出発前、彰人が居住区の廊下へ出ると、零とその母親が部屋の前にいた。零は髪を低い位置でまとめていたが、振り向くたびに後ろへ手をやっている。
「橘さん。昨日の、これ……」
差し出された紙には、黒か紺、少し太め、柔らかいもの、と母親の字で書かれていた。彰人が受け取ると、零は自分の髪を指先で軽く押さえた。
「今の留め具だと、動くと引っ張られるから。似たようなのがなかったら、別に無理しなくていいです」
「分かった。俺が勘で選ぶと多分外すから、店の人に聞いとく」
母親が笑い、零も少しだけ口元を緩めた。
「……お願いします」
「うす。行ってきます」
紙をポケットへ入れて廊下を進むと、少し先で
「終わったか」
「はい。買う物、一個増えました」
「元の用事は忘れてないだろうな」
「Tシャツ一枚見るだけっすよ。忘れようがないでしょ」
「お前なら店に入って飯だけ食って帰りかねん」
「もう昼飯の話してるじゃないすか」
黒岩は返事の代わりに歩き出した。彰人もポケットの紙を押さえ、その後を追った。
*
陸側へ出てしばらくすると、制服姿の学生や買い物袋を提げた家族が目につくようになった。支部にいる間は職員の服ばかり見ていたせいか、信号を待ちながら喋る学生まで妙に久しぶりに見える。
黒岩は人通りの多い道へ出る前に一度周囲を見て、それから建物の間を抜ける細い通路へ入った。奥には小さな広場が見え、何人かが反対側から普通に歩いてくる。
「こっちの方が早い」
「黒岩さん、ここ来たことあるんすね」
「何度かな」
彰人は広場へ出るまでの曲がり方を何となく目で追ったが、すぐ先に並ぶ飲食店の看板へ意識を奪われた。
「俺、あそこがいいっす」
「さっきまで道見てたと思ったら、もう飯か」
「腹減ってるんで」
「知ってる」
入ったのは広場に面した麺類の店だった。黒岩は店内へ入ると、空いている席をいくつか見てから、入口と奥の通路が見える場所へ腰を下ろした。彰人も向かいへ座り、メニューを開いてから顔を上げる。
「そういう席、好きっすよね」
「落ち着くんだよ」
「休みの日も?」
「家族にも言われる」
それ以上説明する気はないらしく、黒岩はメニューへ目を落とした。彰人も大盛りの文字を見つけ、すぐ注文を決める。
届いた丼は彰人の前だけ一回り大きかった。ところが黒岩の前には普通盛りの麺と、小さな丼物が並んでいる。
「それ、普通盛り選んだ意味あります?」
「ある」
「腹に入ったら同じじゃないすか」
「だったら交換するか」
「それは嫌です」
「なら黙って食え」
黒岩は箸を取り、彰人も笑いながら麺をすすった。
食事の途中、机の上に置かれた黒岩のスマートフォンが震えた。黒岩が画面を確認した瞬間だけ、硬かった目元が少し緩む。彰人の位置から、中型犬が地面へ腹をつけている写真が見えた。
「かわいっ」
黒岩が画面を伏せる。
「見るな」
「今の黒岩さんちの犬っすか」
「……飯食え」
「へぇ、否定しないんだ」
しばらくして、黒岩は自分の食事を終えると、画面を彰人側へ数秒だけ向けた。さっきとは別の写真で、犬が散歩道らしい場所からこちらを見上げている。
「一枚だけだぞ」
「めっちゃ撮ってるじゃないすか」
「一枚だけって言っただろ」
取り上げられる前にもう一枚見ようと身を乗り出すと、黒岩はスマートフォンをポケットへしまった。彰人は笑いながら残った麺を食べ切った。
*
昼食の後、二人は服や雑貨を扱う店へ入った。彰人が目をつけていたのは、入口近くのマネキンが着ていた薄手のTシャツだった。黒地と白地で同じ柄が並んでおり、片方を胸元へ当てて鏡を見る。
「黒岩さん、どっちがいいと思います?」
「お前が着るんだろ」
「だから聞いてるんじゃないすか」
「好きな方にしろ」
「参考にならないなあ」
黒岩は付き合う気がないように見えて、彰人が白地を戻して黒地をもう一度当てると、ちらりとこちらを見た。
「そっちの方が汚れは目立たんな」
「結局見てるじゃないすか」
「聞かれたから答えただけだ」
彰人は笑い、黒地の方を腕へ掛けた。値札を裏返して一度確認してから、今度は帽子の棚へ寄る。気になるものを一つ被ってみたが、鏡の中の自分を見てすぐ元へ戻した。
「それは買わないのか」
「思ったより似合わなかったので」
「そうか」
「そこで否定してくださいよ」
「俺に嘘つけって言うのか」
「ちょっとくらいあるでしょ」
黒岩が鼻で笑ったので、彰人も帽子は諦めた。
自分の買い物を決めたところで、ポケットの紙が指に触れた。
「あ、結城に頼まれたやつ」
ヘアゴムの棚には、予想よりはるかに多くの商品が並んでいた。彰人は紙を開き、黒と紺の商品をいくつか取ってみる。太さまでは見れば分かるが、「柔らかい」は触っても自信がない。
近くで品出しをしていた店員へ紙を見せると、店員は棚から二種類を取り出した。
「長い髪をまとめるなら、この辺りが使いやすいですよ。金具がなくて、強く結ばなくてもまとまりやすいので」
「じゃあ、その黒と紺ください。背中くらいまであるんで、引っ張られにくい方がいいです」
「それならこっちですね。本人が試せると一番なんですけど」
「今は来れないんで。合わなかったらまた買います」
黒と紺を一つずつTシャツの上へ重ねたところで、入口の方から明るい声が聞こえた。
「そのまま持つと下見えないですよ。箱、こっち貸してください」
二十代くらいの男が、段ボール箱を抱えた年配の女性から荷物を受け取っていた。女性が入口の段差を越えるまで横につき、外で待っていた家族へ箱を渡す。戻ってきた男へ、レジにいた女性店員が笑いながら声をかけた。
「小沢くん、またヒーローやってるの?」
「今日は箱一個なんで、平和な方ですよ」
「うちの仕事まで取らないでよ」
「じゃあ次から時給もらいます」
「払わないわよ」
小沢と呼ばれた男は笑いながら店内へ戻り、通路に落ちていた小さな箱を拾った。置き場所が分からなかったらしく、商品を持ったまま別の店員へ聞きに行く。
彰人はTシャツを腕へ掛けたまま、その背中を目で追った。
「ヒーローって、本当に名乗ってる人いるんすね」
聞こえたらしく、小沢が振り返った。
「一応、自称ね。まだ誰にも公認されてないから」
「普段も、ああいうのやってるんすか」
「まあね。困ってる人に声かけたり、落とし物届けたり。大げさなのはそんなにないよ」
小沢はそこで少し笑い、拾った箱を持ち上げた。
「ヒーローって言った方が覚えてもらえるし、ちょっと格好いいだろ?」
善意だけを取り繕うでもなく言われ、彰人も笑った。
「それは分かるかも」
「だろ?」
レジの方から「小沢くん、それこっち!」と呼ばれ、小沢は「はーい」と箱を持って離れていった。
会計待ちの列へ並びながら、彰人は黒岩へ顔を向ける。
「黒岩さんもやったらいいのに。救助ヒーロー黒岩」
「やらん」
「似合いそうなのに」
「仕事で十分だ」
彰人が笑っていると、少し離れたところで小沢のスマートフォンが鳴った。画面を見た小沢の表情が止まり、さっきまでの笑いが消える。二度ほど読み返した後、女性店員へ顔を向けた。
「ちょっと見てきます」
「また? 小沢くん、変なのだったら先に警察呼びなさいよ」
「分かってます。まず近くだけ見てきます」
小沢はスマートフォンをしまい、足早に店を出ていった。
何を見たのか気にはなったが、会計の順番が回ってきた。彰人は自分の財布を出し、Tシャツとヘアゴムを一緒に払う。レシートを受け取ると、ヘアゴムだけは潰れないようリュックの内ポケットへ入れた。
「それ、立て替えるんじゃなかったのか」
「あとで結城にレシート見せます。俺のシャツと一緒になってるけど」
「金額分かるならいいだろ」
「ですよね」
黒岩はそれ以上言わず、彰人がTシャツをしまうのを待った。
「もう一軒見るか?」
「いや、今日はこれでいいっす。帰る前に何か飲み物だけ買いたい」
「なら表の店で買って戻るぞ」
「犬の写真は?」
「もう見せた」
「一枚だけじゃないすか」
「十分だ」
言い合いながら店を出る。少し先には、昼に通った細い通路の入口が見えていた。向こう側の広場まで光が抜けているのを一度見て、彰人は黒岩の隣を歩いた。
*
金属が派手に倒れる音が響いたのは、帰り道へ向かい始めて間もなくだった。
続いて怒鳴り声が上がり、前を歩いていた人たちが一斉に振り返る。黒岩は立ち止まらなかった。音の方へ顔を向けると、歩幅だけが変わる。
「彰人、付いてこい。前には出るな」
「はい」
数軒先の店から人が下がってくる。入口から大きな袋を抱えた男が飛び出し、その後ろを店員が追っていた。店員が男の袖を掴むと、男は身体ごと振り返る。
「離せ!」
振り上げられた腕と店員の間へ、薄く光る板が滑り込んだ。拳がぶつかり、鈍い音が鳴る。
「下がって! 中!」
障壁の後ろに立っていたのは、さっき店にいた小沢だった。店員が手を離し、入口の内側へ下がるまで壁を残す。男がもう一度押し込んだ時には障壁が大きく揺れたが、小沢は腕を下げなかった。
「すげ……」
昼の箱運びとは違う。目の前で本当に人を守っている。
「もうやめろ! 警察来るぞ!」
「うるせえ!」
男は小沢を押し切ろうとせず、身体を返して主通りへ走り出した。袋を抱えているのに最初の一歩が妙に速い。彰人が息を呑む横で、黒岩は店員へ声を飛ばした。
「AEGISです。通報は?」
「してます! さっき――」
「中の客を出さないでください」
返事を聞きながら黒岩は走り出し、片手で連絡を入れる。小沢も先に男を追っていた。
「待て!」
彰人の脚にも力が入った。普通に追うより《倍化》した方が早い。そう考えた瞬間、前を走る黒岩の声が飛ぶ。
「彰人、前!」
主通りの先から、状況を知らない親子連れが横切ろうとしていた。逃げる男を見て立ち止まった人もいて、空いているように見えた道が一気に狭くなる。
脚へ回しかけた魔力を止めた。今ここで速度を上げれば、避ける側に相手を巻き込む。
親子が店側へ下がったのを見てから走り出す。その数秒で男と小沢は先へ離れた。黒岩も人の間を縫うように進んでいる。
逃げる男の足が路面を蹴った瞬間、片方の靴だけが不自然に引っかかった。上体が前へ崩れかけ、男は腕を振って持ち直す。黒岩が足元を見ているのを見て、彰人には何をしたのか分かった。
それでも黒岩は一気に転ばせなかった。すぐ脇を人が退いており、倒れれば巻き込む位置だった。
「どいてください!」
前方で小沢が声を上げ、人が左右へ散る。逃げる男は空いたところへ身体をねじ込み、避けきれなかった中年の男性の肩を押した。
男性が足をもつれさせ、舗装へ手をつく。彰人の視線がそちらへ吸われた。
小沢も一度振り返った。足がわずかに止まりかける。
「大丈夫ですか! 誰か、お願いします!」
けれど、誰かが返事をする前に小沢はまた前を向き、角へ消えていく男を追った。
彰人も一歩そちらへ出た。倒れた男性のすぐ横を、状況を知らない人が通ろうとしている。
「すみません、こっち避けてください!」
彰人は進路を変え、男性と人の流れの間へ入った。追いたい背中は遠ざかっていく。それでも今は、こっちだった。
「大丈夫ですか。立てます?」
「いや……手、ついた。ちょっと待って」
「じゃあ、そのままで。今、人呼びます」
彰人が周囲へ顔を上げると、すぐ近くの店から店員が二人出てきた。
「どうした?」
「この人、転んで手を痛めてます。ここお願いしていいですか」
「分かった。救急呼ぶ。こっちは見てるから」
もう一人の店員が通り側へ出て、人を外へ回し始める。
「すみません、ここ空けてください!」
声に応じて流れが変わるのを見てから、彰人は男性へもう一度目を向けた。店員がそばへしゃがみ、男性も頷いている。
「お願いします」
「任せて。行くなら気をつけろよ」
「はい!」
立ち上がり、主通りへ顔を向ける。もう男の姿は見えなかった。小沢も、黒岩も、曲がり角の向こうへ消えている。
「……離れたな」
口から出た声に、悔しさが混じった。
脚を上げれば追いつけると思っていた距離が、今は見えないところまで伸びている。さっき止まらなければ、と一瞬だけ考え、そのまま飲み込んだ。後ろでは店員が救急へ場所を伝え、もう一人が人の流れを避けている。自分が戻る必要はもうない。彰人は息を整えながら、三人が消えた曲がり角と今いる場所を見比べた。
少し後ろに、昼に黒岩と通った細い通路の入口があった。
その先には、小さな広場の明るさが見えていた。