最強便利屋魔法少女は最後の希望にはなれません 作:一般匿名魔法少女
昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気は一気に緩んだ。机を寄せる音や購買へ走る足音が重なり、午前中の授業で張りつめていた空気がほどけていく。
花守ひよりは、その喧騒の中で自分の机に頬杖をつきながら、赤いパッケージのカップラーメンを眺めていた。
蓋の上には、あと一分。
「またそれ食べるのぉ?昨日も辛いの食べてなかったぁ?」
向かいの席から、ねむが眠そうな声をかける。
「昨日はカレーですし、これも見た目ほど辛くはないですよ。こうやって色で辛さを主張するうちはまだまだです。本当に辛いものは色関係なく殺しにかかってきますから」
「一体ひよりは何と戦ってるんだ?」
ねむが呆れたように返す。
そんなやり取りをしているところへ、巨大な弁当箱を持った少女がやってきた。
「ここ、いいか?」
同じクラスのりなだった。魔法少女としての名は、ブレイブ・リリア。
真正面から怪異とぶつかることを得意とし、攻撃力も耐久力も高い。多少の攻撃ならものともせず、そのまま押し切る戦い方は派手で分かりやすく、実力だけを見れば地区でも上位に入る。ただし、弱い相手には露骨にやる気をなくすという問題児でもある。
「どうぞ」
ひよりが机を少しずらすと、りなはその隣へ腰を下ろした。
弁当箱を開けた瞬間、ねむがわずかに目を開く。
「相変わらず大きいねぇ」
量そのものも多いが、中身は意外なほど整っていた。肉料理がかなりの割合を占めている一方で、野菜や卵、果物まできちんと入っている。
りなは箸を取りながら、何でもないことのように答えた。
「午後も授業があるし、放課後は訓練する。これくらい食べておかないと持たないだろう。それに、身体を鍛えるなら食事まで含めて考えないと意味がない」
ねむは弁当箱の中を眺めながら、少し感心したように頷いた。
「そういうところは真面目だよねぇ。もっと肉だけ詰めてくるタイプかと思ってた」
「どういう偏見だ、それは。騎士たる者、自分の身体の管理くらいできなくてどうする」
その言い方があまりにも真面目だったので、ひよりは思わず小さく笑った。
りなは、戦闘中の印象に反して、学校生活そのものはかなりきちんとしている。学業も極端に得意というほどではないが、授業は真面目に受けるし、提出物も忘れない。サボり魔のねむと違い、「騎士たる者、学業も疎かにしてはならない」という本人なりの理屈で、それなりの成績を維持していた。
ひよりがそんなことを思い出していると、りながふいに箸を止めた。
「そういえば、昨日の特級怪異、なんで私が着く前に倒したんだ」
「はい?」
ひよりはカップラーメンから顔を上げた
話題が急に飛んだように思えたが、りなの表情を見る限り、本人の中ではずっと引っかかっていたらしい。
昨日、北多摩の外れに特級相当と見られる怪異が出現した。しかし、その時りなは離れた場所での別のイベントに参加していた。幼い子供たちを相手に、騎士の格好よさを存分に見せつけられる内容だったらしく、本人もかなり楽しみにしていたものだ。
通知を確認したりなは、そこから現場へ向かおうとした。ただ、距離からして間に合わなかった。
「なんでって言われても……怪異がいたので倒しただけですけど」
ひよりが困ったように答えると、りなは納得のいかない顔のまま箸を置いた。
確かにブレイブ・リリアなら、特級怪異を相手にしても前線に立てる。防御力だけではなく、真正面から押し返せるだけの火力もある。昨日の戦いに参加していれば、間違いなく戦力にはなっていただろう。
ただ、だからといってそれを待つほどの必要性はない。
ねむは二人のやり取りを聞きながら、眠そうに弁当をつついていたが、そこでのんびり口を挟んだ。
「でも、りな結構遠くにいたよねぇ。普通に飛んでたら、そりゃ間に合わないんじゃない?」
りなはそれを否定しなかった。むしろ、それこそが本題だったらしい。
「だから言っている。次からは、ひよりが先に行くなら途中で私も拾ってくれ。《フラワーゲート》なら、わざわざ私が全部飛んでいく必要もないだろう」
ひよりはしばらく、りなの顔を見つめた。どうやら冗談ではない。
「……つまり、私が現場に行く途中で、りなのところにも寄れってことですか?」
りなの中では、かなり合理的な提案らしい。
ひよりは少しだけ眉を寄せたものの、完全には否定できなかった。実際、《フラワーゲート》は距離そのものをかなり無視できる。ひよりが一度りなのいる場所へ寄り、そのまま二人で現場へ向かうことは可能だった。
それが分かっているからこそ、りなも言っているのだろう。
「……毎回は無理ですよ」
「毎回とは言っていない。特級だけでいい。せっかく私も戦える相手が出ているのに、着く前に全部終わらせられたら何のために急いだのか分からないだろう」
その言葉には、単に強い相手と戦えなくて悔しかった、というだけではない響きもあった。
自分もそこにいれば役に立てたはずだ。戦える力を持っているのに、それを使う機会すらなかった。りなが不満なのは、そのことらしい。ひよりは少し考えてから、ようやく小さく頷いた。
「分かりました。次に同じくらいのが出た時、りなが近くにいなかったら一応連絡します。でも、絶対に回収するとは約束しませんからね。状況によります」
それで十分だったのか、りなは少しだけ機嫌を直したようだった。
「それでいい。少なくとも、昨日みたいに何も知らないうちに終わるよりはましだ」
ねむがその様子を見ながら、口元をわずかに緩める。
「りな、昨日かなり悔しかったんだねぇ」
「別に悔しくはない。ただ、私も力になれたはずだと言っているだけだ」
そう答えながらも、りなは少しだけ視線を逸らした。
ひよりはそれ以上追及せず、そろそろ食べ頃になっているはずのカップラーメンへ手を伸ばした。
タイマーはすでに鳴り終わっている。
「やっと食べられます」
蓋に指をかけた、その時だった。机の上に置いていた端末が震えた。
一台だけではない。ねむのものも、りなのものも、ほとんど同時に短い振動音を響かせる。三人は、昼食の手を止めて画面を確認した。
表示されていたのは、魔法少女向けの出動通知だった。
個人を指名しての要請ではない。現場の近くにいる魔法少女へ広く流されるもので、しかも今回の怪異は中級程度。特級のように周辺の戦力をかき集める緊急招集がかかる規模でもない。近隣で対応できる者がいれば、そのまま任せてしまって問題のない案件だった。
だから、本来ならひよりたち三人が揃って昼食を中断する必要などない。
ひよりもそう思いながら、まだ一口も食べていないカップラーメンへ視線を戻しかけた。
その直後、端末がもう一度震えた。今度は一斉通知ではなかった。
画面に表示された発信元を見ただけで、ひよりは嫌な予感を覚える。指令室からの個別通信だった。
『フローラ、聞こえるか。中級怪異が隣接した二か所でほぼ同時に発生した。現場にいる魔法少女だけでは、両方をすぐに処理するのが難しい』
ひよりは思わず、目の前のカップラーメンを見た。
湯気はまだ立っている。今が一番おいしい時間だった。
言われるまでもなく、ねむもりなも同じ内容を聞いていたらしい。
ねむは一瞬だけ考えるように目を細めたものの、すぐに箸を持ち直した。眠そうな表情にも、特に迷いは見えない。
「私は行かないよぉ。中級が二か所ってだけなら、別に私じゃなくても何とかなるでしょ。今から変身して行くのも面倒だし」
あまりにも普段通りの口調だったので、ひよりは思わずねむを見る。しかし、ねむ自身に悪びれた様子はない。彼女は必要な時には驚くほど頼りになる一方で、自分が必要でないと判断した仕事には驚くほど積極性を見せない。
そして、もう一人。ひよりはりなの方へ視線を移した。さっきまで昨日の特級怪異について「自分も呼べ」と散々文句を言っていた少女は、端末に表示された怪異の等級をもう一度確かめると、何事もなかったように弁当を食べ続けていた。
ひよりがしばらく黙って見ていると、りなはその視線に気づいたらしい。
「……行かないんですか?」
「中級だろう?」
その一言だけで、りなの中では話がほとんど終わっているらしい。
ただ、ひよりがなおも見ていると、りなは少しだけ言葉を足した。
「現場にはすでに魔法少女がいる。増援が一人いれば足りるなら、私まで出る必要はないだろう。それに、中級相手なら私が行くまでもない」
端末から、少し困ったような指令室の声が続く。
『……ということだが、フローラ。対応できそうか?』
ひよりは答える前に、目の前のカップラーメンを見た。もし今から出撃すれば、戻ってくる頃にはまず間違いなく伸びている。
ひよりは数秒ほど真剣に悩んだ。ねむもりなも、何も言わずその様子を見ている。
やがて、ひよりは小さく息を吐いた。
「……分かりました。私が行きます」
『助かる。片方を先に頼む。もう一か所については、現場の状況を見ながら回ってくれ』
通信を切る。
ひよりはすぐには立ち上がらなかった。もう一度だけカップラーメンを見る。
ねむがそんなひよりの視線を追って、少しだけ申し訳なさそうにするかと思いきや、やはり眠そうな顔のままだった。
「いってらっしゃーい」
りなも弁当を食べながら、いかにも冷静な調子で口を挟む。
「急げば多少はましだろう。中級なら、お前なら時間もかからん」
ひよりはじっとりとした目を向けた。結局、自分が行くしかない。ひよりは名残惜しそうにカップラーメンへ蓋を戻し、席を立った。
「……なるべく早く帰ってきます」
その言葉が怪異に向けた決意なのか、昼食に向けた決意なのか、自分でもよく分からなかった。ただ、教室を出る足取りだけは速かった。
扉が閉まるのを見届けてから、ねむはしばらくそちらへ目を向けたまま箸を動かしていた。
「行っちゃったねぇ。ああやって毎回行くから、司令もとりあえずフローラに頼んじゃうんだよねぇ」
りなは弁当を食べながら、特に問題があるとも思っていない様子で首を傾げた。
「頼まれて、本人が行けると言っているなら、それでいいんじゃないか?」
「まあ、現場だけ見ればそうなんだけどねぇ」
ねむは気のない調子で答えながら、ひよりが置いていったカップラーメンへ視線を落とした。蓋の隙間からはまだ湯気が漏れている。今ならまだ辛うじて食べ頃だろうが、戻ってくる頃にはどうなっているかは考えるまでもなかった。
それから、少しだけ声音を落とす。
「司令だって、本当にフローラじゃなきゃ絶対無理だと思って呼んでるわけじゃないと思うよぉ。今回みたいなのなら、現場にいる子たちで時間をかければ何とかなるだろうし、別の地区から応援を回す方法だってある。でも、万が一そこで被害が出た時に、『フローラにも声をかけられたのに、かけませんでした』ってなると困るでしょ」
りなはまだよく分からないという顔をしていた。ねむはそんな彼女を見て、面倒そうにしながらも説明を続けた。
「フローラに声をかけて、それでも行けない事情があったなら、司令としてはやれることはやったって言えるじゃん。別に責任逃れっていうほど悪い話じゃなくて、最大限の手はずを整えましたっていう形が必要なんだと思うよぉ。で、ひよりちゃんは大体『行けます』って言うから、結局ほんとに行くことになる」
りなは少し考え込むように箸を止めたが、完全には納得していないらしい。
「それで問題なく回っているなら、悪くはないだろう」
「回ってるように見えるのが、たぶん一番よくないんだよねぇ」
今度は、ねむの声に少しだけ真面目な色が混じった。
北多摩は、怪異の出現数だけを見れば明らかなホットスポットだった。中級程度なら珍しくもなく、上級以上も他地区より明らかに多い。本来なら、もっと多くの魔法少女が常駐していてもおかしくないし、他地区から日常的に応援が入る体制になっていても不思議ではない。
それなのに、現状では何とか回っている。
その理由のかなりの部分を、ひより一人が埋めてしまっている。
「ひよりちゃんがいなかったら、たぶん今の人数じゃ全然足りないよぉ。統計だけ見たら、もっと魔法少女を回してくださいって言ってもいいくらいなのに、実際にはフローラがあっちこっち飛んで片づけちゃうから、『今の戦力でも対応できています。なんなら被害は他よりかなり小さい』って数字が出ちゃうんだよねぇ」
ねむはそこで一度言葉を切り、机の上の端末へ目を落とした。
「本当は人が足りないのに、一人がやりすぎてるせいで足りてるように見える。だから体制を整える理由も弱くなる。ひよりちゃんが頑張れば頑張るほど、ひよりちゃんに頼る形が出来上がっていくんだから、ちょっと変な話だよねぇ」
りなはしばらく黙って聞いていた。やがて、難しい話をすべて一度横に置くように、弁当箱から視線を上げる。
「よく分からんが、お前が行きたくない理由を積み上げているだけじゃないのか?」
ねむは少しだけ目を細めた。
「それもあるよぉ」
否定しなかった。
りなは呆れたように息を吐き、再び弁当に戻った。
「なら最初からそう言え」
「最初から言ってたよぉ。めんどくさいって」
それからしばらく、二人は普通に昼食を続けた。
教室の中では、怪異の出動通知などなかったかのように、いつもの昼休みが流れている。北多摩では、この程度のことは珍しくない。誰かが急に席を立ち、少しして戻ってくることもある。それが魔法少女だったというだけで、いちいち騒ぐ者も少なくなっていた。
そして十五分ほど経った頃。
教室の窓の外を、桃色の光が横切った。数人がちらりとそちらを見る。次の瞬間、開いていた窓からラブリー・フローラがふわりと教室へ入り、そのまま床へ降り立った。
桃色の衣装も、手にした杖も、まだ変身したままだった。
けれど、教室が大きくざわめくことはない。
「あ、帰ってきた」
その程度の反応がいくつか聞こえただけで、ほとんどの生徒はすぐに昼食や会話へ戻っていった。もう見慣れているのだ。フローラは窓を閉めると、何事もなかったように自分の席へ向かった。
そして、机の上のカップラーメンを見たところで動きを止める。
しばらく無言で蓋を開けた。中では、麺が見事なまでに汁を吸い切っていた。
ねむが横から覗き込み、少しだけ笑った。ひよりは変身を解くより先に、深く息を吐いた。
りなも興味を持ったのか、少しだけ身を乗り出した。
「食えるのか、それ」
「食べますよ。もったいないですし」
りなは大げさにうなずく。
「立派だな」
「今褒められても全然嬉しくないです」
ひよりは箸で持ち上げた麺を見て、しばらく悩んだ末にそのまま口へ運んだ。
「……辛さだけはちゃんと残ってますね」
「よかったねぇ」
「よくないです」
ねむが笑っている前でひよりはカップ麺を掻き込むのだった。
放課後。
ひよりはそのまま帰宅することなく、ラブリー・フローラとしての撮影へ向かっていた。
今日の予定は、地域向けの広報写真に、怪異災害時の避難啓発映像。それに商店街のキャンペーン用素材まで入っている。どれも北多摩で活動する魔法少女として頼まれた仕事で、ひより自身も断る理由はなかった。
ただ、現場へ着いてみると、思っていたより量が多かった。
「ラブリー・フローラさん、本日は本当にありがとうございます。いつも怪異対応でもお世話になっているのに、こういう広報までお願いしてしまって……」
撮影を担当する職員は、ひよりを見るなり何度も頭を下げた。
「いえいえ。今日はもう学校も終わりましたし、大丈夫ですよ」
フローラも笑って答える。実際、相手が無理を言っているわけではない。撮影時間は事前に伝えられていたし、途中で休憩も用意されている。スタッフも全員親切で、飲み物まで何種類か準備してくれていた。
問題があるとすれば、単純に撮るものが多いことだった。
最初は避難誘導用のポスター。フローラは杖を片手に、避難所を示す方向へもう一方の手を伸ばす。
「はい、ありがとうございます。そのまま少しだけ視線をこちらへ……すみません、あともう一枚だけお願いします」
シャッターが何度も切られる。一枚撮れば終わりというものでもない。顔の向き、杖の位置、手の高さ、視線、笑顔の強さ。それぞれ少しずつ変えながら、何十枚も撮っていく。
ようやく終わったと思えば、次は動画だった。
「では今度は、『怪異災害が発生した時は、慌てず係員の指示に従って避難してください』とお願いします」
「分かりました」
フローラはカメラへ向き直り、姿勢を正した。
「怪異災害が発生した時は、慌てず係員の指示に従って避難してください!」
「ありがとうございます。とてもいいです。ただ、もう少しだけ柔らかい感じでも一本いただいていいでしょうか」
「はい、大丈夫です」
もう一度。今度は少し声を柔らかくする。それも終わると、今度は子供向け。さらに高齢者向け。字幕を入れる都合で少しゆっくり話す版。短くまとめた十五秒版。
同じ内容を何度も繰り返しているうちに、フローラはだんだん、自分が何回「慌てず避難してください」と言ったのか分からなくなってきた。
それでもスタッフの方は、そのたびに申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、本当に何度も。助かります」
「いえ、大丈夫です。こういうのも必要ですから」
そう答えながら、ひよりは用意された水を一口飲んだ。
まだ終わりではない。
次は地域の広報誌。今度は杖を持たず、両手を前で軽く重ねて笑う。その次は魔法少女合同訓練の告知。こちらでは、少し凛々しい表情がほしいと言われた。
嫌な空気はまったくない。むしろ、全員がフローラに気を遣っていた。
それでも仕事の量そのものは減らない。ラブリー・フローラの名前を使いたい場所が、それだけ多いのだ。広報、交通安全、防災、怪異避難、地域イベント。
フローラは指定された位置へ立ち、杖を胸元へ寄せた。
「では、笑顔でお願いします」
反射的に笑顔を作る。シャッター音が連続して響いた。
「ありがとうございます。以上です!」
その言葉を聞いた瞬間、フローラの肩からわずかに力が抜けた。
スタッフたちから拍手が起こる。
「本当にありがとうございました。怪異対応だけでも大変なのに、毎回こうして広報にも協力していただいて……」
「いえ。こういうので役に立てるなら」
そう答えながらも、ひよりは少しだけ首を回した。戦闘とは違う疲れ方だった。身体が痛いわけでも、魔力を使い切ったわけでもない。ただ、何時間も同じ姿勢を取り、笑顔を作り、同じ台詞を少しずつ変えて繰り返すのは、思っていた以上に消耗する。
それでも、スタッフが最後まで何度も「ありがとうございました」「いつもお世話になっております」と頭を下げるので、疲れた顔を見せるのも少し申し訳なくなってしまう。すべての撮影が終わって外へ出る頃には、すっかり日が落ちていた。
普通なら、そのまま帰ってもおかしくない時間だった。けれど、ひよりは帰路の途中で少し考え、進む方向を変えた。最近、出撃やこうした仕事が続いていて、まとまった訓練ができていない。今日も昼に怪異を倒したとはいえ、中級程度なのでほとんど身体を動かしていない。
少しくらいなら…………そう思って、ひよりは夜の訓練場へ向かった。
扉を開けた瞬間、重い金属音が響く。
訓練場の中央では、リリアが一人で大型の標的へ剣を叩き込んでいた。踏み込みは鋭く、一撃ごとに標的が大きく揺れる。それでも力任せではなく、狙う位置はほとんどぶれていない。
昼間、中級怪異の通知を見てあれほどあっさり興味を失っていた姿とは、まるで別人だった。
フローラがしばらく黙って見ていると、リリアの方も気づいた。剣を振り抜いた姿勢のままこちらへ視線を向け、それから標的から少し距離を取る。
「珍しいな。今日は撮影だったんじゃないのか。もう帰って休んでいるものだと思っていたが」
「撮影は終わりましたよ。ちょっと疲れましたけど、最近まともに訓練できてなかったので、少しくらい身体を動かしてから帰ろうかなって」
フローラはそう答えながら、リリアの背後にある大型標的へ視線を向けた。表面にはいくつもの深い傷が刻まれ、中央部分はわずかにひしゃげている。設定されている強度はかなり高いはずなのに、それを相手に何度も打ち込んでいたらしい。
それを見ているうちに、撮影で重くなっていたはずの身体が、ほんの少しだけ軽くなるような感覚があった。
リリアもその視線に気づいたのか、剣を肩へ軽く預ける。
「見るだけで帰る顔じゃないな。どうせ来たなら少し付き合うか? 標的を殴るよりは、お前を相手にした方がよほど訓練になる」
誘い方はいつも通りだった。フローラも、ほとんど間を置かなかった。
「……少しだけなら。本当に少しだけですよ」
答えてから、自分でも思ったより即答だったことに気づく。リリアの口元がわずかに上がった。
フローラは小さく息を吐きながら杖を取り出し、軽く肩を回す。
昼の中級怪異では、ほとんど力を使う場面がなかった。必要な仕事を終わらせただけで、戦ったという感覚すら薄い。広報撮影も疲れはしたが、それはまた別の種類の疲労だった。
けれど、目の前のリリアは違う。
まともに打ち込んでも壊れない。多少強く出ても受け止めてくる。出力を上げても、それだけで危険になるような相手ではない。
そう思うと、自然に杖を握る手へ力が入った。リリアは、その変化を見逃さなかった。
「……やっぱり、お前も大概だな」
「……まあ、強い相手とちゃんと戦えるのは嫌いじゃないです。普段は周りを気にしてかなり抑えてますし、怪異相手だと壊しすぎないように気をつけることも多いですから」
そこまで言ってから、少しだけ笑う。
「リリアなら、多少強く撃っても大丈夫でしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの表情が明らかに変わった。昼間の中級怪異には向けなかった、鋭く楽しげな目だった。
「なら、こっちも遠慮する必要はないな」
「いや、遠慮はしてくださいね。訓練ですから」
言い終わるより早く、リリアが踏み込んだ。
一瞬で距離が詰まる。重い斬撃が真上から振り下ろされ、フローラは杖を横へ構えて正面から受け止めた。鈍い衝撃が訓練場いっぱいに響き、靴底が床を擦ってわずかに後ろへ滑る。
思ったより重い。けれど、その手応えが妙に心地いい。フローラは押し込まれた杖を支えながら、思わず口元を緩めた。
「……やっぱり強いですね。真正面から受けると、結構きます」
リリアも嬉しそうに剣を引いた。
「お前にそう言われるなら悪くない。次はもう少し上げても平気そうだな」
「今の感想を、出力を上げていいって意味に取らないでください」
そう言いながらも、フローラは杖を構え直していた。撮影で溜まっていた疲れは、いつの間にかかなり薄れている。
リリアも剣を正面へ向けたまま、明らかに楽しそうだった。
「もう一度いくぞ」
「……少しだけって言ったんですけどね」
口ではそう言いながら、フローラの声にもさっきよりずっと張りがあった。
このくらいなら、もう少し付き合ってもいい。そう思っている時点で、自分も人のことは言えないのだろう。
しばらくの間、夜の訓練場に、再び剣と杖がぶつかる重い音が響いていた。