老婦人の家を出たのは、四時を少し過ぎた頃だった。
玄関先まで見送ってくれた老婦人に、陽奈はもう一度頭を下げた。
「今日はありがとうございました。知らなかったことを、たくさん聞かせていただけました。」
「役に立ったならよかったわ。昔のことなんて、普段はわざわざ話さないからね。私もなんだか楽しかったわ。」
老婦人は祖母が持つ鞄へ目をやった。
「写真、また見つかったら持っておいで。顔を見たら、思い出すこともあるかもしれないから。」
「ありがとうございます。またお願いするかもしれません。」
祖母も頭を下げた。
陽奈が門を出てから振り返ると、老婦人はまだ玄関先に立っていた。小さく手を振ると、向こうも笑って振り返してくれた。
角を曲がる。
そこでようやく、陽奈は前を向いた。
雨上がりの町には、西日が差していた。
濡れていた屋根が光り、道路の端に残った水溜まりには、雲の切れ間の青空が映っている。朝とはまるで違う町に見えた。
祖母は隣を歩いている。
いつもと変わらない歩調だった。
けれど、陽奈はさっきのことが気になっていた。
写真に写っていた女性。
返水が使われなくなった後も、一人でその辺りへ通っていたという人。
老婦人がその名前を口にしたとき、祖母は確かに反応した。
「おばあちゃん。」
「うん?」
「さっき教えてもらった人の名前なんだけど。」
祖母は陽奈の方を見た。
「やっぱり、気になったかい?」
「うん。おばあちゃん、聞いたことがあるって言ってたでしょう。」
「聞いたことはあるよ。」
「どこで聞いたのか、思い出せそう?」
祖母は少し考えながら歩いた。
「九重の家に残っているものの中で見たんだと思うよ。誰かから直接聞いた名前なら、もう少し人の顔や話した場所まで一緒に思い出せそうだからね。」
「じゃあ、記録の方かな。」
「たぶんね。」
そこで祖母は苦笑した。
「こんなことなら、名前まで覚えておけばよかった。」
「全部覚えてたら、それこそ怖いよ。」
「それもそうさね。」
祖母が笑った。
陽奈も少し笑ったが、すぐに老婦人の話を思い返した。
返水が閉じられた後も、その女性は通っていた。
老婦人は「あの人の家は、昔から返水のことをしていた家」と言った。
守るのとは違う。
水の世話だけでもない。
そこから先の言葉は、どうしても思い出せなかった。
「帰ったら、その人の名前から探してみようか。」
「そうするつもりだよ。」
「私も手伝う。」
「今日は一日、調べものになったね。」
「学校まで休んだんだから、気になるところまで調べたいよ。」
祖母はそれ以上何も言わなかった。
二人はそのまま家へ向かった。
学校の近くを通ったとき、運動場から部活動の声が聞こえた。
ボールを蹴る音。
笛。
誰かを呼ぶ声。
同じ制服を着た生徒が、自転車で二人の横を通り過ぎていく。
陽奈は反射的に少し顔を伏せてから、自分でもおかしくなった。
別に悪いことをして休んだわけではない。
「学校、気になる?」
祖母に聞かれた。
「ちょっとだけ。今日の授業、明日誰かにノート見せてもらわないと。」
「そこは忘れないんだね。」
「学生だからね。」
そんな話をしているうちに、学校の裏へ続く道が見えた。
陽奈は足を少し緩めた。
朝に聞いた水音を思い出す。
そして、老婦人の話。
子どもの頃には、そこに水が流れていた。
夏には足を入れようとして叱られた。
雨の少ない年には、大人たちが空を見ていた。
雨が降った後、大人たちは返水へ向かった。
水辺には、子どもが触れてはいけない石があった。
朝に歩いた場所が、数時間前とは違って感じられた。
「寄っていく?」
祖母が言った。
陽奈は少し迷った。
「今日は帰って、先に記録を見たいかな。」
自分でも意外な答えだった。
朝なら、きっとすぐに学校の裏へ行きたがった。
「さっきのお話を聞いたら、何も知らないまま石を探すより、その人のことを調べてから行った方がいい気がする。」
祖母は頷いた。
「私もそう思ってたよ。」
二人は学校へ向かう道を通り過ぎた。
陽奈は一度だけ振り返った。
校舎の向こうにある場所は、ここからは見えない。
水音もしなかった。
家に戻ると、祖母は居間の時計を見た。
「少し休む?」
「大丈夫。おばあちゃんの方こそ疲れてない?」
「歩いたくらいで疲れたなんて言ったら、笑われるさ。」
「誰に?」
「昔の私に。」
祖母はそう言って靴を脱いだ。
陽奈は笑いながら後に続いた。
蔵へ入る前に、祖母は台所で冷たい麦茶を二人分用意した。
陽奈は自分のグラスと一緒に祖母の分も持つ。
庭を横切る。
午前中に水が浮いていた飛び石は、すっかり乾いていた。
陽奈は足元を見ながら通り過ぎた。
今は、何も起きていない。
蔵へ入ると、午前中より空気が温まっていた。
祖母が小窓を開ける。
傾いた日が差し込み、棚の端だけを明るく照らした。
机には、午前中に調べたものがまとめて置かれている。
古地図。
水路の記録。
雨乞いについて書かれた帳面。
「返水を閉ず」と記された紙。
そして、老婦人に見てもらった写真。
祖母は写真を中央へ置いた。
陽奈は、老婦人が教えてくれた女性を見る。
ほかの人たちから少し離れ、わずかに横を向いている。
今度は名前が分かっている。
「この人なんだね。」
「そうだね。」
祖母は紙を一枚取り、女性の名前を大きめに書いた。
その下に姓だけをもう一度書く。
「まずは名前で探そう。ただ、この人について調べるつもりで集めた記録とは限らないから、見落とさないようにね。」
「分かった。」
二人は棚を分担した。
午前中に見た水路関係の記録も、念のためもう一度確認する。
姓はいくつか出てくる。
けれど、老婦人が教えてくれた女性の名はない。
陽奈は次の帳面を閉じた。
「水路の方には出てこないね。」
「私の方も見つからない。」
祖母は棚を見上げた。
「私が見たのは、こっちじゃないのかもしれない。」
上段から、細長い木箱を下ろす。
陽奈が机の端を空けた。
箱には古い札が結ばれていた。
墨が薄れ、「土地」と「祭」の字だけが辛うじて読める。
「これは何の箱?」
「この辺りの祭りや土地の習わしを集めたものだよ。九重の家が直接関わった記録だけじゃなくて、誰かから聞いた話や、昔の文書を書き写したものも入ってる。」
祖母が蓋を開ける。
中には薄い冊子が何十冊も重ねられていた。
陽奈が一冊を手に取る。
神社の祭りの日取りが書かれている。
次のページには寺の名前があり、その後には田植え前の共同作業についての記録が続いていた。
「ずいぶんいろんなものが一緒に入ってるんだね。」
「暮らしていた人たちは、私たちが後から付ける分類に合わせて生活してたわけじゃないからね。」
祖母は別の冊子をめくった。
「神社で祈ることもあれば、お寺へ頼むこともある。村の人だけでしていたこともある。雨に関わることだって、土地ごとに違うよ。」
陽奈は昼間の自分を思い出した。
雨乞い。
その言葉から、何となく決まった儀式の形を想像していた。
けれど、老婦人が覚えていたのは、もっと生活に近いものだった。
水を使う。
子どもを叱る。
空を見る。
雨が降れば笑う。
そして、その後に大人だけで水場へ行く。
そういう日々の中に、祈ることも混ざっていたのかもしれない。
陽奈は一冊ずつ確かめていった。
女性の名前は、なかなか見つからない。
三冊。
四冊。
五冊。
古い字を追い続けていると、名前を見ているのか模様を見ているのか分からなくなってくる。
陽奈は一度顔を上げた。
「少し休もうか。」
祖母が先に気づいた。
「顔に出てた?」
「同じ行を三回くらい読んでたよ。」
「見られてたんだ。」
陽奈は苦笑して麦茶を飲んだ。
氷はほとんど溶けていた。
小窓から風が入る。
紙の匂いの中に、湿った土の匂いが少し混じった。
「ねえ、おばあちゃん。」
「うん。」
「老婦人が言ってたでしょう。昔の大人は理由を言わなかったって。」
「言ってたね。」
「それでも昔は続いてたんだよね。返水へ行くことも、石に触らないことも。」
「そうだろうね。」
「理由を知らなくても?」
祖母は手にしていた冊子を閉じた。
「全部の理由を言葉で知っていた人なんて、昔だって少なかったと思うよ。」
「それでも続くんだね。」
「親がしていたから自分もする。毎年そうしてきたから今年もする。昔から決まっているから守る。そういう続き方もあるでしょう。」
陽奈は自分の家のことを考えた。
名前をむやみに尋ねない。
境を越える前に見る。
異変があっても、すぐに意味を決めない。
幼い頃から教えられてきたことの中には、理由まで詳しく聞いたことのないものもある。
「九重の家も、似てるのかな。」
陽奈が言うと、祖母は少し意外そうな顔をした。
「どうしてそう思ったの?」
「私も、小さい頃から『これはしちゃ駄目』って教えられたことがあるから。理由を全部聞いたわけじゃないし。」
「そうだね。」
祖母は棚の方を見た。
「残っている記録を読めば理由が分かるものもある。でも、全部じゃないよ。」
「おばあちゃんにも?」
「もちろん。」
返事は早かった。
「私だって、教わったから守っていることはある。」
陽奈は少し驚いた。
祖母は、九重家のことなら何でも知っている。
どこかでそう思っていた。
昨夜、白い人影を見ても取り乱さなかったことも、その印象を強くしていたのかもしれない。
「知らないままでも守るんだね。」
「守らなくていい理由が分かるまではね。」
祖母は冊子を開き直した。
「昔の人が残した決まりには、今なら必要のないものもあるよ。でも、理由が分からないから勝手に捨てていい、とも限らない。」
陽奈は頷いた。
返水も同じだったのだろうか。
大人たちは、子どもに石へ触るなと言った。
雨が降った後に水場へ行った。
その理由を、どれほどの人が言葉にできたのかは分からない。
それでも、していた。
返水がなくなるまでは。
陽奈は次の冊子を取った。
表紙に、村の旧名が書かれている。
ページをめくる。
途中で、一つの名前に目が止まった。
陽奈は紙に控えてある名前と見比べた。
姓。
名。
どちらも同じだった。
「おばあちゃん、あったよ。」
祖母が椅子を寄せる。
陽奈は名前のある行を指した。
老婦人から聞いた女性。
写真に写っていた女性。
返水が閉じられた後も、その場所へ通っていたという人。
その名前が、九重家の記録にも残っていた。
祖母はしばらく文字を見つめた。
「これだ。」
「前に見たのも、この記録だった?」
「たぶんね。名前に覚えがあったのは、この書き方のせいだと思う。」
陽奈は名前の横を見る。
短い文字が添えられている。
「何て書いてあるの?」
「『水場預り』。」
「みずばあずかり?」
「そう読むんだと思う。」
陽奈はもう一度見た。
「あの人が思い出せなかった言葉って、これなのかな。」
「可能性はあるね。」
「返水のことをしていた家、って言ってたよね。」
「うん。」
祖母はページの前後を確認した。
だが、「水場預り」が何をする人なのかという説明はなかった。
女性の名前。
その横に役目らしい言葉。
それだけだった。
「水を管理していた人ってことかな。」
「それだけなら、水路の記録の方にもっと出てきてもよさそうだけどね。」
祖母は午前中の帳面へ目をやった。
「水場そのものを預かる、という意味だったのかもしれない。でも、今はそこまでしか言えないさね。」
陽奈はページをめくった。
次の頁には別の祭りの記録がある。
女性について書かれているのは、その一か所だけだった。
「これだけなんだ。」
「少なくとも、この冊子にはね。」
祖母が冊子を閉じようとした。
そのとき、表紙の裏に小さな数字が書かれていることに陽奈が気づいた。
「これ、整理番号?」
祖母が見る。
「そうだね。」
番号の後ろに、短い書き込みがあった。
――聞書参照。
「別の記録があるってこと?」
「そういう意味だと思う。」
祖母は木箱の中を調べた。
冊子の背には、それぞれ小さな番号が振られている。
陽奈も一緒に探した。
近い番号はある。
けれど、参照先として記された番号だけが見つからない。
「順番が飛んでるね。」
陽奈が冊子を並べた。
……。
十二。
十三。
十五。
十四だけがない。
祖母は箱を空にした。
底には、細長い紙の一覧が貼られていた。
番号と簡単な題名が並んでいる。
陽奈は十四番を探した。
そこに書かれていたのは、
――返水聞書。
という四文字だった。
「これが、その人から聞いた話なのかな。」
「可能性は高いね。」
祖母は空になった箱をもう一度確かめた。
何もない。
「別の箱に移したとかは?」
「まずはそれを探そう。」
二人は棚を調べた。
同じ年代の箱。
土地関係の記録。
聞き取りをまとめた冊子。
祖母は途中で別の部屋にも行き、古い目録を持ってきた。
けれど、返水聞書は見つからなかった。
陽奈は机へ戻り、一覧を見た。
「なくなったのかな。」
「まだ決められないよ。誰かが別の場所へ移したのかもしれないし、貸し出したままになったのかもしれない。」
「九重の家でも、そういうことあるんだね。」
「あるよ。」
祖母は少し困ったように笑った。
「長く残していると、残っていること自体に安心してしまうこともあるからね。」
陽奈は一覧の十四番を見た。
返水について詳しく聞いた記録があった。
そのことだけは分かる。
しかし、肝心の冊子はない。
今日、何度も似たことがあった。
記録には水場とあるのに、場所がない。
返水を閉じたとあるのに、理由がない。
老婦人は大人が返水へ行ったことを覚えているのに、何をしていたのかは知らない。
そして今度は、九重家にあったはずの聞き取りそのものが見つからない。
陽奈は少し考えてから、写真を手に取った。
そこに写る女性を見る。
「この人が返水へ通い続けた理由も、その聞書にあったのかな。」
「書かれていたかもしれないね。」
「見つけたいなぁ。」
「そうだね。」
祖母の声にも、今度は少し悔しさが混じっていた。
陽奈はそれに気づいた。
祖母も同じなのだ。
何でも知っていて、自分だけを導いているわけではない。
同じ記録を見て、同じように見つからないものを探している。
それが分かると、不思議と心強かった。
「もう一回、箱の中を見てもいい?」
「いいよ。私も目録を見直してみるよ。」
二人はそれぞれの場所へ戻った。
陽奈は冊子を一冊ずつ持ち上げた。
そのとき、木箱の底に貼られた一覧の端が、わずかに浮いていることに気づいた。
古い糊が剥がれている。
触らないように顔を近づけると、その下に別の紙の端が見えた。
「おばあちゃん、ちょっと来て。」
祖母がすぐに来た。
「ここ、下に何かあるみたい。」
祖母は細い竹べらを持ってきた。
紙を傷めないように、浮いた部分を少しだけ持ち上げる。
下から出てきたのは、小さな紙片だった。
破れたものではない。
何かを書き留めて、そのまま挟まったらしい。
祖母がピンセットで取り出す。
文字は五行ほどしかなかった。
上に、老婦人から聞いた女性の姓。
その下に、短い覚え書き。
陽奈にも読める文字がいくつかあった。
――雨後。
――石。
――戻す。
陽奈は息を止めた。
「『戻す』って書いてあるよね。」
「そうだね。」
祖母は紙片を机へ移した。
残りの文字を読む。
しかし、文章にはなっていなかった。
誰かが聞き取りの途中で取ったメモのように、単語だけが並んでいる。
雨後。
石。
戻す。
水。
最後の一行は墨が擦れて、ほとんど読めない。
「何を戻すんだろう。」
陽奈はそう言ってから、昨夜の声を思い出した。
――返して。
戻すと返す、似た意味だ。
けれど、同じものを指しているとは限らない。
陽奈は紙片から目を離さず、言葉を選んだ。
「おばあちゃん、昨夜聞いた声と、何かつながっているのかもしれない。」
「私も、それは考えてるよ。」
祖母は紙片を見つめた。
「ただ、『戻す』と『返して』が同じことを指しているかは、まだ分からない。」
「うん。」
陽奈は素直に頷いた。
「でも、この人たちが雨の後に何かをしていたっていう話とは、少し近づいた気がする。」
「そうだね。」
祖母は老婦人から聞いた内容を手帳へ書き出した。
陽奈も隣から見た。
雨の少ない年。
返水。
雨が降った後。
大人たち。
子どもは行かない。
触れてはいけない石。
水場預り。
戻す。
単語を並べただけでは、何をしていたのかまでは分からない。
それでも、午前中に読んだ雨乞いの記録とは違う側面が見え始めていた。
人々は、雨を願って終わりではなかった。
少なくとも、雨が降った後にも返水へ行っていた。
「おばあちゃん。雨をお願いした後に、お礼をすることってあるんだよね。」
「あるよ。」
「それが返水でしていたことなのかな。」
祖母は少し考えた。
「そうだった可能性はある。でも、礼をする方法はいろいろあるからね。供え物をすることもあれば、場所を整えることもある。神社や寺にお礼参りをすることだってある。返水で何をしていたのかは、もう少し材料が欲しいね。」
「石と『戻す』が、その材料になるかもしれない?」
「なるかもしれない。」
陽奈は写真の女性を見た。
水場預り。
返水が閉じられた後も、そこへ通い続けた人。
もし、雨の後に行う何かを知っていたのだとしたら。
返水が閉じられた後、その行いはどうなったのだろう。
「この人が最後まで通ってたっていうのが、やっぱり気になる。」
「私もだよ。」
「返水が使えなくなっても、しなきゃいけないことが残ってたのかな。」
祖母は答えなかった。
代わりに、なくなった十四番の題名を指でなぞった。
「それを確かめるためにも、これを探さないとね。」
『返水聞書』。
陽奈はその四文字を見た。
聞き取りが行われたということは、九重家の誰かも返水について調べる必要を感じたのだ。
しかも、水場が閉じられた後に。
なぜ。
何が起きていたのか。
陽奈は祖母へ尋ねようとして、やめた。
祖母も知らない。
今は同じものを探している。
外はいつの間にか夕方の色になっていた。
小窓から入る光が、机の上を斜めに横切っている。
祖母が目録を閉じた。
「今日は、ここまでにしようか。」
「もう少し探さなくて大丈夫?」
「暗くなってから古い紙を扱うと、見落としも増えるよ。それに、陽奈も朝からずっとでしょう。」
言われてみれば、目の奥が重かった。
「じゃあ、明日また探そう。」
「そうしよう。」
陽奈は紙片を保護するための袋を祖母へ渡した。
祖母が中へ収める。
そのときだった。
ぴちゃ。
二人の手が止まった。
陽奈は顔を上げた。
蔵の外。
庭の方から聞こえた。
朝に聞いたものより、近い。
祖母も窓へ目を向けている。
ぴちゃ。
もう一度。
陽奈は窓辺へ行った。
庭には誰もいない。
雨も降っていない。
飛び石は乾いている。
けれど、その先。
土の一か所だけが、黒く濡れていた。
「……おばあちゃん。」
「見えてるよ。」
祖母も隣へ来る。
二人が見ている間にも、湿った部分は少しずつ広がっていった。
水が土の下から染み出している。
湧き水のように一か所へ溜まるのではなかった。
細い筋になり、庭を横へ伸びていく。
陽奈は息を潜めた。
水は飛び石の間を抜け、植木の根元をかすめて進む。
自然な傾斜に従っているようには見えない。
途中で一度曲がった。
その曲がり方を見た瞬間、陽奈は机へ振り返った。
古地図。
今日一日、何度も見た線。
陽奈は地図を持って窓へ戻った。
現在の家の位置を頭の中で合わせる。
「おばあちゃん、これ……。」
祖母も気づいていた。
庭を横切る細い水の筋。
それは完全に同じではない。
けれど、古地図に描かれた水路が町を通っていた向きと、不自然なほどよく似ていた。
陽奈は窓の外を見る。
水は、ある一点で止まった。
そこには何もない。
石もない。
祠もない。
ただ、雨上がりの庭の土があるだけだった。
静かになった。
陽奈は地図を持ったまま、その場所を見つめた。
すると。
水の止まった先から、声がした。
遠くから聞こえたようにも、耳元で囁かれたようにも聞こえた。
「……返して。」
陽奈の指が、地図の端を強く握った。
昨夜と同じ声だった。
けれど今度は、ただ意味の分からない言葉として聞くことができなかった。
雨の後。
石。
戻す。
そして、返水。
そこまで近づいても。
何を返せと言われているのかだけが、陽奈にはまだ分からなかった。