エマージェント   作:kyomu

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第十七話「言わなければ」

 作品展示の保護者公開を翌日に控えた日、茜は帰りの会が終わっても、すぐにはランドセルを背負わなかった。

 

 廊下では展示の準備がもう終わっている。教室を出れば、自分の絵が掛かっている場所の前を通ることになる。昨日までは何度も見に行ったのに、今日は友達に誘われても首を振った。

 

「茜ちゃん、見てかないの?」

 

「昨日見たから、いい」

 

「明日、お母さん来るんだっけ?」

 

「……まだ分かんない」

 

「そっか。うちはお父さん来るって」

 

 友達はそれ以上聞かず、「じゃあまた明日」と手を振った。茜も振り返し、少し遅れて教室を出る。

 

 展示のある廊下へ出ると、自分の絵は嫌でも目に入った。

 

 夕方の公園を描いた絵だった。ベンチの近くに三人の人がいて、真ん中の小さな子を両側の大人が見ている。描いていた時はそこまで考えていなかったのに、今は父と母と自分に見えた。

 

 茜は足を止めず、その前を通り過ぎた。

 

     *

 

 家に帰っても、展示のことは聞かなかった。

 

 母の琴音は仕事机へ向かっていて、父の蓮からは「少し遅くなる」と連絡が来ていた。茜は宿題を終え、夕食の手伝いをして、いつものように食卓へつく。

 

 蓮が帰ってきた頃には、味噌汁を一度温め直していた。

 

「遅くなった。悪い」

 

「おかえり。先に食べててもよかったんだけど」

 

「三人で食べられる時間なら、まだいいだろ」

 

 蓮が上着を脱ぎ、茜の頭を軽く撫でてから手を洗いに行く。その手がいつも通りだったので、茜は少しだけ安心した。

 

 食卓へ戻った蓮は、最初の一口を食べてから琴音へ顔を向けた。

 

「そうだ。明日の展示、琴音は何時くらいに行く?」

 

 琴音の箸が止まった。

 

「え。蓮が行くんじゃなかったの?」

 

「俺? 午後は外せないって分かったから、琴音が行けるのかと思ってた」

 

「私も納品前だって言ったよね」

 

「聞いたけど、少しくらい時間ずらせるのかと」

 

「その少しを作るのが難しいんだってば」

 

 声はまだ大きくない。それでも、茜には二人が同じつもりで話していなかったことだけは分かった。

 

「じゃあ午前は?」

 

「打ち合わせがあるの。蓮こそ、午前ならって言ってなかった?」

 

「移動まで入れたら間に合わないんだよ」

 

 茜はご飯を口へ運んだ。噛んでも、味がよく分からなかった。

 

 こういう時、最初は本当に小さな話だったはずなのに、いつの間にか別の不満まで混ざる。洗濯物を誰が取り込むか、買い物をどちらが済ませるか、休日にどちらが茜と出かけるか。前にも何度か、似たような空気になったことがあった。

 

「今週、俺だってずっと遅いんだ。家のこと任せてるのは分かってるけど――」

 

「分かってるなら、今その言い方しないでよ」

 

「だから責めてるんじゃなくて」

 

「じゃあ何なの?」

 

 茜は箸を置いた。

 

「わたし、本当に大丈夫だよ」

 

 二人の声が止まった。

 

 琴音が先に茜を見る。

 

「茜、ごめん。今あなたに言ってるんじゃないの」

 

「うん。分かってる」

 

 蓮も息を吐き、少し声を落とした。

 

「明日のことは、もう少し考えるから」

 

「いいよ」

 

「でも――」

 

「ほんとに大丈夫だから」

 

 茜は笑おうとした。上手くできているか分からなかった。

 

「学校で見るだけだし、絵もあとで持って帰ってくるから」

 

 琴音が何か言おうとしたが、茜は先に箸を取り直した。

 

「ご飯、冷めちゃうよ」

 

 琴音がよく言う言葉を使うと、二人ともそれ以上続けなかった。

 

     *

 

 夕食の後、茜は自分の部屋へ戻った。

 

 机の上にはクマのぬいぐるみが座っている。宿題はもう終わっていたので、茜はスケッチブックを開き、何を描くか決めないまま鉛筆を持った。

 

 しばらくして、居間から二人の声が聞こえた。

 

 大きな声ではない。扉も閉めている。それでも、自分の名前だけは聞き取れた。

 

「……結局、明日どうする?」

 

「もう一回会社で聞く。琴音は?」

 

「私も朝にならないと分からないよ」

 

 少し間が空いた。

 

「俺、琴音が行けると思ってたんだけどな」

 

「私だって、蓮が午前なら何とかするのかと思ってた」

 

「……茜、大丈夫って言ってたし」

 

 鉛筆が止まった。

 

「それ、本当に大丈夫って意味だったのかな」

 

「聞いたんだろ?」

 

「聞いたよ。大丈夫って答えたの」

 

「じゃあ俺だって、それでいいと思うだろ」

 

「そうなんだけど……」

 

 その先は小さくなって、よく聞こえなかった。

 

 茜は鉛筆を机へ置いた。

 

 自分が大丈夫と言ったから、二人は大丈夫だと思った。それなのに、そのことで二人はまだ困っている。

 

 胸の奥がぎゅっと縮んだ。

 

 学校で友達に聞かれた時も、母に案内を見せた時も、父が「見に行けるんだな」と言った時も、本当は来てほしかった。ただ、それを言ったせいで二人がこんな話をするなら、最初から言わない方がよかったのかもしれない。

 

 茜は机の横へ手を伸ばし、クマのぬいぐるみを膝へ引き寄せた。

 

「……わたしが何も言わなければいいんだ」

 

 声にした途端、胸の奥が熱くなった。

 

 息を吸おうとしても、空気がうまく入ってこない。手の中のぬいぐるみを抱きしめると、指先までじんと熱が広がった。

 

「……なに、これ」

 

 怖くなって立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、その音に重なるように、部屋の中で何か重いものが落ちたような鈍い音がした。

 

 茜が振り返ると、ベッドと扉の間に、さっきまでいなかったものが立っていた。

 

「……え」

 

 クマだった。けれど、手の中のぬいぐるみはそのまま茜の腕にある。目の前のクマは成人の男くらいの背丈があり、丸い頭と太い腕を持っていた。表面は布のように柔らかそうなのに、床へ置かれた足は重く、黒い目がじっと茜を見ている。

 

「……だれ?」

 

 茜は動けないまま問いかけたが、返事はなかった。大きなクマは首を少し傾けただけだった。そこへ廊下から足音が近づく。

 

「茜?」

 

 母の声に肩が跳ねた。

 

「さっき、何か落とした? 大丈夫?」

 

 扉の向こうからノックがした。

 

 茜は返事をしようとしたが、目の前のクマを見た途端、喉が閉じた。今これを見られたら、また二人を困らせる。さっきまで自分のことで話していたのに、今度はもっと大変なことになる。

 

「……来ないで」

 

 ほとんど息だけの声だった。扉の向こうには届いていない。

 

「茜、入るよ?」

 

 取っ手が動いた瞬間、大きなクマが茜と扉の間へ一歩入り、太い両腕を広げた。

 

「え、待って……」

 

 扉が少し開き、琴音の顔が覗いた。次の瞬間、その表情が固まり、大きなクマがさらに前へ出る。

 

「……茜?」

 

「お母さん、待って! わたし、これ知らな――」

 

 言い切る前に、足元で白いものが跳ねた。視線を落とすと、小さなぬいぐるみのようなウサギが一体、床の上に立っている。それを見ている間に、もう一体がベッドの脇へ現れた。

 

「……やだ」

 

 茜は手の中のクマを抱きしめる。

 

「増えないで……」

 

 けれど、三体目のウサギが机の下から跳び出した。

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