かける。

 だが、何度も水に関わる記録へ現れるとなれば、偶然ではないかもしれない。

 

「この人を調べる?」

「家をね。個人だけ追うと、また決めつけることになる。」

 祖母は別の記録を探し始めた。

 陽奈も自分の帳面へ戻る。

 

 ページをめくる。

 しばらくして、一枚の紙が挟まっていることに気づいた。

 帳面より新しい紙だった。

 とはいっても、かなり黄ばんでいる。

 何かを書き写したものらしい。

「これ、挟んだままでいいの?」

 祖母が見る。

 

「動かさないで。」

 声が少し変わった。

 陽奈は手を止めた。

 祖母が紙の端を持ち、ゆっくり開く。

 短い文章が数行。

 

 書かれている年代は、雨乞いの記録よりずっと後だった。

 陽奈にも読める字が多い。

 水路。

 改修。

 土地。

 その中に、一つだけ見覚えのある言葉があった。

 

 返水。

 

「出てきた。」

 陽奈は思わず身を乗り出した。

 祖母は何も言わずに読む。

「何て書いてあるの?」

「ちょっと待ちなさい。」

 

 しばらくして、祖母が紙を机へ置いた。

「返水という言葉はある。でも、意味の説明はない。」

 陽奈も読めるところを追った。

 どうやら水路を改修した際の覚え書きらしい。

 

 返水の東側。

 返水より上。

 返水に至る道。

 

 そんな使われ方をしている。

「場所の名前?」

「少なくとも、この文では場所を指しているように見える。」

「じゃあ、昨日の地図に書いてあったのも地名かな?」

「まだそこまでは言えないけど、可能性は高くなったね。」

 

 陽奈は少し拍子抜けした。

「水が返るって意味じゃないんだ。」

「いんや、そうは言ってないよ。」

「でもおばあちゃん、場所の名前なんでしょう?」

「そう簡単なもんじゃないさ。いいかい?陽奈。場所の名前にも、名前がついた理由はある。」

 

 祖母は紙を裏返した。

 裏には何もない。

「それに、正式な地名とも限らない。家の呼び名、田の呼び名、村の中だけで通じる場所の名前。そういうものはいくらでもある。」

 陽奈は「返水」という二文字を見た。

 

 昨夜までは、何か不吉な意味を持つ言葉に思えていた。

 けれど、かつてそこに暮らした人々にとっては、もっと日常的な言葉だったのかもしれない。

 

 返水の近くで待つ。

 返水へ行く。

 返水の上の田。

 

 そうやって普通に使われていた。

 なら。

「『返して』とは関係ないのかな。」

 

 陽奈は独り言のように言った。

 祖母は答えなかった。

 代わりに、先ほどの雨乞いの記録をもう一度開いた。

 

「陽奈、時期を見なさい。」

 陽奈は記録へ目を落とした。

 

「六月。」

「返水の記録も、同じ頃のものが多い。」

 祖母は返水の記された紙を横へ置き、その隣に古地図を広げた。

 水路。

 返水。

 今日見つけた窪み。

 学校の裏。

 机の上に並べられたものを見ても、まだ一つの答えにはならない。

 

 いくつかの情報が、陽奈の頭の中に浮かぶ。

 だが、まだそれは、陽奈の頭の中ではつながりそうもない。

 

 祖母は雨乞いの記録に指を置いた。

「ここには『水場』としか書いてない。」

「うん。」

「返水とは書いてない。」

 陽奈は地図を見る。

「でも、同じ場所かもしれない。」

「かもしれない。」

 祖母は頷いた。

「だから、次はそれを調べる。」

 

 陽奈は湯呑みに手を伸ばした。

 茶はすっかり冷めていた。

 口に含む。

 そのときだった。

 蔵の外で、何かが落ちる音がした。

 

 ぽつ。

 

 陽奈は顔を上げた。

 祖母も動きを止めた。

 

 ぽつ。 

 

 もう一度。

 屋根から雨粒が落ちているような音だった。

 陽奈は窓を見る。

 外は明るい。

 雨は降っていない。

 

 しばらく待つ。

 音は続かなかった。

 

「屋根に残ってた水かな。」

 陽奈が言った。

「かもしれないね。」

 祖母は記録へ視線を戻した。

 陽奈もそうした。

 

 今朝なら、それで終わっていたかもしれない。

 けれど、しばらくして陽奈は気づいた。

 さっきの音は、屋根の上からではなかった。

 もっと低い。

 窓の向こう。

 庭の地面に近いところから聞こえた。

 陽奈は席を立ち、窓へ近づいた。

 庭を見る。

 誰もいない。

 雨上がりの石。

 紫陽花。

 母屋の白い壁。

 そして、蔵と母屋の間に続く飛び石。

 その一つだけが、濡れていた。

 朝、家を出たときには乾き始めていたはずの石だった。

 表面に薄く水が張っている。

 陽奈は祖母を呼ぼうとした。

 その前に。

 水面が、小さく揺れた。

 

 ぴちゃ。

 

 今度は、窓越しでも分かった。

 学校で聞いたものと、同じ音だった。

 

 

 

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