商店街での一件から数日が過ぎた午後、裕太は居住区の共用スペース、その奥に設けられた小さな娯楽スペースで携帯ゲーム機をテレビへ繋いでいた。
壁際にはテレビがあり、その前に二人掛けのソファと低い机、横には肘掛けのない椅子が数脚置かれている。共用スペースの一角を棚でゆるく区切っただけの場所だが、自分の部屋より画面は大きい。
午前の訓練が終わり、夕方までは自由時間になっている。自分の部屋でも遊べるが、せっかくなら大きい画面でやりたかった。音量を下げ、二つあるコントローラーの片方を机へ置いたところで、背後から声がした。
「天海、それこの前のやつ?」
振り向くと、彰人がソファの背へ片腕を乗せて画面を覗き込んでいた。黒いTシャツにはまだ畳まれていた時の折り目がうっすら残っている。
「違う。あれは一人用。こっちは対戦できる」
「じゃ、やろうぜ」
「説明くらい聞けよ」
「やりながらでいいだろ」
彰人は当然のように空いているコントローラーを取った。裕太も呆れながら自分の分を手に取る。
「言っとくけど、初見だからって手加減しないからな」
「頼んでないって。あと、この前みたいに負けて操作のせいにするとかなしな」
「一回しか言ってないだろ、それ」
「一回言ったなら十分だろ」
画面にコースが表示される。互いに小型の機体を動かし、障害物を避けながら先にゴールするだけなら簡単だが、道中のアイテムで相手の進路を邪魔できる。
一戦目は裕太が大差で勝った。
「おっそ」
「最初からコース知ってる奴が言うなよ!」
「矢印出てただろ」
「矢印見てたら壁来るんだって!」
「それでよく普段あんな速く走れるな」
「ゲームと一緒にすんな!」
彰人は文句を言いながら、もう再戦を選んでいた。負けたからやめるという発想は最初からないらしい。
二戦目では、最初の曲がり角から裕太の後ろへ食いついてきた。裕太が妨害アイテムを避けると、横から「今のずるくない?」と声が飛んでくる。
「仕様だよ」
「後ろ見えてんの?」
「右下」
「もっと早く言えよ!」
「聞かれてない」
彰人が睨んできたので、裕太は笑った。
「ふっふっふ。情報を見落とす方が悪い」
「その笑い方、アニメでしか聞いたことねぇな」
指が止まりかけたが、裕太は画面から目を離さなかった。
「……何だよ。悪いか」
「いや。ゲームで勝ってる時、めっちゃ楽しそうだなって」
「は?」
「ほら、壁」
「へ? ……あっ!?」
裕太の機体がコース脇へぶつかり、その横を彰人が抜けていく。
「お前……!」
「よっしゃ!」
「今のなしだろ!」
「話しかけられてミスる方が悪いんじゃなかったっけ?」
さっきの言葉をそのまま返され、裕太は舌打ちした。彰人は先頭でゴールすると、満足そうにコントローラーを掲げる。
「一勝一敗!」
「まだ同点だ。次で決める」
「いいや、俺が勝つね」
裕太は三戦目を選びながら、自分が思っていたより本気になっていることには気づかないふりをした。
*
次のコースを選んでいるところで、共用スペースの入口から零が入ってきた。飲み物を取りに来たらしく、片手にはコップを持っている。奥の娯楽スペースにいる二人へ気づくと、少し足を止めた。
「……ゲーム、してたんだ」
「おう。天海に一勝したとこ」
「まだ一勝一敗だ」
彰人にはすぐ返せたのに、零の視線がこちらへ来ると、裕太は少しだけ言葉を探した。
「……結城さんも、やりますか?」
口にしてから、コントローラーが二つしかないことを思い出す。
「今は空いてないけど。交代なら」
「ううん。ちょっと休みに来ただけだから。見ててもいい?」
「どうぞ」
彰人がソファに置いていたタオルをどけたが、零はそこには座らなかった。少し離れた肘掛けのない椅子を引き、翼の後ろが空くよう向きを調整してから腰を下ろす。
裕太も何も言わず、三戦目を始めた。二戦目でコースの見方を覚えた彰人は、さっきより露骨に後ろを狙ってくる。拾った妨害アイテムもすぐには使わず、裕太が曲がり角へ入るまで残していた。
「そこで使わないの?」
後ろから零に聞かれ、裕太は画面を見たまま答える。
「直線なら避けられるんです。曲がる前なら進む方が限られるから――」
「今!」
その瞬間、彰人がアイテムを投げた。
「うわ、最悪!」
裕太の機体が弾かれ、そのまま順位が入れ替わる。零が小さく笑った。
「説明してる間にやられたね」
「……見れば分かります」
少し強く返した後で、裕太は画面から目を離さずに唇を噛んだ。
けれど零は謝らなかった。コップを持ったまま画面を見て、少ししてから彰人へ言う。
「でも橘くん、さっきより上手くなってる」
「だろ?」
「一戦目がひどかっただけだ」
「天海までそこ認めるのかよ」
「事実だろ」
三戦目は彰人が僅差で勝った。
「二勝一敗!」
「俺が説明してなかったら負けてたからな」
「説明始めたのお前だろ」
「結城さんが聞いたから――」
そこまで出て裕太は止まった。責めるつもりはない。ただ、言い方だけならそう聞こえる。
「……いや。今のは別に、結城さんのせいって意味じゃなくて」
「うん。分かってる」
零はあっさり答えた。気まずさを消そうと無理に笑うこともない。
彰人がコントローラーを置いて立ち上がる。
「俺、飲み物買ってくる。天海、何かいる?」
「炭酸」
「自分で買えよ」
「聞いたのそっちだろ」
「何がいるか聞いただけで、奢るとは言ってない」
「ケチ」
「財布そこだろ」
足元を指され、裕太は仕方なく小銭を渡した。
「零は?」
「僕はこれあるから大丈夫」
「了解」
彰人が仕切りの向こうへ出ていくと、二人のいる一角が急に静かになった。テレビでは次のレースを待つ二台の機体が同じ動きを繰り返し、裕太はコントローラーを机へ置いた。
「……天海さん、こういうゲーム好きなんだね」
「まあ。家でも結構やってました。妹が勝手に俺の部屋から持っていくから、取り返すついでに一緒にやったり」
「妹さんいるんだ」
「いますよ。人の菓子まで勝手に食うやつですけど」
言ってから、玲奈ならこの場面を聞けば「ゲームもお菓子もちゃんと返してる」と反論するだろうと思った。
「仲いいんだね」
「……悪くはないです」
それ以上説明するのは照れくさく、裕太は画面へ目を戻した。零も家族のことを聞き続けず、テレビに映るコースを見る。
「これ、難しい?」
「最初は操作に慣れるまでちょっと。走るだけなら、そんなに」
「さっき橘くん、壁にぶつかってたけど」
「あいつが下手だっただけです」
「聞こえてるぞ!」
仕切りの向こうから彰人の声が返ってきた。
裕太と零は同時に仕切りの向こうを見た。少し遅れて、零が吹き出す。
「橘くん、耳いいね」
「声でかいだけだろ」
自分でも自然に出た返事だった。
彰人はまだ戻ってこない。裕太は机の上にある二つ目のコントローラーを見た。
「……一回、やってみます?」
零がこちらを見る。
「僕が?」
「嫌ならいいですけど。初心者用のコースあるし、走るだけならそんな難しくないから」
零はコントローラーと裕太を交互に見た。前なら、その間が長いだけで気まずくなっていたかもしれない。
「……じゃあ、一回だけ」
裕太は片方を取って零の近くの机へ置いた。手渡そうとはせず、そのまま画面を初心者用のコースへ切り替える。
「左で動かして、これで加速。こっちがアイテムです。最初は無視してもいいです」
「これ?」
「それ。あと曲がる時は――」
言いかけて、裕太は止まった。
「……まあ、一回やれば分かるか」
「急に説明やめたね」
「一気に言っても覚えられないでしょ」
「それは、たぶんそう」
零はコップを脇の机へ置き、コントローラーを持って指の位置を確かめた。スタートすると、零の機体は最初の直線だけなら普通に走った。だが一つ目の緩いカーブで外側へ膨らみ、そのまま柵へぶつかる。
「あ」
「戻せます。左、反対」
「反対……こっち?」
「そう。加速、一回離して」
「……止まった」
「止まりすぎです」
「難しい」
零は困った顔をしながらもコントローラーを置かず、二つ目のカーブは曲がれた。三つ目でまた壁へ当たり、裕太が「今度は早すぎ」と言うと、零が少しむっとする。
「さっき遅かったって言ったのに」
「同じ曲がり方じゃないから」
「そんなの知らないよ」
「だから今知ったんでしょ」
「……それもそうだけど」
言い返しながら零の機体がまた走り出し、ゴールした時には、裕太はとっくに一周以上先へ進んでいた。それでも零は結果画面を見て、少しだけ口元を緩めた。
「最後の方は、壁に当たらなかった」
「最初よりは」
「天海さんもそういう言い方するんだ」
「何がですか」
「橘くんと似てる」
「どこが!」
ちょうど戻ってきた彰人が、炭酸のボトルを持ったまま笑った。
「どした、零やったの?」
「一回だけ」
「どうだった?」
「難しかった。でも――」
零は画面の結果をもう一度見てから、裕太へ顔を向けた。
「もう一回やってもいい?」
裕太は一瞬だけ返事が遅れた。
「……いいですけど」
「よし。じゃあ次、俺とやろうぜ」
「橘くんはさっきまでやってたでしょ」
「だから今度は零と」
「天海さんに教えてもらってた途中だから、もう一回は天海さんとやる」
「え、俺待ち?」
「飲み物買いに行ったから」
「そんな理由ある?」
彰人が納得いかなそうにソファへ座るのを横目に、裕太は笑いそうになるのを堪えながら再戦を選んだ。
*
結局、零はもう一戦だけでは終わらなかった。
二戦目で最初のコースを完走し、三戦目では一度だけ裕太のすぐ後ろまで来た。アイテムを拾う余裕はまだなく、順位も勝負にならなかったが、壁へぶつかる回数は目に見えて減っている。
「零、そこ近道あるぞ」
「今それ言わないで。曲がるのでいっぱいだから」
「了解」
彰人は横から口を出しつつも、途中からは黙って見ていた。
裕太も必要な時だけ声をかける。最初の一戦みたいに、操作を全部説明する必要はなかった。
夕方の訓練予定が近づいたところで、零がコントローラーを机へ戻す。
「今日はここまでにする。ありがとう」
「別に。俺もやってたし」
「うん。またやってもいい?」
裕太は一瞬だけ画面を見た。
「……空いてれば」
「じゃあ、また今度」
零はコップを持って立ち上がる。扉へ向かう途中、彰人へも「またね」と声をかけてから部屋を出ていった。
彰人が隣から裕太を見る。
「天海」
「何だよ」
「ニヤけてる」
「は?」
「いや、何でもない」
「絶対何かあるだろ!」
彰人は笑いながら立ち上がり、着替えを取りに行くと言って逃げた。
*
一人になった娯楽スペースで、裕太はゲーム機を片づけ始めた。
その時、スマートフォンが震えた。
玲奈からだった。
『今日ゲームできる?』
続けて、猫がコントローラーを抱えているスタンプが送られてくる。
裕太はしばらく画面を見てから返した。
『今は無理。さっきまでこっちでゲームしてた』
ほとんど間を置かず返事が来る。
『誰と?』
裕太は少し迷って、
『橘と、結城さん』
と打った。
玲奈からの返事はさらに早かった。
『友達できた?』
指が止まった。
反射的に『違う』と打つ。
送信する直前で、その二文字を見た。
『違う』の二文字を見ていると、さっき零が言った「もう一回」が浮かんだ。送る気になれず、裕太は二文字を消した。
『あとでゲームする』
玲奈から『逃げた』と返ってくる。
「うるさい」
誰もいない部屋で呟きながら、裕太はゲーム機をケースへしまった。