エマージェント   作:kyomu

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第一話「帰ったら」

「お母さん。それだと、うちの棚に入らないよ」

 

 結城零(ゆうきれい)が言うと、母の佳奈(かな)は手にしたフライパンを見下ろした。隣に並んでいた小さい方と見比べてから、首をかしげる。

 

「そう? 大きい方が、一度に作れて楽かなと思ったんだけど」

 

「置くところがないよ。今のも、取っ手を斜めにしないと扉が閉まらないし」

 

「ああ、そっか。零の方がよく知ってるね」

 

 母は笑って商品を棚へ戻した。家で使っているフライパンは、油を引いても卵がくっつくようになっていた。昨日の朝、目玉焼きが二つとも破けたのを見て、そろそろ買い替えようと母が言ったのだ。

 

 いつもなら、買ってきてもらうだけで済ませていた。けれど今朝は、自分で持って確かめたいと思った。二人とも仕事が休みだったので、三人で買い物に出ることになった。

 

 零は小さい方を持ち上げ、片手で少し傾けた。底に貼られた説明より、取っ手を握った時に手首へかかる重さの方が気になる。これなら、中に食材が入っても持てそうだった。

 

「これがいい」

 

「じゃあ、それにしようか」

 

 父の達也(たつや)が、棚の下から同じ商品の箱を取り出した。零がまだ展示品を握っているのを見て、そのまま待ってくれる。もう一度持ち替えてから戻すと、父は箱を買い物かごへ収めた。

 

「夕飯は、それで作るのか?」

 

「うん。……何がいい?」

 

「親子丼。前に作ってくれたやつがいい」

 

 まだ卵をとろっとさせる加減がうまくいかない。今度は少し早く火を止めてみようと考えていると、母がかごを覗き込んだ。

 

「それなら、鶏肉も買わないと」

 

 母がかごから買い物メモを引っ張り出した。ペンを探して鞄の内側を覗く母へ、零は少し身を寄せる。

 

「冷凍庫にあるよ。昨日、お母さんが分けて入れてたやつ」

 

「そうだった。もう一回買うところだった」

 

「卵だけ。あと、玉ねぎが一個あれば」

 

 メモを覗きながら話していたので、背後から来た客に気づくのが遅れた。かごが肘に触れ、零は反射的に身体を引く。相手の顔を見る前に「すみません」と口にして、棚との間へ肩を押し込んだ。

 

「いえ、こちらこそ」

 

 女性は軽く会釈して通り過ぎた。怒った様子はなかった。それでも零は、手の中でさっきの取っ手の感触を探すように指を曲げたまま、しばらく通路を見ていた。

 

「零、少し休む?」

 

 母の声で顔を上げる。母はかごを父へ渡し、零の隣に立っていた。もう片方の手は、いつでも腕に触れられる距離にある。

 

「大丈夫。食品売り場も行ける」

 

「無理しなくても、卵くらいお母さんが――」

 

「佳奈。先に会計しよう」

 

 父に呼ばれて、母はかごへ目を戻した。父はレジの方を指し、その隣のベンチも確かめてから、零へ顔を向ける。

 

「疲れたら、あそこで待っててもいいから」

 

「うん」

 

 零は二人の後を追った。自分が少し黙るだけで、二人とも足を止める。申し訳なくて、今度は何か話さなければと思ったが、レジに着くまでに言葉は見つからなかった。会計が済むと、父が紙袋を差し出してきた。

 

「持つか?」

 

「……持つ」

 

 取っ手を受け取ると、箱の角が腿に当たった。零は袋を少し外へずらし、今度は父の隣を歩いた。

 

     *

 

 食品売り場を出る頃には、紙袋の重さに少し慣れていた。八月の福岡は、建物の中にいる間にも熱が増していたようで、自動ドアを抜けると頬にぬるい空気がまとわりついた。

 

「やっぱり暑いわねえ。もう少し遅く出ればよかったかしら」

 

 母が手の甲で額を押さえる。卵と野菜の入った袋は父が持ち、母は自分の鞄から小さなタオルを取り出した。零へも差し出されたので、首を振ってポケットのハンカチを見せる。

 

「持ってきたよ」

 

「そっか。じゃあ、お母さんが使うね」

 

 歩き出す前に、零は建物の窓へ一瞬だけ目をやった。ガラスには、紺色のTシャツを着て、紙袋を下げた少年が映っている。少し伸びた前髪が額に張りついていたが、街を歩く誰かと比べて、特別に変なところはなかった。

 

 十四歳の少年が、両親と買い物に来ている。それだけに見えればよかった。

 

 学校へ行かなくなってからは、家の外で過ごす時間がずいぶん減った。用事があって出かける日もあるが、必要なことを済ませると、寄り道をせずに帰る。今日は自分で買う物を選んで、食品売り場を一緒に回った。今のところ、早く帰りたいという気持ちより、袋の中身を使ってみたい気持ちの方が少しだけ強かった。

 

 通りの向こうから、自転車を押した二人の少年が来た。零と同じくらいの年で、片方が何かを言うと、もう片方が大きく笑った。声が近づくにつれ、零は父の後ろへ半歩ずれたが、二人は零を見ずに通り過ぎていった。

 

 顔を上げると、交差点の向こうに大型の画面が見えた。崩れた建物を背景に、作業着の人物が瓦礫を持ち上げている。その下には、零も読める大きさで〈エマージェント〉と表示されていた。

 

 エマージェント。異能と呼ばれる力を持つ人たちが現れて、まだひと月ほどしか経っていない。最初は映画の中の話かと思った。今では、その力で人を助けた話も、誰かが怪我をした話もニュースで聞く。保護や事件への対応に当たるAEGIS(イージス)という組織の名前も、何度も耳にした。

 

 画面の中では、大人が何人も必要そうな瓦礫を、一人のエマージェントが動かしていた。零はそれを見ながら、紙袋の取っ手を握り直した。重い物を持ち上げられるなら、毎日の買い物は楽になるのだろう。そう思ったところで、映像は別の話題へ切り替わった。

 

「帰ったら、先にお米を炊こうね」

 

 隣で母が言ったので、零は画面から目を戻した。

 

「まだ早くない?」

 

「鶏肉も解凍しなきゃいけないし。のんびりしてると、すぐ夕方になっちゃう」

 

「じゃあ、お米は僕がやる。お母さんは鶏肉を出しておいて」

 

「はいはい。ほかに何かありますか、料理長」

 

「……それだけ」

 

 零が小さく笑うと、父も目元を緩めた。口には出さず、卵の袋を持ち直して、駐車場へ向かう道を歩いていく。零は母と並んでその後に続いた。

 

 母の鞄の紐が肩からずり落ち、零はそれを指で示した。ありがとう、と母が直しかけた時、通りの先で金属を強く叩いたような音がした。

 

 父が足を止める。零もつられて前を見ると、交差点の角から灰色の煙が噴き出していた。車のクラクションが長く鳴り、そちらへ歩いていた人たちが立ち止まる。

 

「何かあったのか?」

 

 父の言葉が終わらないうちに、煙の上へ光の塊が浮かんだ。街灯よりも高い位置で、青白い球が揺れている。電線にぶら下がっているのではない。横へ滑ったかと思うと急に沈み、見えなくなった直後、路面が跳ね上がった。

 

 割れた舗装と土埃が車の屋根を叩いた。煙の切れ間には、同じ光がいくつも浮かんでいる。人の叫び声が重なり、今度は交差点から何人も走ってきた。

 

「離れて! そこにいると危ない!」

 

 見知らぬ男が腕を振っていた。何から離れればいいのか考える間に、父が零の肩を掴んだ。

 

「戻ろう。建物の中へ」

 

 来た道へ向きを変えた途端、零の視界の端を別の光が横切った。頭より少し高いところを通り、通りの反対側の窓にぶつかる。ガラスが一斉に白くひび割れ、次の瞬間、歩道へ降り注いだ。

 

 母が零の腕を引いた。零も走り出したが、紙袋が膝へぶつかり、思ったほど足が前に出ない。父の背中を追うことだけに意識を向けていると、すぐ後ろでまた何かが砕けた。

 

「零、手を離して! 袋は置いていくよ!」

 

 母の声に、握り込んでいた指を開いた。落ちた袋が足元で倒れ、箱が乾いた音を立てる。振り返りかけた顔を、母の手が前へ向けさせた。

 

 さっきまで買い物客だった人たちが、店の入口へ駆け込んでいた。零たちの少し先でも、店員らしい男性が扉を押さえ、外へ声をかけている。

 

「急いで中へ! 奥に入ってください!」

 

 父はそちらへ向かい、入口の脇で振り返った。差し出された手を取ろうと、零は右手を伸ばす。その指が父の手に触れた時、入口の壁が青白く染まった。

 

 父の腕が零を引き寄せた。胸へ押しつけられた頬に、汗で湿ったシャツが触れる。扉の内側へ押し出されかけたところで、父が何か叫んだ。その声を、頭上で響いた轟音が潰した。

 

 砕けた壁の破片が降りかかり、身体が横へ飛ばされた。肺から空気が押し出され、左の脇腹を鋭いものが裂いた。父のシャツを掴もうとした手は届かず、零は硬い地面へ肩から落ちた。

 

 目を開けても、何が見えているのか分からなかった。すぐ前に灰色の欠片があり、その向こうを靴が一足、転がっていく。耳の奥で甲高い音が鳴り続け、誰かの声がひどく遠かった。

 

 息を吸おうとして、身体が縮んだ。脇腹の痛みが腹の奥まで突き抜ける。手を当てると、シャツの下が濡れていた。掌を持ち上げるまでもなく、指の間から赤いものが流れた。

 

「お、とう……」

 

 呼んだつもりが、喉からは息しか出なかった。もう一度口を動かすより先に、零の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 

 少し離れたところに父がいた。壊れた店の入口のそばで、横向きに倒れている。零へ伸ばした腕を地面につき、身体を起こそうとしたが、肘が曲がってまた崩れた。さっき頬が触れたシャツの胸元が、赤黒く濡れていた。

 

 母はどこにいるのだろう。零は顔を動かし、すぐそばで、鞄の紐を見つけた。いつも母が持っている鞄だった。その向こうに母が倒れ、額から流れた血が頬を伝っていた。

 

「お、かあ、さん……」

 

 母の瞼がかすかに動く。こちらへ向けた顔は、見たことがないくらい白かった。唇が動いたのに声は聞き取れず、零は身を寄せようとした。腕に力を入れた途端、脇腹から熱いものが溢れ、目の前が暗くなった。

 

 倒れかけた顔を、どうにか持ち上げる。母はまだそこにいた。目を閉じたまま、浅い息に合わせて肩がかすかに動いていた。地面に置かれた手の指が、何かを探すように曲がる。

 

 零は母の手へ腕を伸ばした。さっきまで自分の腕を掴み、一緒に走っていた手だった。ほんの少し先なのに、指が届かない。

 

「人が倒れてる! 救急車、呼んで!」

 

 店の奥から声がした。零はそちらへ顔を向けようとしたが、力が入らなかった。割れた入口の向こうで誰かが動き、すぐ外で別の破裂音が響く。身を伏せろという叫びがして、粉塵が零たちの上へ降った。

 

 誰かが来てくれる。そう思いたかったのに、父はもう身体を起こそうとしていなかった。零へ向いた顔の口元が、短く、苦しそうに開いている。母の指も、いつの間にか動かなくなっていた。

 

 父と母のところへ行ってほしかった。店の奥にいる誰かへそれを伝えようとして、口を開く。けれど息を吸うたびに痛みが増し、腹を押さえる手まで震え始めた。

 

 朝は、三人とも台所にいた。母が冷蔵庫を開け、父が麦茶を飲んでいて、零は食器を片づけていた。帰ればその続きをするはずだった。買ってきた物を棚にしまって、夕飯を作るだけでよかった。

 

 零は地面につけた指を曲げた。爪の間に砂が入る。身体を引きずろうとしても、どこに力を入れれば動くのか分からず、痛みさえ次第に遠くなっていった。

 

 その方が怖かった。すぐそばにいるはずの両親が、薄暗い視界の向こうへ離れていく。目を閉じたら、もう顔を見られなくなる気がした。

 

 死にたくない。

 

 その思いだけが、遠のいていく意識の底に残った。帰りたい。父と母を連れて帰って、米を炊いて、親子丼を作りたい。さっきまで当たり前だったその続きを、こんなところで終わらせたくなかった。父にも、母にも、生きていてほしい。

 

 零がもう一度二人を見ようとした、その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 

 熱よりも深い何かが身体の中心から一気に広がり、冷えきりかけていた指先まで駆け抜ける。息をするだけで全身を貫いていた痛みが、少しずつ薄れたのではない。次の瞬間には、そこにあったはずの痛みそのものが途切れていた。

 

 零は息を呑んだ。さっきまで半分も入らなかった空気が、肺の奥まで一気に流れ込んでくる。血に濡れた左脇腹へ手を当てると、指先は赤く汚れたのに、その下にあったはずの裂け目が見つからない。

 

 代わりに、身体の形が合わなくなっていた。肩から落ちかけたTシャツの布が急に余り、床についている自分の手は、見慣れたものよりひと回り小さい。腰の位置も、脚の長さも、ほんの数秒前まで自分のものだった感覚と噛み合わなかった。

 

 視界へ白いものが落ちてきた。一本、二本ではない。背中へ届くほどの白い髪が頬を覆い、零は反射的に払いのけた。指に絡んだ束を引いた瞬間、頭皮まで一緒に引かれ、そこでようやく自分の髪だと分かった。

 

「……なにこれ?」

 

 聞き覚えのない、女の子の声がした。

 

 零は息を止めた。自分が出した声だと理解するより先に、背中の奥で別の感覚が目を覚ました。肩甲骨のさらに奥、自分の身体にはなかったはずの場所が左右へ大きく引かれ、シャツの背中が限界まで張りつめる。

 

 布が裂け、重い何かが一気に外へせり出して、地面に散っていた細かな破片を弾いた。零は前へ倒れそうになって両手をつく。背後で広がったものの重さも、路面を擦った感触も、他人に触れられた時のようには感じない。感触は、自分の背中の奥へそのまま返ってきていた。

 

 怖々と振り向いた零の視界いっぱいに、白い羽が重なっていた。視線を動かすと、その反対側にも同じものが伸びている。力の入れ方すら分からないのに、ほんの少し意識を向けただけで、羽先が震えた。

 

 一対の巨大な白い翼が、砕けた店の入口いっぱいに広がっていた。それが自分の身体だという感覚だけは、どうしても否定できなかった。

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