作品展示の保護者公開を翌日に控えた日、茜は帰りの会が終わっても、すぐにはランドセルを背負わなかった。
廊下では展示の準備がもう終わっている。教室を出れば、自分の絵が掛かっている場所の前を通ることになる。昨日までは何度も見に行ったのに、今日は友達に誘われても首を振った。
「茜ちゃん、見てかないの?」
「昨日見たから、いい」
「明日、お母さん来るんだっけ?」
「……まだ分かんない」
「そっか。うちはお父さん来るって」
友達はそれ以上聞かず、「じゃあまた明日」と手を振った。茜も振り返し、少し遅れて教室を出る。
展示のある廊下へ出ると、自分の絵は嫌でも目に入った。
夕方の公園を描いた絵だった。ベンチの近くに三人の人がいて、真ん中の小さな子を両側の大人が見ている。描いていた時はそこまで考えていなかったのに、今は父と母と自分に見えた。
茜は足を止めず、その前を通り過ぎた。
*
家に帰っても、展示のことは聞かなかった。
母の琴音は仕事机へ向かっていて、父の蓮からは「少し遅くなる」と連絡が来ていた。茜は宿題を終え、夕食の手伝いをして、いつものように食卓へつく。
蓮が帰ってきた頃には、味噌汁を一度温め直していた。
「遅くなった。悪い」
「おかえり。先に食べててもよかったんだけど」
「三人で食べられる時間なら、まだいいだろ」
蓮が上着を脱ぎ、茜の頭を軽く撫でてから手を洗いに行く。その手がいつも通りだったので、茜は少しだけ安心した。
食卓へ戻った蓮は、最初の一口を食べてから琴音へ顔を向けた。
「そうだ。明日の展示、琴音は何時くらいに行く?」
琴音の箸が止まった。
「え。蓮が行くんじゃなかったの?」
「俺? 午後は外せないって分かったから、琴音が行けるのかと思ってた」
「私も納品前だって言ったよね」
「聞いたけど、少しくらい時間ずらせるのかと」
「その少しを作るのが難しいんだってば」
声はまだ大きくない。それでも、茜には二人が同じつもりで話していなかったことだけは分かった。
「じゃあ午前は?」
「打ち合わせがあるの。蓮こそ、午前ならって言ってなかった?」
「移動まで入れたら間に合わないんだよ」
茜はご飯を口へ運んだ。噛んでも、味がよく分からなかった。
こういう時、最初は本当に小さな話だったはずなのに、いつの間にか別の不満まで混ざる。洗濯物を誰が取り込むか、買い物をどちらが済ませるか、休日にどちらが茜と出かけるか。前にも何度か、似たような空気になったことがあった。
「今週、俺だってずっと遅いんだ。家のこと任せてるのは分かってるけど――」
「分かってるなら、今その言い方しないでよ」
「だから責めてるんじゃなくて」
「じゃあ何なの?」
茜は箸を置いた。
「わたし、本当に大丈夫だよ」
二人の声が止まった。
琴音が先に茜を見る。
「茜、ごめん。今あなたに言ってるんじゃないの」
「うん。分かってる」
蓮も息を吐き、少し声を落とした。
「明日のことは、もう少し考えるから」
「いいよ」
「でも――」
「ほんとに大丈夫だから」
茜は笑おうとした。上手くできているか分からなかった。
「学校で見るだけだし、絵もあとで持って帰ってくるから」
琴音が何か言おうとしたが、茜は先に箸を取り直した。
「ご飯、冷めちゃうよ」
琴音がよく言う言葉を使うと、二人ともそれ以上続けなかった。
*
夕食の後、茜は自分の部屋へ戻った。
机の上にはクマのぬいぐるみが座っている。宿題はもう終わっていたので、茜はスケッチブックを開き、何を描くか決めないまま鉛筆を持った。
しばらくして、居間から二人の声が聞こえた。
大きな声ではない。扉も閉めている。それでも、自分の名前だけは聞き取れた。
「……結局、明日どうする?」
「もう一回会社で聞く。琴音は?」
「私も朝にならないと分からないよ」
少し間が空いた。
「俺、琴音が行けると思ってたんだけどな」
「私だって、蓮が午前なら何とかするのかと思ってた」
「……茜、大丈夫って言ってたし」
鉛筆が止まった。
「それ、本当に大丈夫って意味だったのかな」
「聞いたんだろ?」
「聞いたよ。大丈夫って答えたの」
「じゃあ俺だって、それでいいと思うだろ」
「そうなんだけど……」
その先は小さくなって、よく聞こえなかった。
茜は鉛筆を机へ置いた。
自分が大丈夫と言ったから、二人は大丈夫だと思った。それなのに、そのことで二人はまだ困っている。
胸の奥がぎゅっと縮んだ。
学校で友達に聞かれた時も、母に案内を見せた時も、父が「見に行けるんだな」と言った時も、本当は来てほしかった。ただ、それを言ったせいで二人がこんな話をするなら、最初から言わない方がよかったのかもしれない。
茜は机の横へ手を伸ばし、クマのぬいぐるみを膝へ引き寄せた。
「……わたしが何も言わなければいいんだ」
声にした途端、胸の奥が熱くなった。
息を吸おうとしても、空気がうまく入ってこない。手の中のぬいぐるみを抱きしめると、指先までじんと熱が広がった。
「……なに、これ」
怖くなって立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、その音に重なるように、部屋の中で何か重いものが落ちたような鈍い音がした。
茜が振り返ると、ベッドと扉の間に、さっきまでいなかったものが立っていた。
「……え」
クマだった。けれど、手の中のぬいぐるみはそのまま茜の腕にある。目の前のクマは成人の男くらいの背丈があり、丸い頭と太い腕を持っていた。表面は布のように柔らかそうなのに、床へ置かれた足は重く、黒い目がじっと茜を見ている。
「……だれ?」
茜は動けないまま問いかけたが、返事はなかった。大きなクマは首を少し傾けただけだった。そこへ廊下から足音が近づく。
「茜?」
母の声に肩が跳ねた。
「さっき、何か落とした? 大丈夫?」
扉の向こうからノックがした。
茜は返事をしようとしたが、目の前のクマを見た途端、喉が閉じた。今これを見られたら、また二人を困らせる。さっきまで自分のことで話していたのに、今度はもっと大変なことになる。
「……来ないで」
ほとんど息だけの声だった。扉の向こうには届いていない。
「茜、入るよ?」
取っ手が動いた瞬間、大きなクマが茜と扉の間へ一歩入り、太い両腕を広げた。
「え、待って……」
扉が少し開き、琴音の顔が覗いた。次の瞬間、その表情が固まり、大きなクマがさらに前へ出る。
「……茜?」
「お母さん、待って! わたし、これ知らな――」
言い切る前に、足元で白いものが跳ねた。視線を落とすと、小さなぬいぐるみのようなウサギが一体、床の上に立っている。それを見ている間に、もう一体がベッドの脇へ現れた。
「……やだ」
茜は手の中のクマを抱きしめる。
「増えないで……」
けれど、三体目のウサギが机の下から跳び出した。