九重の境   作:モレ(一般人?)

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水の記憶【肆】

 住所録は、蔵のいちばん奥の棚にあった。

 

 祖母が持ってきたのは、表紙の角が擦れて丸くなった古い大学ノートだった。輪ゴムを外すと、間に挟まれていた紙片が何枚かずれた。

「ずいぶん古いね。」

「途中から書き足してるからね。電話番号なんか、もう使われてないものの方が多いよ。」

 祖母は椅子に座り、最初の数ページをめくった。

 

 住所だけの人もいれば、名前の横に短い覚え書きがある人もいる。

 陽奈は向かいから眺めていたが、すぐに視線を外した。

 家の記録とはいえ、誰かの住所や電話番号を覗き込んでいるのは、何となく落ち着かない。

 祖母はそれに気づいたのか、何も言わずにノートを少し自分の方へ寄せた。

 

「あった。」

 ページを押さえる。

 水路に関する記録へ何度も出てきた姓だった。

 ただし、そこに書かれている名前は陽奈の知らないものだった。

「今もその人が住んでるの?」

「この人は、もう亡くなってるよ。」

 祖母は名前の横に小さく書かれた文字を指でなぞった。

 

「私が若い頃に何度か会ったことがある。」

「おばあちゃんが?」

「この辺りのことを調べるときにね。昔は、今より家同士の付き合いもあったからね。」

 祖母は少し下へ目を移した。

 別の名前が書き足されている。

「娘さんがいたはずだよ。今なら……八十を少し過ぎたくらいかな。」

「その人なら、返水が閉じられた頃のことを覚えてるかもしれないね。」

「覚えていたとしても、子どもの頃の話だろうけどね。」

 祖母はそう言いながら、机に置いた手帳へ名前を書き写した。

 

 陽奈は古地図の方を見た。

 先ほどまで、その姓は記録の中に何度も現れる文字でしかなかった。

 雨乞いのときに集まった人。

 水路を直した人。

 水路の近くに土地を持っていた人。

 何代も同じ姓が続いている。

 けれど、住所録の中では、その先に今を生きている人がいる。

 

「この家の人たちって、どうしてこんなに水の記録に出てくるんだろう。」

 陽奈が尋ねると、祖母は住所録を閉じずに考えた。

「水路のそばに住んでいたから、というのが一番ありそうだけどね。昔は、近くに住む家が水の管理を担うこともあった。」

「雨乞いにも関わっていたなら、その水場を守っていた家だったりしないのかな。」

「それも考えられる。でも、そこまで言えるものはまだ出てないさね。」

「そうだよね。」

 陽奈は素直に頷いた。

 

 以前なら、同じ名前が三度も出てくれば、何か特別な役目を持つ家なのだと思っていたかもしれない。

 今は少しだけ待てる。

 記録に書かれていることと、そこから自分が想像したことを、頭の中で分ける。

 簡単そうで、意外に難しい。

 

 祖母は住所録に挟まっていた紙を一枚ずつ確認していた。

 年賀状の住所を書き写したもの。

 電話番号の変更。

 誰かから聞いたらしい転居先。

 その中に、古い写真が一枚混じっていた。

「あら。」

 祖母が手を止めた。

 

「写真?」

「そうみたいだね。」

 白黒写真だった。

 縁が波打ち、表面には細かな傷が入っている。

 祖母は直接触らず、机の上へそっと滑らせた。

 十人ほどの人が写っていた。

 男性も女性もいる。

 年齢はばらばらだった。

 全員が普段着に近い服装をしている。

 祭りの記念写真のような華やかさはない。

 背景には木立があり、その手前を低い石積みが横切っていた。

 

 陽奈は写真へ顔を近づけた。

「これ、どこだろう。」

「裏に何か書いてないかな。」

 祖母が写真の端を持ち、ゆっくり返した。

 薄い鉛筆書きが残っている。

 

 年月。

 数人の名字。

 それから短い一文。

 祖母が目を細めた。

 

「『水場にて』。」

 

 陽奈はもう一度、表を見る。

 さっきまで文字でしかなかった言葉に、突然、景色が与えられた。

 木立。

 石積み。

 土の地面。

 そこに立つ人たち。

「雨乞いのときの写真かな。」

「いや、年代は合わないよ。雨乞いの記録より、ずっと後だね。」

「じゃあ、別のときに撮ったんだ。」

「そうだろうね。」

 写真の人々は、何かの儀式をしているようには見えない。

 

 笑っている人もいる。

 腕を組んだ男性。

 少し離れて立つ女性。

 前列には子どもが二人いる。

 日常の途中で、たまたま集まって撮った写真にも見えた。

 

「この『水場』も、雨乞いの記録にあった場所と同じなのかな。」

「写真だけじゃ判断できないね。」

 祖母は古地図を引き寄せた。

「ただ、背景に何か手がかりがあるかもしれない。」

 二人で写真を見た。

 

 木。

 石積み。

 奥に見える斜面。

 建物の屋根らしきもの。

 陽奈は一つずつ確かめていった。

 

 学校の裏に似ている気もする。

 けれど、似ていると思って見れば、いくらでも似て見える。

「今日見た場所には、こんな石積みはなかったよね。」

「なかったね。」

「工事でなくなったのかな。」

「それも考えられるし、そもそも別の場所かもしれないさね。」

 祖母は写真を机へ戻した。

 

 陽奈はまだ眺めていた。

 前列の子どもの一人が、妙に気になった。

 女の子だった。

 髪を短く切り、膝の上に両手を置いている。

 隣の男の子はカメラを見ているのに、その子だけ少し横を向いていた。

 視線の先には、写真の端がある。

 そこに何があったのかは写っていない。

 

「この子、何を見てるんだろう。」

「子どもの写真なんて、そんなものじゃないかい?」

「それはそうだけど。」

 陽奈は少し笑った。

 怪異のことを調べているせいで、何でも意味があるように見えてしまう。

 写真に写る子どもが横を向いている。

 それだけなら、珍しいことでもない。

 

「裏に名前、書いてある?」

 祖母がもう一度確認する。

 数人分しかない。

 写真に写る全員の名前ではなかった。

「この子の名前は分からないね。」

「そっか。」

 陽奈は少し残念に思った。

 祖母が住所録へ写真を戻そうとしたとき、陽奈は裏面の端に小さな文字があることに気づいた。

「待って、おばあちゃん。そこにも何か書いてない?」

 

 祖母が手を止めた。

 鉛筆の跡が、紙の変色に紛れている。

 文字というより、書きかけのようだった。

 祖母は窓からの光に傾けて見る。

「名前みたいだね。」

「読める?」

「最初の字が薄いね……。」

 祖母はしばらく眺めたあと、首を振った。

「無理に読むと間違えそうだね。」

 陽奈も横から見た。

 

 確かに、人の名前らしい。

 二文字か三文字。

 最後の一字だけは「子」に見えた。

 その横に、別の短い文字がある。

「これ、何だろう。」

「『守』にも見えるけど、はっきりしないね。」

「誰かが後から書いたのかな。」

「筆圧が違うから、その可能性はあるね。」

 

 祖母は写真を透明な袋へ入れた。

「これは別にしておこう。」

「さっき連絡しようとしてた人に見せたら、誰が写ってるか分かるかもしれないね。」

「そうだね。写真の年代なら、その人自身が知っている人もいるかもしれない。」

 陽奈は少し期待した。

 文字だけの記録より、写真には人がいる。

 顔がある。

 もし名前が分かれば、その人が何をしていたのかもたどれるかもしれない。

 

 祖母は住所録へ戻った。

 古い電話番号には横線が引かれ、その下に新しい番号が書き足されている。

「これなら、まだ使われているかもしれない。」

「今から電話する?」

「お昼どきだから、少し待とう。」

 

 時計は十二時を過ぎていた。

 言われてみれば、朝からほとんど休まず調べていた。

「お腹空いてない?」

 祖母に聞かれて、陽奈は自分の腹に手を当てた。

「聞かれたら急に空いてきたかも。」

「そういうものだよ。」

 二人は記録をいったん片づけた。

 写真と、返水について書かれた紙と、雨乞いの記録には目印をつけて残した。

 

 母屋へ戻る。

 祖母が昼食に作ったのは、冷たい素麺だった。

 窓を開けると、雨上がりの湿った風が入ってくる。

 陽奈は薬味の葱を入れながら、庭を見た。

 さっき濡れていた飛び石は乾いている。

 水音もしない。

「学校、今ごろ給食かな。」

「そろそろじゃない?」

「今日、何だったっけ。」

「私が知るわけないでしょう。」

「そうだよね。」

 陽奈は笑って素麺をすすった。

 

 午前中ずっと怪異のことを調べていたのに、学校のことを考えると、急にいつもの一日に戻った気がする。

 友人たちは、自分が家で古地図を広げているなんて思ってもいないだろう。

 家の用事で休み。

 学校に伝わっているのは、それだけだ。

「ねえ、おばあちゃん。」

「うん?」

「さっきの写真、ちょっと不思議だった。」

「女の子のこと?」

「それもあるけど。」

 陽奈は箸を置いた。

「昔の水場って聞いたら、もっと特別な場所を想像してた。注連縄があったり、祠があったり。」

「そういう場所もあるよ。」

「でも、写真は普通だった。」

 人が並んでいる。

 子どももいる。

 笑っている人もいる。

 

 陽奈が言うと、祖母は薬味の生姜をつゆに入れながら頷いた。

「特別な場所が、いつも特別な顔をしているとは限らないからね。」

「普段は普通に使ってたのかな。」

「水を汲んだり、洗い物をしたりする場所だった可能性もあるね。」

「そこで、雨が降らないときだけ祈ったとか?」

 祖母は少し考えた。

「それなら不自然ではないけど、今はまだ想像だね。」

「うん。」

 陽奈はそれ以上先へ進めなかった。

 けれど、その想像は頭に残った。

 日常の中にある水。

 毎日使う場所。

 普段は誰も特別なことを考えない。

 それが、雨の降らない年だけ違う意味を持つ。

 そういう場所だったのなら。

 水場がなくなったとき、人々は何を失ったのだろう。

 

 

 昼食を終え、食器を洗った。

 午後一時を過ぎた頃、祖母が居間の電話の前へ座った。

 住所録を開く。

「かけてみるよ。」

 陽奈は少し離れたところに座った。

「私、ここにいて大丈夫?」

「大丈夫。でも、最初は私が話すからね。」

「うん。」

 祖母が番号を押した。

 一度。

 二度。

 三度。

 呼び出し音が続く。

 陽奈は無意識に背筋を伸ばしていた。

 四度目で、音が止まった。

 

「もしもし。」

 祖母の声が少し柔らかくなる。

「突然すみません。九重と申します。以前、お父さまに何度かお世話になったことがありまして。」

 相手の声は、陽奈のところまでは聞き取れない。

 祖母は何度か相槌を打った。

「ええ。ずいぶん昔のことです。今、少しこの辺りの古い水路について調べていまして……。」

 

 しばらく話す。

 祖母の表情が変わった。

 驚いたというほどではない。

 ただ、住所録へ落としていた視線が上がった。

「そうですか。覚えていらっしゃいますか。」

 陽奈は息を潜めた。

 祖母がこちらを見る。

 

「返水という呼び名なんですが。」

 短い沈黙があった。

 祖母の眉が、ほんの少し動いた。

「ええ。学校が建つ前の辺りです。」

 また、相手が何か話している。

 今度は長かった。

 祖母は途中で口を挟まず、聞いている。

「もしご迷惑でなければ、少し昔のお話を伺えませんか。孫も一緒なんですが。」

 陽奈は思わず祖母を見る。

 やがて祖母が微笑んだ。

 

「ありがとうございます。それでは、三時頃に。」

 電話を切る。

 陽奈はすぐに尋ねたくなったが、祖母が住所録へ何かを書き込むのを待った。

 ペンを置いてから、祖母が言った。

「覚えてるそうだよ。」

「返水のこと?」

「名前はね。」

 祖母は住所録を閉じた。

「子どもの頃、そう呼ばれていた場所があったことは覚えてるって。」

 

 陽奈の胸が少し高鳴った。

「写真も持っていっていいかな。もしかしたら、写っている人のことも分かるかもしれないし。」

「聞いてみよう。」

 祖母は立ち上がった。

 蔵へ写真を取りに行こうとして、ふと足を止めた。

「ただし、陽奈。」

「うん。」

「こちらが知りたい答えを、相手に言わせないこと。」

 陽奈は少し考えた。

 

「『ここで雨乞いをしてましたよね』みたいに、最初から決めて聞かないってこと?」

「そう。昔の記憶は、聞き方で形が変わることがあるからね。」

「じゃあ、まずは、その場所がどんなところだったかを聞けばいいかな。」

「それがいいと思うよ。」

 祖母は蔵へ向かった。

 陽奈は居間に残り、開いた窓から外を見た。

 雨はもう完全に上がっている。

 雲の隙間には青空が広がり始めていた。

 三時になれば、紙に残っていない昔の話を聞く。

 

 どんな場所だったのか。

 そこで人々は何をしていたのか。

 返水という名前を、どんなふうに口にしていたのか。

 

 陽奈はそこで考えるのをやめた。

 答えを先に作らない。

 相手の記憶を、自分たちの都合のいい形へ押し込めない。

 今はただ、その人が覚えていることを聞けばいい。

 庭の向こうで、風に揺れた葉から雫が落ちた。

 ぽつ、と石を打つ。

 今度の音は、陽奈にもすぐ分かった。

 雨の名残だった。

 

 

 

 三時の少し前に、陽奈は祖母と家を出た。

 朝には雲に覆われていた空も、今はところどころ青くなっている。道路はほとんど乾いていたが、塀の陰や植木の下にはまだ雨の跡が残っていた。側溝を流れる水も、朝よりずっと細くなっている。

 訪ねる家までは歩いて十五分ほどだった。

 学校とは反対の方角へ向かう。

 祖母は古い写真と地図の写しだけを鞄に入れていた。雨乞いの記録は置いてきた。

 陽奈はそのことに、家を出てから気づいた。

 

「雨乞いの記録は持っていかなくてよかったの?」

「今日は見せない方がいいと思ってね。」

「先に見てもらうと、そこに引っ張られるかもしれないから?」

「それもあるよ。まずは、その人が覚えている昔の話を聞いてみよう。」

 陽奈は頷いた。

 

 自分たちが知りたいことを確かめに行く。

 けれど、知りたいことだけを尋ねてしまえば、その人が本当に覚えているものを取りこぼすかもしれない。

 歩きながら、陽奈はどんなふうに話を聞けばいいのか考えた。

 

 返水とは何だったのか。

 水場はどこにあったのか。

 雨乞いはそこで行われていたのか。

 聞きたいことはいくつもある。

 それでも、最初から順番に質問を並べるのは違う気がした。

 

「私、あんまり途中で口を挟まない方がいいかな。」

「気になったことがあれば聞くといいさ。」

 祖母は前を向いたまま答えた。

「昔のことを話してもらうのに、試験みたいになったら嫌でしょう。」

「それは嫌だね。」

「向こうだって、覚えてないことはあるからね。正しい答えを聞きに行くわけじゃないよ。」

 その言い方は、陽奈にも分かりやすかった。

 

 古い記録を読むときとは違う。

 紙は何も気にしないが、人は違う。

 忘れたことを責められているように感じるかもしれないし、うまく答えなければならないと思わせてしまうかもしれない。

 陽奈は、聞きたいことを頭の中で並べるのをやめた。

 角を二つ曲がったところで、祖母が足を緩めた。

「あのお宅だよ。」

 低い生垣の向こうに、平屋の家があった。

 

 新しくはないが、庭はきれいに手入れされている。軒先には小さな風鈴が下がっていた。雨上がりの風を受けるたび、涼しい音を鳴らしている。

 

 祖母が呼び鈴を押すと、ほどなく玄関が開いた。

「まあ、九重さん。暑かったでしょう。」

 出てきたのは、小柄な老婦人だった。

 白髪を短く整え、薄い灰色のカーディガンを羽織っている。

「突然お願いして、すみません。」

「いいのよ。どうぞ上がって。さっき電話をもらってから、私も少し思い出してたところよ。」

 老婦人は陽奈を見る。

 

「お孫さん?」

「はい。陽奈といいます。今日は一緒にお話を聞かせていただいてもいいですか。」

 陽奈が頭を下げると、老婦人は柔らかく笑った。

「もちろん。私が覚えとることでよければね。」

 通された居間には、籐の椅子と低いテーブルがあった。

 窓際に置かれた鉢植えの葉が、西日を受けて明るく透けている。壁には家族写真が何枚も飾られていた。

 

「冷たいお茶でいい?」

「どうぞお気遣いなく。」

「実はもう出してるから、遠慮しなくていいのよ。」

 老婦人は笑いながら、麦茶の入ったグラスを三つ運んできた。

 

 陽奈は礼を言って受け取った。

 氷がからん、と鳴った。

「電話で返水のことを聞かれて、びっくりしたのよ。」

 老婦人は自分の椅子へ腰を下ろした。

「もう、あの呼び方をする人もおらんでしょうから。」

「私は記録の中で見つけたんです。」

 祖母が言った。

「昔、学校の辺りにそう呼ばれる場所があったようなので、少し調べていまして。」

「ああ、学校が建つ前ね。」

 老婦人はすぐにそう言った。

 

 陽奈は祖母を見る。

 祖母は急いで続きを尋ねず、老婦人の方へ体を向けた。

「どんな場所だったか、覚えていらっしゃいますか。」

「どんな場所って言われるとねえ……。」

 老婦人は麦茶のグラスに手を添えた。

「子どもの頃は、あそこにあるのが当たり前やったから。」

 少し考えてから、窓の外を見る。

「水があったね。」

 陽奈は黙って聞いた。

「今の学校の裏手になるのかな。昔は道も違ったし、田んぼがもっとあったから、今行っても私は場所が分からんかもしれないねぇ。細い水路が通っとってね。その先に、少し広くなったところがあったのよ。」

 祖母が鞄から古地図の写しを出した。

「よろしければ、これを見ていただけますか。」

「まあ、懐かしい地図。」

 

 老婦人は眼鏡をかけた。

 地図を回しながら、しばらく眺める。

「この道は覚えてるわ。こっちは田んぼやった。ここに家があって……。」

 指がゆっくり動く。

 学校の敷地に差しかかったところで止まった。

「たぶん、この辺。」

 

 指先は、「返水」と書かれた場所の近くにあった。

「子どもたちは、そこへよく行っていたんですか。」

 陽奈はなるべく急かさないように尋ねた。

「行ったよ。夏は特にね。水が冷たかったから。」

 老婦人の顔に、少し笑みが浮かんだ。

 

「足を入れたら、おばちゃんたちに怒られよった。洗い物もしよったし、水を汲む人もおったから、汚すなって。」

「生活に使う水だったんですね。」

「そうそう。今みたいに蛇口をひねれば何でも済む頃じゃなかったからね。井戸もあったけど、あそこの水を使う家もあったのよ。」

 陽奈は、昼に祖母と話したことを思い出した。

 写真の中の水場が、思っていたより普通に見えたこと。

 水場は、祈りのためだけに作られた場所ではなかったのかもしれない。

 

 老婦人はそのまま、昔の景色をたどるように話した。

「水路の横に大きな木があってね。何の木やったかなあ。子どもの頃はものすごく大きく見えたけど、大人になって見たら、そうでもなかったのかもしれないわね。」

「石積みはありましたか。」

 祖母が尋ねた。

 

「石積み?」

「水のそばに、低い石垣のようなものがあったかどうか。」

 老婦人は少し眉を寄せた。

「それはあったと思うよ。土が崩れんようにしてたんじゃないかなぁ。」

 祖母が陽奈を見る。

 陽奈は鞄から、透明な袋に入れた写真を取り出した。

「今日、家の記録の中からこの写真が出てきたんです。もし覚えている場所でしたら、見ていただいてもいいですか。」

「どれどれ。」

 老婦人は写真を受け取った。

 

 眼鏡を少し上げる。

 数秒もしないうちに、表情が変わった。

「あら。」

 写真を顔へ近づける。

「これ、あそこやね。」

 陽奈の胸が小さく鳴った。

 

「返水と呼ばれていた場所ですか。」

「そう。そうやと思う。」

 老婦人は写真の石積みを指した。

「これが水のところ。こっちに道があって……ほら、この奥に屋根がちょっと見えるでしょう。この家、覚えてるわ。」

 祖母が古地図を写真の横へ置いた。

 老婦人はしばらく見比べていた。

「やっぱり、ここだわ。」

 

 今度は迷いが少なかった。

 陽奈は写真を見た。

 雨乞いの記録にあった「水場」。

 地図に記された「返水」。

 それが、ようやく同じ場所へ重なり始めた。

 ただ、祖母はそのことを口にはしなかった。

「写真に写っている方も、ご存じですか。」

「何人かは分かるわ。」

 老婦人は楽しそうに写真を覗き込んだ。

 

「この人は松尾のおじさん。こっちは……ああ、名前が出てこない。顔は分かるのに……。」

 笑って、自分の額を軽く叩く。

「歳を取ると、こういうことばっかり。」

「ゆっくりで大丈夫です。」

 陽奈が言った。

「私たちも、分かることだけ教えていただけたら十分なので。」

「ありがとう。」

 老婦人はまた写真を見る。

 

 しばらくして、前列にいる子どもを指した。

「これは私。」

「えっ。」

 陽奈は思わず写真へ顔を近づけた。

 前列の、短い髪の女の子だった。

 隣の男の子がカメラを見ている中、一人だけ少し横を向いている。

「ご本人だったんですね。」

「こんな写真、残っとったんやねえ。」

 老婦人は懐かしそうに笑った。

「たぶん、何かの作業が終わったときじゃないかな。大人が集まってるから。私は父について行ったんだと思うわ。」

「何の作業だったかは覚えていらっしゃいますか。」

「そこまでは覚えてないねえ。」

 申し訳なさそうに言うので、陽奈は首を横に振った。

 

「子どもの頃のことですもんね。写真を見ていただけただけでも、すごく助かります。」

 老婦人は陽奈を見て、少し笑った。

「優しいねえ。」

 それから写真へ目を戻した。

「でも、水の音は覚えとるよ。」

 陽奈は何も言わず、続きを待った。

「いつも音がしよった。大きな流れじゃないよ。ちょろちょろ、さらさらって。夏なんか、あそこまで行って水の音がすると、何となくほっとしたわ。」

「ほっとした?」

「水があるからね。」

 老婦人は当然のことのように言った。

 

「今は水があることなんて気にせんでしょう。でも昔は、雨が少ない年は大人がずっと空を見てたのよ。田んぼが乾いてくると、家の中まで何となく暗くなるの。」

 

 陽奈は、雨乞いの記録にあった短い文字を思い出した。

 日照。

 田畑乾く。

 水場に集う。

 紙の上では数行だった。

 けれど、その中で暮らしていた人にとって、雨が降らないことは毎日の空気そのものだったのだ。

 

「雨がなかなか降らなかった年のことも、覚えていらっしゃいますか。」

 陽奈が尋ねると、老婦人は少し遠くを見るような顔になった。

「一度、ひどい年があったねえ。」

 声がゆっくりになる。

「田んぼの土が割れてね。子どもやったから、私はそこに足を入れて遊ぼうとして怒られたわ。大人は笑わんかったね。みんな空ばっかり見てた。」

 祖母も陽奈も、黙っていた。

「それで、雨が降った日があったわ。」

 老婦人の顔に、ほんの少し笑みが戻った。

「夕方からだったかな。最初はぽつぽつやったのに、急にざあっと降ってきて。みんな外に出てきた。」

「雨の中に?」

「そう。今思えばおかしいね。」

 

 老婦人は笑った。

「濡れるのに、誰も家に入らないの。大人が笑っているのを、私は縁側から見てたわ。」

 陽奈の中で、古い記録の一行が浮かんだ。

 

 降雨。

 

 そこには、それだけしか書かれていなかった。

 雨の中で誰が笑ったのか。

 誰が空を見上げたのか。

 子どもが縁側からそれを眺めていたことも、どこにも残っていない。

「きっと、すごく嬉しかったんでしょうね。」

「嬉しかったんだろうねえ。」

 老婦人は静かに頷いた。

「私も嬉しかったのよ。大人が笑ったから。子どもなんて、そんなものよ。だから、今でもそのことは記憶に残っているの。」

 

 しばらく、風鈴の音だけが聞こえた。

 陽奈は麦茶を一口飲んだ。

 氷はもう半分ほど溶けている。

 祖母が、少し間を置いてから尋ねた。

「その頃、返水で何かしていたことは覚えていらっしゃいますか。普段の水汲みや洗い物以外で。」

 老婦人はすぐには答えなかった。

 

「何か……。」

 写真を見ながら考える。

「あそこには、大人が集まることがありました。」

「どんなときでしたか。」

「そこがねえ。」

 老婦人は困ったように笑った。

「子どもには教えてくれんかったから。」

 

「近づいちゃいけなかったんですか。」

 陽奈が尋ねる。

「いつもじゃないのよ。普段は行ってたんだから。」

 老婦人は写真の中の自分を指した。

「でも、大人だけで行く日があったわ。そういう日は、子どもは来るなって言われた。」

「雨が降らないとき?」

 言ってから、陽奈は少しだけ後悔した。

 こちらから雨へ結びつけてしまった。

 だが、老婦人は首を傾げた。

「どうやったかなあ。雨が降らないときもあったと思うわ。でも、それだけじゃなかったような気もする。」

 

 陽奈はそれ以上重ねなかった。

「すみません。急に聞いてしまって。」

「いいの、いいの。私も思い出しながら話しているから。」

 老婦人はしばらく黙っていた。

 やがて、何かを探るように指先でテーブルを撫でた。

 

「そういえばね。」

 声が少し変わった。

「雨が降った後も、大人が行ってたわ。」

 陽奈は顔を上げた。

 祖母も、姿勢を変えずに老婦人を見ている。

「雨が降った後ですか。」

「うん。さっき話した、みんなが喜んだ雨の日もね。次の日やったか、その日の夜やったかまでは覚えてないけど、父たちが返水へ行ったわ。」

「そのときも、子どもは一緒に行かなかったんですか。」

「行かせてもらえなかったわ。」

 老婦人は懐かしいものを思い出すように、少し目を細めた。

 

「私もついて行きたくてね。父に何度も頼んだのよ。でも、今日は駄目って。」

「どうして駄目なのか、聞きました?」

「聞いたと思うよ。」

 老婦人は笑った。

「でも、昔の大人は理由なんていちいち言わんからね。『行ったらいかん』で終わり。」

 陽奈にも、少し分かる気がした。

 

 危ないから。

 大人のすることだから。

 子どもにはまだ早いから。

 そうした理由があったのかもしれない。

 けれど、理由を説明されなければ、子どもの記憶に残るのは「行ってはいけない」という言葉だけだ。

 

「返水には、子どもが触っちゃいけないものもありましたか。」

 祖母が尋ねた。

 老婦人は目を細めた。

「触ったらいけない……。」

 何度か小さく頷く。

 

「石。」

 陽奈の視線が、写真へ落ちた。

 女性の足元に半分だけ写っていた、丸いもの。

「石があったんですね。」

「大きいのが一つあったと思う。水のすぐそばに。」

 老婦人は両手で、おおよその大きさを示した。

「子どもが乗ろうとすると怒られたわ。私は一回、足をかけて父にものすごく叱られたことがあるの。」

「危ないからでしょうか。」

 陽奈が尋ねる。

 

「そう思ってたけどねえ。」

 老婦人は首を傾げた。

「濡れてるから滑るし。でも、ほかの石に乗っても、そこまで怒られんかったような気もする。」

「その石に、何か名前はありましたか。」

「名前までは知らないわねぇ。」

 老婦人は写真をもう一度見る。

「ただ、あの石だけは触るなって言われてたわ。」

 祖母が鞄から、午前中に見つけた簡単な図の写しを出した。

 

「こんな位置だったでしょうか。」

 老婦人は図を見る。

 水路。

 道。

 丸印。

 しばらく考えてから、指を置いた。

「たぶん、こんな感じ。」

 その指先は、丸の上にあった。

 

 陽奈は祖母を見た。

 祖母は目を合わせただけで、何も言わなかった。

 学校の裏で見つけた石とは位置が違う。

 今日、水が波紋を作った窪みに近い。

 そこまでは、陽奈も覚えていた。

 

「返水がなくなったときのことは、覚えていらっしゃいますか。」

 祖母が尋ねた。

 老婦人の表情から、笑みが少し消えた。

「それは覚えてるよ。」

 声は穏やかなままだった。

「工事が入ったからね。」

「水路を埋めた工事でしょうか。」

「道も変わったし、水の流れも変わった。あの辺りはずいぶん触ったよ。」

 老婦人は地図を見た。

「大人が揉めてた。」

「工事に反対する人がいたんですか。」

「いたねえ。」

 老婦人は頷いた。

「水が使えんようになるから困るって人もいたし、もう井戸もあるし、いつまでも昔のままにしとく必要はないって人もいた。」

 

 少し考えてから続ける。

「何か別のことで怒ってた人もいた気がするけど、子どもには分からなかったねぇ。」

「別のこと?」

「ごめんなさい。そこまでは覚えてないのよ。」

 老婦人は申し訳なさそうに笑った。

「大人が言い合いをしていると、子どもは内容より声の方を覚えてるからね。」

 陽奈は、その言葉を覚えておこうと思った。

 

「返水がなくなってから、その場所の話はされなくなったんですか。」

「そうやだねぇ。」

 老婦人は写真を机に置いた。

「最初のうちは、昔はここに水があったとか、道が違ったとか、そんな話はしてたよ。でも、そのうちにしないようになった。」

 窓の外で風鈴が鳴った。

 

「場所がなくなるとね、話もしないようになるのよ。」

 陽奈は、何も返せなかった。

 忘れようとしたわけではない。

 誰かが口止めしたわけでもない。

 ただ、話す理由がなくなった。

 

 水を汲みに行かない。

 子どもを叱らない。

 雨が降った後に大人たちが集まることもない。

 そうして、そこで交わされていた言葉まで、少しずつ日常から消えていく。

 

 老婦人が写真を指で軽く押さえた。

「この人は、しばらく行っていたけど……。」

 陽奈は顔を上げた。

 指の先には、一人の女性がいた。

 ほかの人たちから少し離れて立ち、わずかに横を向いている。

 

「この方ですか。」

「うん。この人は覚えてる。」

 老婦人は女性の顔を見つめた。

「返水が使われんようになってからも、あっちの方へよく行っていたわ。」

「何をしに行っていたんでしょう。」

 陽奈が尋ねると、老婦人はゆっくり首を振った。

 

「それはわからないわ。」

 少し間を置く。

「でも、あの人の家は、昔から返水のことをしてた家だったから。」

 陽奈は聞き返さずに待った。

 老婦人自身が、その言葉の続きを探しているように見えた。

 

「何て言ってたかな……。守る、とは違うし。」

 目を閉じる。

「水の世話をするだけでもなかった。」

 祖母も黙っている。

 やがて老婦人は、諦めたように小さく笑った。

「駄目ね。そこだけ出てこない。」

 

「大丈夫です。」

 陽奈は言った。

「今のお話だけでも、私たちが知らなかったことをたくさん教えていただきました。」

「そう?」

「はい。ありがとうございます。」

 老婦人は陽奈を見て、少し安心したように笑った。

 それから、写真の女性をもう一度見た。

 

「名前なら覚えてるわ。」

 そう言って、老婦人は一人の女性の名を口にした。

 陽奈はその名前を聞いた瞬間、机の上の写真ではなく、祖母を見た。

 祖母の表情が止まっていた。

 

 ほんの一瞬だった。

 すぐにいつもの顔へ戻った。

 けれど、陽奈は見逃さなかった。

「おばあちゃん、その名前……知ってるの?」

 祖母は写真から目を離さなかった。

「聞いたことがある。」

 老婦人が二人を見比べる。

 

「九重さんのところにも、名前が残ってるんじゃない?」

 祖母はすぐには答えなかった。

 窓から入る風が、テーブルの上の地図をわずかに揺らした。

 陽奈は祖母の横顔を見る。

 朝からずっと、祖母は分からないものを分からないままにしてきた。

 

 返水についても。

 雨乞いについても。

 古い石についても。

 だからこそ、その短い沈黙が気になった。

 祖母はやがて、静かに言った。

「帰ったら、もう一度探してみます。」

 老婦人は頷いた。

「そうした方がいいわ。」

 そして写真の女性へ目を落とした。

「あの人は、最後まで返水のことを気にしてましたもの。」

 庭で風鈴が鳴った。

 

 陽奈は、その音の向こうに水音を探しかけた。

 けれど、聞こえたのは風に揺れる葉と、遠くを走る車の音だけだった。

 

 返水を知っている人は、まだいた。

 その人の記憶の中には、紙には残らなかった水の冷たさも、大人たちの笑い声も、触れてはいけない石も残っていた。

 そして今、新しい名前が一つ加わった。

 

 記録の中には、まだ見つけていない名前。

 祖母だけが、どこかで聞いたことのある名前だった。

 

 

 

 

 

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