彰人と並んで食堂へ向かう間、零は曲がり角へ来るたび翼を少し背中へ寄せた。さっき訓練室で白線の間を歩いた時より廊下は広い。それでも人とすれ違うたび、羽先が相手へ触れないか気になって足が遅くなる。
「結城、急がなくていいよ。昼休み、まだ始まったばっかだし」
「……はい。橘さん、昨日からここにいたんですか」
「ああ。昨日、親父と一緒に話聞いて、ひとまずやってみることになった。俺は朝から足の使い方とか。腹減りすぎて、最後の方ずっと飯のこと考えてたけど」
「それ、怒られなかったんですか」
「一回バレた」
彰人が笑い、零も少しだけ口元を緩めた。自動扉を抜けると、食堂には既に何人か職員が座っていた。入口の表示を見上げている零を置いて彰人だけが進むことはせず、トレーの置き場所を指して一緒に列へ入る。
零は日替わりの定食とカレーの間で迷った末、カレーを選んだ。横にあった辛味用の小袋も一つ取り、さらに小鉢とサラダを載せる。彰人は先に麺の入った丼を受け取っていたが、零のトレーを見て目を止めた。
「結構食うんだな」
「……多いですか?」
「いや。俺と同じくらいあるから、ちょっと意外だっただけ」
言われて自分のトレーと彰人の丼を見比べる。零にとってはいつもの量に近かったので、減らす理由もなく、そのまま列を抜けた。
「橘さんは麺、好きなんですか」
「好き。ラーメンでもうどんでも焼きそばでも。親父の店でも、まかないで麺出るとちょっと嬉しい」
「お店やってるんですか?」
「定食屋。小さいとこだけどな。俺、そこで育ったみたいなもん」
彰人は空いている席を探しながら答えた。中央には四人掛けの机が並んでいるが、零の翼が後ろの椅子へ触れそうだった。壁際の端に、片側だけ通路が広く取られた机があるのを見つけ、彰人がそちらを指す。
「ここなら広くない?」
「……うん。そこがいいです」
零が先に壁側へ入り、翼を通路側へ少し逃がして座る。彰人も正面ではなく斜め向かいへ座り、余った椅子を一つだけ横へずらした。何も言われなかったので、零も礼を言う代わりにトレーの位置を直した。
「いただきます」
「いただきます」
辛味の小袋を半分ほどカレーへかけると、彰人の箸が止まった。
「それ、辛いやつ?」
「たぶん。僕、辛いの好きなんです」
「へえ。俺、嫌いじゃないけど、辛すぎると味分かんなくなるんだよな」
「これはそこまで辛くないです」
「まだ食ってないだろ」
彰人に言われて、自分でも気づく。零は少しだけ恥ずかしくなり、混ぜたところを一口食べた。
「……大丈夫でした」
「確認してから言ったみたいな顔すんなよ」
今度は零も小さく笑った。彰人は麺をすすりながら、午前中に何をしていたのか聞いてきた。零が魔力を外へ漏らさない練習と翼の歩行練習だと答えると、彰人は詳しい数値や治療のことまでは尋ねず、自分も脚力を上げる時の踏み込みと止まり方を見てもらったと話した。
「速くなるのに、止まる練習もするんですね」
「俺も最初そう思った。速く走れたらいいじゃんって。でも、止まれなかったら人いるとこで使えないだろって言われて」
「……それは、そうかも」
「分かってる時は簡単なんだけどな。走ってると、もうちょい行けるって思うんだよ」
彰人はそう言ってから、丼の残りを見て、今度は食べる方へ集中した。零もカレーへ視線を戻す。訓練の話をしているのに、事件の道路は浮かばなかった。誰が怪我をしたかではなく、右の翼が下がったことや、廊下の角をどう曲がるかを考えながら食べられることが、少しだけ不思議だった。
食事が半分ほど進んだ頃、入口の方でトレーを持った裕太が足を止めた。
零の手も止まった。昨日より顔の腫れは引いている。裕太はこちらに気づくと、一度だけ目が合い、すぐに別の空席へ顔を向けた。
「天海もいたんだな」
彰人がそう言った後、すぐには手を上げなかった。零の方へ視線を移し、声を少し落とす。
「一緒でも大丈夫? 嫌なら俺、呼ばないけど」
零は裕太の持つトレーを見た。昨日の面会では、椅子が鳴っただけで母の腕を掴んだ。今も同じ机へ来られると思うと胸の奥が固くなる。それでも、彰人の向こう側なら、自分との間に一席分以上の距離が残る。
「……橘さんの隣なら。僕の隣じゃなければ、大丈夫だと思います」
「分かった」
彰人はそれだけ答えてから裕太へ手を上げた。呼ばれた裕太は、すぐには来なかった。自分を指さしてから周りを見て、それでも彰人がもう一度手招きすると、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
「……いいのか?」
「結城に聞いた。俺の隣なら大丈夫だって」
裕太の視線が零へ移る。零は一度だけ頷いた。
「……はい。そこなら」
「分かった。ありがとう」
裕太は彰人の隣へ座り、椅子を少し彰人側へ寄せた。トレーには定食と、小さなプリンが載っている。零はプリンへ目を留めたが、何も言わずにカレーを食べ直した。
しばらくは食器の音だけが続いた。先に耐えられなくなったのか、彰人が裕太のトレーを覗き込む。
「天海、デザートまで取ってんじゃん」
「悪いか。昼飯食ったら甘いもの食いたくなるだろ」
「毎回?」
「毎回じゃない。今日はあるから取っただけだ」
「好きなんだな、甘いの」
「……好きだけど。何だよ」
「別に。俺は麺好きだし、結城は辛いの好きらしい」
突然話を振られ、零はスプーンを持ったまま顔を上げた。裕太もこちらを見たが、すぐに視線をカレーへ落とした。
「辛いもの、好きなんですか」
「……はい。結構好きです」
「そうなんだ」
会話はそこで途切れた。裕太が何か続けようとしたのは分かったが、結局、味噌汁へ手を伸ばした。零も無理に言葉を足さなかった。それでも昨日までの会話が謝罪と事故の話だけだったことを思えば、「辛いものが好き」と答えただけでも、少し違って感じた。
彰人は自分の丼を食べ切ると水を飲んだ。裕太のプリンを見て「一口くれ」と言い、当然のように断られている。
「自分で取ってこい」
「もう飯終わったし、今からデザートだけ取りに行くの面倒」
「じゃあ諦めろ」
「そこをなんとか!」
「嫌だ」
彰人が大げさに肩を落としたので、零は思わず笑った。裕太がこちらを見て、一瞬きょとんとした顔になる。目が合うと零の笑いは止まったが、身体を引くほどではなかった。
「……すみません」
「いや、何で謝るんですか」
裕太の返事が思ったより早く、今度は零の方が言葉に詰まった。彰人が二人を交互に見たが、口を挟まずに水を飲む。裕太もプリンの蓋を開け、何事もなかったようにスプーンを入れた。
*
食後、彰人が食器を返しに行く間、零は席に残った。裕太もトレーを持って立ち上がろうとし、一度止まる。
「俺も、返してきます」
「……はい」
わざわざ断らなくてもいいのにと思ったが、昨日の「動かないで」を裕太が覚えているのだと気づく。零は膝の上で手を組み、そのまま二人が戻ってくるのを待った。
彰人は先に戻り、その後ろから裕太がポケットから小さな携帯ゲーム機を取り出して持ってきた。
「天海、それ何?」
「午後の確認まで時間あるから持ってきた。ゲーム」
「それは見れば分かる。何のやつ?」
裕太が画面を彰人側へ向けると、彰人が身を乗り出した。零からは細かな文字までは見えなかったが、何かを避けながら得点を稼ぐゲームらしい。
「これ知ってる。友達ん家でやったことある」
「じゃあ、今の記録超えてみろよ」
「いいの?」
「言っとくけど簡単じゃないからな」
「そう言われるとやりたくなるな」
裕太から受け取った彰人が、すぐに画面へ集中した。始まって間もなく「あっ」と声を上げ、裕太が鼻で笑う。
「今の、完全に見えてただろ」
「指が間に合わなかっただけ」
「それを失敗って言うんだよ」
「もう一回」
「一回って言っただろ」
「まだ昼休みあるじゃん」
さっきまで零へ向ける言葉を探していた裕太が、彰人にはほとんど間を置かず返している。彰人も負けたことを気にするより、次にどこで失敗したかを聞いていた。
零は二人のやり取りを眺めていた。裕太が笑うところを見るのは、たぶん初めてだった。昨日の部屋で頭を下げていた人と同じ顔なのに、今は画面を覗き込みながら彰人へ「そこじゃない」と言っている。
裕太がふとこちらへ目を向けた。
「結城さんも、やりますか」
零はゲーム機と裕太の顔を順に見た。差し出されたわけではなく、裕太の手は机の上にある。それでも一緒に遊ぶところまでは、まだ想像できなかった。
「……今日は、見てるだけでいいです」
「分かりました」
裕太はそれ以上勧めず、彰人へ画面を戻した。断ったのに空気が重くならなかったことに、零は少し肩の力を抜いた。
彰人は二回目も記録を超えられず、「これ操作悪くない?」と言い出した。
「負けた奴が一番最初に言うやつだ、それ」
「じゃあ天海がやってみろよ」
「俺の記録だって言ってるだろ」
零はまた笑いそうになり、今度は口元を手で隠すだけにした。
*
昼休みが終わる前、裕太は午後の検査へ呼ばれて先に席を立った。零の方へ直接近づかず、机の向こうから短く頭を下げる。
「じゃあ、また」
「……はい。また」
自分の口から出た返事に、零は一瞬だけ目を瞬いた。裕太も何か言いかけたが、そのまま職員について食堂を出ていった。
彰人はゲームで負けたことをまだ気にしていたらしく、空になった机を指で叩きながら「次は勝つ」と呟いた。零が「二回とも負けてましたよ」と言うと、すぐに顔を上げる。
「見てたなら分かるだろ。二回目かなり惜しかったじゃん」
「一回目よりは」
「結城、意外と容赦ないな」
「ごめ――」
いつもの言葉が出かけ、零は途中で止めた。彰人が待っているので、言い直す。
「……でも、本当に一回目よりは上手くなってました」
「フォロー入れるなら最初から優しくしてくれよ」
彰人は笑いながら立ち上がった。零も椅子から腰を上げ、翼を通路へぶつけないよう向きを変える。
「そうだ。俺、明日外出するんだ」
「外に?」
「黒岩さんって人と一緒に。俺の訓練見てる人。生活用品買って、昼飯食って戻るだけだけど」
昨日まで病院と施設の中だけを移動していた零には、「買い物」という言葉が少し遠く聞こえた。自分も行きたい、とまでは思えなかったが、家から持ってきてもらう物を書いた紙のことを思い出す。
「結城、何か欲しいもんある? 小さいのなら見てくるけど」
「僕は……」
反射的に「大丈夫です」と言いかける。けれど顔を動かした時、朝につけた留め具が髪を引いた。痛いほどではないが、訓練中にも何度か位置を直していた。
「……髪をまとめるゴム、見てもらってもいいですか」
「ヘアゴム?」
「今の留め具だと、動くとちょっと引っ張られるから。黒か紺色の、あんまり目立たないやつがあれば」
「了解。太いとか細いとかある?」
「そこまでは、まだ分からないです。使いやすそうなので……。あ、でも、お母さんにも聞いてからで」
「じゃあ今夜聞いといて。明日、黒岩さんにも買う物追加するって言っとく」
「お金は――」
「買ってきたらでいいよ。レシート持ってくる」
彰人が当然のように答えたので、零もそれ以上は言わなかった。食堂を出る時、翼を縮めることと髪の留め具を同時に気にして、少し歩幅が狭くなる。
「結城、角」
「分かってます」
先に言われ、零は翼の端を内側へ寄せた。壁へ触れずに曲がり切ると、彰人が何も言わずそのまま隣を歩いている。
零は朝より少し緩くなった髪を指で押さえながら、明日どんなゴムが来るのだろうと考えた。