最強便利屋魔法少女は最後の希望にはなれません 作:一般匿名魔法少女
北多摩地区魔法少女司令部は、駅を出て少し歩いたところにある。
周囲には飲食店も商業施設も多く、少し足を延ばせば大きな公園もある。毎年のように住みたい街ランキングの上位へ名前が挙がるだけあって、買い物にも通学にも困らない場所だった。
そして、司令部のすぐ隣には所属魔法少女用の宿舎が建っている。
正式名称はもう少し長かったはずだが、使っている魔法少女のほとんどは単に「寮」と呼んでいた。
一定以上の戦力評価を受けた魔法少女には一人ずつ部屋が割り当てられ、指定された即応期間中はそこで待機することになっている。怪異の出現に即座に対応するための施設なので、本来は業務上の意味合いが強いのだが、待機期間が終わったからといって退去を求められるわけでもない。
学校にも行きやすい。駅も近い。商店も多い。隣には司令部があるので、出動するときにも便利。
そのため、気づけば普通の学生寮のように暮らしている魔法少女も多かった。
ラブリー・フローラあらため、花守ひよりもその一人である。
午前十一時を少し回った頃、ひよりは寮の玄関で靴を履きながら、小さく息を吐いた。
昨日は救援のあとにさらに隣の西多摩地区からも救援要請を受けたせいで、寮に帰ってきたのは日も落ちてからだった。しかし、今日は学校も怪異対峙もない完全オフ、よっぽどの緊急自体じゃないと通信ははいらない。
朝から課題をすませたフローラは、昨日買い損ねたシャンプーを買いに駅前のドラッグストアにいこうとしていた
もっとも、今日は急ぐ理由もない。
薄いクリーム色のパーカーに、膝丈のスカート。髪も変身時のように飾ることはせず、軽くまとめただけだった。足元も歩きやすいスニーカーで、どこから見ても休日の高校生でしかない。
シャンプーを買って、どこかで昼食を済ませて、帰ったら少し昼寝をする。そのあと宿題を片づけて、夕方からはだらだらする。
別に特別なことは何もない。だからこそ、ひよりにとってはかなり魅力的な予定だった。
財布とスマートフォンを小さなショルダーバッグへ入れ、玄関で靴を履く。あと少しで外へ出られるというところで、背後から声が飛んできた。
「ひよりー。ついでに防虫剤買ってきて」
ひよりの手が、ドアノブの上で止まった。
聞き覚えがあるどころではない。振り返るまでもなく、誰なのか分かる。
隣室の住人、夢野ねむ。魔法少女ドリーミィ・モルフェ。
北多摩でも有数の実力を持つ魔法少女であり、昨日の緊急呼び出しをことごとく無視した張本人でもある。
ひよりはしばらく玄関の前で黙っていたが、どうせ無視してももう一度呼ばれるだけだと思い直し、隣の部屋を覗いた。
ドアは開けっぱなしだった。
ねむはベッドの上で横向きに寝転がり、枕を抱えたままスマートフォンを眺めている。髪は半分寝癖のままで、部屋着らしい大きめのTシャツに短パンという格好だった。足元には脱ぎ捨てたスリッパが片方だけ転がっていて、起きてから一度もまともに動いていないことがよく分かる。
休日とはいえ、もう午前十一時を過ぎている。
それでも、本人には起き上がる意思がまるでなさそうだった。
「自分で買いに行けばいいじゃん。昨日だって一日中この辺にいたでしょ」
「昨日は大変だったんだよ。公園で寝てただけなのに、司令部に呼ばれて、いっぱい怒られたから疲れたー」
ねむはそう言いながらも、視線をスマートフォンから一度も上げない。
ひよりは呆れたように眉を寄せた。
「その怒られた原因、自分で作ったんでしょうが。昨日あれだけ呼ばれてたのに、一回も出なかったじゃん」
「だって、最初のやつはひよりが行ったし、次のも結局そんなに強くなかったんでしょ。大丈夫大丈夫!」
反省の色が薄い。というより、ほとんどない。ひよりはドア枠にもたれながら、しばらくねむを見下ろした。
「それで、怒られて疲れたから今日は一歩も外に出たくない、と」
「そう。昨日、一時間くらい説教されたんだよ。途中から同じ話が二周目に入ったから、ちょっと寝たけど」
ひよりは思わずため息をついた。その様子を見ても、ねむは特に悪びれず、スマートフォンをスクロールしながら続ける。
反省という言葉が、ここまで似合わない人間も珍しい。それでも、昨日の呼び出しを完全に忘れているわけではないらしく、机の上には司令部から渡されたらしい指導記録の紙が置かれていた。
端の方に、途中まで書いた反省文らしきものも見える。三行しかないが。
「で、防虫剤。香りは花系でクローゼットに吊るすやつ。できれば一年くらい持って、交換時期が分かるやつがいい」
「注文だけは細かいなあ」
ひよりは呆れたようにいう。
「何回も買いに行くように頼むの面倒だから」
実にモルフェらしい理由だった。
駅前までは歩いて数分だ。
休日の昼前ということもあって、通りにはそれなりに人が多い。家族連れもいれば、買い物袋を提げた学生もいるし、近くの公園へ向かうらしい小さな子供たちの姿もあった。
ひよりは変身していない。淡い色のパーカーにスカートという、ごく普通の格好をしている。それでも、道を歩いていればほとんどの人がこちらに気づいた。
すれ違った小学生の女の子が母親の袖を引き、小さな声で「あ、フローラ」と囁く。少し離れたところから手を振ってきたので、ひよりも笑って軽く手を振り返した。
別の場所では、犬を連れた年配の女性から「今日はお休み?」と声をかけられた。
「はい。今日は今のところ」
つい「今のところ」と付けてしまった自分に、ひよりは少しだけ嫌な予感を覚えた。もっとも、誰も近寄ってサインを求めたり、勝手に写真を撮ったりはしない。このあたりでは変身していない魔法少女にはなるべく普通に接する、という不文律がかなり根付いている。
もちろん、全員が守るわけではない。それでも、この辺りで暮らしている者にとって魔法少女は珍しい存在であると同時に、同じ街で暮らしている学生でもある。その距離感を、ひよりは気に入っていた。
有名であること自体は、もう慣れている。ただ、休日くらいは普通にシャンプーを買わせてもらえる。それで十分だった。
ドラッグストアへ入り、ひよりはまず目的の棚へ向かった。いつも使っているシャンプーを探し、本体を手に取って少し悩む。詰め替えの方が安い。
ただ、今使っている容器もそろそろ長い。結局、本体と詰め替え用を一つずつかごへ入れた。値段など今更気にするものでもないとはいえ、ひよりは帰る気はなかった。
それから、ねむに頼まれた防虫剤を探す。
「防虫……あった」
衣類用防虫剤の棚には、いくつもの商品が並んでいた。
ただ、ねむの指定は思ったより細かく、条件を一つずつ確認していくと、候補はかなり絞られていった。
そして、ひよりの手が止まった。棚の中央に、見覚えのありすぎる桃色があった。
嫌な予感がしながら手に取ると、パッケージの正面でラブリー・フローラが満面の笑みを浮かべていた。
白とピンクの衣装に花を模した杖。縁には無数の花弁が描かれている。その横には、爽やかな書体で大きく書かれている。
『衣類を守る、わが家の切り札!』
「…………」
ひよりは無言で商品を一度棚へ戻した。
そのまま別の商品へ視線を移す。これは違う。隣は半年用。その隣は引き出し専用で、ねむが頼んでいたクローゼット用ではない。結局、また同じ商品へ戻ってくる。
悔しいことに、条件だけなら一番よかった。
ひよりは棚の前でしばらく立ち尽くした。
パッケージの中のラブリー・フローラは、怪異を前にしたときとほとんど変わらない頼もしげな笑顔を浮かべている。その姿の横に「切り札」の文字があるせいで、まるで衣類害虫との最終決戦へ投入されたようにしか見えない。
「……商品に罪はないし」
誰に言い訳するでもなく呟き、ひよりは結局それをかごへ入れた。
レジでは、財布ではなくスマートフォンを取り出した。
このドラッグストアは、魔法少女活動支援ポイントの提携店でもある。日用品や衣類、寝具、食事といった生活支援目的の買い物には使えるため、シャンプーも防虫剤も対象だった。
端末をかざすと、画面に残高と使用額が表示される。昨日の出動だけでもそれなりのポイントが加算されており、買い物程度で使いきれるものではなかった。
会計を終えたひよりは、ついでに昼食用のパンと飲み物も買い、紙袋を提げて寮へ戻った。
ねむの部屋のドアは出かける前と同じように開けっぱなしだった。防犯上の心配がないとはいえ、ひよりはため息をついた。
中を覗いてみると、ねむはやはりベッドの上にいた。姿勢までほとんど変わっていない。強いて違いを挙げるなら、抱えている枕の向きと、スマートフォンを持つ手が左右入れ替わっているくらいだった。
「ただいま。頼まれてたやつ、あったよ」
ひよりが声をかけると、ねむはようやく画面から目を上げた。
「ありがと。ちゃんと条件どおり?」
「一応ね。一年持って、クローゼット用で交換時期も分かるやつ」
買い物袋から防虫剤を取り出して渡す。ねむは寝転がったまま片手で受け取り、何気なくパッケージへ目を落とした。
そこで、ぴたりと動きが止まった。ひよりはその反応を見た瞬間、嫌な予感がした。
ねむは無言のまま商品を見る。それから、ひよりの顔を見る。もう一度、商品を見る。その視線があまりにも露骨なので、ひよりの方から眉を寄せた。
「……衣類を守る、わが家の切り札!」
わざわざパッケージの文句を読み上げられて、ひよりは露骨に嫌そうな顔をした。
「違うから。あなたが言った条件に合うのが、それしかなかったの。私だって好きで自分の顔がついてるやつ選んだわけじゃないよ」
ねむは真顔のまま、もう一度パッケージを見る。そのあと何か思いついたように身体を起こし、ひよりへ防虫剤を差し出した。
何の気なしに受け取ったひよりへ向かって、ねむが突然スマートフォンを構える。その動きだけは、普段の彼女からは信じられないほど速かった。
「え、ちょっと――」
ひよりが反応するより先に、シャッター音が鳴った。
ねむはすぐに画面を確認し、珍しく満足そうに口元を緩める。そこには、自分の顔が大きく印刷された防虫剤を持たされ、何とも言えない表情を浮かべている花守ひよりが、かなり綺麗に収まっていた。
「いい写真」
ねむはそう言って、スマートフォンを自分の胸元へ引き寄せた。ひよりはしばらく恨めしそうに見ていたが、無理に取り上げることはしなかった。
そのとき、部屋の中に短い電子音が二つ、ほとんど同時に響いた。
さっきまでの気の抜けた空気が、そこで一瞬にして止まる。
ひよりもねむも、ほぼ同時に自分の端末へ視線を落とした。画面に表示されているのは、北多摩地区司令部からの緊急招集だった。しかも今回は、ひよりだけではない。ねむの端末にも同じ通知が届いている。
ねむはベッドに寝転がったまま一度だけ画面を確認すると、今度は何も言わずに上半身を起こした。
「……私にも来てる」
その一言だけで、ひよりにはだいたいの意味が分かった。
ねむは普段、軽微な反応や通常戦力で処理できる案件にはまず呼ばれない。呼ばれたところで本人が応答するかどうかという別の問題もあるが、少なくとも司令部が最初からモルフェまで招集しているということは、相応の戦力を必要としている可能性が高い。
ひよりは通知を開き、表示された魔力反応の数値へ目を走らせた。
「これ……かなり大きくない?」
ねむも同じ画面を見ていた。
ついさっきまで、防虫剤の写真を撮って面白がっていた時とは明らかに違う。眠そうな目つきそのものは変わらないものの、視線だけが急に鋭くなり、反応値、位置、収束速度、周辺人口といった必要な情報を、上から順に黙って拾っていく。
場所は、寮から数キロ離れた大きな公園だった。
休日の真昼間。普段なら家族連れや子供たちで賑わっている時間帯であり、当然、人も多い。しかも今回の反応は、まだ怪異が実体化する前の蠢きの段階だというのに、すでにかなり大きかった。
ひよりは買い物袋をその場に置いた。
「行こう」
今度は、ねむも何も言わなかった。
司令部までは本当にすぐだった。
それぞれの相棒を連れて寮を出て隣の建物へ入り、受付を抜け、そのまま作戦室へ向かう。北多摩地区魔法少女司令部は休日でも当然のように稼働しており、むしろ怪異に曜日など関係ない以上、人の多い休日の方が警戒を厚くすることすらある。
作戦室へ入ると、正面の大型モニターにはすでに公園周辺の地図が映し出されていた。
中央付近には強い魔力反応を示す赤い表示があり、その周囲には避難区域を示す色分けが急速に広がっている。公園内の人の流れを示す情報も重ねられていて、職員たちが次々と指示を飛ばしていた。
真壁司令は二人が入ってきたことに気づくと、短くこちらを見た。
「状況は?」
ひよりが尋ねると、真壁はすぐにモニターへ視線を戻した。
「十分ほど前から魔力の蠢きを確認している。問題は収束速度だ。通常よりかなり速い。まだ実体化はしていないが、このままなら少なくとも上級、下手をすると超級まで上がる可能性がある」
「避難は進んでますか?」
「周辺にいた魔法少女がすでに対応を始めている。避難誘導そのものは進んでいるが、休日の昼間だ。公園内の人数が多いし、子供連れも多い。完全に空にするまでにはまだ少しかかる。それに、動ける高ランクの魔法少女も到着するまでにも時間がかかるだろう」
真壁の説明を聞きながら、ひよりは大型モニターへ視線を向けた。公園の中央では魔力反応を示す赤い表示がじわじわと膨らみ、その周囲では避難区域が広げられている。
まだ怪異は姿を現していない。それでも、実体化を待ってから戦力を集めるには、反応の伸び方が速すぎた。
ひよりは隣を見る。ねむもモニターを見つめていた。
普段なら、「ほかの人いないの」とか、「まだ実体化してないなら様子見でいいんじゃない」とか、何かしら言いそうなものだった。
今日は何も言わない。真壁もそれを確認したように、すぐ本題へ入った。
「フローラ、モルフェ。二人で先行してくれ。ほかの戦力も招集中だが、全員そろうのを待つ余裕はないかもしれない。ヘリポートは……まあ、君たちには必要ないな」
真壁がそう言って視線を向けると、ひよりは小さく頷いた。
司令部には緊急展開用のヘリポートも用意されているが、《フラワーゲート》を使えるフローラにとっては、ほとんど縁のない設備だった。数キロ先の公園なら、飛び立つ準備をしている間に着いてしまう。
「現場の座標だけ送ってください。避難区域の外側に出口を開きます」
「もう転送してある。現地の誘導員にも、二人が先行することは伝えておく」
「分かりました」
ひよりはすぐに頷いた。ねむも一瞬だけモニターを見たまま黙っていたが、やがてゆっくり立ち上がる。
二人はそのまま作戦室を出て、司令部内の出動スペースへ向かった。
ひよりは一度だけ大きく息を吸うと、胸元へそっと手を当てた。指先に触れた魔力核と、肩口にいたもふりんが呼応するように淡い桃色の光を灯す。
「願いは種に、想いは蕾に。涙の夜を越えて、希望はいつか花開く――」
言葉に合わせるように、足元から細い光の線が走った。
それはひよりの周囲を円状に巡り、やがて五枚花弁を模した魔法陣へと形を変える。魔法陣が完成した瞬間、そこから無数の光の花弁が一斉に舞い上がり、ひよりの身体を包み込んだ。
休日用のパーカーとスカートが桃色の光へ溶け、その代わりに白い光が身体の輪郭をなぞっていく。
最初に現れたのは、身体に沿う白い上衣だった。胸元には大きな桃色のリボンが形作られ、その中心へ金縁の花型魔力核が収まる。肩口には花弁を思わせる小さなフリルが開き、腕を包む光がそのまま白い長手袋へ変わっていった。
腰の周囲では、幾重もの光が花びらのように重なる。
桃色のペタルスカート、その下に白いフリル、さらに濃い桃色の内側の生地が順番に形を取り、最後に腰の後ろで大きなリボンがふわりと結ばれる。足元を包んでいた光も膝下まで伸び、白を基調とした長いブーツへ変わった。見た目こそ華やかだが、着地や急制動を前提とした実用品である。
そして最後に、ひよりの髪が光を帯びた。普段よりも長く伸びた桃色の髪が背中へ流れ、その先端だけが白に近い淡い色へ変わっていく。耳元には小さな花飾りと白いリボンが現れ、舞っていた花弁がそこへ吸い込まれるように消えていった。
ひよりは最後の言葉とともに、片手を前へ伸ばす。
「咲き誇れ、愛よ――この手に奇跡を。きらめき満開――ラブリー・フローラ!」
その手の中に光が集まり、一本の長杖を形作った。白い柄に金色の蔓模様。先端には大きな五枚花弁の花が咲き、その中心では透明な魔力結晶が桃色に輝いている。
ひよりが《フローラル・ロッド》を握った瞬間、周囲を舞っていた最後の花弁が弾けるように消えた。
そこに立っていたのは、もう休日の高校生ではない。
魔法少女、ラブリー・フローラだった。
その隣では、ねむが小さく欠伸を一つした。
ひよりの変身が花と光に満ちた王道そのものなら、ねむの変身は最初から最後までどこか静かだった。
ねむが目を閉じると、足元から淡い紫色の霧がゆっくりと湧き上がる。霧の中には小さな星の光が点々と瞬き、そのうちの一つが細い三日月へ姿を変えた。
ねむの部屋着が輪郭からぼやけ、まるで夢の中へ溶けていくように消えていく。代わりに身体を包んだのは、柔らかな薄紫と白を基調とした衣装だった。
胸元には小さなリボン。袖や裾には雲を思わせる柔らかなフリルが広がり、スカートというよりは寝間着のワンピースを思わせる軽いシルエットが形作られていく。足元にはふわりとしたブーツが現れ、歩くというより夢の上を漂うために作られたような見た目になった。
最後に、霧の中から大きなナイトキャップが降りてくる。長い薄紫の髪の上へすっぽりと収まり、先端には三日月の飾りと白いポンポンが揺れた。
ねむはそこでようやく目を開いた。
眠そうな紫色の瞳は、普段とほとんど変わらない。ただ、その周囲だけは夢の中のように淡く霞んでいた。
「……夢の続きを、少しだけ」
ぼそりと呟くと、周囲を漂っていた霧が一度だけ大きく渦を巻いた。そこから、小さなバクが顔を出し、ねむの肩の近くへ収まる。
霧が晴れる。
薄紫のパジャマを思わせる衣装に、大きなナイトキャップ。どこか気の抜けた雰囲気を残しながらも、その周囲には明らかに濃密な魔力が漂っている。
「ドリーミィ・モルフェ!」
二人の変身が終わった。
桃色の花弁と薄紫の霧が、出動スペースの中で一瞬だけ混ざり合う。
フローラは杖を握り直すと、正面へ視線を向けた。その隣では、モルフェがずれかけていたナイトキャップの位置を軽く直し、まだわずかに眠たげな目を細めている。
「いくよ! 《フラワーゲート》」
フローラが杖を掲げると、何もなかった空間に巨大な蕾が現れた。
幾重にも重なった花弁がゆっくりと開き、その中心に、別の場所の景色が浮かび上がっていく。
映し出されたのは、公園だった。
広い芝生の間を遊歩道が走り、その周囲を木々が囲んでいる。休日であれば、走り回る子供たちの声や、ベンチで話す人々の笑い声が絶えない、ごく普通の公園のはずだった。
けれど、その中心だけが明らかに異常だった。
芝生の上に黒い歪みが浮かび、周囲の光まで引き寄せるようにゆっくりと脈打っている。まだ生き物らしい輪郭はなく、怪異と呼べるほど明確な形さえ持っていない。それでも、その内側で巨大な魔力が膨れ上がり、何かがこちら側へ生まれ落ちようとしていることだけは、門越しに見ているだけでも嫌というほど伝わってきた。
先ほどまで隣で眠そうにしていたモルフェから、いつの間にか気の抜けた雰囲気が消えていた。
フローラもまた表情を引き締め、杖を握る手に力を込める。
そのとき、公園の中央に浮かぶ黒い歪みがもう一度、大きく脈打った。
空気まで震わせるような魔力のうねりが花の門を越えて伝わってくる。
二人は顔を見合わせることもなく、そのまま同時に《フラワーゲート》へ足を踏み入れた。
門を抜けた瞬間、二人の身体を包んでいた花弁が一斉にほどけた。
視界が切り替わり、次の瞬間には公園の上空へと飛び出している。
眼下には、先ほど門越しに見えていた芝生と遊歩道が広がっていた。
けれど、遠くから見ていたときよりも、異変ははるかに大きい。
公園の中央を占めていた黒い歪みは、すでに一つの巨大な塊へと膨れ上がっていた。表面は液体のように絶えず揺らぎ、周囲の光を吸い込みながら、そのたびに輪郭を変えている。
細長い突起が伸びて腕のようになったかと思えば、すぐに崩れ落ち、別の場所から獣の脚を思わせるものが生えてくる。
人の姿に近づいたかと思えば、次の瞬間には四つ足の獣のような輪郭へ変わる。
どちらにもなりきれないまま、黒い塊は何度も身体を作り直していた。まるで、自分がどんな怪異になるのかさえ、まだ決まっていないかのようだった。
黒い泥を無理やり立たせたような巨体から、腕とも触手ともつかないものが何本も伸び、その先端が地面を這うたびに芝生が黒ずんでいく。
フローラは着地と同時に杖を構えた。
「まだ完全には形になっていない。今なら、一気に潰せるかも」
「ん……そうだねぇ」
隣へ降り立ったモルフェも、いつもの眠たげな声こそ変わらなかったが、その視線だけはしっかりと怪異へ向けられていた。
前衛となるフローラがまずは前に出て、モルフェへの射線を通さないように慎重に接近する。そして、大きく踏み込み、を胸元へ引き寄せるように構えた。杖先の花飾りがわずかに開き、その中心へ桃色の光が集まり始める。
芝生の上に描かれた小さな円は、瞬く間に幾重もの術式を伴って広がり、やがてフローラを中心とした巨大な花型の魔法陣へと変わっていく。
「先手必勝!! 願いを花に、希望を光に――」
周囲へ満ちていた魔力が、一斉に杖先へ引き寄せられた。
光は大きく膨らむのではなく、むしろ急速に細く、鋭く絞り込まれていく。広い魔法陣から集められた膨大な魔力が、ただ一点へ叩き込むためだけに圧縮されているのだ。
フローラは怪異の胸元へ狙いを定め、そのまま杖をまっすぐ突き出した。
「《フローラル・ノヴァ》!!」
花型の魔法陣が強く輝き、次の瞬間、桃色の光が一直線に走った。
放たれた光がまっすぐ怪異の胸部へ突き刺さり、遅れて大きな衝撃音が公園に響いた。巨体が大きく揺れ、黒い身体の一部が吹き飛ぶ。
短縮して放った攻撃だったが、手応えはあった。すかさず、すぐに二撃目を撃とうとして、しかし杖を持ち上げたところでフローラは動きを止めた。
最初は震えているだけだったものが、やがて内側から膨らむように盛り上がり、細長い手足を生やして立ち上がった。
ひとつだけではない。吹き飛ばされた欠片のうち、ある程度の大きさを残していたものは次々と形を整え、それぞれが別の怪異へと変わっていく。一方で、細かく砕けすぎた破片はそこまで再生できないらしく、しばらく蠢いたあと、黒い靄となってその場で消えていった。
それでも残った数は多い。
あっという間に十体近い小型の怪異が生まれ、公園のあちこちへ散らばっていく。
「……増えてますね」
フローラが眉をひそめる。その横でモルフェは少し首を傾げた。
「増えたねぇ」
言っている間にも、小型の怪異が一斉にこちらへ向きを変えた。
「《ブルーム・バレット》!!」
フローラは舌打ちするように杖を振り、先頭へ飛びかかってきた二体をまとめて薙ぎ払う。桃色の魔力に弾かれた怪異は空中で砕け、そのまま地面へ落ちた。
だが、それもまた同じだった。砕けた破片がそれぞれ動き始め、二体だったものが四体、四体だったものがさらに増えていく。
「攻撃するたびに増えてますよ、これ!」
フローラが杖で一体を牽制しながら声を上げる。
「うん。細かくしすぎると消えるけど、中途半端に砕くと増えるみたいだね。でも、一体ずつはそんなに強くないよ」
モルフェの言葉どおりだった。
小型化した怪異は動きこそ素早いものの、単体で見れば中級怪異にも届かない。フローラがまともに一撃を入れれば簡単に吹き飛ばせるし、モルフェも正面から相手をするだけなら苦戦するような相手ではなかった。
問題は、倒し方を間違えるたびに数が増えることだった。
「司令、聞こえますか!」
『こちら指令室。状況は確認しています』
耳元の通信機から、すぐに返事が返ってくる。
「本体への攻撃で分裂しました。分裂体は単体なら大した強さじゃありません。ただ、攻撃の仕方によってはさらに増えます」
フローラは正面から飛び込んできた一体を杖で受け流し、そのまま地面へ転がした。
「一体一体なら中級以下です。数さえ揃えば、正面から押さえ込めると思います」
そう報告しながらも、フローラの視線は小型の怪異ではなく、その向こうにいる本体へ向けられていた。
先ほど《フローラル・ノヴァ》で大きく身体を抉ったはずなのに、黒い巨体はむしろ先ほどより膨れ上がっている。周囲に漂う魔力を取り込みながら失った部分を埋め、それどころか新たな腕や脚らしきものまで作り始めていた。
不定形だった輪郭も、少しずつ揺らがなくなっている。
怪異が実体化の最終段階へ入りつつあることは、二人にも分かった。
「ただし、本体は別です」
フローラの声が低くなる。
『こちらでも確認している。魔力反応が急速に上昇中だ』
「大きな隙ができたら、もう一度、本体へ全力を叩き込みます。あれは完成させない方がいいです。今のうちに、可能な限り叩き潰しておくべきです」
フローラはそう言い切ると、杖を握り直した。
その横でモルフェは本体と、周囲を走り回る小型の怪異を交互に眺めていたが、やがて納得したように小さく頷いた。
「おー、フローラはやる気だねぇ」
「あなたも少しはやる気を出してください」
モルフェも周囲を見回しながら、小さく頷く。
「出してるよぉ。じゃあ、その時に出る小さいのも私が眠らせちゃおうかな」
モルフェはそう言って杖を軽く持ち上げると、迫ってきていた怪異の一体へ先端を向けた。
「応援が来たら、フローラは本体に集中していいよ。小さいのが出ても私が片っ端から寝かせるから、万が一漏らしたら他の子たちに潰してもらおう」
眠そうな口調のまま、ずいぶん大きなことを言う。
けれど、フローラはその言葉を疑わなかった。
モルフェが地区でもトップクラスの評価を受け続けている理由は、ひとえに搦め手の巧さにある。真正面から怪異を吹き飛ばすような派手な火力こそ持たないものの、眠りをはじめとした精神干渉を広い範囲へまとめて作用させ、相手の動きを封じることに関しては他の魔法少女の追随を許さない。
特に、今目の前を走り回っている分裂体のように、一体ごとの魔力も抵抗力も低い相手はモルフェにとって格好の標的だった。一体ずつ狙う必要すらない。
ある程度の範囲をまとめて術式の中へ収めてしまえば、その中にいる怪異を片端から眠りへ引きずり込むこともできる。数十体に増えようと、抵抗できるだけの力を持たない限り、数の多さそのものはモルフェに対する優位にはなりにくい。
『ちょうど今、周辺で活動可能な魔法少女をそちらへ向かわせている。第一陣はまもなく到着する。数分以内に四名。さらに五名が合流予定だ』
フローラは素早く周囲を見回した。
それだけいれば、小型の怪異を押さえるには十分だろう。モルフェの範囲魔法から逃れたとしても、応援に来た魔法少女たちが包囲して仕留めればいい。少なくとも、これ以上好き勝手に散開させることはない。
やるべきことは決まった。
「じゃあ、いくよぉ」
モルフェが杖を胸元へ引き寄せた。
それまでとは違い、その動きはゆっくりとしていながら淀みがなかった。杖の先端に薄紫色の光が灯り、足元へ淡い魔法陣が浮かび上がる。
同時に、フローラが一歩前へ出た。
「詠唱中は任せてください」
「お願いねぇ」
返事を聞くより先に、正面から三体の怪異が飛び込んできた。
フローラは杖を横へ構え、最初の一体が振り下ろした腕を受け流す。その勢いを利用して身体を横へ逸らし、続けて迫った二体目の足を払った。
倒さない。砕かない。ただ、モルフェへ近づけない。
三体目が頭上から飛びかかってくると、フローラは杖の柄でその身体を横から殴りつけた。怪異は芝生の上を転がったが、身体が千切れるほどの力は込めていない。
その間にも、モルフェの詠唱は続いていた。
「夜の帳に、まぶたを閉じて。怖いことも、痛いことも、今だけ全部忘れましょう」
低く、柔らかな声が夜の公園へ流れていく。
「月の揺り籠、星の毛布。ここから先は夢の中。起きる時間が来るまでは――みんな一緒に、おやすみなさい」
言葉を重ねるたびに魔法陣が広がり、そこから薄紫色の霧が静かに溢れ出した。最初はモルフェの足元を覆うだけだった霧が芝生を這い、遊歩道を越え、木々の根元へ入り込みながら公園の中央一帯へと広がっていく。
怪異たちも異変に気づいた。何体かがモルフェへ向かって走り出す。
「行かせません!」
フローラがその間へ割り込んだ。杖を振るって一体を押し返し、背後へ回り込もうとした個体には小さな光弾を足元へ撃ち込んで進路を逸らす。さらに横から迫った一体を杖で受け止め、そのまま身体ごと押し返した。
数が増えるにつれて、すべてを捌くことは難しくなっていく。それでもフローラは決して大技を使わず、怪異を壊さないように注意しながら、モルフェへ近づこうとするものだけをひたすら押し返し続けた。
そして、詠唱が最後の一節へ差しかかる。モルフェは杖を両手で握り、そっと地面へ先端を向けた。
「いい夢を。目覚めるその時まで――《スイート・ドリーム・ワールド》」
魔法陣が音もなく輝いた。
瞬間、薄紫色の霧が一気に広がった。爆発するような勢いはない。ただ、どこからともなく夜霧が湧き出したかのように、気づけば公園の景色そのものが薄紫色に霞んでいた。
フローラの足元にも霧が届く。
そこから先は早かった。一体の怪異が、走っている最中に突然足をもつれさせた。二、三歩ほど惰性で進んだところで力を失い、そのまま芝生へ倒れ込む。続いてもう一体。さらにその奥でも、一体、また一体と怪異が崩れ落ちていった。
《スイート・ドリーム・ワールド》。
モルフェが得意とする広域精神干渉魔法であり、彼女を地区でも屈指の魔法少女たらしめている切り札の一つだった。
直接相手を傷つける力はほとんどない。その代わり、一度術式の内側へ取り込んだ相手を強制的な眠りへ引き込み、意識と身体の両方をまとめて封じ込める。抵抗力の弱い相手なら、今のように範囲内をまとめて無力化できる。
そして、この魔法が本領を発揮するのは、むしろ単独では倒しきれない強敵を相手にした時だった。ほんの数秒でも眠らせることができれば、その間、相手は攻撃も回避も防御もできない。
その数秒へ、味方の最大火力を叩き込む。そういう意味では、膨大な魔力を圧縮し、一撃へ注ぎ込むフローラの《フローラル・ノヴァ》ほど相性のいい技もなかった。
実際、二人はこれまでにも何度か同じ方法で強敵を仕留めている。だからフローラは、周囲の怪異が次々と倒れていくのを見ても驚かなかった。問題は、その霧がさらに奥へ進んだことだった。
小型の怪異を呑み込んでもなお薄紫色の霧は止まらず、公園の中央へと流れ込んでいく。そしてついに、実体化の最終段階へ入っていた本体の足元へと届いた。
その瞬間、本体が初めて明確な反応を見せた。
黒い巨体が大きく揺れ、足元へまとわりつく霧を振り払うように片脚を持ち上げる。小型の怪異とは違う。霧に触れた瞬間に崩れ落ちることはなく、全身から魔力を噴き出しながら、強引に眠りへの干渉を押し返そうとしていた。
「おー、抵抗するんだぁ」
モルフェが少しだけ感心したような声を漏らす。だが、まだ実体化は終わっていない。
本来なら強力な抵抗力を持っていたのかもしれないが、今の本体は肉体も魔力も安定しきっておらず、次々と分裂体を生み出した直後でもある。
薄紫色の霧が、ゆっくりと黒い脚を這い上がっていった。本体が一歩踏み出そうとする。その脚が途中で止まった。
もう一度、巨体が大きく震えたかと思えば、今度は持ち上げかけていた腕がだらりと下がる。それでもなお抵抗するように、全身を走る黒い脈動が一際強くなった。
一度。二度。そして三度目。そこで、途切れた。
怪異の身体から力が抜ける。巨体は倒れることなく、わずかに前屈みになった姿勢のまま動かなくなった。
しばらくして夜風が吹き抜け、公園を満たしていた薄紫色の霧が少しずつ流されていった。
視界が開ける。
フローラは杖を構えたまま、周囲を見回した。
静かだった。
つい先ほどまで公園中を走り回っていた小型の怪異は、一体残らず動きを止めている。芝生の上にも、遊歩道にも、植え込みのそばにも、まるで最初からそうしていたかのように黒い身体が転がっていた。
そして、公園の中央。実体化をほとんど終えかけていた巨大な本体まで、完全に沈黙している。
「……本体まで完全に寝てません?」
モルフェが目を細めた。本人もそこまでは期待していなかったらしい。しばらく巨大な怪異を眺めてから、妙にのんびりと頷く。
「寝ちゃったねぇ」
思わず振り返ったフローラに対して、モルフェは杖を下ろすと、大きな欠伸を一つ返した。
「じゃあ、フローラよろしくぅ。私は寝るから」
「あなたまで寝るんですか!?」
「終わったら起こしてねぇ」
それだけ言うと、モルフェは本当に近くのベンチへ向かって歩き始めた。
「もう……!」
言い返しかけて、フローラは口を閉じた。
今はそれどころではない。本体まで眠っている。先ほどまで実体化を続け、時間が経つほど魔力反応を増大させていた怪異が、今は完全に動きを止めている。どれほど強力な怪異であろうと、眠っている今なら回避も防御もできない。
そして、応援の魔法少女たちが到着するまでには、まだ数分ある。待つ理由がなかった。これほど大きな隙を、もう一度モルフェが作れる保証もない。何より、本体がいつ眠りから覚めるのかも分からない。
『フローラ、増援到着まで待て。現在、第一陣がそちらへ――』
「いいえ。今、やります。起きる前に、最大火力で消し飛ばします」
フローラは短く答えた。視線は怪異から外さない。杖を胸元へ引き寄せる。
「大丈夫です。そのために、モルフェがここまで完璧な隙を作ってくれたんですから」
その瞬間、フローラの胸元で輝いていた魔力核が、強く脈打った。
一度目の鼓動とともに、衣装の奥から桃色の光が漏れ出す。二度目には、その光が全身へと巡り始め、足元から無数の花弁が舞い上がった。
そして三度目。フローラは胸元へ手を当て、目を閉じた。
これから解放するのは、普段は魔力核の奥深くへ抑え込んでいる力だった。魔力量が多いフローラとはいえども長時間維持できるものではない。使えば相応に魔力を消耗するし、その後数時間はまともに戦えなくなることもある。
それでも、目の前にはモルフェが作ってくれた絶好の機会がある。フローラは短く息を吸うと、静かに詠唱を始めた。
「散りゆく花に、終わりはなく。託された願いに、果てはない。一度の春が終わるなら――私は、幾度でも咲き誇ろう」
一節を唱えるごとに、魔力核の鼓動が強くなる。
足元を舞っていた花弁は数を増し、フローラを包み込むように渦を巻き始めた。髪がふわりと浮かび上がり、衣装を縁取っていた桃色の光が、細い蔓を伸ばすように全身へ広がっていく。
「愛よ、希望よ、ここに集え」
胸元から溢れ出した光が、一気に強さを増した。
衣装を飾っていた花々が一斉に開花する。肩から胸元へ、腰からスカートの裾へと光の花模様が広がり、それまでとは比較にならない量の魔力がフローラの周囲へ満ちていった。
それでも、まだ終わらない。
フローラは閉じていた目を開き、眠り続ける怪異へまっすぐ視線を向けた。
「永遠に咲け――すべてを覆す、最後の切り札 」
背後に光が集まる。幾重もの巨大な花弁が、一枚、また一枚と展開した。それらは翼のようにフローラの背後へ広がり、同時に足元から巨大な花型の魔法陣が公園を覆うほどの勢いで拡大していく。
「《エターナル・フローラ》」
最後の言葉と同時に、魔力核を縛っていた制限が解けた。
轟音はなかった。
ただ一瞬、公園から桃色以外の色が消えたかと思うほどの光が満ち、その中心でフローラの姿が変わっていく。舞い上がった花弁が衣装へ重なり、通常時よりも華やかな装飾を形作る。背後では光の花弁がゆっくりと開閉し、呼吸するように膨大な魔力を放っていた。
《覚醒形態――エターナル・フローラ》。
魔力核の出力制限を一時的に解放し、ラブリー・フローラが本来持つ魔力を限界近くまで引き出した姿。
先ほどまでとは、周囲に満ちる魔力の密度そのものが違っていた。フローラは自分の手を一度握り、開いて、身体の状態を確かめる。
「……よし、疲れるけど、頑張ります」
それから、少し離れたベンチで休もうとしているモルフェへちらりと視線を向けた。
「がんばれぇ、フローラぁ」
後ろから、いかにも眠そうな声が飛んでくる。
「少しはこっち見て言ってください」
「見てるよぉ」
どう見ても半分ほど目を閉じていた。
今の状況は、かなりいい。
強敵。動けない相手。周囲の避難は完了。モルフェが作ってくれた完璧な隙。そして、自分は《エターナル・フローラ》まで解放している。
これ以上なく、切り札っぽい。
「……こういうのです。こういうのでいいんですよ」
誰に言うでもなく小さく呟きながら、フローラの口元がわずかに緩む。普段は怪異が出ればすぐ呼ばれ、強いのか弱いのかも分からない相手にとりあえず投入され、救援だの護衛だの広報だのまで何でも回される。けれど今は違う。仲間が敵を封じ、自分が最後に最大火力を叩き込む。
まさしく最後の一手だった。
桃色の光を宿した瞳の先には、眠り続ける巨大な怪異がいる。
「これなら、絶対に外しません。私の全力を叩き込んでやります」
フローラは杖を両手で握り、その先端を怪異へ向けた。
花飾りが完全に開く。
足元に巨大な魔法陣が浮き上がり、五枚の花弁が一枚ずつ灯り始めた。
一枚目、公園に残っていた桃色の光が、呼び寄せられるように集まってくる。
二枚目、空中を舞っていた無数の光の花弁が流れを変え、フローラの周囲へ渦を巻いた。
三枚目、魔法陣の外周に幾重もの術式が浮かび上がり、それぞれが異なる速度で回転を始める。
四枚目、集められた膨大な魔力が杖先へ流れ込み、眩しさを増しながら、逆に一点へと圧縮されていく。
そこで通信機から、慌ただしい声が飛んできた。
『待て、フローラ。公園中央で魔力反応が急上昇している。怪異本体か? 先ほどの数値をもう超えるぞ』
「いえ、それ、私のです」
一瞬、通信の向こうが静かになった。
五枚目の花弁が、まだ完全には灯っていない。その間にも魔力反応は上昇し続けていた。
『こちらでも識別した。確かにフローラの魔力核から出ている。だが、この出力は――』
「避難は大丈夫ですよね?全力でいきますので」
フローラが遮る。
『……問題ない。公園内の一般人は退避済み。周辺道路も封鎖している。最寄りの避難区域まで退避完了を確認した。射線上にも人員はいない。思いっきりやれ』
その間にも、桃色の光は濃くなっていく。公園の木々も、遊歩道も、ベンチも、眠っている小型の怪異たちまで、すべてが淡い桃色へ染まっていた。
杖先に集まっていた光が、さらに細くなる。
《フローラル・ノヴァ》。
通常形態でさえ、膨大な魔力を限界まで圧縮し、ただ一点へ叩き込むフローラ最大級の砲撃魔法。だが、今の彼女は《エターナル・フローラ》だった。通常時には魔力核の奥へ押し込められている力まで解放され、普段とは比較にならない量の魔力が全身を巡っている。
ならば当然、《フローラル・ノヴァ》も同じではない。
「一発で終わらせます」
その言葉と同時に、五枚目の花弁が灯った。瞬間、公園全体を覆っていた魔法陣が一際強く輝いた。
フローラは大きく息を吸う。今度は急がない。
怪異は眠っている。逃げない。避けない。
モルフェが作ってくれた、この一度きりの隙へ、蓄えられる限界まで魔力を叩き込む。
杖先に集まる光が、さらに圧縮されていく。あまりにも大きな魔力が一点へ集まったことで、周囲の花弁まで杖先へ吸い寄せられ、空気が低く震え始めた。
そして、フローラはゆっくりと詠唱を始める。
「これは、私ひとりの光ではない」
声に応じて、魔法陣の外周に新たな術式が浮かび上がった。
「守りたいと願った人がいた。帰りたいと願った人がいた。明日を信じた人がいた」
一節ごとに、杖先の光が強くなる。けれど、光そのものは広がらない。むしろ、圧縮される。巨大な魔法陣から集められた魔力が、針の先ほどの一点へ無理矢理押し込まれていく。
「ならば私は、その願いを抱いて咲こう」
背後に展開していた光の花弁が大きく開いた。
「千の祈りを花弁として。万の希望を光として」
ただ目の前の怪異へ杖先を合わせる。
「いま、この一瞬にすべてを束ねる」
魔法陣が収縮を始めた。公園を覆うほど広がっていた五枚の花弁が、光となって次々とフローラの足元へ集まり、そこから杖へ、そして杖先の一点へと吸い込まれていく。
最後に残ったのは、眩いほど小さな桃色の光だった。
「夜よ退け、絶望よ道を空けよ」
フローラが片足を後ろへ引く。両手で杖を支え、反動を受け止める。眠った怪異の中心へ、照準を固定する。
「《フローラル・ノヴァ――フル・ブルーム》!」
五枚の花弁を象った魔法陣が、一斉に輝いた。次の瞬間、杖先から桃色の光が放たれる。
通常の《フローラル・ノヴァ》とは、まるで違った。覚醒形態によって解放された膨大な魔力が、巨大な奔流となって正面へ溢れ出した。眠り続ける怪異の巨体さえ丸ごと呑み込むほどの光が、公園の中央へ叩きつけられる。
怪異の身体が激しく震えた。直後、表面に無数の亀裂が走る。これまでと同じだった。
耐えきれなくなった身体が砕け、黒い欠片が分裂していく。
一つが二つへ。二つが四つへ。さらに細かな破片へ。
だが、今度はそれで終わらなかった。分裂した先から、光に呑まれて消えていく。新たな身体を作ろうと膨らんだ欠片も、手足を伸ばしかけた塊も、その形を完成させるより早く桃色の光に焼き潰され、跡形もなく消滅していった。
分裂して、生き残る。それがこの怪異の性質だった。ならば、分裂したものまでまとめて消してしまえばいい。怪異がどれほど細かく砕けようと、《フル・ブルーム》の光は止まらない。
むしろ膨大なエネルギーを浴びせ続けられたことで、巨体は内側から次々と崩壊し、再生する暇さえ与えられないまま削り取られていった。腕が消える。脚が消える。胴体が砕け、その破片も光の中で消える。最後まで残った巨大な中心部が抵抗するように一度だけ大きく脈打ったが、それさえも次の瞬間には桃色の奔流へ呑み込まれた。
「全部――消えてくださいっ!」
さらに魔力を押し込む。
桃色の光がもう一段強く輝き、怪異のいた場所を完全に塗り潰した。
そして数秒後に光が途切れる。
そこには、もう何も残っていなかった。巨大な本体も、そこから生まれた欠片もない。文字どおり、消滅していた。
少し遅れて、公園に静寂が戻ってくる。
フローラはしばらく杖を構えたまま、その場所を見つめていた。黒い欠片が残っていないことを確かめると、ようやく肩の力を抜く。
「……よし」
思わず、口元が緩んだ。危険な怪異を倒せたことへの安堵はもちろんある。けれど、それだけではなかった。
強大な怪異を前に《エターナル・フローラ》へ覚醒し、普段はそう簡単に使えない最大火力を惜しみなく注ぎ込んで、最後は強化された必殺技の一撃で跡形もなく消し飛ばす。
自分でも少し不謹慎だとは思う。それでも、これで満足するなという方が無理だった。
「……完璧でしたね」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、フローラはもう一度、怪異がいた場所を眺める。何も残っていない。その事実を確認するたびに、胸の奥からじわじわと達成感が込み上げてきた。背後に展開していた巨大な光の花弁が、一枚ずつほどけていく。
《エターナル・フローラ》の解除に伴って、全身を包んでいた強い桃色の輝きも薄れていった。華やかに変化していた衣装は元の姿へ戻り、最後に胸元の魔力核が一度だけ淡く瞬くと、周囲を満たしていた圧倒的な魔力反応も急速に収まっていく。
さすがに身体は重い。魔力もごっそり減っている。けれど、気分はすこぶるよかった。覚醒して、切り札を撃って、一撃で倒した。あまりにも綺麗に決まりすぎている。
フローラは杖を胸元へ抱えながら、どうしても消えてくれない満足そうな笑みを浮かべていた。
そのころ、公園へ向かっていた魔法少女たちは、遠くからでもはっきりと見える桃色の光に気づいていた。
「……何、あれ」
先頭を進んでいた一人が思わず速度を落とす。空の一角が桃色に染まっている。一瞬の閃光ではない。公園のある方向から膨大な魔力の光が立ち上がり、周囲の建物まで淡く照らしていた。
『そのまま現場へ急げ! フローラが交戦中だ!』
司令からの通信を受け、四人は再び速度を上げた。だが、公園へ到着するより先に光は弱まり、やがて完全に消えた。四人が芝生の上へ降り立ったときには、戦闘らしい戦闘はもう終わっていた。
「フローラ!」
声をかけながら駆け寄った魔法少女が、途中で足を緩める。
怪異がいない。小型の分裂体は眠ったまま各所に転がっているものの、公園の中央にいると聞かされていた巨大な本体は、影も形も残っていなかった。
代わりに、その中心にフローラが立っている。
すでに《エターナル・フローラ》は解除され、いつもの姿へ戻っていた。さすがに消耗したらしく杖へ少し体重を預けているものの、その表情に苦しそうな様子はない。
「……ふふ」
むしろ、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。全力を出し切った後の疲労と、それ以上の満足感が混ざった、なんとも晴れやかな顔だった。駆けつけた魔法少女たちは、そんなフローラと、本体がいたはずの何もない空間を交互に見る。
「……私たち、必要だった?」
その問いに、ベンチから眠そうな声が返ってきた。
「小さいの、まだいっぱい残ってるよぉ」
全員の視線がそちらへ向く。モルフェはベンチに横になったまま、片手だけひらひらと振った。
「そっちはお願いねぇ。大きいのはフローラが消しちゃったから」
「消しちゃったって……」
魔法少女の一人が、改めて何も残っていない公園の中央を見る。フローラは杖を抱え直し、満足そうに頷いた。