エマージェント   作:kyomu

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第十六話「大丈夫」

 夏休みが終わり、学校にいつもの時間割が戻った頃。帰りの会の前の教室で、宵宮茜(よいみやあかね)は先生に呼ばれた。

 

 何か忘れ物をしただろうかと考えながら教卓へ行くと、先生は机の上から一枚の紙を差し出した。

 

「宵宮さん、この前出してくれた絵、校内の作品展示に選ばれたよ」

 

「……わたしの?」

 

「うん。来週から廊下に飾るからね。保護者の人も見られる時間があるから、これ、おうちの人に渡しておいて」

 

 受け取った案内には、展示の期間と、保護者が校内へ入れる時間が書かれていた。茜は二度読み返し、折り目がつかないように両手で持ったまま席へ戻る。

 

 近くの友達がすぐに紙へ気づいた。

 

「茜ちゃんの絵、選ばれたの?」

 

「うん」

 

「すごいじゃん。うちのお母さん、こういうの絶対見に来るって言うよ」

 

「わたしも前の時、お父さん来た」

 

 別の子まで話へ入り、誰が来るとか、どの辺に飾られるとか、そんな話がしばらく続いた。茜も一緒に笑っていたが、案内の端へ触れるたび、家のことが頭に浮かんだ。

 

 お母さんは、絵の話をするといつも手を止めて見てくれる。お父さんも、仕事から帰ってくると「今日は何描いた?」と聞いてくれることがある。

 

 二人が一緒に学校へ来て、自分の絵の前に立っているところを想像すると、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 

「茜は? お父さんとお母さん、どっち来るの?」

 

「……分かんない」

 

「両方来たらいいじゃん」

 

 茜は案内を連絡袋へしまいながら、小さく笑った。

 

「うん。二人とも来てくれたら、うれしいな」

 

     *

 

 家へ帰ると、母の琴音は居間の端に置いた仕事机へ向かっていた。画面の中にはまだ色のついていない人物の絵があり、ペンを持つ手だけが忙しく動いている。

 

「ただいま」

 

「おかえり。ごめんね、あとちょっとだけ待って。ここ保存したら区切れるから」

 

「うん」

 

 茜はランドセルを自分の部屋へ置き、手を洗ってから居間へ戻った。冷蔵庫から麦茶を出している間に、琴音が椅子を回して机から離れる。

 

「お待たせ。おやつにしよっか」

 

 棚から小さな菓子袋が出てくる。茜は受け取ったものの、開ける前に連絡袋の中の紙を思い出した。

 

「あのね、お母さん」

 

「ん?」

 

「絵、飾ってもらえるんだって」

 

 琴音は袋を置いた。

 

「学校で?」

 

「うん。この前描いたやつ」

 

「本当!? すごいじゃない!」

 

 すぐに笑ってくれたので、茜も笑った。ランドセルから案内を出すと、琴音は受け取り、展示の期間から保護者向けの時間まで順に目を通していく。

 

「これ、お父さんにも見せようね。お母さんも見たいな」

 

「……うん」

 

 その返事は、思っていたより小さくなった。琴音は気づかなかったのか、机の横に置いていたスマートフォンを取り、予定を確認する。何度か画面を動かしたところで、眉が少し寄った。

 

「この辺、ちょうど仕事が詰まってるなあ。でも、まだ日にちあるし、調整できるか見てみるね」

 

「忙しい?」

 

「ちょっとね。でも、行きたいから」

 

 その言葉は嬉しかった。それなのに、琴音の画面に並ぶ予定を見ていると、来てほしいとは言いづらくなった。

 

「無理しなくていいよ」

 

「まだ無理って決まってないよ」

 

「うん」

 

 琴音は茜の頭を軽く撫でると、また仕事机へ戻った。

 

「お父さん帰ってきたら、一緒に聞こう」

 

「分かった」

 

 茜は自分の部屋へ戻って宿題を開いたが、最初の一問へ鉛筆を置くまでに、少し時間がかかった。

 

     *

 

 父の蓮が帰ってきたのは、夕食の少し前だった。

 

「ただいま」

 

「おかえり」

 

 茜が玄関へ顔を出すと、蓮は鞄を置きながら「今日は早いだろ」と少し得意そうに言った。いつもよりは早い。それを聞いた琴音が、台所で味噌汁を温めながら返す。

 

「最近の中ではね」

 

「それ、褒めてる?」

 

「半分くらい」

 

「半分か〜」

 

 蓮は苦笑して手を洗いに行った。茜は二人のやり取りを聞きながら、テーブルへ箸を並べた。

 

 食事が始まり、味噌汁が半分ほど減ったところで琴音が茜を見る。

 

「茜、お父さんにあれ見せた?」

 

「まだ」

 

「あれ?」

 

 蓮が箸を止めたので、茜は椅子を降り、ランドセルから案内を取って戻った。

 

「わたしの絵、学校に飾られるんだって」

 

「お、本当か。やったな」

 

 紙を受け取った蓮は、案内より先に茜の顔を見た。それから保護者向けの時間を見つけ、もう一度読み返す。

 

「見に行けるんだな」

 

 その言い方が嬉しくて、茜はすぐに頷いた。

 

「その辺、仕事どう?」

 

 琴音に聞かれ、蓮の目が案内から離れる。

 

「まだ確定じゃないけど、午後に予定が入るかもしれない。午前なら……いや、移動を考えると微妙だな」

 

「私もその頃、納品前なんだよね」

 

「そうなのか」

 

「うん。今やってるのが少し押してて」

 

 二人とも怒ってはいなかった。ただ、さっきまで茜を見ていた顔が、自分たちの予定を考える顔へ変わっていた。

 

 茜は箸を置いた。

 

「来なくても大丈夫だよ」

 

 二人の視線が同時に戻ってくる。

 

「でも、茜は来てほしくないの?」

 

 琴音に聞かれ、茜は一瞬だけ答えに詰まった。

 

「……どっちでも大丈夫。学校で飾るだけだし、あとで持って帰ってくるから」

 

 蓮はまだ案内を手にしたままだった。

 

「本当に?」

 

「うん。お仕事あるなら、いいよ」

 

 蓮と琴音が顔を見合わせる。しばらくして、琴音が先に茜へ向き直った。

 

「じゃあ、まだ行かないって決めないでおくね。仕事の予定、見てみるから」

 

「俺も明日確認する。行けそうなら行くよ」

 

「うん」

 

 それで話は一度終わった。

 

 蓮が今日あった仕事の話を始め、琴音が途中で「ご飯冷めるよ」と止める。茜も味噌汁を飲み、二人が別のことで話しているうちに、案内はテーブルの端へ置かれた。

 

     *

 

 風呂を終えて部屋へ戻る前、茜は水を飲もうと台所へ向かった。

 

 居間には父と母がいた。テレビはついていたが、二人とも画面を見ていない。

 

「展示のこと、どうする?」

 

 琴音の声に、茜は廊下で足を止めた。

 

「明日会社で聞いてみる。琴音は?」

 

「私も進み次第かな。締め切りをずらせるかは先方にも確認しないと」

 

「そうか」

 

 冷蔵庫までは、あと数歩だった。

 

「俺、てっきり琴音が行けると思ってた」

 

「私? 私はあなたが午後ずらせるのかと思ってたんだけど」

 

「いや、俺の方は今ちょっと読めないんだよ」

 

「私だって同じだよ」

 

 声はまだ大きくない。それでも、夕食の時とは少しだけ違って聞こえた。

 

「でも、茜は大丈夫って言ってたし」

 

 蓮の言葉に、少し間があった。

 

「……そうね」

 

 琴音もそれ以上続けなかった。

 

 茜は冷蔵庫へ行くのをやめ、音を立てないように自分の部屋へ戻った。

 

 喉はまだ乾いていた。けれど今出ていけば、二人がまた展示の話をする気がした。そこで「二人とも来てほしい」と言えば、仕事をどうするかでまた困らせるかもしれない。

 

 机の横に座らせていたクマのぬいぐるみを膝へ載せ、茜はスケッチブックを開いた。鉛筆を持っても、しばらく線は引けなかった。

 

 学校で友達へ言った言葉が、まだ頭に残っている。

 

 二人とも来てくれたら、うれしい。

 

 昼にはそう思えた。

 

 茜はぬいぐるみを片腕で抱え直した。

 

 でも、そのために二人が困るなら、言わない方がいい。

 

 やがて白い紙へ鉛筆を置き、いつものように絵を描き始めた。少しして、居間からテレビの音が聞こえるようになる。

 

 茜は紙から目を上げなかった。

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