窓の向こうで揺れた水は、それきり動かなかった。
陽奈はしばらく飛び石を見ていた。
蔵と母屋をつなぐように並んだ石のうち、濡れているのは一つだけだった。薄く張った水が空の明るさを映している。紫陽花の葉が風に揺れ、隣の石へ雫を落とした。
ぽつ、と小さな音がした。
それは聞き慣れた音だった。
さっき聞いたものとは違う。
「おばあちゃん。あの石、一度見に行った方がいいんじゃないかな。」
祖母は窓の外を見たまま、すぐには立ち上がらなかった。
「気になるかい?」
「うん。学校で聞いたのと同じ音だったと思う。」
「私にもそう聞こえたよ。」
それなら、と陽奈が言いかけると、祖母は机の端に置いていたスマートフォンを取った。
窓際まで行き、飛び石を撮る。
続けて時計を確かめ、手帳へ何かを書いた。
「今は、これでいい。」
「近くで確かめなくても?」
「水があることは見えているからね。あれが何なのか確かめようとすれば、触るか、何かを試すことになる。今はまだ、そこまでしなくていいよ。」
祖母は席へ戻った。
陽奈はもう一度、庭を見る。
「学校からついてきたのかな。」
口にしてから、自分で首を振った。
「……ごめん。まだ、そう考えるのは早いね。」
「考えるくらいはいいんだよ。」
祖母が言った。
「ただ、自分で考えたことと、実際に見たことを混ぜないようにしなさい。」
陽奈は頷いた。
学校の裏で水音を聞いた。
庭でも似た音を聞いた。
一つの飛び石だけが濡れている。
そこまでなら、自分が見聞きしたことだ。
同じものが学校から家までついてきた、というのは自分の考えに過ぎない。
昨夜の白い人影を思えば、そう考えたくなる。
だからこそ、今は分けておかなければならないのだろう。
陽奈は椅子へ戻った。
机の上には、古い地図と帳面が広がっている。
学校の裏を通っていた水路。
地図に残された「返水」という二文字。
雨のない年に、人々が「水場」に集まったという記録。
今日、学校の裏で見つけた細長い窪み。
どれも近くにある。
だから同じ場所の話だと思いたくなる。
けれど、記録にはまだ、そう書かれていない。
「さっきの雨乞いの記録なんだけど。」
陽奈は帳面を自分の方へ寄せた。
「『水場に集う』って書いてある場所が、返水だったのかどうか、別の記録から確かめられないかな。」
「じゃあ、それを探してみようか。」
祖母は木箱の中から別の帳面を取り出した。
「返水という言葉だけじゃなくて、水場そのものがどう使われていたか分かるものを探した方がよさそうだね。」
二人で手分けしてページをめくった。
井戸を掘った記録があった。
水路をさらった記録があった。
大雨で堰が壊れ、近くの家から人が出て直したという短い記述もあった。
陽奈は気になる箇所を付箋に書き写していった。
やがて、別の場所にも「水場」という言葉が出てきた。
「あれ。」
陽奈は前の記録を机の上へ並べた。
「こっちにも水場って書いてある。でも、場所が全然違うみたい。」
祖母が陽奈の横から帳面を覗く。
「これは共同井戸の辺りだね。」
「じゃあ、『水場』っていう固有の場所が一つあったわけじゃなくて、水を使う場所を広くそう呼んでいたのかな。」
「今見つかっている記録だけなら、その読み方の方が自然かもしれないね。」
陽奈は雨乞いについて書かれたページへ戻った。
水場に集う。
たったそれだけの言葉が、先ほどより曖昧に見えた。
「これだけだと、どこの水場へ集まったのかまでは分からないんだね。」
「書いた人には、書く必要がなかったのかもしれない。」
「みんなが知っていたから?」
「そういうこともある。」
祖母は木箱の底に手を入れ、紐で綴じられた紙束を取り出した。
「地図だけで場所を探すより、土地の記録を見た方がいいかもしれないね。」
半分を陽奈へ渡す。
土地の売買や境界についての覚え書きだった。
帳面より年代は新しいらしく、字は読みやすい。
ただ、内容はなかなか頭に入ってこなかった。
土地の広さ。
田畑の持ち主。
隣り合う家の名前。
道幅。
水路との境。
数枚読んだところで、陽奈はそっと目をこすった。
「こういう記録をずっと読んでいたら、昔の人の土地に今でも詳しくなれそう。」
「その頃には肩も凝ってるだろうね。」
「もう少し凝ってる。」
「それは早い。」
祖母が笑った。
陽奈もつられて笑う。
少しだけ気持ちがほぐれた。
窓の外を見る。
飛び石はまだ濡れている。
けれど、水が増えた様子はなかった。
陽奈は紙束へ視線を戻した。
次の一枚。
さらに次。
そこで、見覚えのある姓に気づいた。
「おばあちゃん。この名前、さっきも見なかった?」
祖母が椅子を寄せた。
陽奈は紙の一か所を指した。
「雨乞いの記録にあった人と、同じ名字だった気がする。」
祖母が先ほどの帳面を開く。
二人で見比べた。
「同じだね。」
「水路を直した記録にも、この名字がなかった?」
「あったと思うよ。待ってね。」
祖母は別の帳面を取り、付箋を頼りにページを戻った。
同じ姓があった。
ただし年代は違う。
祖母が紙と帳面を並べる。
「同じ人ではないね。ずいぶん年が離れてる。」
「じゃあ、同じ家の人たちなのかな。」
「そう考えたくなるところだけど、まずは住所を見よう。」
陽奈は頷いた。
今度は二人で、名前の近くに書かれた土地の情報を追った。
現在の住所とは表記が違う。
古地図と照らし合わせながら探していく。
やがて祖母の指が、学校の裏に近い一角で止まった。
「この辺りだね。」
「今日歩いたところの近く?」
「そう。かなり近いね。」
陽奈は身を寄せて地図を見た。
古い水路のそばだった。
「この家の人たちが、ずっと水路の近くに住んでいたのなら、水の管理に関わっていたのかな。」
「その可能性はあるね。水路の補修記録に何度も名前が出てくるのも気になる。」
「雨乞いのときにも同じ名字があるし。」
「それも覚えておこう。」
祖母は手帳へ姓と年代を書き留めた。
陽奈は次の紙をめくった。
そこには文章ではなく、簡単な図が描かれていた。
一本の水路。
その脇を通る道。
いくつかの四角。
水路が途中で少し広くなり、その横に小さな丸が記されている。
陽奈は古地図を引き寄せた。
「おばあちゃん。これ、見て。」
祖母も顔を寄せる。
「水路の曲がり方が、学校の裏の辺りに似てない?」
紙の向きを変える。
古地図と並べる。
完全に同じではない。
それでも、道との位置関係や、水路が広がる場所はよく似ていた。
「この丸の横、石って書いてあるよね。」
「そう読めるね。」
陽奈は学校の裏にあった楠を思い出した。
「最初に見つけた大きな石とは、場所が少し違う気がする。」
「私もそう思う。地図どおりなら、もう少し奥だね。」
「今日、水が残っていたところの近く……。」
陽奈はそこで言葉を止めた。
窪みの底。
枯れ葉。
小さな水溜まり。
その近くには、いくつかの石があった。
「今ある石と同じものかどうかは、分からないね。」
祖母が図を見ながら言った。
「この図だと一つしか描かれていないし、石なんて動かされることもある。工事で埋まったかもしれない。」
「でも、次に学校へ行くときは、場所をちゃんと見てみたい。」
「そうしようか。」
祖母は図の写しを取るため、紙を脇へ分けた。
さらに記録を調べていく。
昼が近づくにつれ、蔵の中も少し蒸し暑くなってきた。
祖母が一度窓を開ける。
湿った土の匂いが入ってきた。
陽奈は首を回してから、比較的新しい一枚の紙を手に取った。
それまでの記録とは字が違う。
読みやすい。
水路の改修について書かれたものだった。
道路を広げるために、一部を埋めたこと。
周辺の土地を整理したこと。
水の流れを別の場所へ移したこと。
陽奈は一行ずつ追った。
途中で、指が止まった。
「おばあちゃん。ここに返水って書いてある。」
祖母が隣へ来た。
二人で同じ行を読む。
短い一文だった。
――返水を閉ず。
「『返水を閉ず』で合ってる?」
「合ってると思う。」
陽奈はその前後も読み直した。
「これって、返水という場所を閉鎖したってことなのかな。」
「そう読めなくはないけど、何をどうしたのかまでは書いてないね。」
祖母は紙を机の中央へ移した。
「水路の改修についての記録だから、水の流れを塞いだ可能性もある。場所へ入れなくしたのかもしれないし、そこにあった何かを使わなくした、という意味かもしれない。」
「もう少し詳しく書いてくれていたらよかったのにね。」
「書いた人は、何十年も後に私たちが読むなんて思ってなかったんだろうね。」
陽奈は年代を確かめた。
「学校が建ったのは、この後なんだよね。」
「そうだよ。まだ少し間がある。」
「だったら、学校を建てるために返水を閉じたわけではないのかな。」
祖母はそこで少し考えた。
「そこは順番を調べた方がいいね。土地の整備が先に始まって、後から学校の計画が決まった可能性もあるから。」
「うん。」
陽奈は紙を元の位置へ戻さず、机の端に置いた。
「閉じた理由が、どこかに残ってるといいんだけど。」
二人は同じ時期の記録を探した。
道路工事。
水路の付け替え。
土地の整理。
何枚かに返水という呼び名は出てきた。
しかし、なぜ閉じることになったのかを説明したものは見つからなかった。
陽奈は最後の一枚を読み終え、そっと机へ置いた。
しばらく何も言わなかった。
祖母も急かさない。
紙を年代順に並べ直している。
「おばあちゃん。」
「うん?」
「少し不思議なんだけど、聞いてもいい?」
「どうしたのさ。」
「この人たち、すごく細かく記録を残してるでしょう。水路を直したことも、土地の境も、誰がそこに住んでいたのかも。それなのに、返水を閉じた理由だけが見つからないのが、ちょっと気になって。」
祖母の手が止まった。
陽奈は雨乞いの記録も見た。
「雨乞いの方も同じで、みんなが水場に集まったことは残っているのに、それがどこの水場だったのかは書いてない。書いた人にとっては、そのくらい当たり前のことだったのかな。」
「たぶん、それはあるだろうね。」
祖母は椅子へ座り直した。
「昔の記録は、今の私たちに説明するために書かれたものじゃないからね。」
机に置かれた紙の一枚を指で押さえる。
「たとえば陽奈が日記に『今日、学校へ行った』と書いても、学校の場所や昇降口の使い方までは書かないでしょう。」
「確かに書かないかも。」
「自分も、周りの人も知っているからね。」
陽奈は古地図の「返水」という文字を見た。
「でも、みんなが知っていたことって、その人たちがいなくなったら、誰にも分からなくなるんだね。」
「そういうことはあるよ。」
祖母はそれだけ言って、紙を重ねた。
陽奈はしばらく地図を眺めていた。
返水。
かつては、説明する必要もないほど普通に通じる言葉だったのかもしれない。
返水の近くへ行く。
返水の上にある田。
返水を閉じる。
それだけで、誰もが何のことか分かった。
今は、その二文字だけが紙の上に残っている。
陽奈は窓の外へ目をやった。
先ほどまで濡れていた飛び石は、いつの間にか乾いていた。
光が当たり、ほかの石と同じ色に戻っている。
水の跡もない。
陽奈は窓辺まで行った。
何も起こらない。
庭には風が通り、紫陽花の葉が揺れている。
そのとき、ふと一つのことを思いついた。
「ねえ、おばあちゃん。」
祖母が紙を揃えながら顔を上げる。
「返水を閉じたのがこの頃なら、そのとき子どもだった人が、今もこの辺りに住んでいるかもしれないよね。」
「そうだね。年代を考えれば、いてもおかしくないよ。」
「記録を書いた大人たちが残さなかったことでも、そこで暮らしていた人なら何か覚えてないかな。返水がどんな場所だったとか、大人たちがそこで何をしていたとか。」
祖母はすぐには答えなかった。
先ほど手帳へ書いた姓を見返している。
「この家なら、今も続いているはずだよ。」
「水路の記録に何度も出てきた家?」
「そう。今は少し離れた場所に移ってるけどね。」
陽奈は少し身を乗り出した。
「もし迷惑じゃなければ、お話を聞かせてもらえないかな。」
祖母は陽奈を見た。
「昔のことを覚えている人がいるか、まず聞いてみようか。」
「うん。急に行ったら驚かせちゃうもんね。」
「それもあるし、知らないものは知らないからね。無理に思い出してもらうものでもない。」
祖母は立ち上がり、蔵の奥の棚へ向かった。
古い住所録を取り出す。
陽奈は机に残った記録を見た。
紙に残っているのは、起きたことのすべてではない。
書いた人が、そのとき残そうと思ったことだけだ。
水路を直した。
雨が降らなかった。
人々が水場へ集まった。
返水を閉じた。
けれど、その場所で人々が何を見て、どんな話をして、何を怖がり、何を願っていたのか。
そういうものは、紙の上から抜け落ちている。
祖母が住所録のページをめくる。
乾いた紙の音が、蔵の中に響いた。
陽奈は古地図の上へ視線を落とした。
学校の裏を通る、もう存在しない水路。
その途中に記された、返水という名前。
そこにあったものを知るには、昔の紙を読むだけでは足りないのかもしれない。
まだ誰かが覚えているうちに、その人の話を聞く。
陽奈には、その方がずっと自然なことに思えた。