母の喉から細い息が漏れ、零は背中に広がった翼から目を離した。そばへ寄ろうとすると、羽先が地面を擦って身体が後ろへ引かれる。それでも両手をついて膝を進め、ようやく母の顔へ手の届くところまで来た。額から流れた血が、閉じた瞼の際に溜まっていた。
「お母さん。聞こえる?」
返事がなく、零は店の奥へ顔を向けた。壊れた入口の向こうには人がいる。声が届くかも分からないまま「助けてください」と叫ぶと、救急車を呼んでいるという返事があった。けれど母の息は浅いままで、零は呼びかけを続けながら、血が目へ入らないよう指で拭おうとした。
額へ触れた途端、胸の奥に残っていた熱が腕を駆け抜けた。零が息を呑むと、指の間に淡い光が滲む。慌てて手を離しかけたところで、その下にあった傷の縁が寄り合っていくのが見えた。
「……え?」
零は指を浮かせたまま、母の額を見つめた。血はまだ頬に残っているのに、新しい血が流れてこない。指で隠れて見えなかっただけかと思い、手をどけても、裂けていたはずの場所には滑らかな肌があった。母の眉が動き、苦しそうに開いていた口から長く息が抜けた。
「お母さん……?」
母の瞼が開いたので、零は顔を寄せた。ようやくこちらへ焦点が合った目は、しかし、零の顔を見たまま大きくなっていく。白い髪から肩の向こうへ視線が移ると、母は地面についた肘で少し身を引いた。
「あなた……。零は? 男の子が、ここに……」
「僕だよ」
いつものつもりで答えたのに、母はまだ零の後ろを探していた。もう一度呼ぼうとしても、出てくるのは細い、聞き慣れない声だった。白い髪が顔にかかっているせいかと払いのけたが、母の戸惑った目は変わらなかった。
「僕、零だよ。さっき、フライパン……一緒に選んだでしょ」
母の視線が戻ってきた。顔ではなく、血に濡れた紺色のTシャツへ落ち、それから零の手元へ動く。零は胸元の布を握り、口にできることを探した。
「帰ったら、親子丼を作るって。お父さんが、前のがいいって言って……」
「……零?」
母が白い髪へ手を伸ばしかけた時、父の咳が聞こえた。零は頷きながら振り返り、壊れた入口のそばで胸を押さえている父を見つけた。その手が触れるより先に、零は父のところへ膝を進めた。
「お父さん、聞こえる?」
父は苦しそうに息をしながら、零の肩越しに母を見た。口が零の名前を形作るが、こちらを見ても顔は緩まない。零は母の時と同じ説明をしようとして、父のシャツに広がった血へ目を落とした。
母の傷は、触れた後に消えた。父にも同じことが起きるかもしれないと思い、零は血に濡れた胸元へ恐る恐る手を添えた。父が何か言おうとするたびに息を詰まらせるので、相槌を打ちながら、掌の下に目を凝らす。
「……さっきみたいに。お願い……」
父のシャツを握りしめそうになり、零は指を開いた。強く押したから母の傷が消えたわけではない。ただ触れていただけだったはずなのに、今は何も変わらず、手を置く場所が違うのかと少しずらしかけたところで、指先が再び温かくなった。
掌の下へ薄い光が広がり、父の途切れがちな呼吸が少しずつ長くなった。零は怖くて手を動かせなくなり、襟元から見える傷が塞がっていくのを、前へ屈み込んだまま見つめた。父が大きく息を吸うと、その胸の動きに押し上げられるように、零の両手も持ち上がった。
「あなた、立てる……?」
背後から来た母が父の肩へ触れた。父は返事の代わりに自分の胸を確かめ、血のついた指を見つめてから、零へ目を戻す。先ほどまで零を探していた目が、今は顔から服へ、服から顔へと行き来していた。
「零だって……。さっきの買い物の話も、この子……」
母の声が途切れた。父は零の袖へ指をかけたが、白い髪がその手の上へ落ちると、動きを止めた。
「……本当に、お前なのか」
「うん。僕も、どうしてこうなったのか……」
説明しようとしても、傷が痛まなくなった後のことは、零にも言葉にできなかった。血の染みた脇腹を見られて、零は裂けた布の端を少し持ち上げた。父の目が傷のない肌へ移ったところで、その肩越しの壁が青白く染まった。
「伏せて!」
通りから飛んできた声に、零は両親の前へ身を乗り出した。腕で二人を庇おうとしたのに、視界を塞いだのは白い羽だった。背中の左右が引かれ、一対の翼が三人の前で重なった直後、轟音とともに強い力が叩きつけられた。
零の膝が地面を滑り、父の手が肩を支えた。羽の隙間を青い光が走ったので、零は目を閉じて首を縮めたが、脇腹を裂かれた時の痛みは来なかった。衝撃が止んでから恐る恐る顔を上げると、すぐ目の前の白い羽から、細かな灰が落ちていた。
「歩けますか? 入口から離れましょう!」
翼の脇へ、大柄な少年が駆け込んできた。短い栗色の髪に粉塵がつき、片方の袖は破れている。零と翼を見て一瞬だけ足が鈍ったものの、彼はすぐに父へ手を差し出した。
「こっちです。奥へ入って!」
店内で、先ほど扉を押さえていた男性が呼んでいた。額にタオルを当てながら、倒れた商品棚の横を指している。その先では制服姿の警察官が負傷した客のそばに屈み、別の一人が裏口側の通路へ人を誘導していた。外から逃げ込んでくる人もいるため、二人とも店内を離れられる状態ではないらしい。
父が少年の手を借りて立ち、母もその後に続いた。零は二人を追おうとしたが、前を覆う翼のせいで足元が見えない。背中へ力を込めると両方がまとめて持ち上がり、羽先が壊れた扉の枠を擦った。
「待って。引っかかってる」
少年が足を止め、枠に残った金属片を指した。零はそちらを見ながら身体の向きを変えたが、翼は思った方へついてこない。母が引き返しかけたので、零は空いている左手を上げた。
「お父さんと、先にいってて。すぐ行くから」
「この柱のところにいるからね」
母は奥の柱を指してから、父のところへ戻った。警察官が二人を壁際に座らせ、近くの店員に付き添うよう頼んでいる。母がこちらを見ているのを確かめてから、零は背中を少し引き、ようやく羽先を金属片から外した。
「君、その翼……さっきのを防いだんだよな」
少年が白い羽へ目を向けた。零は頷き、羽の重なるところへ手を当てたが、傷も穴も見つけられなかった。
「勝手に、前に出て……。ぶつかったのは分かりました。でも、痛くはないです」
「自分で動かせる?」
邪魔にならないよう後ろへ戻したいと思うと、右の翼だけがわずかに揺れた。零は店の内側へ身体を傾け、羽先を棚へぶつけないように止める。それを見ていた少年は、すぐには何も言わず、壊れた入口から外を窺った。
零もその横から覗くと、交差点を挟んだ先に人影が見えた。斜めに停まった配送車のそばで、黒髪の青年が一人うずくまっている。頭上で生まれた光が、不規則に揺れる幾つもの球の間を抜け、通りを斜めに横切っていった。
交差点の手前では、パトカーの陰から二人の警察官が青年へ声をかけていた。そのうち一人が車体から離れ、身を低くして数歩進む。だが青年の正面を避けて回り込もうとした途端、横から飛んできた光がすぐ前の路面を砕いた。警察官は腕で顔を庇いながら後ろへ退き、もう一人に引かれてパトカーの陰へ戻る。
少年はその様子を見てから、破れた袖を少し上げた。下には赤く擦れた跡が残っていた。
「あの人のところから出てる。俺も力は使えるけど、近づこうとしたら今の人たちみたいに横からも来て、引き返した」
道路の向こうでも、人が建物の陰から出かけては引き返している。青年へ声をかける警察官の声にも返事はなく、また別の光が歩道を砕いた。
「警察の人も、あそこから先へ出られてない。俺も一人じゃ無理だった」
少年は白い翼へ目を向ける。
「でも、これは今のを止めた」
「……あの人のところへ、行くんですか」
「うん。止めないと、向こうの人たちも出られない」
少年は一度通りへ目を戻してから、零へ向き直った。
「手を貸してほしい。俺が近づく間だけ、飛んでくるのを防いでもらえないか」
零は答えられず、奥の柱を振り返った。父は警察官に胸元を示し、母は店員から受け取ったタオルを頬へ当てていた。まだ二人のそばへ行って、ちゃんと話すこともできていない。
「でも、僕、動かし方もよく……」
「……そっか。ごめん。防げたから、できると思って」
少年は言いかけた言葉を切り、通りへ目を戻した。その脇を、外から逃げ込んできた男性がよろけて通る。零は通してあげようと身体を引いたが、翼が入口を塞いでしまい、羽先を壁へ擦りながらようやく道を空けた。
零は少年の肩越しに通りを見た。配送車の向こうで、男の人が倒れた誰かの腕を引こうとしている。光が近くへ落ちると二人とも身を伏せ、また動けなくなった。零は母の手へ届かなかった時のように指を曲げ、背中の翼を少し前へ寄せた。
「……来る方向を、教えてもらえますか。見えないところからだと、僕、分からないから」
「俺も見る。右とか左とか、声をかける」
「走るのも、速くないです」
「合わせる。無理そうなら戻ろう」
零は奥にいる母をもう一度見た。あの手を握りに行く代わりに、自分の両手を組んでからほどく。少年の隣へ立つと、彼は先ほどより低い声で名乗った。
「俺、
「結城、零です」
「結城。まず、あの車の手前まで行こう」
彰人が指した方へ頷いたところで、母が立ち上がった。父もこちらを見て、零を呼んだ。零は入口から顔を戻したが、二人の目を見ると、一度引き寄せた翼を後ろへ戻したくなった。
「お母さん、お父さん。そこにいて。僕、戻ってくるから」
「待ちなさい。何を――」
父の声に、負傷者のそばにいた警察官も顔を上げた。零と彰人が入口へ向かっているのを見て立ち上がる。
「待て! 外へ出るな!」
警察官がこちらへ踏み出した直後、入口前の路面へ青白い光が落ちた。弾けた破片が店内まで飛び込み、警察官は近くにいた客を庇うように身を伏せる。零も反射的に翼を前へ寄せ、飛んできた欠片を受け止めた。
「今だ、行くぞ!」
彰人の声に押され、零はガラスを跨いだ。
店を出たところで、パトカーの陰にいた警察官が二人へ気づいた。
「君たち、戻れ!」
一人がこちらへ走り出そうとしたが、その間へ別の光が落ちた。警察官は足を止め、車体の陰へ戻る。零の前では白い翼が衝撃を受け止め、羽先が大きく揺れた。
零が振り返ると、父も入口へ出ようとしていた。先ほどの警察官が今度はその腕を掴み、壁の内側へ引き戻している。父の口が零の名前を呼んだが、破裂音に掻き消された。
*
翼を前へ寄せると、彰人の顔まで見えなくなった。零は慌てて羽を持ち上げようとしたが、背中のどこへ力を入れればよいのか掴めない。両肩まで一緒に上がり、翼の下にできた隙間から青い光が覗いた。
「下げて! 俺、横から見るから!」
声に押されるように翼を戻すと、硬いものがぶつかる感触が背中へ返った。零が踏み出しかけた足を戻す間に、彰人がすぐ隣へ寄ってきた。白い羽の端から道路を窺い、それでも肩は内側へ収めている。
「正面はそれでいい。左、もう一つ来る!」
左の翼だけ動かそうとして、零は身体ごと横へ向いた。重みにつられて足がもつれたところを彰人に支えられ、その頭越しに白い羽を寄せる。翼の端を掠めた光が看板へぶつかり、零は降ってくる欠片から顔を庇おうとして、今度は両方の翼を閉じてしまった。
「結城、少し開けて。俺も見えない」
「すみません……。こう、ですか」
「うん。そのまま、縁石を降りよう」
言われた場所へ足を下ろすと、靴の中で踵が浮いた。零は肘を支える彰人の手へ体重を預け、足の裏が地面についたのを確かめてから、もう一歩進んだ。首筋を流れる汗を拭う余裕もなく、左側を守ろうとするたび、右の羽先まで動いてしまう。
「止まって。右だ!」
彰人が身体を低くしたので、零も腰を落としながら右の翼を引き寄せた。すぐ近くで光が弾け、白い羽が頬を撫でる。背中へ返る重さに歯を食いしばり、今度は足を滑らせずに踏みとどまれた。
「いける! あの車まで、一気に――」
「待ってください!」
彰人の踏み出す速さは、店まで走ってきた時とはまるで違った。零が足を出すより先に彼の肩が羽の端を越えてしまい、慌てて声を上げると、彰人はすぐに足を止めた。こちらへ戻りながら、片手を零の方へ向ける。
「ごめん。速かった。結城が歩いて。俺が合わせる」
「足元も、あんまり見えなくて……」
「右に大きい欠片がある。そこを回ったら、車まで真っすぐ」
今度は零が歩き出してから、彰人が動いた。翼の下に見える彼の靴と路面を交互に見て、盛り上がったアスファルトを避ける。光が来ると二人とも止まり、羽が押し戻されるのを堪えてから、また足を出した。
少し後ろでは、パトカーの陰から警察官が二人の動きを追っていた。こちらへ来ようにも、翼から外れれば光を防ぐものがない。無線へ何かを叫びながら、零たちが進む先の人々へ建物から出ないよう手で合図している。
配送車がようやく手の届きそうなところまで近づくと、破裂音の切れ目に人の声が聞こえた。
「止まれ……止まれよ! なんで……!」
車体の角から向こうを覗くと、青年は片手を頭へ当てていた。黒い髪が汗で額に貼りつき、もう片方の手は空中を何度も掴んでいる。震える指の上に浮いた光は、その動きに合わせて揺れたかと思うと、急に違う方へ滑った。
「おい! 聞こえるか!」
彰人が呼ぶと、青年は弾かれたように顔を上げた。零たちの前に広がる白い翼を見て後ずさるが、その頭のそばにも新しい光が膨らんだ。
「来るな! こっちに来たら――」
青年が腕を上げ、零は彰人の前へ翼を差し入れた。身を竦めるほどの衝撃が羽を叩き、その端から、別の球が配送車の屋根を越えていくのが見える。青年はそちらへ手を伸ばし、割れそうな声を上げた。
「そっちじゃない! やめろって、言ってるだろ!」
零は青年の手から目を離せなかった。こちらを追い払おうとしているのかと思ったのに、彼は自分の周りの光へ向かって叫んでいた。それでも、近づこうとすると父の血に濡れたシャツが浮かび、零の足は車体の角で止まった。
「……止めようと、してるんですか」
「そう見える。結城、俺、あの人のところに出る。もう少し前を守ってほしい」
「どうするんですか」
「手を押さえてみる。話せるかもしれない」
零は息を吸い、彰人の頭の高さまで左の翼を持ち上げた。上を開けるのが怖くて羽が震えたが、彼が通れる分だけ身体を横へずらす。彰人は腰を低くしてその下を抜け、車体の脇へ回り込むと、青年の両腕を掴んだ。
「俺の声聞こえる? 何が起きてるんだ」
「分からない、止められないんだよ! 消そうとしてるのに、勝手に――」
「腕を動かさないで! 今、押さえてるから」
零も遅れて車の角を回り、二人と光の間へ翼を寄せた。青年の腕は止まったが、その顔の横にはまた球が生まれ、こちらへ滑ってくる。右の翼だけでは間に合わず、零は身体ごと横を向いて塞いだ。押し返されて足がずれ、彰人が青年を抱え込むように頭を下げた。
「手じゃない! 動かしてなくても、考えたら……違う、今のは違う!」
青年は目を閉じたが、近くで何かが砕けると、すぐに開けた。頭上へ走った視線の先で光が増え、零が上を塞ぐと、今度は右の羽先の向こうで路面が弾けた。翼をそちらへ寄せる間にも別の球が動き、どれを防げばよいのか追いきれなくなった。
「橘さん、右も……!」
彰人が顔を上げた。零の翼の外では、配送車の陰にいた人たちが這うように建物へ向かっている。光の一つがそちらへ流れ、青年が腕を振りほどこうとするたび、頭のそばにも小さな球が灯った。
「ごめん! 痛いけど我慢してくれ!」
彰人は掴んでいた片腕を離し、青年を一度だけ殴った。力の抜けた身体を残った腕で受け止め、そのまま膝をつく。零は息を詰め、二人の頭上へ翼を差し出したまま、次の衝撃を待った。
すぐ上にあった球は、動きを止めていた。見つめているうちに輪郭が薄くなり、青い色がほどけるように消えていく。羽の端から通りを窺うと、建物へ向かっていた光も壁へ届く前に失われ、あとには灰色の煙が流れていた。
クラクションが、急にはっきり聞こえた。
「……止まった?」
彰人は返事をせず、抱えていた青年をそっと横たえた。零も一歩近づきかけたが、閉じた目と、動かない手を見て立ち止まった。先ほどまであれほど大きかった声も、もう聞こえない。
「その人……」
「待って」
彰人が青年の口元へ顔を寄せ、胸を見ていた。零も同じところを見つめ、シャツがわずかに上下するのを待った。ようやくその動きが分かった時、彰人が通りへ向かって手を上げた。
「息してる。こっち、一人倒れてます!」
光が消えたのを確認した警察官たちが、今度はパトカーの陰から一斉に走り出した。一人が青年のそばへ膝をつき、もう一人は周囲を確認しながら無線へ状況を伝える。彰人は場所を空け、自分が青年を殴ったことから先に説明した。
零はその声を聞いて後ろへ下がり、路面を擦った翼の音にまで肩を跳ねさせた。
光がなくなった通りでは、建物から人が出てきていた。倒れた人へ駆け寄る人もいれば、その場にしゃがみ込んで動かない人もいる。向かいの窓から割れ残ったガラスが落ち、警察官が危ないから建物から離れろと声を上げた。
「結城、大丈夫? 怪我してないか?」
彰人に聞かれ、零は頷こうとした。しかし、頭を動かした途端に涙が落ちた。息を吸うと喉が引きつり、答える代わりに店の方を見てしまう。
「お母さんと、お父さん……」
「ああ。戻ろう。俺もこの人を渡したら行く」
彰人が警察官へ向き直ったので、零は一度だけ頭を下げ、来た道へ足を向けた。店の入口から父がこちらへ駆けてきて、その後ろで母が零の名前を呼んでいる。返事をしようとして声が裏返ったが、父の足は止まらなかった。
差し出された手へ腕を伸ばすと、父の指が零の手を包んだ。父はその小さくなった手を見下ろし、それから零の顔を見た。零が握り返すと、父はその手を自分の方へ引き寄せた。