大きなクマが一歩前へ出た。
扉の向こうで、母が開きかけた扉から手を離すのが茜にも見えた。自分の前へ入り込んだクマは、太い両腕を広げたまま動かない。殴りかかってはいない。それでも、あの大きな身体がある限り、母は茜のところまで来られなかった。
「分かった。お母さん、入らないから」
琴音は手のひらが見えるよう両手を少し上げ、そのまま一歩だけ後ろへ下がった。
「茜、怪我してない?」
「……してない」
「苦しいところは?」
「ない……けど、これ、分かんない。わたし、出してないのに」
茜が膝の上のクマのぬいぐるみを抱き直した時、足元を白い影が横切った。
さっき現れたウサギの一体だった。開いた扉の隙間を抜け、そのまま廊下へ走っていく。琴音が反射的に身体を引くと、もう一体も後を追った。
「琴音?」
居間の方から蓮が来た。
廊下を駆けるウサギに足を止め、それから開いた扉の向こうを見る。クマを見つけた瞬間、表情が変わった。
「……何だ、それ」
「分からない。茜のところに急に出てきて……蓮、待って」
琴音が止めるより先に、蓮は茜の顔を確かめようと半歩前へ出た。
クマが動いた。
腕を振り上げるのではなく、茜を隠すように身体を横へずらす。蓮はすぐに足を止めた。
「……近づくと動くのか」
「お父さん、違うの。わたし、これ知らない」
「ああ。分かってる。茜のせいだって言ってるんじゃない」
蓮はしゃがもうとして、クマが再び動きかけたのを見てやめた。
「俺はここから行かない。大丈夫だ」
大丈夫。
その言葉に、茜の指がぬいぐるみへ少し食い込んだ。
廊下ではウサギが壁際を走り回っている。二体だったはずなのに、気づけばもう一体増えていた。茜はそちらを見て「止まって」と言ったが、一体が一瞬振り向いただけで、別の一体は玄関の方へ駆けていく。
「違う。そっちじゃなくて……」
言っている間に、机の下からまた白い耳が見えた。
茜は息を詰めた。
「増えないで……」
返事の代わりに、天井近くで羽音がした。
カーテンレールの上に、小さな鳥が一羽とまっている。布でできたような丸い身体を揺らし、次の瞬間には扉へ向かって飛んだ。
「お母さん……」
「いるよ」
琴音はすぐに返した。
「ここにいるから」
鳥が廊下へ抜けたところで、蓮がポケットからスマートフォンを出した。
「警察に連絡する。エマージェントの発現かもしれないって伝えて、AEGISにも回してもらう」
琴音は茜から目を離せないまま頷いた。
蓮が少し離れた場所で通報を始める。住所と、娘が九歳であること、見たことのない生き物のようなものが突然現れたこと、本人も制御できていないらしいことを説明している声が聞こえた。
その声を聞くほど、茜の胸が苦しくなった。
お父さんが電話をして、お母さんは廊下から動けず、知らないものが家の中を走り回っている。その全部が、自分の部屋から始まっていた。
「……ごめんなさい」
琴音の眉が動いた。
「茜?」
「わたし、止めるから」
「大丈夫よ。一人で何とかしなくていいの。お父さんが人を呼んでるから」
「でも……」
廊下の奥から蓮が戻ってきた。
「外で待つように言われた。無理に近づかないで、家から出られるなら出ろって」
琴音はすぐには動かなかった。
「……茜を一人にするの?」
「家の中に俺たちがいるせいで、あれがずっと警戒してる可能性もある」
蓮の声も、言い切ったようには聞こえなかった。
クマは二人が廊下にいる間、ずっと茜との間を塞いでいる。
琴音はしばらくその場にいたが、やがて扉の向こうへ声をかけた。
「……茜。お母さんとお父さん、玄関の外まで下がるね」
「……やだ」
琴音の足が止まった。
茜自身も、口から出てから驚いた。
クマがわずかに身じろぎする。
琴音は廊下へ戻りかけた足を、その場に留めた。
「じゃあ、外にいるね。いなくならない。玄関のすぐ前にいるから、お母さんの声が聞こえたら返事して」
「……うん」
「怖くなったら呼んで。上手く説明できなくてもいいから」
茜は小さく頷いた。
琴音と蓮がゆっくり玄関へ向かうと、クマは追わなかった。ただ、廊下にいたウサギたちは二人の足音へ反応するように一斉に動き、開いた玄関から外へ飛び出していった。
鳥も一羽、その上を抜ける。
玄関が閉まりかけたところで、茜はもう一度「お母さん」と呼んだ。
「大丈夫。ちゃんといるよ」
外からすぐ返事が来た。だが、家の中は急に広くなったように感じた。
*
琴音は門の外まで下げられても、家の玄関から目を離せなかった。
最初に来た警察官は事情を聞きながら周囲の住民を家の中へ戻し、道路へ簡易の規制を出した。ウサギは人へ飛びかかってはいない。ただ、玄関先や道路を不規則に横切るため、知らずに入ってきた自転車や車が避ければ事故になる。
警察官の一人が家へ近づこうとした時には、上空を回っていた鳥が低く降り、顔の前を横切った。
警察官は腕で顔を庇いながら数歩下がった。鳥は追撃せず、そのまま家の上へ戻っていく。
「やっぱり、中へ近づく動きに反応してますね」
少し遅れて到着したAEGISの職員が言った。
琴音には、それが制服なのか作業服なのかもよく分からなかった。何人かが警察と短く言葉を交わし、一人は離れた場所から家の様子を確認している。誰も、いきなり中へ踏み込もうとはしなかった。
「捕まえたりはしないんですか」
蓮が訊いた。
「必要になれば対応します。ただ、今のところ積極的に人を襲ってはいません。それに、壊したり捕まえたりすれば終わる現象なのかも分かっていません」
職員は道路を走るウサギへ目を向けた。
「まず人を近づけない。車を入れない。娘さんへ刺激を増やさない。それを優先します」
「でも、茜は中に一人なんです」
「はい。だから会話は続けます」
別の女性職員が琴音のそばへ来た。
「娘さん、さっきまでこちらの声には返事できていましたか」
「できます。怖がってますけど、話はできます」
「あの子たちに、何か言っていました?」
「『止まって』とか、『増えないで』って。本人もどうしたらいいか分かってないみたいで」
琴音はそこまで言って、唇を噛んだ。
「私たちが近づいたら、あの大きいクマが前に出ました。でも、殴られたわけじゃありません。茜がやらせたのかも、分からなくて」
「今は原因まで決めなくていいです。見たことだけ教えてください」
女性職員は一度家へ視線を戻してから、続けた。
「この現象が始まる直前に、娘さんが強く怖がるようなことはありましたか」
琴音はすぐに答えられなかった。
隣にいる蓮を見る。
蓮もこちらを見た。
夕食の時の言い合い。部屋へ戻った茜。その後も、二人で同じ話を続けた。
「……私たちが、喧嘩してました」
口にすると、思っていたより声が掠れた。
「茜の学校のことで」
蓮が続ける。
「本人は大丈夫って言ってたんです。俺たちも一度確認して、それで……」
最後まで言わず、家へ顔を向けた。
女性職員は二人を責めるようなことは言わなかった。
「その話も担当へ共有します。ただ、今は娘さん本人が何を怖がっているのか、こちらから決めつけないようにします」
琴音は頷いた。
家の屋根の上へ、また白い鳥が一羽増えた。
*
裕太が凛に呼ばれたのは、その少し後だった。
自室で学校の課題を開いていたところへ端末が鳴り、指定された小会議室へ行く。中には凛しかいなかった。
「座って。先に言っとくけど、現場に出ろって話じゃない」
裕太は椅子を引きながら、机の上のタブレットを見る。
「じゃあ、何ですか」
「発現したばかりの子が、能力を止められなくなってる。九歳。現場は警察とAEGISで封鎖済み。本人は怪我してないし、今のところ大きな怪我人も出てない」
凛は必要なところまで話し、タブレットを裕太の方へ向けた。
住宅の前に警察車両が停まり、規制線の内側を白いウサギが走っている。屋根の周りには鳥が数羽飛び、玄関の奥には時々、大きな丸い影が見えた。
「本人も止めたいって言ってる。でも増えてる」
裕太の指が膝の上で止まった。
「……俺みたいに?」
「分からん」
凛はすぐに答えた。
「止めたいのに止められないってところは似てる。能力の仕組みも、そうなった理由も同じとは限らない」
「じゃあ、何で俺に?」
「現場側だけじゃ拾いにくいこともある。止められなかった時、何がきつかったか、どう考えてたか。お前の経験から気づくことがあれば聞きたい」
凛はそこで言葉を切った。
「意見を聞くだけ。現場のやり方をお前に決めさせる気はない」
「……分かりました」
映像の中で、ウサギが二体、職員の置いた簡易柵の前を横切った。誰も追わない。鳥が近づけば職員は少し下がり、また距離を取る。
自分の時とは、見た目も動きもまるで違う。
それでも、「止めたいのに止まらない」という言葉だけが引っかかった。
あの時の自分も、最後には止めたかった。
最初は違った。もっと増やしても大丈夫だと思ったし、自分なら扱えるつもりだった。けれど数が増え、あちこちへ意識を向けるうちに、どれへ何をさせているのかが崩れていった。
全部を一度に戻そうとして、余計に分からなくなった。
「本人、何て言ってるんですか」
「現場から来てるのは、『増えないで』『止まって』。あとは両親へ『分からない』って言ってるくらいだ」
凛はそこで口を閉じた。
裕太は画面を見ながら考えた。
「……一気に全部止めようとしてるなら、余計に混ざってるのかもしれない」
「どうする?」
「俺だったら、一個に絞ります」
言ってから、裕太は少し考え直す。
「いや……俺の時と同じなら、ですけど」
凛は急かさなかった。
「目の前の一体だけ見て、それだけ止める。全部じゃなくて。一体できたら、何をした時に通ったのか分かるかもしれない」
自分の時に、それができていれば。
そんな考えが頭をよぎった。
凛はタブレットを引き寄せる。
「現場に案として回す。やらせるかは向こうで決める」
「はい」
「あと、失敗したらすぐ切る」
裕太が顔を上げる。
「一回失敗しただけで?」
「九歳だぞ。正しい練習法を探してるんじゃない。今この場を悪化させないのが先だ」
「……そうですね」
凛は現場との通話を開いた。
裕太の言葉をそのまま読み上げることはせず、「一体へ対象を絞る案がある」とだけ伝える。向こうから何度か返事があり、本人への声かけは両親と担当職員で決めることになった。
裕太はそのやり取りを黙って聞いていた。
自分の考えが採用されたことより、画面の中で動き続ける白い影の方が気になった。
*
「茜。聞こえる?」
玄関の外から母の声がして、茜はベッドの端に座ったまま顔を上げた。
「……聞こえる」
「全部を一度に止めなくていいって。近くにいる子、一匹だけ見られる?」
床には、もう何体いるのか分からないほどウサギがいた。部屋の中を走り回るものもいれば、開いた扉から廊下へ出ていくものもいる。その全部をどうにかしなくていいのなら、自分にもできるかもしれない。茜は机の脚の近くを走っている一体へ目を向けた。
「……止まって」
ウサギはそのまま走り続ける。茜は膝の上のクマを強く抱き、今度は他の白い影を追わないよう、その一体だけを目で追った。
「この子。止まって」
もう一度呼びかけると、ウサギの足が止まった。机のそばで耳を立てたままこちらを見る姿に、茜は思わず息を吸う。
「……止まった」
「うん。止まったね」
外から返ってきた母の声を聞いて、胸を締めつけていたものがほんの少し緩んだ。
できた。
その安心は長く続かなかった。一匹を止められたのなら、次も止めなければならない。そう考えた時には、茜の目はもう別のウサギを探していた。
「次……」
「茜、今はその一匹だけで――」
母の言葉を最後まで聞かず、茜はベッドの脇を走る二体目へ目を向けた。
「止まって」
今度のウサギは走り続けた。
「止まってってば」
声を重ねても止まらず、そのままベッドの下へ潜っていく。代わりに反対側から別の一体が飛び出してきた。さっきと同じように言っているのに通じない。そのことだけで、一度ほどけかけた胸の奥がまた強く縮んだ。
「待って。今やるから」
誰に向かって言っているのか、自分でも分からないまま、新しく現れた一体へ視線を移す。
「この子……止まって」
その時、廊下から羽音が聞こえた。一羽だった音へすぐに別の羽音が重なり、窓の外を白い影が横切る。
「違う。増えてほしいんじゃないの」
慌てて最初のウサギを探すと、止まっていたはずの一体まで、いつの間にかまた走り出していた。
「なんで……」
「茜、もういいよ!」
母の声が少し大きくなる。
「今はもう止めなくていいから。茜、聞こえる?」
「でも、わたしがやらないと」
「違うよ。今は――」
「ちゃんとするから!!」
自分でも驚くほど大きな声が出て、茜はびくりと身体を震わせた。窓の外では白い鳥がさらに増え、廊下から聞こえる小さな足音も途切れない。
止めなければ。自分がちゃんとすれば終わる。そう思うのに、焦るほど何を見ればいいのか分からなくなる。
「ちゃんと止めるから……だから、待って……」
茜はクマのぬいぐるみを抱え込むようにして、そこへ顔を伏せた。
*
タブレットの映像では、家の上を飛ぶ鳥の数が明らかに増えていた。
『声かけ、一度止めます。これ以上操作させません』
現場から報告が入り、凛は短く了承した。
「そのまま封鎖維持。本人には、何もしなくていいって伝えて」
『了解』
裕太は画面から目を離せなかった。
一体目は止まった。自分が考えた方法が、何もかも外れていたわけではない。それなのに、その成功を境に茜はむしろ崩れていった。スピーカーから小さく届いた「ちゃんと止めるから」という声が、妙に耳へ残る。
自分が暴走した時も、止められなくなって怖かった。それでも最初の自分は、もっと扱えると思って自分から数を増やしたのだ。失敗する前から、「ちゃんとしなきゃ」と自分を追い立てていたわけではない。
「……九条さん」
「ん?」
裕太はすぐには続けなかった。何が違うのか、まだ言葉にはできない。ただ、自分の失敗をそのまま重ねていい相手ではないことだけは、さっきよりはっきりしていた。
「俺の時と……同じじゃないかもしれない」
凛も画面から目を離さず、少し間を置いて答えた。
「ああ」
二人はそのまま、映像の中で動き続ける白い影を見つめた。