彰人は二歩だけ戻り、細い通路の入口へ立った。主通りを追えば、さっきと同じように人の間を抜けながら背中を追うことになる。けれど昼に黒岩と通ったこの道なら、向こうの小広場まで直接抜けられる。男がさっきの曲がり角から道なりに逃げているなら、先へ出られるかもしれない。
合っているか考え続けるより、先に伝える。彰人はポケットからスマートフォンを出し、黒岩へ電話をかけた。呼び出しは一度で切れた。
『どうした』
「黒岩さん、俺、昼に通った道から広場へ回ります。出口の人、下げます」
一瞬だけ、向こうで足音と誰かの声が重なった。
『行け。ただし一人で捕まえるな。犯人が別へ曲がったら追うな。広場に出たら、まず人を下げろ』
「了解」
通話を切ったところで、通路から買い物袋を提げた二人連れが出てきた。彰人は入口の脇へ寄り、二人が通り過ぎるのを待つ。奥まで見える範囲に人影がなくなったのを確かめると、リュックの肩紐を引いて背中へ寄せた。今なら走れる。彰人は脚へ魔力を回した。
踏み込んだ瞬間、景色の流れ方が変わった。昼には黒岩の後ろを歩いた通路が、数歩ごとに短くなっていく。壁際の室外機も、店の裏口も、置かれた植木鉢も、今は避ける場所として見るだけでいい。
出口の明るさが近づく。彰人はそのまま飛び出さず、手前から歩幅を狭めた。脚へかけていた《倍化》を弱めながら何歩か使って速度を削り、最後は普通に走る程度まで落として広場へ出る。
正面にはベンチと植え込みがあり、その向こうで何人かが店を行き来していた。まだ誰も、主通りの向こうで起きていることに気づいていない。
「すみません! こっちから人が走ってきます! 道を空けてもらえますか!」
近くの人が振り返る。何のことか分からず立ち止まった男性へ、彰人は主通りへ続く入口を指した。
「危ないかもしれないんで、店側に寄ってください!」
声を聞いた飲食店の店員も外へ顔を出し、ベンチのそばにいた親子へ中へ入るよう声をかけた。彰人は人が動いた分だけ立つ場所をずらし、主通りから広場へ入ってくる線を空ける。
広場の端では、一人がスマートフォンをこちらへ向けていた。彰人と目が合うと少しだけ手を下げたが、その場からは動かない。
「そこから前には出ないでください!」
声をかけると、相手は頷いて一歩下がった。
その直後、主通りの向こうから靴音が響いた。
最初に飛び出してきたのは、袋を抱えた男だった。
角を曲がった先に彰人が立っているのを見て、一瞬だけ足が鈍る。その後ろから、小沢の声が聞こえた。黒岩の姿はまだ曲がり角の向こうで、彰人からは見えない。
「止まれ!」
男は振り返らなかった。広場の左右を見て、彰人のいる側へ顔を向ける。逃げ道として一番簡単に見えたのだろう。
「どけ!」
彰人はその場から退かなかった。ただし、真正面へ身体を固めることもしない。男が右へ寄れば自分も一歩ずれ、店側へ逃げようとすれば、その線だけを塞ぐ。
「止まってください!」
「てめェッ! 邪魔すんな!」
男は抱えていた袋を脇へ投げた。中の物が鈍い音を立てるより先に、空いた腕を振って彰人を押しのけようとする。
彰人は半歩外へずれ、腕を正面から受けなかった。肘の外側へ手を当て、身体を捻って勢いの向きをずらす。男の肩が横へ流れたが、そのまま逃げ切れるほどは崩れない。
「君、下がって!」
追いついた小沢が叫び、障壁を出した。彰人と男の間ではなく、横へ退いていた親子と逃走線の間へ薄い壁が立つ。男がそちらへ目をやり、舌打ちした。
彰人はその一瞬に位置を変えた。自分の後ろには店の壁、右には小沢の障壁。正面だけを空けたまま、男が人のいる方へ抜けにくい位置を取る。
「何なんだよ、お前ら!」
男はもう彰人を倒すことより、空いている場所を抜けることしか見ていなかった。左へ身体を振ってから急に右へ踏み込む。
彰人もつられて飛びつきそうになり、足を止めた。相手の肩ではなく、次に置かれる足を見る。
男がもう一歩踏み出したところで、黒岩が曲がり角から姿を現した。視線が男の足元へ落ちた直後、その靴が路面を強く噛む。
前へ出るはずだった足だけが予想以上に止まり、上体が先へ流れた。
「うおっ――」
黒岩はそのまま距離を詰めた。
背後から男の手首と肩を取り、残った勢いを無理に逆へ返さず、横へ流しながら体勢を崩す。男の片膝が地面につき、もう片方の足を踏ん張ろうとしたところで、黒岩が腕を背中側へ回した。
「動くな」
「離せ!」
「暴れるな。余計に痛めるぞ」
男が身体を起こそうとしたが、黒岩は力任せに押し潰さず、立ち上がる方向だけを塞いでいる。何度か肩を揺すった男も、逃げられないと分かったのか動きを小さくした。そこへ遠くからサイレンの音が近づいてきた。
彰人はようやく息を吐いた。
脚へ《倍化》を使った時間は長くなかった。それでも全力で近道を抜けたせいか、腿の奥に熱が残っている。リュックも背中へ張りついたままだった。
「彰人」
黒岩に呼ばれ、すぐ顔を上げる。
「怪我は?」
「ないです」
「ならそこにいろ。警察に渡すまで近づくな」
「はい」
小沢も障壁を消し、近くにいた親子へ声をかけていた。子供が泣いていないことを確かめてから、こちらへ振り返る。
「君、本当に大丈夫?」
「大丈夫です。……小沢さんも」
「俺は平気。いや、でも今の走り何――」
言いかけたところで、警察官が広場へ入ってきた。黒岩が身分と状況を短く伝え、男の拘束を引き継ぐ。彰人は少し離れたところからそれを見ていた。
地面には、男が投げた袋が残っている。小沢が拾おうとして手を伸ばしかけたが、警察官に止められ、すぐ手を引いた。
「触らない方がいいですよね。はい」
さっきまで走っていた時とは違い、声だけが妙に近く聞こえた。
黒岩が警察官と話している間、彰人は主通りの入口へ目を向けた。そこから見えるのは、さっきまで追っていた男の背中ではなく、こちらへ続く道だった。少し後ろには、昼に一度通った細い通路が口を開けている。
男が腕を振った時には、反射で飛びつきかけた。まだ黒岩みたいに全部を見て動けたわけではない。それでも、主通りで離された時とは違い、今は逃げる男の背中ではなく、こちらへ続く道を見ていた。
「彰人」
もう一度呼ばれた。
黒岩がこちらを見ている。警察との話は終わったらしい。
「行くぞ。まだ事情を聞かれる」
「うす」
彰人は返事をし、歩き出した。背中のリュックが揺れ、中に入れたTシャツの袋がかすかに音を立てる。
昼にはただの近道だった通路を横目に見て、今度は黒岩の隣へ並んだ。