画面の向こうでは、家の屋根を白い鳥が旋回していた。さっきより数は増えているが、現場の職員は追わず、規制線の内側へ人が入らないよう配置を維持している。
裕太はその映像を見ながら、さっき自分で口にした言葉を考えていた。
同じじゃないかもしれない。
自分は制御できると思って数を増やし、できなくなってから止めようとした。けれど茜は、一体を止められた直後から「次もやらなければ」と自分を追い立てていた。失敗してから焦った自分とは、始まりから何かが違う。
「九条さん。止め方、もう言わない方がいいと思います」
「ああ。現場にも、これ以上は操作させないでくれって返してある」
凛の返事を聞いて、裕太は少し黙った。数を減らす、命令を単純にする、対象をもっと絞る。考えようとすれば、まだ方法はいくつも浮かぶ。それでも、次の方法を試す気にはなれなかった。
「……俺、あの子と話してみたいです」
凛が裕太を見る。
「さっきからずっと『ちゃんとする』って言ってるのに、俺、それが何なのか知らないまま止め方だけ考えてたから」
「分かった。現場に確認する。移動はさせない。今ある回線で話せるなら、その方が安全だ」
「はい」
凛が現地との通話へ戻る間、裕太は椅子に座ったまま待った。自分から話したいと言っておいて、何を言えばいいのかは決まっていない。暴走した経験があるからと呼ばれたのに、結局分かったのは、自分の経験だけでは足りないということだった。
ほどなく現場から返事が来た。両親にも説明し、茜本人が嫌がらなければ短く話して構わないという。
「繋ぐよ」
「……はい」
*
「茜。聞こえる?」
窓の外から母の声がして、茜はぬいぐるみへ伏せていた顔を上げた。
「……聞こえる」
「さっきのことを一緒に見てた子がいるんだって。前に、自分の力を止められなくなったことがある子。茜と少し話してみたいって言ってる」
琴音は少し間を置いた。
「嫌なら、話さなくてもいいよ」
茜は床を見た。何体ものウサギが今も部屋を走っている。扉の前には大きなクマが立ち、外からは時々、鳥の羽音が聞こえた。
「……話す」
「分かった」
少しして、母とは違う声が聞こえてきた。すぐ近くにいるようでいて少し平たく聞こえるのは、何かを通して話しているからだろう。
『天海っていいます。急に、すみません』
「……はい」
『さっき、一匹ずつ止めたらって言ったの、俺です』
茜の腕に力が入った。
「……ごめんなさい。できなかった」
『何で謝るんですか』
思っていたより強い声が返ってきて、茜は目を瞬いた。
『……いや、違くて。怒ってるんじゃなくて。俺が勝手に、自分と同じだと思ったんです』
「同じ?」
『俺も前に、能力を止められなくなったことがあるから』
茜は窓の方を見た。声の主の姿は見えない。
「……怖くなかったの?」
『怖かったです。めちゃくちゃ』
返事は早かった。
『でも俺は、最初は自分ならできるって思ってたんです。もっと増やしても平気だって。それで止められなくなった。だから宵宮さんも、数が多すぎて困ってるんだと思ってました』
少し間が空いた。
『でも、宵宮さんはさっきからずっと「ちゃんとする」って言ってる。俺、そこを全然分かってなかった』
茜は返事をしなかった。
『何をちゃんとしないといけないんですか』
「……分かんない」
『そっか』
次の質問は来なかった。
茜は膝の上のクマへ目を落とす。分からないと答えたら、ちゃんと考えてと言われる気がしていたのに、裕太は黙ったままだった。
その沈黙が続いているうちに、今度は茜の方から口を開いた。
「天海さんは?」
『え?』
「何が嫌だったの?」
しばらく音がなかった。
『……できないって分かるのが嫌でした』
今度の声は、さっきより少し小さかった。
『自分ならできると思ってたから。できないって認めたくなくて、そのまま増やして……最後は、自分でもどうしたらいいか分からなくなった』
「怒られた?」
『まあ……いろいろ言われました』
少しだけ困ったような声になる。
『でも、俺は最初から「ちゃんとしなきゃ」って思ってたわけじゃないんです。だから、そこは宵宮さんと違うと思う』
茜は窓の方を見た。外には父と母がいる。
自分のために警察もAEGISも来て、知らない大人が何人も家の周りにいる。また「ごめんなさい」が口から出そうになった時、その前に別の言葉が浮かんだ。
「……喧嘩」
『え?』
「お父さんとお母さんが喧嘩するの、嫌だった」
言ってしまうと、急に窓の外が静かになった気がした。
母も父も聞いている。そう思うと続きを言うのが怖くなり、茜はぬいぐるみの耳を指で押さえた。
「……茜」
琴音は名前を呼んだだけで、それ以上を先回りしなかった。
「絵……学校に飾られるから」
「……うん」
「……二人に見てほしかった」
喉の奥が痛くなった。
「でも、お母さん忙しいし、お父さんも仕事あるから、来なくていいって言ったの。大丈夫って言った」
「……うん」
「なのに、またそのことで喧嘩してたから……わたしが来てほしいって思わなかったら、喧嘩しなかったのかなって。何も言わなかったら、二人とも困らないのかなって……」
「っ! 茜、それは違うんだ!」
蓮の声がすぐに返り、そこで一度止まった。
「……いや、違うって言うだけじゃ分かんないよな。俺とお母さんが、相手が行くだろって勝手に思ってたんだ。それをちゃんと話さないまま、うまくいかなくなって腹を立てた。茜が来てほしいって思ったせいじゃない」
「私も、『大丈夫』って言われて、そこで安心しちゃった」
琴音が続ける。
「本当に大丈夫か聞いたつもりだったけど、茜がそう言ったから、それで終わりにしちゃった」
「でも、わたし大丈夫って言ったよ」
「うん。言ったね」
琴音は否定しなかった。
茜はその返事を聞いてから、ようやく次を口にした。
「言ったら困ると思ったの。仕事あるから」
「そっか」
それだけ返され、また待たれる。
茜は何度か息を吸った。
「……二人で来てほしかった」
「……うん」
「お父さんも、お母さんも」
「……ああ」
「来てほしかった。それと……喧嘩してほしくなかった。わたしのことで、困ってほしくなかった」
しばらく誰も話さなかった。外では警察の無線らしい声が小さく聞こえ、屋根の上を回っていた鳥の羽音が一度だけ窓を横切った。
最初に口を開いたのは蓮だった。
「明日のことは、今ここで二人とも行けるって約束はできない。こんなことになってるし、仕事のこともある」
茜は少しだけ下を向いた。
「でも、来てほしいって言われて困ることじゃない。予定をどうするかは、俺たちが考えることだった」
「喧嘩も……もう絶対しないとは言えない」
琴音が苦そうに続けた。
「たぶん、また言い合いになることはあると思う。でも、茜が嫌だったってことは分かった。今日のことも、お父さんとちゃんと話す」
茜は膝のクマを見たまま聞いていた。
「……怒ってない?」
「怒ってないよ」
「困ってない?」
琴音の返事は少し遅れた。
「今は心配してる。すごく。でも、それは茜が『来てほしい』って言ったからじゃないよ」
胸の苦しさが全部消えたわけではなかった。それでも、何かを急いで止めなければならない感じは、さっきより薄れていた。
気づけば、部屋の中に新しいウサギは現れていない。今いるものはまだ走り続け、扉の前には大きなクマも立っている。それでも、白い耳が机の下から次々と増えていた時とは違った。
『宵宮さん』
「……なに?」
『俺、もう止め方は分かんないです』
「え」
『だから、さっきみたいに「こうしたら」って言うのはやめます。でも……今言ったことは、聞こえました』
そこで裕太は黙った。
茜は床を走るウサギへ目を向けた。さっきまでは「止まって」と何度言っても、自分が何をさせたいのか分からなくなっていた。今も、どうすれば全部消えるのかは分からない。
ただ、もう走ってほしくなかった。父と母を遠ざけてほしくもなかった。
「……もういいよ」
近くを走っていたウサギが一体、茜の方を向いた。
「もう走らなくていいよ。帰って」
その小さな身体が、ふっと消えた。
茜は目を見開いた。無理やり止めようとした時とは違った。今の言葉は、ちゃんと届いた気がした。
もう一体へ目を向ける。
「あなたも、帰って」
今度も消えた。
外から、知らない大人の声が聞こえる。
「ウサギ型、減少確認。新規出現なし」
茜はそちらを見ず、部屋と廊下に残っている白い姿へ向き直った。
「ウサギさんたち、もう帰っていいよ」
すべてが一度に消えたわけではない。廊下から聞こえていた小さな足音が一つ減り、また一つ減っていく。部屋の中でも白い姿が順に消え、やがて床を走るものはいなくなった。
窓の外にはまだ鳥がいる。
「鳥さんたちも、帰って」
屋根の周りを回っていた白い影が、一羽ずつ減っていった。
最後まで残ったのは、扉の前に立つ大きなクマだった。
「クマさん」
呼ぶと、丸い頭がゆっくりこちらを向く。
最初からずっと、茜と外の間にいた。母が入ろうとした時も、父が近づいた時も、誰も来られないように前へ立っていた。
茜はベッドから降りた。
「もう、近づかないでってしなくていいよ」
クマは動かない。
「お父さんも、お母さんも……来ていいから」
手の中には、最初から抱いていた小さなクマのぬいぐるみがある。茜はそれを抱え直してから、大きなクマを見上げた。
「ありがとう。……帰って」
しばらくその場に立っていた大きな身体が、音もなく消えた。
扉の向こうまで、何も遮らず見える。あれだけ重なっていた足音も羽音も、家の中から消えていた。
外ではすぐに人が動き始めたが、琴音と蓮はまだ入ってこなかった。家の周りを見回り、新しいウサギや鳥が出ていないか確かめているらしい。
やがて玄関が開き、足音が廊下まで来て、部屋の前で止まった。
扉の向こうには母がいる。その後ろに父もいた。
「茜」
琴音はすぐには入らなかった。
「……入っていい?」
茜は抱えていた小さなクマを胸元から少し下ろした。
「うん」
琴音が部屋へ入り、蓮もその後ろから続く。茜は二人の顔を見て少しだけ迷ってから、自分から一歩、二人の方へ近づいた。
それを見た琴音が、残りの距離を埋めた。
しゃがんだ母の腕が茜の背中へ回り、身体ごと抱き寄せられる。いつもの匂いがして、茜はしばらく動けなかった。
「……ごめんね」
耳元で聞こえた声は、さっき外から話していた時よりずっと近かった。
「お母さん、茜が大丈夫って言ったから、それで大丈夫なんだって思っちゃった。ちゃんと聞けてなかった」
茜は何か返そうとしたが、声が出なかった。
琴音の肩越しに見えた父も、しばらく立ったままだった。それから二人のそばへ膝をつき、茜の頭へ手を置く。
「俺もだ。仕事のことばっか考えて、お母さんと勝手に言い合って……茜がどう思ってるか、ちゃんと見てなかった」
蓮はそこで一度口を閉じた。
「ごめんな」
その一言を聞いた途端、茜の肩から力が抜けた。
「……うん」
返した声が震えた。
急に目の奥が熱くなり、何度瞬きをしても涙が溜まっていく。茜は慌てて顔を伏せたが、琴音の服へ一滴落ちたのを見たら、もう止められなかった。
「……あれ」
自分でも驚いて、袖で目を擦ろうとする。
「なんで……」
「擦らなくていいよ」
琴音が茜の手をそっと止めた。
それだけで、今度は声まで漏れた。
「……怖かった」
「うん」
「いっぱい出てきて……止まらなくて……お母さんたちも外に行っちゃって……」
「うん。怖かったね」
琴音の腕に力が入り、蓮も横から茜の背へ手を回した。
茜は二人に挟まれるようになって、とうとう声を抑えられなくなった。さっきまでは泣くことすら考えていなかったのに、一度始まると息がうまく整わない。
「ごめ……」
「謝らなくていい」
蓮がすぐに言った。
茜は途中で言葉を止め、代わりに琴音の服を握った。反対の手には、ずっと抱えていた小さなクマが残っている。
二人とも、もう何かを説明しようとはしなかった。
琴音は背中をゆっくり撫で、蓮も隣にいた。
茜は二人の服をつかんだまま、しばらく泣き続けた。