エマージェント   作:kyomu

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第十八話「近づかないで」

 大きなクマが一歩前へ出た。

 

 扉の向こうで、母が開きかけた扉から手を離すのが茜にも見えた。自分の前へ入り込んだクマは、太い両腕を広げたまま動かない。殴りかかってはいない。それでも、あの大きな身体がある限り、母は茜のところまで来られなかった。

 

「分かった。お母さん、入らないから」

 

 琴音は手のひらが見えるよう両手を少し上げ、そのまま一歩だけ後ろへ下がった。

 

「茜、怪我してない?」

 

「……してない」

 

「苦しいところは?」

 

「ない……けど、これ、分かんない。わたし、出してないのに」

 

 茜が膝の上のクマのぬいぐるみを抱き直した時、足元を白い影が横切った。

 

 さっき現れたウサギの一体だった。開いた扉の隙間を抜け、そのまま廊下へ走っていく。琴音が反射的に身体を引くと、もう一体も後を追った。

 

「琴音?」

 

 居間の方から蓮が来た。

 

 廊下を駆けるウサギに足を止め、それから開いた扉の向こうを見る。クマを見つけた瞬間、表情が変わった。

 

「……何だ、それ」

 

「分からない。茜のところに急に出てきて……蓮、待って」

 

 琴音が止めるより先に、蓮は茜の顔を確かめようと半歩前へ出た。

 

 クマが動いた。

 

 腕を振り上げるのではなく、茜を隠すように身体を横へずらす。蓮はすぐに足を止めた。

 

「……近づくと動くのか」

 

「お父さん、違うの。わたし、これ知らない」

 

「ああ。分かってる。茜のせいだって言ってるんじゃない」

 

 蓮はしゃがもうとして、クマが再び動きかけたのを見てやめた。

 

「俺はここから行かない。大丈夫だ」

 

 大丈夫。

 

 その言葉に、茜の指がぬいぐるみへ少し食い込んだ。

 

 廊下ではウサギが壁際を走り回っている。二体だったはずなのに、気づけばもう一体増えていた。茜はそちらを見て「止まって」と言ったが、一体が一瞬振り向いただけで、別の一体は玄関の方へ駆けていく。

 

「違う。そっちじゃなくて……」

 

 言っている間に、机の下からまた白い耳が見えた。

 

 茜は息を詰めた。

 

「増えないで……」

 

 返事の代わりに、天井近くで羽音がした。

 

 カーテンレールの上に、小さな鳥が一羽とまっている。布でできたような丸い身体を揺らし、次の瞬間には扉へ向かって飛んだ。

 

「お母さん……」

 

「いるよ」

 

 琴音はすぐに返した。

 

「ここにいるから」

 

 鳥が廊下へ抜けたところで、蓮がポケットからスマートフォンを出した。

 

「警察に連絡する。エマージェントの発現かもしれないって伝えて、AEGISにも回してもらう」

 

 琴音は茜から目を離せないまま頷いた。

 

 蓮が少し離れた場所で通報を始める。住所と、娘が九歳であること、見たことのない生き物のようなものが突然現れたこと、本人も制御できていないらしいことを説明している声が聞こえた。

 

 その声を聞くほど、茜の胸が苦しくなった。

 

 お父さんが電話をして、お母さんは廊下から動けず、知らないものが家の中を走り回っている。その全部が、自分の部屋から始まっていた。

 

「……ごめんなさい」

 

 琴音の眉が動いた。

 

「茜?」

 

「わたし、止めるから」

 

「大丈夫よ。一人で何とかしなくていいの。お父さんが人を呼んでるから」

 

「でも……」

 

 廊下の奥から蓮が戻ってきた。

 

「外で待つように言われた。無理に近づかないで、家から出られるなら出ろって」

 

 琴音はすぐには動かなかった。

 

「……茜を一人にするの?」

 

「家の中に俺たちがいるせいで、あれがずっと警戒してる可能性もある」

 

 蓮の声も、言い切ったようには聞こえなかった。

 

 クマは二人が廊下にいる間、ずっと茜との間を塞いでいる。

 

 琴音はしばらくその場にいたが、やがて扉の向こうへ声をかけた。

 

「……茜。お母さんとお父さん、玄関の外まで下がるね」

 

「……やだ」

 

 琴音の足が止まった。

 

 茜自身も、口から出てから驚いた。

 

 クマがわずかに身じろぎする。

 

 琴音は廊下へ戻りかけた足を、その場に留めた。

 

「じゃあ、外にいるね。いなくならない。玄関のすぐ前にいるから、お母さんの声が聞こえたら返事して」

 

「……うん」

 

「怖くなったら呼んで。上手く説明できなくてもいいから」

 

 茜は小さく頷いた。

 

 琴音と蓮がゆっくり玄関へ向かうと、クマは追わなかった。ただ、廊下にいたウサギたちは二人の足音へ反応するように一斉に動き、開いた玄関から外へ飛び出していった。

 

 鳥も一羽、その上を抜ける。

 

 玄関が閉まりかけたところで、茜はもう一度「お母さん」と呼んだ。

 

「大丈夫。ちゃんといるよ」

 

 外からすぐ返事が来た。だが、家の中は急に広くなったように感じた。

 

     *

 

 琴音は門の外まで下げられても、家の玄関から目を離せなかった。

 

 最初に来た警察官は事情を聞きながら周囲の住民を家の中へ戻し、道路へ簡易の規制を出した。ウサギは人へ飛びかかってはいない。ただ、玄関先や道路を不規則に横切るため、知らずに入ってきた自転車や車が避ければ事故になる。

 

 警察官の一人が家へ近づこうとした時には、上空を回っていた鳥が低く降り、顔の前を横切った。

 

 警察官は腕で顔を庇いながら数歩下がった。鳥は追撃せず、そのまま家の上へ戻っていく。

 

「やっぱり、中へ近づく動きに反応してますね」

 

 少し遅れて到着したAEGISの職員が言った。

 

 琴音には、それが制服なのか作業服なのかもよく分からなかった。何人かが警察と短く言葉を交わし、一人は離れた場所から家の様子を確認している。誰も、いきなり中へ踏み込もうとはしなかった。

 

「捕まえたりはしないんですか」

 

 蓮が訊いた。

 

「必要になれば対応します。ただ、今のところ積極的に人を襲ってはいません。それに、壊したり捕まえたりすれば終わる現象なのかも分かっていません」

 

 職員は道路を走るウサギへ目を向けた。

 

「まず人を近づけない。車を入れない。娘さんへ刺激を増やさない。それを優先します」

 

「でも、茜は中に一人なんです」

 

「はい。だから会話は続けます」

 

 別の女性職員が琴音のそばへ来た。

 

「娘さん、さっきまでこちらの声には返事できていましたか」

 

「できます。怖がってますけど、話はできます」

 

「あの子たちに、何か言っていました?」

 

「『止まって』とか、『増えないで』って。本人もどうしたらいいか分かってないみたいで」

 

 琴音はそこまで言って、唇を噛んだ。

 

「私たちが近づいたら、あの大きいクマが前に出ました。でも、殴られたわけじゃありません。茜がやらせたのかも、分からなくて」

 

「今は原因まで決めなくていいです。見たことだけ教えてください」

 

 女性職員は一度家へ視線を戻してから、続けた。

 

「この現象が始まる直前に、娘さんが強く怖がるようなことはありましたか」

 

 琴音はすぐに答えられなかった。

 

 隣にいる蓮を見る。

 

 蓮もこちらを見た。

 

 夕食の時の言い合い。部屋へ戻った茜。その後も、二人で同じ話を続けた。

 

「……私たちが、喧嘩してました」

 

 口にすると、思っていたより声が掠れた。

 

「茜の学校のことで」

 

 蓮が続ける。

 

「本人は大丈夫って言ってたんです。俺たちも一度確認して、それで……」

 

 最後まで言わず、家へ顔を向けた。

 

 女性職員は二人を責めるようなことは言わなかった。

 

「その話も担当へ共有します。ただ、今は娘さん本人が何を怖がっているのか、こちらから決めつけないようにします」

 

 琴音は頷いた。

 

 家の屋根の上へ、また白い鳥が一羽増えた。

 

     *

 

 裕太が凛に呼ばれたのは、その少し後だった。

 

 自室で学校の課題を開いていたところへ端末が鳴り、指定された小会議室へ行く。中には凛しかいなかった。

 

「座って。先に言っとくけど、現場に出ろって話じゃない」

 

 裕太は椅子を引きながら、机の上のタブレットを見る。

 

「じゃあ、何ですか」

 

「発現したばかりの子が、能力を止められなくなってる。九歳。現場は警察とAEGISで封鎖済み。本人は怪我してないし、今のところ大きな怪我人も出てない」

 

 凛は必要なところまで話し、タブレットを裕太の方へ向けた。

 

 住宅の前に警察車両が停まり、規制線の内側を白いウサギが走っている。屋根の周りには鳥が数羽飛び、玄関の奥には時々、大きな丸い影が見えた。

 

「本人も止めたいって言ってる。でも増えてる」

 

 裕太の指が膝の上で止まった。

 

「……俺みたいに?」

 

「分からん」

 

 凛はすぐに答えた。

 

「止めたいのに止められないってところは似てる。能力の仕組みも、そうなった理由も同じとは限らない」

 

「じゃあ、何で俺に?」

 

「現場側だけじゃ拾いにくいこともある。止められなかった時、何がきつかったか、どう考えてたか。お前の経験から気づくことがあれば聞きたい」

 

 凛はそこで言葉を切った。

 

「意見を聞くだけ。現場のやり方をお前に決めさせる気はない」

 

「……分かりました」

 

 映像の中で、ウサギが二体、職員の置いた簡易柵の前を横切った。誰も追わない。鳥が近づけば職員は少し下がり、また距離を取る。

 

 自分の時とは、見た目も動きもまるで違う。

 

 それでも、「止めたいのに止まらない」という言葉だけが引っかかった。

 

 あの時の自分も、最後には止めたかった。

 

 最初は違った。もっと増やしても大丈夫だと思ったし、自分なら扱えるつもりだった。けれど数が増え、あちこちへ意識を向けるうちに、どれへ何をさせているのかが崩れていった。

 

 全部を一度に戻そうとして、余計に分からなくなった。

 

「本人、何て言ってるんですか」

 

「現場から来てるのは、『増えないで』『止まって』。あとは両親へ『分からない』って言ってるくらいだ」

 

 凛はそこで口を閉じた。

 

 裕太は画面を見ながら考えた。

 

「……一気に全部止めようとしてるなら、余計に混ざってるのかもしれない」

 

「どうする?」

 

「俺だったら、一個に絞ります」

 

 言ってから、裕太は少し考え直す。

 

「いや……俺の時と同じなら、ですけど」

 

 凛は急かさなかった。

 

「目の前の一体だけ見て、それだけ止める。全部じゃなくて。一体できたら、何をした時に通ったのか分かるかもしれない」

 

 自分の時に、それができていれば。

 

 そんな考えが頭をよぎった。

 

 凛はタブレットを引き寄せる。

 

「現場に案として回す。やらせるかは向こうで決める」

 

「はい」

 

「あと、失敗したらすぐ切る」

 

 裕太が顔を上げる。

 

「一回失敗しただけで?」

 

「九歳だぞ。正しい練習法を探してるんじゃない。今この場を悪化させないのが先だ」

 

「……そうですね」

 

 凛は現場との通話を開いた。

 

 裕太の言葉をそのまま読み上げることはせず、「一体へ対象を絞る案がある」とだけ伝える。向こうから何度か返事があり、本人への声かけは両親と担当職員で決めることになった。

 

 裕太はそのやり取りを黙って聞いていた。

 

 自分の考えが採用されたことより、画面の中で動き続ける白い影の方が気になった。

 

     *

 

「茜。聞こえる?」

 

 玄関の外から母の声がして、茜はベッドの端に座ったまま顔を上げた。

 

「……聞こえる」

 

「全部を一度に止めなくていいって。近くにいる子、一匹だけ見られる?」

 

 床には、もう何体いるのか分からないほどウサギがいた。部屋の中を走り回るものもいれば、開いた扉から廊下へ出ていくものもいる。その全部をどうにかしなくていいのなら、自分にもできるかもしれない。茜は机の脚の近くを走っている一体へ目を向けた。

 

「……止まって」

 

 ウサギはそのまま走り続ける。茜は膝の上のクマを強く抱き、今度は他の白い影を追わないよう、その一体だけを目で追った。

 

「この子。止まって」

 

 もう一度呼びかけると、ウサギの足が止まった。机のそばで耳を立てたままこちらを見る姿に、茜は思わず息を吸う。

 

「……止まった」

 

「うん。止まったね」

 

 外から返ってきた母の声を聞いて、胸を締めつけていたものがほんの少し緩んだ。

 

 できた。

 

 その安心は長く続かなかった。一匹を止められたのなら、次も止めなければならない。そう考えた時には、茜の目はもう別のウサギを探していた。

 

「次……」

 

「茜、今はその一匹だけで――」

 

 母の言葉を最後まで聞かず、茜はベッドの脇を走る二体目へ目を向けた。

 

「止まって」

 

 今度のウサギは走り続けた。

 

「止まってってば」

 

 声を重ねても止まらず、そのままベッドの下へ潜っていく。代わりに反対側から別の一体が飛び出してきた。さっきと同じように言っているのに通じない。そのことだけで、一度ほどけかけた胸の奥がまた強く縮んだ。

 

「待って。今やるから」

 

 誰に向かって言っているのか、自分でも分からないまま、新しく現れた一体へ視線を移す。

 

「この子……止まって」

 

 その時、廊下から羽音が聞こえた。一羽だった音へすぐに別の羽音が重なり、窓の外を白い影が横切る。

 

「違う。増えてほしいんじゃないの」

 

 慌てて最初のウサギを探すと、止まっていたはずの一体まで、いつの間にかまた走り出していた。

 

「なんで……」

 

「茜、もういいよ!」

 

 母の声が少し大きくなる。

 

「今はもう止めなくていいから。茜、聞こえる?」

 

「でも、わたしがやらないと」

 

「違うよ。今は――」

 

「ちゃんとするから!!」

 

 自分でも驚くほど大きな声が出て、茜はびくりと身体を震わせた。窓の外では白い鳥がさらに増え、廊下から聞こえる小さな足音も途切れない。

 

 止めなければ。自分がちゃんとすれば終わる。そう思うのに、焦るほど何を見ればいいのか分からなくなる。

 

「ちゃんと止めるから……だから、待って……」

 

 茜はクマのぬいぐるみを抱え込むようにして、そこへ顔を伏せた。

 

     *

 

 タブレットの映像では、家の上を飛ぶ鳥の数が明らかに増えていた。

 

『声かけ、一度止めます。これ以上操作させません』

 

 現場から報告が入り、凛は短く了承した。

 

「そのまま封鎖維持。本人には、何もしなくていいって伝えて」

 

『了解』

 

 裕太は画面から目を離せなかった。

 

 一体目は止まった。自分が考えた方法が、何もかも外れていたわけではない。それなのに、その成功を境に茜はむしろ崩れていった。スピーカーから小さく届いた「ちゃんと止めるから」という声が、妙に耳へ残る。

 

 自分が暴走した時も、止められなくなって怖かった。それでも最初の自分は、もっと扱えると思って自分から数を増やしたのだ。失敗する前から、「ちゃんとしなきゃ」と自分を追い立てていたわけではない。

 

「……九条さん」

 

「ん?」

 

 裕太はすぐには続けなかった。何が違うのか、まだ言葉にはできない。ただ、自分の失敗をそのまま重ねていい相手ではないことだけは、さっきよりはっきりしていた。

 

「俺の時と……同じじゃないかもしれない」

 

 凛も画面から目を離さず、少し間を置いて答えた。

 

「ああ」

 

 二人はそのまま、映像の中で動き続ける白い影を見つめた。

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