昼食から部屋へ戻ると、母はテーブルの上に何本か線を引いた紙を置いていた。彰人に頼むヘアゴムのことを話すと、「今の長さなら細すぎない方がいいかも」と言いながら、黒と紺の横に丸をつけ、その下へ『少し太め・柔らかいもの』と書き足す。零がその紙を覗き込んでいるところへ、玄関の呼び出し音が鳴った。
父が応対し、廊下にいた職員から話を聞いて戻ってくる。
「零。午後、支部長から話があるそうだ。お父さんたちも一緒にって」
「支部長……?」
「日本支部の責任者だって。九条さんも来るそうよ」
何の話だろうと考えた時、午前中に見た書類が浮かんだ。暫定レベル4。その横に書かれていた、上限未測定という文字。零は母が書いていた紙を折らずにテーブルへ戻した。
「……魔力のことかな」
「聞けば分かる。行こう」
父に促され、零は椅子から立ち上がった。食堂から戻ってまだそれほど経っていない。首元の留め具に伸びかけた手を、零はそのまま下ろした。
*
案内されたのは、居住区から少し離れた会議室だった。大きな机の向こうには凛と、見覚えのない男性が座っている。五十代くらいに見え、黒に近い髪には白いものが混じっていた。凛ほど強く意識を引かれるものがなく、零は席へ着く前にもう一度その人を見た。
三人が座るのを待ち、男性は机の上の資料を閉じた。零が翼を椅子の背から逃がす間も急かさず、全員の手が止まってから口を開く。
「AEGIS日本支部長の榊原宗一郎です。急に時間を取ってもらって申し訳ない」
「結城達也です。こちらが妻の佳奈と、息子の零です」
「報告で承知しています。今日は検査の続きをするために呼んだわけではありません」
榊原は零へ目を向けた。視線は落ち着いていたが、子供へ話すために必要以上に笑ってみせることもなかった。
「私はエマージェントではありません。魔力の扱いそのものなら、九条や研究担当の方が詳しい。私から話すのは、福岡で君が発現した時に何が起きていたのかと、それを受けて日本支部が何を決めたかです」
零は膝の上で手を組んだ。隣では母が鞄を足元へ置き、父も榊原の方へ身体を向ける。
榊原が一枚の紙をこちらへ向けた。細かな文章の大半は伏せられており、残っているのは時刻と短い記録だけだった。零が読める範囲には、『日本方面』『極めて大きい』『詳細不明』といった言葉が並んでいる。
「君が福岡で発現したのとほぼ同じ時刻に、国内の記録だけでなく、国外でも日本方面で異常に大きな魔力を感知した記録が確認されています。誰にでも感じられたわけではありません。遠くから分かったのは、『日本の方向で、非常に大きな魔力が動いた』という程度です。場所や人物、能力まで見抜かれたわけではない」
そこで榊原は紙の時刻へ指を置いた。
「日本支部では、発生時刻、福岡の事故、九条が現地で確認した魔力、その後の君の検査結果を照合しました。その結果、あの反応の発生源は君である可能性が極めて高いと判断しています」
「……それが、僕なんですか」
「現時点では、そう判断しています」
零は紙へ目を戻した。日本方面、という二文字の範囲は、自分が思っていたよりずっと大きかった。母が鞄の持ち手へ手を添えたが、榊原の説明はそこで終わらなかった。
「ただし、外で知られている情報と、日本支部内部で照合できている情報は分けて考えてください。巨大な反応が日本方面で起きたことは知られている。それが十四歳の結城零という人物によるもので、治癒能力を持ち、ここにいる。そこまでは、少なくとも感知だけでは繋がりません」
母が小さく息を吐いた。父は紙を見たまま、午前中にもらった資料へ手を置く。
「今朝、零は暫定でレベル4相当だと聞きました。そこまで離れた場所で気づかれる量の魔力を持っていても、評価は4なんですね」
「はい。レベルと魔力総量は同じ指標ではありません」
榊原が凛へ視線を移すと、彼女は椅子の背へ軽くもたれたまま引き取った。
「レベルが同じなら全員が同じだけ魔力を持ってる、ってわけじゃない。出力も、効率も、扱い方も違う。結城の場合は、その中でも魔力の量がかなり外れてる」
「かなり……」
「かなり、な」
凛が短く念を押す。榊原は午前中にも見た『上限未測定』の記載がある紙を、零の前へ置いた。
「既知の例を明確に上回っていることまでは確認できています。ただ、上限を知るために限界まで使わせることはしません。暫定レベル4という評価はそのままですし、魔力を多く持っているからといって、一度の治療や防御へその全量を流せるとも限りません」
零は自分の両手を開いた。指の間に光が見えるわけでも、何かが溜まっている感じがするわけでもない。朝の訓練では、外へ漏れていることさえ凛に言われなければ分からなかった。
「福岡で漏れたのは……僕の魔力、全部ですか」
「そこまでは分かりません。大量に漏れたことは確かですが、全量が外へ出たと確認したわけではない。それに、持っている総量と、一度に一つの作用へ流せる量も別です」
零は少しだけ息を吐いた。安心したのかどうかは自分でも分からなかった。分からないものが減ったというより、分からないものの形が変わっただけだった。
「それで、凛さんが福岡に来たんですか」
凛が先に答えた。
「そう。最初は何が出たのか分からなかったからな。同じ頃に福岡で大きな暴走事故も起きてたし、関係あるかもしれないってことでアタシが行った」
「僕が……危ないと思われてた?」
聞いた後で、零は自分の指を握った。凛はすぐには否定しなかった。
「危ないって決めてたわけじゃない。何者か分からなかったから、危ない場合も考えた。それだけ」
榊原も凛の答えを和らげることなく続けた。
「未知の存在が敵対的だった場合に備える必要はありました。九条を派遣した理由には、その場合の対応も含まれています」
母は膝の上で指を重ね直し、凛の方を見た。
「では、もし零が暴れていたら……」
「止める役もアタシだった」
凛は言い切った後、零へ視線を移した。
「でも、着いた時にはそういう状況じゃなかった。君は両親のそばにいたし、新しく誰かを攻撃してもいなかった。だから戦う理由はなかった」
「……そうだったんですね」
零は病院で初めて凛に会った時を思い出した。あの時は、どうしてAEGISの人間がもう福岡まで来ているのか、考える余裕もなかった。
榊原が別の資料を一枚だけ取り出す。今度は零の名前が上にあり、その下の多くが黒く伏せられていた。
「ここからは、その情報を日本支部がどう扱うかです。結城零という名前、年齢、ご家族、現在地。確認されている治癒の情報、規格外の魔力総量、福岡の巨大魔力異常との結び付き。これらは現在、日本支部内でも最高度の機密として扱っています」
榊原は伏せられた部分を指先でなぞらず、資料をそのまま机へ置いた。
「職員なら誰でも全てを見られる、という状態にもしていません。医療担当が必要な身体情報、情報を扱う担当が必要な観測記録、保護担当が必要な生活情報は、それぞれ職務上必要な範囲に分けています。お二人の職場やご自宅についても、零君へ繋がる情報として必要以上に広げません」
父は少し考えてから、机の上へ片手を置いた。
「私たちが仕事を休んでいる理由も、詳しく説明しなくていいということですか」
「はい。職場との調整は担当へ相談してください。何を伝え、何を伏せるかを、ご家族だけで決めていただく必要はありません」
「……そこまでしないと駄目なんですね」
母の声が小さくなった。榊原は気休めのような言葉を挟まず、頷いた。
「今は、その必要があると判断しています」
「僕のせいで……」
零の口から出た言葉に、母がこちらを向いた。続けて謝ろうとしたところで、榊原が先に口を開く。
「謝罪を求めるために、今日この話をしているわけではありません」
零は顔を上げた。
「発現した時点で、君は魔力というものを扱う訓練を受けていなかった。自分がどれだけ持っているかも知らなかった。そこで起きたことと、今後知った上でどう扱うかは分けて考えます」
「でも、僕から出たのは同じですよね」
「同じです。だから、今後は制御を覚える必要がある。九条が教えているのもそのためです」
否定されなかったことに、零は少しだけ戸惑った。榊原は責任がないとも、何も気にするなとも言わない。その代わり、机に置かれた資料を自分の方へ引き戻した。
「そして、こちらにも仕事があります。君の名前とあの反応を結びつけさせないこと。必要な生活を守ること。もし外から接触があった時、十四歳の君やご両親だけで判断しなくていい状態にすることです」
榊原はそこで一度言葉を切った。父母が何も挟まないのを見てから、続ける。
「関心を持つ可能性があるのは、国だけではありません。研究者、組織、個人。誰が何を知っているかは、まだ確認している途中です。分からない段階で最悪の相手が来ると決めつけるつもりもありませんが、何も起きない前提にもできない。だから今は、元の生活へ何の準備もなく戻す判断をしていません」
父が腕を組み、しばらく黙った。
「零は、外へ出られなくなるんでしょうか」
「永久に施設から出さない、という話ではありません。制限が必要なら、理由と期間の見通しは可能な限り本人とご家族へ説明します。魔力を隠せるようになることも、今後できることを増やすための一つです。ただし、それだけで身元も治癒の情報も全て安全になるわけではありません」
零は父の腕がほどけるのを見た。家へすぐ帰れない理由は前にも聞いていたが、そこへ「遠くの誰かが自分を探すかもしれない」という形が加わると、同じ話には聞こえなかった。
榊原は零へ目を戻し、資料を閉じた。
「今日伝えるのはここまでです。詳しい魔力の仕組みは、必要になった時に担当から説明します。今日聞いたことで分からないところがあれば、今でも後でも聞いてください」
話が終わったと分かっても、零はすぐに立てなかった。国外という言葉がまだ頭の中に残っている。父と母も急かさず、凛は椅子へ座ったまま待っていた。
「……榊原さん」
「はい」
「世界の人が、僕を知ってるんじゃなくて……日本に何かいるって、知ってるだけなんですよね」
「現時点で、私たちが確認できている範囲ではそうです」
「分かりました」
零はようやく手をほどいた。掌には爪の跡が薄く残っていた。
*
会議室を出ると、父と母は生活担当の職員から少し話があると言われ、その場に残った。零は凛と二人で居住区へ戻ることになった。
渡り廊下の窓から海が見える。午前中にも通った場所なのに、水平線の向こうへ目を向けると、さっき聞いた「国外」という言葉がまた浮かんだ。
「凛さん」
「ん?」
「あの日、僕の魔力を見つけた時……そんなに変だったんですか」
「変っていうか、でかすぎた」
凛は歩く速さを変えずに答えた。
「福岡へ近づくほど、他の魔力と間違えようがなくなった。正直、何が出たんだって思ったよ」
「怖くなかったんですか」
「警戒はした。怖いかどうか考えるのは、その後だったな」
「凛さんらしいですね」
「数日しか知らないくせに何だそれ」
言われて、零は少しだけ笑った。凛もそれ以上追及せず、角を曲がる前に零の翼へ目をやる。
「で、今は?」
「え?」
「さっきから聞きたそうな顔してる。今もそんなに漏れてるかって話だろ」
零は図星を突かれ、髪の留め具へ手をやった。
「……はい」
「まだ分かりやすい。でも朝より少しマシ。あの時とは比べ物にならない」
「本当に?」
「そこで嘘ついても訓練にならないだろ」
零は翼を少し内側へ寄せた。自分では変化を感じられない。それでも、朝に一度だけできたことが消えたわけではないらしい。
「明日も、隠す練習しますか」
「する。嫌でも何回もやるぞ」
「……お願いします」
「そこは嫌がってもいいんだけどな」
居住区の扉が見えてくる。凛と別れて部屋へ戻ると、テーブルには昼に置いた紙がそのまま残っていた。黒と紺の横に丸があり、その下には母の字で『少し太め・柔らかいもの』と残っている。
零は紙を手に取り、さっきまで考えていた国外のことを頭の隅へ押しやった。
「……これ、明日ちゃんと橘さんに言わないと」
誰もいない部屋で一度口にしてから、忘れないよう紙を鞄の上へ置いた。