夏休みが終わり、学校にいつもの時間割が戻った頃。帰りの会の前の教室で、
何か忘れ物をしただろうかと考えながら教卓へ行くと、先生は机の上から一枚の紙を差し出した。
「宵宮さん、この前出してくれた絵、校内の作品展示に選ばれたよ」
「……わたしの?」
「うん。来週から廊下に飾るからね。保護者の人も見られる時間があるから、これ、おうちの人に渡しておいて」
受け取った案内には、展示の期間と、保護者が校内へ入れる時間が書かれていた。茜は二度読み返し、折り目がつかないように両手で持ったまま席へ戻る。
近くの友達がすぐに紙へ気づいた。
「茜ちゃんの絵、選ばれたの?」
「うん」
「すごいじゃん。うちのお母さん、こういうの絶対見に来るって言うよ」
「わたしも前の時、お父さん来た」
別の子まで話へ入り、誰が来るとか、どの辺に飾られるとか、そんな話がしばらく続いた。茜も一緒に笑っていたが、案内の端へ触れるたび、家のことが頭に浮かんだ。
お母さんは、絵の話をするといつも手を止めて見てくれる。お父さんも、仕事から帰ってくると「今日は何描いた?」と聞いてくれることがある。
二人が一緒に学校へ来て、自分の絵の前に立っているところを想像すると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「茜は? お父さんとお母さん、どっち来るの?」
「……分かんない」
「両方来たらいいじゃん」
茜は案内を連絡袋へしまいながら、小さく笑った。
「うん。二人とも来てくれたら、うれしいな」
*
家へ帰ると、母の琴音は居間の端に置いた仕事机へ向かっていた。画面の中にはまだ色のついていない人物の絵があり、ペンを持つ手だけが忙しく動いている。
「ただいま」
「おかえり。ごめんね、あとちょっとだけ待って。ここ保存したら区切れるから」
「うん」
茜はランドセルを自分の部屋へ置き、手を洗ってから居間へ戻った。冷蔵庫から麦茶を出している間に、琴音が椅子を回して机から離れる。
「お待たせ。おやつにしよっか」
棚から小さな菓子袋が出てくる。茜は受け取ったものの、開ける前に連絡袋の中の紙を思い出した。
「あのね、お母さん」
「ん?」
「絵、飾ってもらえるんだって」
琴音は袋を置いた。
「学校で?」
「うん。この前描いたやつ」
「本当!? すごいじゃない!」
すぐに笑ってくれたので、茜も笑った。ランドセルから案内を出すと、琴音は受け取り、展示の期間から保護者向けの時間まで順に目を通していく。
「これ、お父さんにも見せようね。お母さんも見たいな」
「……うん」
その返事は、思っていたより小さくなった。琴音は気づかなかったのか、机の横に置いていたスマートフォンを取り、予定を確認する。何度か画面を動かしたところで、眉が少し寄った。
「この辺、ちょうど仕事が詰まってるなあ。でも、まだ日にちあるし、調整できるか見てみるね」
「忙しい?」
「ちょっとね。でも、行きたいから」
その言葉は嬉しかった。それなのに、琴音の画面に並ぶ予定を見ていると、来てほしいとは言いづらくなった。
「無理しなくていいよ」
「まだ無理って決まってないよ」
「うん」
琴音は茜の頭を軽く撫でると、また仕事机へ戻った。
「お父さん帰ってきたら、一緒に聞こう」
「分かった」
茜は自分の部屋へ戻って宿題を開いたが、最初の一問へ鉛筆を置くまでに、少し時間がかかった。
*
父の蓮が帰ってきたのは、夕食の少し前だった。
「ただいま」
「おかえり」
茜が玄関へ顔を出すと、蓮は鞄を置きながら「今日は早いだろ」と少し得意そうに言った。いつもよりは早い。それを聞いた琴音が、台所で味噌汁を温めながら返す。
「最近の中ではね」
「それ、褒めてる?」
「半分くらい」
「半分か〜」
蓮は苦笑して手を洗いに行った。茜は二人のやり取りを聞きながら、テーブルへ箸を並べた。
食事が始まり、味噌汁が半分ほど減ったところで琴音が茜を見る。
「茜、お父さんにあれ見せた?」
「まだ」
「あれ?」
蓮が箸を止めたので、茜は椅子を降り、ランドセルから案内を取って戻った。
「わたしの絵、学校に飾られるんだって」
「お、本当か。やったな」
紙を受け取った蓮は、案内より先に茜の顔を見た。それから保護者向けの時間を見つけ、もう一度読み返す。
「見に行けるんだな」
その言い方が嬉しくて、茜はすぐに頷いた。
「その辺、仕事どう?」
琴音に聞かれ、蓮の目が案内から離れる。
「まだ確定じゃないけど、午後に予定が入るかもしれない。午前なら……いや、移動を考えると微妙だな」
「私もその頃、納品前なんだよね」
「そうなのか」
「うん。今やってるのが少し押してて」
二人とも怒ってはいなかった。ただ、さっきまで茜を見ていた顔が、自分たちの予定を考える顔へ変わっていた。
茜は箸を置いた。
「来なくても大丈夫だよ」
二人の視線が同時に戻ってくる。
「でも、茜は来てほしくないの?」
琴音に聞かれ、茜は一瞬だけ答えに詰まった。
「……どっちでも大丈夫。学校で飾るだけだし、あとで持って帰ってくるから」
蓮はまだ案内を手にしたままだった。
「本当に?」
「うん。お仕事あるなら、いいよ」
蓮と琴音が顔を見合わせる。しばらくして、琴音が先に茜へ向き直った。
「じゃあ、まだ行かないって決めないでおくね。仕事の予定、見てみるから」
「俺も明日確認する。行けそうなら行くよ」
「うん」
それで話は一度終わった。
蓮が今日あった仕事の話を始め、琴音が途中で「ご飯冷めるよ」と止める。茜も味噌汁を飲み、二人が別のことで話しているうちに、案内はテーブルの端へ置かれた。
*
風呂を終えて部屋へ戻る前、茜は水を飲もうと台所へ向かった。
居間には父と母がいた。テレビはついていたが、二人とも画面を見ていない。
「展示のこと、どうする?」
琴音の声に、茜は廊下で足を止めた。
「明日会社で聞いてみる。琴音は?」
「私も進み次第かな。締め切りをずらせるかは先方にも確認しないと」
「そうか」
冷蔵庫までは、あと数歩だった。
「俺、てっきり琴音が行けると思ってた」
「私? 私はあなたが午後ずらせるのかと思ってたんだけど」
「いや、俺の方は今ちょっと読めないんだよ」
「私だって同じだよ」
声はまだ大きくない。それでも、夕食の時とは少しだけ違って聞こえた。
「でも、茜は大丈夫って言ってたし」
蓮の言葉に、少し間があった。
「……そうね」
琴音もそれ以上続けなかった。
茜は冷蔵庫へ行くのをやめ、音を立てないように自分の部屋へ戻った。
喉はまだ乾いていた。けれど今出ていけば、二人がまた展示の話をする気がした。そこで「二人とも来てほしい」と言えば、仕事をどうするかでまた困らせるかもしれない。
机の横に座らせていたクマのぬいぐるみを膝へ載せ、茜はスケッチブックを開いた。鉛筆を持っても、しばらく線は引けなかった。
学校で友達へ言った言葉が、まだ頭に残っている。
二人とも来てくれたら、うれしい。
昼にはそう思えた。
茜はぬいぐるみを片腕で抱え直した。
でも、そのために二人が困るなら、言わない方がいい。
やがて白い紙へ鉛筆を置き、いつものように絵を描き始めた。少しして、居間からテレビの音が聞こえるようになる。
茜は紙から目を上げなかった。