住所録は、蔵のいちばん奥の棚にあった。
祖母が持ってきたのは、表紙の角が擦れて丸くなった古い大学ノートだった。輪ゴムを外すと、間に挟まれていた紙片が何枚かずれた。
「ずいぶん古いね。」
「途中から書き足してるからね。電話番号なんか、もう使われてないものの方が多いよ。」
祖母は椅子に座り、最初の数ページをめくった。
住所だけの人もいれば、名前の横に短い覚え書きがある人もいる。
陽奈は向かいから眺めていたが、すぐに視線を外した。
家の記録とはいえ、誰かの住所や電話番号を覗き込んでいるのは、何となく落ち着かない。
祖母はそれに気づいたのか、何も言わずにノートを少し自分の方へ寄せた。
「あった。」
ページを押さえる。
水路に関する記録へ何度も出てきた姓だった。
ただし、そこに書かれている名前は陽奈の知らないものだった。
「今もその人が住んでるの?」
「この人は、もう亡くなってるよ。」
祖母は名前の横に小さく書かれた文字を指でなぞった。
「私が若い頃に何度か会ったことがある。」
「おばあちゃんが?」
「この辺りのことを調べるときにね。昔は、今より家同士の付き合いもあったからね。」
祖母は少し下へ目を移した。
別の名前が書き足されている。
「娘さんがいたはずだよ。今なら……八十を少し過ぎたくらいかな。」
「その人なら、返水が閉じられた頃のことを覚えてるかもしれないね。」
「覚えていたとしても、子どもの頃の話だろうけどね。」
祖母はそう言いながら、机に置いた手帳へ名前を書き写した。
陽奈は古地図の方を見た。
先ほどまで、その姓は記録の中に何度も現れる文字でしかなかった。
雨乞いのときに集まった人。
水路を直した人。
水路の近くに土地を持っていた人。
何代も同じ姓が続いている。
けれど、住所録の中では、その先に今を生きている人がいる。
「この家の人たちって、どうしてこんなに水の記録に出てくるんだろう。」
陽奈が尋ねると、祖母は住所録を閉じずに考えた。
「水路のそばに住んでいたから、というのが一番ありそうだけどね。昔は、近くに住む家が水の管理を担うこともあった。」
「雨乞いにも関わっていたなら、その水場を守っていた家だったりしないのかな。」
「それも考えられる。でも、そこまで言えるものはまだ出てないさね。」
「そうだよね。」
陽奈は素直に頷いた。
以前なら、同じ名前が三度も出てくれば、何か特別な役目を持つ家なのだと思っていたかもしれない。
今は少しだけ待てる。
記録に書かれていることと、そこから自分が想像したことを、頭の中で分ける。
簡単そうで、意外に難しい。
祖母は住所録に挟まっていた紙を一枚ずつ確認していた。
年賀状の住所を書き写したもの。
電話番号の変更。
誰かから聞いたらしい転居先。
その中に、古い写真が一枚混じっていた。
「あら。」
祖母が手を止めた。
「写真?」
「そうみたいだね。」
白黒写真だった。
縁が波打ち、表面には細かな傷が入っている。
祖母は直接触らず、机の上へそっと滑らせた。
十人ほどの人が写っていた。
男性も女性もいる。
年齢はばらばらだった。
全員が普段着に近い服装をしている。
祭りの記念写真のような華やかさはない。
背景には木立があり、その手前を低い石積みが横切っていた。
陽奈は写真へ顔を近づけた。
「これ、どこだろう。」
「裏に何か書いてないかな。」
祖母が写真の端を持ち、ゆっくり返した。
薄い鉛筆書きが残っている。
年月。
数人の名字。
それから短い一文。
祖母が目を細めた。
「『水場にて』。」
陽奈はもう一度、表を見る。
さっきまで文字でしかなかった言葉に、突然、景色が与えられた。
木立。
石積み。
土の地面。
そこに立つ人たち。
「雨乞いのときの写真かな。」
「いや、年代は合わないよ。雨乞いの記録より、ずっと後だね。」
「じゃあ、別のときに撮ったんだ。」
「そうだろうね。」
写真の人々は、何かの儀式をしているようには見えない。
笑っている人もいる。
腕を組んだ男性。
少し離れて立つ女性。
前列には子どもが二人いる。
日常の途中で、たまたま集まって撮った写真にも見えた。
「この『水場』も、雨乞いの記録にあった場所と同じなのかな。」
「写真だけじゃ判断できないね。」
祖母は古地図を引き寄せた。
「ただ、背景に何か手がかりがあるかもしれない。」
二人で写真を見た。
木。
石積み。
奥に見える斜面。
建物の屋根らしきもの。
陽奈は一つずつ確かめていった。
学校の裏に似ている気もする。
けれど、似ていると思って見れば、いくらでも似て見える。
「今日見た場所には、こんな石積みはなかったよね。」
「なかったね。」
「工事でなくなったのかな。」
「それも考えられるし、そもそも別の場所かもしれないさね。」
祖母は写真を机へ戻した。
陽奈はまだ眺めていた。
前列の子どもの一人が、妙に気になった。
女の子だった。
髪を短く切り、膝の上に両手を置いている。
隣の男の子はカメラを見ているのに、その子だけ少し横を向いていた。
視線の先には、写真の端がある。
そこに何があったのかは写っていない。
「この子、何を見てるんだろう。」
「子どもの写真なんて、そんなものじゃないかい?」
「それはそうだけど。」
陽奈は少し笑った。
怪異のことを調べているせいで、何でも意味があるように見えてしまう。
写真に写る子どもが横を向いている。
それだけなら、珍しいことでもない。
「裏に名前、書いてある?」
祖母がもう一度確認する。
数人分しかない。
写真に写る全員の名前ではなかった。
「この子の名前は分からないね。」
「そっか。」
陽奈は少し残念に思った。
祖母が住所録へ写真を戻そうとしたとき、陽奈は裏面の端に小さな文字があることに気づいた。
「待って、おばあちゃん。そこにも何か書いてない?」
祖母が手を止めた。
鉛筆の跡が、紙の変色に紛れている。
文字というより、書きかけのようだった。
祖母は窓からの光に傾けて見る。
「名前みたいだね。」
「読める?」
「最初の字が薄いね……。」
祖母はしばらく眺めたあと、首を振った。
「無理に読むと間違えそうだね。」
陽奈も横から見た。
確かに、人の名前らしい。
二文字か三文字。
最後の一字だけは「子」に見えた。
その横に、別の短い文字がある。
「これ、何だろう。」
「『守』にも見えるけど、はっきりしないね。」
「誰かが後から書いたのかな。」
「筆圧が違うから、その可能性はあるね。」
祖母は写真を透明な袋へ入れた。
「これは別にしておこう。」
「さっき連絡しようとしてた人に見せたら、誰が写ってるか分かるかもしれないね。」
「そうだね。写真の年代なら、その人自身が知っている人もいるかもしれない。」
陽奈は少し期待した。
文字だけの記録より、写真には人がいる。
顔がある。
もし名前が分かれば、その人が何をしていたのかもたどれるかもしれない。
祖母は住所録へ戻った。
古い電話番号には横線が引かれ、その下に新しい番号が書き足されている。
「これなら、まだ使われているかもしれない。」
「今から電話する?」
「お昼どきだから、少し待とう。」
時計は十二時を過ぎていた。
言われてみれば、朝からほとんど休まず調べていた。
「お腹空いてない?」
祖母に聞かれて、陽奈は自分の腹に手を当てた。
「聞かれたら急に空いてきたかも。」
「そういうものだよ。」
二人は記録をいったん片づけた。
写真と、返水について書かれた紙と、雨乞いの記録には目印をつけて残した。
母屋へ戻る。
祖母が昼食に作ったのは、冷たい素麺だった。
窓を開けると、雨上がりの湿った風が入ってくる。
陽奈は薬味の葱を入れながら、庭を見た。
さっき濡れていた飛び石は乾いている。
水音もしない。
「学校、今ごろ給食かな。」
「そろそろじゃない?」
「今日、何だったっけ。」
「私が知るわけないでしょう。」
「そうだよね。」
陽奈は笑って素麺をすすった。
午前中ずっと怪異のことを調べていたのに、学校のことを考えると、急にいつもの一日に戻った気がする。
友人たちは、自分が家で古地図を広げているなんて思ってもいないだろう。
家の用事で休み。
学校に伝わっているのは、それだけだ。
「ねえ、おばあちゃん。」
「うん?」
「さっきの写真、ちょっと不思議だった。」
「女の子のこと?」
「それもあるけど。」
陽奈は箸を置いた。
「昔の水場って聞いたら、もっと特別な場所を想像してた。注連縄があったり、祠があったり。」
「そういう場所もあるよ。」
「でも、写真は普通だった。」
人が並んでいる。
子どももいる。
笑っている人もいる。
陽奈が言うと、祖母は薬味の生姜をつゆに入れながら頷いた。
「特別な場所が、いつも特別な顔をしているとは限らないからね。」
「普段は普通に使ってたのかな。」
「水を汲んだり、洗い物をしたりする場所だった可能性もあるね。」
「そこで、雨が降らないときだけ祈ったとか?」
祖母は少し考えた。
「それなら不自然ではないけど、今はまだ想像だね。」
「うん。」
陽奈はそれ以上先へ進めなかった。
けれど、その想像は頭に残った。
日常の中にある水。
毎日使う場所。
普段は誰も特別なことを考えない。
それが、雨の降らない年だけ違う意味を持つ。
そういう場所だったのなら。
水場がなくなったとき、人々は何を失ったのだろう。
昼食を終え、食器を洗った。
午後一時を過ぎた頃、祖母が居間の電話の前へ座った。
住所録を開く。
「かけてみるよ。」
陽奈は少し離れたところに座った。
「私、ここにいて大丈夫?」
「大丈夫。でも、最初は私が話すからね。」
「うん。」
祖母が番号を押した。
一度。
二度。
三度。
呼び出し音が続く。
陽奈は無意識に背筋を伸ばしていた。
四度目で、音が止まった。
「もしもし。」
祖母の声が少し柔らかくなる。
「突然すみません。九重と申します。以前、お父さまに何度かお世話になったことがありまして。」
相手の声は、陽奈のところまでは聞き取れない。
祖母は何度か相槌を打った。
「ええ。ずいぶん昔のことです。今、少しこの辺りの古い水路について調べていまして……。」
しばらく話す。
祖母の表情が変わった。
驚いたというほどではない。
ただ、住所録へ落としていた視線が上がった。
「そうですか。覚えていらっしゃいますか。」
陽奈は息を潜めた。
祖母がこちらを見る。
「返水という呼び名なんですが。」
短い沈黙があった。
祖母の眉が、ほんの少し動いた。
「ええ。学校が建つ前の辺りです。」
また、相手が何か話している。
今度は長かった。
祖母は途中で口を挟まず、聞いている。
「もしご迷惑でなければ、少し昔のお話を伺えませんか。孫も一緒なんですが。」
陽奈は思わず祖母を見る。
やがて祖母が微笑んだ。
「ありがとうございます。それでは、三時頃に。」
電話を切る。
陽奈はすぐに尋ねたくなったが、祖母が住所録へ何かを書き込むのを待った。
ペンを置いてから、祖母が言った。
「覚えてるそうだよ。」
「返水のこと?」
「名前はね。」
祖母は住所録を閉じた。
「子どもの頃、そう呼ばれていた場所があったことは覚えてるって。」
陽奈の胸が少し高鳴った。
「写真も持っていっていいかな。もしかしたら、写っている人のことも分かるかもしれないし。」
「聞いてみよう。」
祖母は立ち上がった。
蔵へ写真を取りに行こうとして、ふと足を止めた。
「ただし、陽奈。」
「うん。」
「こちらが知りたい答えを、相手に言わせないこと。」
陽奈は少し考えた。
「『ここで雨乞いをしてましたよね』みたいに、最初から決めて聞かないってこと?」
「そう。昔の記憶は、聞き方で形が変わることがあるからね。」
「じゃあ、まずは、その場所がどんなところだったかを聞けばいいかな。」
「それがいいと思うよ。」
祖母は蔵へ向かった。
陽奈は居間に残り、開いた窓から外を見た。
雨はもう完全に上がっている。
雲の隙間には青空が広がり始めていた。
三時になれば、紙に残っていない昔の話を聞く。
どんな場所だったのか。
そこで人々は何をしていたのか。
返水という名前を、どんなふうに口にしていたのか。
陽奈はそこで考えるのをやめた。
答えを先に作らない。
相手の記憶を、自分たちの都合のいい形へ押し込めない。
今はただ、その人が覚えていることを聞けばいい。
庭の向こうで、風に揺れた葉から雫が落ちた。
ぽつ、と石を打つ。
今度の音は、陽奈にもすぐ分かった。
雨の名残だった。
三時の少し前に、陽奈は祖母と家を出た。
朝には雲に覆われていた空も、今はところどころ青くなっている。道路はほとんど乾いていたが、塀の陰や植木の下にはまだ雨の跡が残っていた。側溝を流れる水も、朝よりずっと細くなっている。
訪ねる家までは歩いて十五分ほどだった。
学校とは反対の方角へ向かう。
祖母は古い写真と地図の写しだけを鞄に入れていた。雨乞いの記録は置いてきた。
陽奈はそのことに、家を出てから気づいた。
「雨乞いの記録は持っていかなくてよかったの?」
「今日は見せない方がいいと思ってね。」
「先に見てもらうと、そこに引っ張られるかもしれないから?」
「それもあるよ。まずは、その人が覚えている昔の話を聞いてみよう。」
陽奈は頷いた。
自分たちが知りたいことを確かめに行く。
けれど、知りたいことだけを尋ねてしまえば、その人が本当に覚えているものを取りこぼすかもしれない。
歩きながら、陽奈はどんなふうに話を聞けばいいのか考えた。
返水とは何だったのか。
水場はどこにあったのか。
雨乞いはそこで行われていたのか。
聞きたいことはいくつもある。
それでも、最初から順番に質問を並べるのは違う気がした。
「私、あんまり途中で口を挟まない方がいいかな。」
「気になったことがあれば聞くといいさ。」
祖母は前を向いたまま答えた。
「昔のことを話してもらうのに、試験みたいになったら嫌でしょう。」
「それは嫌だね。」
「向こうだって、覚えてないことはあるからね。正しい答えを聞きに行くわけじゃないよ。」
その言い方は、陽奈にも分かりやすかった。
古い記録を読むときとは違う。
紙は何も気にしないが、人は違う。
忘れたことを責められているように感じるかもしれないし、うまく答えなければならないと思わせてしまうかもしれない。
陽奈は、聞きたいことを頭の中で並べるのをやめた。
角を二つ曲がったところで、祖母が足を緩めた。
「あのお宅だよ。」
低い生垣の向こうに、平屋の家があった。
新しくはないが、庭はきれいに手入れされている。軒先には小さな風鈴が下がっていた。雨上がりの風を受けるたび、涼しい音を鳴らしている。
祖母が呼び鈴を押すと、ほどなく玄関が開いた。
「まあ、九重さん。暑かったでしょう。」
出てきたのは、小柄な老婦人だった。
白髪を短く整え、薄い灰色のカーディガンを羽織っている。
「突然お願いして、すみません。」
「いいのよ。どうぞ上がって。さっき電話をもらってから、私も少し思い出してたところよ。」
老婦人は陽奈を見る。
「お孫さん?」
「はい。陽奈といいます。今日は一緒にお話を聞かせていただいてもいいですか。」
陽奈が頭を下げると、老婦人は柔らかく笑った。
「もちろん。私が覚えとることでよければね。」
通された居間には、籐の椅子と低いテーブルがあった。
窓際に置かれた鉢植えの葉が、西日を受けて明るく透けている。壁には家族写真が何枚も飾られていた。
「冷たいお茶でいい?」
「どうぞお気遣いなく。」
「実はもう出してるから、遠慮しなくていいのよ。」
老婦人は笑いながら、麦茶の入ったグラスを三つ運んできた。
陽奈は礼を言って受け取った。
氷がからん、と鳴った。
「電話で返水のことを聞かれて、びっくりしたのよ。」
老婦人は自分の椅子へ腰を下ろした。
「もう、あの呼び方をする人もおらんでしょうから。」
「私は記録の中で見つけたんです。」
祖母が言った。
「昔、学校の辺りにそう呼ばれる場所があったようなので、少し調べていまして。」
「ああ、学校が建つ前ね。」
老婦人はすぐにそう言った。
陽奈は祖母を見る。
祖母は急いで続きを尋ねず、老婦人の方へ体を向けた。
「どんな場所だったか、覚えていらっしゃいますか。」
「どんな場所って言われるとねえ……。」
老婦人は麦茶のグラスに手を添えた。
「子どもの頃は、あそこにあるのが当たり前やったから。」
少し考えてから、窓の外を見る。
「水があったね。」
陽奈は黙って聞いた。
「今の学校の裏手になるのかな。昔は道も違ったし、田んぼがもっとあったから、今行っても私は場所が分からんかもしれないねぇ。細い水路が通っとってね。その先に、少し広くなったところがあったのよ。」
祖母が鞄から古地図の写しを出した。
「よろしければ、これを見ていただけますか。」
「まあ、懐かしい地図。」
老婦人は眼鏡をかけた。
地図を回しながら、しばらく眺める。
「この道は覚えてるわ。こっちは田んぼやった。ここに家があって……。」
指がゆっくり動く。
学校の敷地に差しかかったところで止まった。
「たぶん、この辺。」
指先は、「返水」と書かれた場所の近くにあった。
「子どもたちは、そこへよく行っていたんですか。」
陽奈はなるべく急かさないように尋ねた。
「行ったよ。夏は特にね。水が冷たかったから。」
老婦人の顔に、少し笑みが浮かんだ。
「足を入れたら、おばちゃんたちに怒られよった。洗い物もしよったし、水を汲む人もおったから、汚すなって。」
「生活に使う水だったんですね。」
「そうそう。今みたいに蛇口をひねれば何でも済む頃じゃなかったからね。井戸もあったけど、あそこの水を使う家もあったのよ。」
陽奈は、昼に祖母と話したことを思い出した。
写真の中の水場が、思っていたより普通に見えたこと。
水場は、祈りのためだけに作られた場所ではなかったのかもしれない。
老婦人はそのまま、昔の景色をたどるように話した。
「水路の横に大きな木があってね。何の木やったかなあ。子どもの頃はものすごく大きく見えたけど、大人になって見たら、そうでもなかったのかもしれないわね。」
「石積みはありましたか。」
祖母が尋ねた。
「石積み?」
「水のそばに、低い石垣のようなものがあったかどうか。」
老婦人は少し眉を寄せた。
「それはあったと思うよ。土が崩れんようにしてたんじゃないかなぁ。」
祖母が陽奈を見る。
陽奈は鞄から、透明な袋に入れた写真を取り出した。
「今日、家の記録の中からこの写真が出てきたんです。もし覚えている場所でしたら、見ていただいてもいいですか。」
「どれどれ。」
老婦人は写真を受け取った。
眼鏡を少し上げる。
数秒もしないうちに、表情が変わった。
「あら。」
写真を顔へ近づける。
「これ、あそこやね。」
陽奈の胸が小さく鳴った。
「返水と呼ばれていた場所ですか。」
「そう。そうやと思う。」
老婦人は写真の石積みを指した。
「これが水のところ。こっちに道があって……ほら、この奥に屋根がちょっと見えるでしょう。この家、覚えてるわ。」
祖母が古地図を写真の横へ置いた。
老婦人はしばらく見比べていた。
「やっぱり、ここだわ。」
今度は迷いが少なかった。
陽奈は写真を見た。
雨乞いの記録にあった「水場」。
地図に記された「返水」。
それが、ようやく同じ場所へ重なり始めた。
ただ、祖母はそのことを口にはしなかった。
「写真に写っている方も、ご存じですか。」
「何人かは分かるわ。」
老婦人は楽しそうに写真を覗き込んだ。
「この人は松尾のおじさん。こっちは……ああ、名前が出てこない。顔は分かるのに……。」
笑って、自分の額を軽く叩く。
「歳を取ると、こういうことばっかり。」
「ゆっくりで大丈夫です。」
陽奈が言った。
「私たちも、分かることだけ教えていただけたら十分なので。」
「ありがとう。」
老婦人はまた写真を見る。
しばらくして、前列にいる子どもを指した。
「これは私。」
「えっ。」
陽奈は思わず写真へ顔を近づけた。
前列の、短い髪の女の子だった。
隣の男の子がカメラを見ている中、一人だけ少し横を向いている。
「ご本人だったんですね。」
「こんな写真、残っとったんやねえ。」
老婦人は懐かしそうに笑った。
「たぶん、何かの作業が終わったときじゃないかな。大人が集まってるから。私は父について行ったんだと思うわ。」
「何の作業だったかは覚えていらっしゃいますか。」
「そこまでは覚えてないねえ。」
申し訳なさそうに言うので、陽奈は首を横に振った。
「子どもの頃のことですもんね。写真を見ていただけただけでも、すごく助かります。」
老婦人は陽奈を見て、少し笑った。
「優しいねえ。」
それから写真へ目を戻した。
「でも、水の音は覚えとるよ。」
陽奈は何も言わず、続きを待った。
「いつも音がしよった。大きな流れじゃないよ。ちょろちょろ、さらさらって。夏なんか、あそこまで行って水の音がすると、何となくほっとしたわ。」
「ほっとした?」
「水があるからね。」
老婦人は当然のことのように言った。
「今は水があることなんて気にせんでしょう。でも昔は、雨が少ない年は大人がずっと空を見てたのよ。田んぼが乾いてくると、家の中まで何となく暗くなるの。」
陽奈は、雨乞いの記録にあった短い文字を思い出した。
日照。
田畑乾く。
水場に集う。
紙の上では数行だった。
けれど、その中で暮らしていた人にとって、雨が降らないことは毎日の空気そのものだったのだ。
「雨がなかなか降らなかった年のことも、覚えていらっしゃいますか。」
陽奈が尋ねると、老婦人は少し遠くを見るような顔になった。
「一度、ひどい年があったねえ。」
声がゆっくりになる。
「田んぼの土が割れてね。子どもやったから、私はそこに足を入れて遊ぼうとして怒られたわ。大人は笑わんかったね。みんな空ばっかり見てた。」
祖母も陽奈も、黙っていた。
「それで、雨が降った日があったわ。」
老婦人の顔に、ほんの少し笑みが戻った。
「夕方からだったかな。最初はぽつぽつやったのに、急にざあっと降ってきて。みんな外に出てきた。」
「雨の中に?」
「そう。今思えばおかしいね。」
老婦人は笑った。
「濡れるのに、誰も家に入らないの。大人が笑っているのを、私は縁側から見てたわ。」
陽奈の中で、古い記録の一行が浮かんだ。
降雨。
そこには、それだけしか書かれていなかった。
雨の中で誰が笑ったのか。
誰が空を見上げたのか。
子どもが縁側からそれを眺めていたことも、どこにも残っていない。
「きっと、すごく嬉しかったんでしょうね。」
「嬉しかったんだろうねえ。」
老婦人は静かに頷いた。
「私も嬉しかったのよ。大人が笑ったから。子どもなんて、そんなものよ。だから、今でもそのことは記憶に残っているの。」
しばらく、風鈴の音だけが聞こえた。
陽奈は麦茶を一口飲んだ。
氷はもう半分ほど溶けている。
祖母が、少し間を置いてから尋ねた。
「その頃、返水で何かしていたことは覚えていらっしゃいますか。普段の水汲みや洗い物以外で。」
老婦人はすぐには答えなかった。
「何か……。」
写真を見ながら考える。
「あそこには、大人が集まることがありました。」
「どんなときでしたか。」
「そこがねえ。」
老婦人は困ったように笑った。
「子どもには教えてくれんかったから。」
「近づいちゃいけなかったんですか。」
陽奈が尋ねる。
「いつもじゃないのよ。普段は行ってたんだから。」
老婦人は写真の中の自分を指した。
「でも、大人だけで行く日があったわ。そういう日は、子どもは来るなって言われた。」
「雨が降らないとき?」
言ってから、陽奈は少しだけ後悔した。
こちらから雨へ結びつけてしまった。
だが、老婦人は首を傾げた。
「どうやったかなあ。雨が降らないときもあったと思うわ。でも、それだけじゃなかったような気もする。」
陽奈はそれ以上重ねなかった。
「すみません。急に聞いてしまって。」
「いいの、いいの。私も思い出しながら話しているから。」
老婦人はしばらく黙っていた。
やがて、何かを探るように指先でテーブルを撫でた。
「そういえばね。」
声が少し変わった。
「雨が降った後も、大人が行ってたわ。」
陽奈は顔を上げた。
祖母も、姿勢を変えずに老婦人を見ている。
「雨が降った後ですか。」
「うん。さっき話した、みんなが喜んだ雨の日もね。次の日やったか、その日の夜やったかまでは覚えてないけど、父たちが返水へ行ったわ。」
「そのときも、子どもは一緒に行かなかったんですか。」
「行かせてもらえなかったわ。」
老婦人は懐かしいものを思い出すように、少し目を細めた。
「私もついて行きたくてね。父に何度も頼んだのよ。でも、今日は駄目って。」
「どうして駄目なのか、聞きました?」
「聞いたと思うよ。」
老婦人は笑った。
「でも、昔の大人は理由なんていちいち言わんからね。『行ったらいかん』で終わり。」
陽奈にも、少し分かる気がした。
危ないから。
大人のすることだから。
子どもにはまだ早いから。
そうした理由があったのかもしれない。
けれど、理由を説明されなければ、子どもの記憶に残るのは「行ってはいけない」という言葉だけだ。
「返水には、子どもが触っちゃいけないものもありましたか。」
祖母が尋ねた。
老婦人は目を細めた。
「触ったらいけない……。」
何度か小さく頷く。
「石。」
陽奈の視線が、写真へ落ちた。
女性の足元に半分だけ写っていた、丸いもの。
「石があったんですね。」
「大きいのが一つあったと思う。水のすぐそばに。」
老婦人は両手で、おおよその大きさを示した。
「子どもが乗ろうとすると怒られたわ。私は一回、足をかけて父にものすごく叱られたことがあるの。」
「危ないからでしょうか。」
陽奈が尋ねる。
「そう思ってたけどねえ。」
老婦人は首を傾げた。
「濡れてるから滑るし。でも、ほかの石に乗っても、そこまで怒られんかったような気もする。」
「その石に、何か名前はありましたか。」
「名前までは知らないわねぇ。」
老婦人は写真をもう一度見る。
「ただ、あの石だけは触るなって言われてたわ。」
祖母が鞄から、午前中に見つけた簡単な図の写しを出した。
「こんな位置だったでしょうか。」
老婦人は図を見る。
水路。
道。
丸印。
しばらく考えてから、指を置いた。
「たぶん、こんな感じ。」
その指先は、丸の上にあった。
陽奈は祖母を見た。
祖母は目を合わせただけで、何も言わなかった。
学校の裏で見つけた石とは位置が違う。
今日、水が波紋を作った窪みに近い。
そこまでは、陽奈も覚えていた。
「返水がなくなったときのことは、覚えていらっしゃいますか。」
祖母が尋ねた。
老婦人の表情から、笑みが少し消えた。
「それは覚えてるよ。」
声は穏やかなままだった。
「工事が入ったからね。」
「水路を埋めた工事でしょうか。」
「道も変わったし、水の流れも変わった。あの辺りはずいぶん触ったよ。」
老婦人は地図を見た。
「大人が揉めてた。」
「工事に反対する人がいたんですか。」
「いたねえ。」
老婦人は頷いた。
「水が使えんようになるから困るって人もいたし、もう井戸もあるし、いつまでも昔のままにしとく必要はないって人もいた。」
少し考えてから続ける。
「何か別のことで怒ってた人もいた気がするけど、子どもには分からなかったねぇ。」
「別のこと?」
「ごめんなさい。そこまでは覚えてないのよ。」
老婦人は申し訳なさそうに笑った。
「大人が言い合いをしていると、子どもは内容より声の方を覚えてるからね。」
陽奈は、その言葉を覚えておこうと思った。
「返水がなくなってから、その場所の話はされなくなったんですか。」
「そうやだねぇ。」
老婦人は写真を机に置いた。
「最初のうちは、昔はここに水があったとか、道が違ったとか、そんな話はしてたよ。でも、そのうちにしないようになった。」
窓の外で風鈴が鳴った。
「場所がなくなるとね、話もしないようになるのよ。」
陽奈は、何も返せなかった。
忘れようとしたわけではない。
誰かが口止めしたわけでもない。
ただ、話す理由がなくなった。
水を汲みに行かない。
子どもを叱らない。
雨が降った後に大人たちが集まることもない。
そうして、そこで交わされていた言葉まで、少しずつ日常から消えていく。
老婦人が写真を指で軽く押さえた。
「この人は、しばらく行っていたけど……。」
陽奈は顔を上げた。
指の先には、一人の女性がいた。
ほかの人たちから少し離れて立ち、わずかに横を向いている。
「この方ですか。」
「うん。この人は覚えてる。」
老婦人は女性の顔を見つめた。
「返水が使われんようになってからも、あっちの方へよく行っていたわ。」
「何をしに行っていたんでしょう。」
陽奈が尋ねると、老婦人はゆっくり首を振った。
「それはわからないわ。」
少し間を置く。
「でも、あの人の家は、昔から返水のことをしてた家だったから。」
陽奈は聞き返さずに待った。
老婦人自身が、その言葉の続きを探しているように見えた。
「何て言ってたかな……。守る、とは違うし。」
目を閉じる。
「水の世話をするだけでもなかった。」
祖母も黙っている。
やがて老婦人は、諦めたように小さく笑った。
「駄目ね。そこだけ出てこない。」
「大丈夫です。」
陽奈は言った。
「今のお話だけでも、私たちが知らなかったことをたくさん教えていただきました。」
「そう?」
「はい。ありがとうございます。」
老婦人は陽奈を見て、少し安心したように笑った。
それから、写真の女性をもう一度見た。
「名前なら覚えてるわ。」
そう言って、老婦人は一人の女性の名を口にした。
陽奈はその名前を聞いた瞬間、机の上の写真ではなく、祖母を見た。
祖母の表情が止まっていた。
ほんの一瞬だった。
すぐにいつもの顔へ戻った。
けれど、陽奈は見逃さなかった。
「おばあちゃん、その名前……知ってるの?」
祖母は写真から目を離さなかった。
「聞いたことがある。」
老婦人が二人を見比べる。
「九重さんのところにも、名前が残ってるんじゃない?」
祖母はすぐには答えなかった。
窓から入る風が、テーブルの上の地図をわずかに揺らした。
陽奈は祖母の横顔を見る。
朝からずっと、祖母は分からないものを分からないままにしてきた。
返水についても。
雨乞いについても。
古い石についても。
だからこそ、その短い沈黙が気になった。
祖母はやがて、静かに言った。
「帰ったら、もう一度探してみます。」
老婦人は頷いた。
「そうした方がいいわ。」
そして写真の女性へ目を落とした。
「あの人は、最後まで返水のことを気にしてましたもの。」
庭で風鈴が鳴った。
陽奈は、その音の向こうに水音を探しかけた。
けれど、聞こえたのは風に揺れる葉と、遠くを走る車の音だけだった。
返水を知っている人は、まだいた。
その人の記憶の中には、紙には残らなかった水の冷たさも、大人たちの笑い声も、触れてはいけない石も残っていた。
そして今、新しい名前が一つ加わった。
記録の中には、まだ見つけていない名前。
祖母だけが、どこかで聞いたことのある名前だった。