男が警察官に連れていかれた後も、小広場はすぐには元へ戻らなかった。投げ捨てられた袋の周りには人が入らないよう間が取られ、店の前では別の警察官が目撃者から話を聞いている。転んで手を痛めた男性は救急隊員に診てもらうことになり、最初に揉めていた店の入口には倒れた棚や道具がまだ残っていた。
彰人も黒岩と一緒に、見たことと自分がしたことだけを短く確認された。通路を使った理由や黒岩への連絡まで話し終えると、警察官はメモを閉じ、離れないよう言って別の聞き取りへ向かう。
少し先では、小沢が広場の端に立っていた。さっきまで人へ声を張っていたのに、今は障壁も出しておらず、両手をポケットへ入れたり出したりしている。彰人と目が合うと、先にこちらへ歩いてきた。
「さっき、助かった。あそこで前にいてくれなかったら、俺だけじゃ止めきれなかったと思う」
「俺は時間稼いだだけっすよ。最後に止めたの、黒岩さんだし」
「それでもだよ」
小沢は一度笑おうとして、うまく続かなかった。主通りの方へ顔を向ける。転んだ男性が救急隊員と話している姿が、広場からでも少しだけ見えた。
「……あの人、手、大丈夫かな」
「折れてるかどうかは、これからだと思います」
「そっか」
小沢は返事をしたまま、しばらくそちらを見ていた。
「俺さ、追えば止められると思ったんだ。最初に盾出せたし、あいつよりは動けると思って。だから、あの人が転んだ時も……誰か見てくれるって」
言葉が途中で細くなる。彰人はすぐに「仕方ない」とは言えなかった。自分だって、あの時は黒岩の背中を追いたかった。
「俺も追いたかったっす。止まったせいで離されたって、ちょっと思ったし」
「でも、君は止まっただろ」
「近くにいたからっすよ。あのまま置いていくのは、なんか違うなって」
「……そっか」
小沢は主通りの方を見た。救急隊員と話している男性の姿を、今度はしばらく黙って見ていた。
「最初の盾は、助かったっす。店員さん、あれなかったら殴られてたかもしれないし」
「そこだけは、ちゃんとできたかな」
「そこだけって言うほどでもないでしょ」
小沢は少し笑ったが、すぐに視線を戻した。
「最初はできたのにな。途中から追う方しか見えなくなった。……ヒーローって名乗ってるくせに、格好悪いな」
「俺、そこまで言ってないっすよ」
「分かってる。俺が言ってる」
彰人が肩をすくめると、小沢は今度こそ少しだけ笑った。
「ありがと」
そこへ警察官から名前を呼ばれ、小沢は「はい」と手を上げた。行きかけてから振り返り、彰人へ軽く頭を下げる。
「またどっかで会ったら、その時は普通に話そう」
「うす」
小沢は警察官の方へ歩いていった。
*
現場を離れられたのは、それからしばらく後だった。彰人と黒岩は、迎えの車を待つ間、商店街から少し離れた歩道脇に並んでいた。黒岩は警察との連絡を終えると、ようやくスマートフォンをポケットへしまう。
「彰人」
「はい」
「最初に追いかけようとした時、お前は前しか見てなかった」
彰人は返事の代わりに、靴の爪先へ目を落とした。親子が横切るのを見て、黒岩に止められた時のことは覚えている。
「その後は、勝手に通路へ入らず先に連絡した。出口でも人を退かせた。あそこまではよかった」
「……はい」
「広場で男の前へ出たのは、本来お前に頼んだ仕事じゃない」
彰人は顔を上げた。
「ですよね」
「今回は向こうからお前のいる方へ来た。後ろには一般人もいた。だから逃げ道を一つ潰して時間を作った判断まで、悪かったとは言わん」
黒岩はそこで一度言葉を切った。
「ただし、今日うまくいったことと、お前が事件を止める役になったことは別だ」
「……はい」
「お前はまだ、力を安全に使う練習をしてる途中だ。今日のことも、その材料にする。それだけだ」
彰人は少しだけ考えてから頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
「今度は多分じゃないっすよ」
「ならいい」
黒岩はそれ以上続けず、道の向こうへ目をやった。
「あと、Tシャツは無事か」
「え?」
「さっきからリュック潰れてるぞ」
彰人は慌てて背中から下ろし、中を開いた。黒いTシャツの袋は少し曲がっていたが、破れてはいない。内ポケットのヘアゴムも残っている。
「セーフ」
「なら閉めろ。迎え来たぞ」
黒岩が顎で示した先に車が停まり、彰人は荷物を詰め直して立ち上がった。
*
その日の夜。
昼間の小広場を撮った短い映像だった。遠くから撮られているため音は途切れ、画面も大きく揺れている。逃げてきた男、障壁を出す小沢、その少し前へ出た少年。最後には別方向から来た成人が男を取り押さえ、動画はそこで終わっていた。
玲司は再生位置を少しだけ戻す。
少年が男へ飛びつかず、足を止めたところだった。
「……ここか」
昼間、玲司が店舗側から見ていた時、その少年は追跡の途中で一度立ち止まっていた。転んだ通行人のそばへ行き、別の大人へ任せた後、また走り出したところまでは見ている。
その先は角に隠れた。
どう移動したのか。誰と何を話したのか。なぜ小広場の先へ出られたのか。そこまでは分からない。
けれど、公開された映像には同じ少年がいた。
小沢へ匿名で送った一報も、窃盗犯へ持ちかけた話も、玲司が別々に置いたものだった。小沢が本当に動くかを見るために。危機の前で、ヒーローを名乗る人間が何をするのか確かめるために。
小沢は動いた。
店員を守る障壁も、本物だった。逃げる男を追ったのも、本人なりに止めるつもりだったのだろう。角の向こうで何を見て、何を聞いたかまでは分からない。それでも、何もしなかった人間として切り捨てる気にはならなかった。
ただ、それ以上に目が止まったのは、予定になかった少年だった。
玲司がこの場へ呼んだのは窃盗犯と小沢だけだ。あの少年は最初から予定にない。誰かの命令で動いていたのかさえ分からない。それでも一度人のそばで止まり、後にはまた別の場所へ現れた。
小沢は自分からヒーローを名乗った。少年は、何も名乗っていない。
名前は知らない。年齢も、正確には分からない。どんな能力を持っているのかも、動画だけでは判断できない。成人の男と一緒にいた理由も分からなかった。
分からないことの方が多い。だからこそ、玲司は画面を閉じなかった。
「もう一回、見たいな」
口にすると、思ったより素直な声が出た。
机の端には、昼の事件について流れてきた短い記事も開かれている。負傷者が出たこと。店に損害があったこと。実行した男が確保されたこと。死者はいないが、現実の人間が怪我をした事実は消えない。
玲司はそこから目を逸らさなかった。
これを続ければ、次も同じ程度で済む保証はない。もっと酷い怪我をする人間が出るかもしれない。家族に知られれば、傷つけることも分かっている。
やめる理由なら、もう十分にあった。
それでも、昼に見た少年の背中と、画面の中で止まった一歩が頭から離れない。
玲司はスマートフォンを伏せた。
「……次は、もう少しちゃんと見たい」
*
支部へ戻った頃には、彰人の夕食はすっかり遅くなっていた。
食堂へ向かう前に居住区へ寄り、零の部屋の呼び出しを押す。出てきた零は、まだ昨日の留め具で髪をまとめていた。彰人を見るなり、その後ろへ視線をやる。
「橘さん。遅かったんですね」
「ちょっと色々あって。あ、これ」
彰人はリュックの内ポケットから、小さな袋を二つ取り出した。黒と紺のヘアゴムを見た零が、目を少し大きくする。
「両方買ったんですか?」
「どっちがいいか分かんなかったから。店の人に聞いて、同じやつの色違い」
奥から佳奈も顔を出し、袋の表示を確かめた。
「これなら使いやすそうね。橘くん、ありがとう」
「どういたしまして。あ、レシートこれです。俺のTシャツと一緒に買っちゃったんで、ゴムのところだけ見てもらえれば」
「分かったわ。あとで払うわね」
零は二つを見比べ、まず黒い方を手に取った。指で輪を軽く引っ張ってから、今つけている留め具へ触れる。
「……明日の朝、使ってみます」
「合わなかったら、また別の見ればいいって店員さんも言ってた」
「うん。……橘くんは、Tシャツ買えたんですか?」
彰人はリュックへ伸ばしかけた手を止めた。
「今、橘くんって言った?」
「え」
零も自分が言ったことに今気づいたように瞬きをした。
「……嫌だった?」
「いや、全然。むしろ今までずっと『橘さん』だったから」
「お母さんが橘くんって呼んでたから、つられて……」
「じゃあ、そのままでいいよ。さん付けされるほど偉くないし」
「……うん。じゃあ、橘くん」
もう一度呼ばれると、さっきより少し照れくさかった。彰人は誤魔化すようにリュックを開く。
「で、Tシャツな。黒いやつ買った」
「ちょっと見せてもらってもいい?」
「いいよ」
袋に入ったままのTシャツを広げて見せると、零は柄を見て少し首を傾げた。
「うん。似合いそう」
「お、マジ?」
「うん」
彰人は笑って袋を戻しかけ、そこで少しだけ迷った。
「……じゃあさ、俺も零って呼んでいい?」
零が顔を上げる。
「僕?」
「他に零いないだろ」
「それは、そうだけど……」
すぐには返事が来なかった。彰人も急かさず、Tシャツをリュックへ戻す。零は手の中の黒いゴムをもう一度引っ張ってから、小さく頷いた。
「……うん。いいよ」
「じゃ、零。黒岩さんよりお前の方が信用できるな」
「黒岩さん、何て言ってたの?」
「汚れが目立たないって」
零が吹き出し、奥で佳奈も笑った。
彰人も笑ったところで、腹が鳴った。
一瞬、三人とも黙る。
「……そういや飯、まだだったわ」
「先に食べてきた方がいいよ」
「そうする」
彰人はリュックを背負い直し、廊下へ出た。後ろでは佳奈が、明日の朝に使えるようゴムを洗面所へ置こうかと零へ話している。
廊下の向こうから、遅い夕食の匂いが流れてきた。今はもう、腹の方がうるさい。
彰人は食堂へ向かいながら、何が残っているかを考えた。