父に引き寄せられ、零はその胸元へ顔を押しつけた。乾きかけた血が頬に触れたが、離れる気にはなれない。肩へ回された腕が震えているのを感じて、零も父の服を握った。
「勝手に行くな」
頭の上から落ちてきた声は低かった。零が顔を上げると、父は抱く力を少し緩めたものの、肩から手は離さなかった。
「戻ってくるって言えば、それでいいわけじゃない。帰ってこなかったら、どうするんだ」
「……ごめんなさい」
父は何か言い返そうとして、結局口を閉じた。追いついた母が零の頬へ手を添え、指についた血を見て息を詰める。零が自分の血ではないと伝えるより先に、近くの警察官から建物のそばを離れるよう声がかかった。
父に支えられて歩きながら、零は翼をできるだけ身体の近くへ寄せた。片方を動かそうとすると反対側まで揺れ、母の足へ触れそうになる。母は一度だけ身を引いたが、零が振り向くとすぐ隣へ戻り、腕を取った。
「ずっと呼んでたのよ」
「うん。聞こえてた」
「だったら……」
母はそこで言葉を切り、零の肘を支え直した。歩道の向こうから担架が運ばれてきたため、三人は端へ寄る。白い羽が人へ触れないよう縮こまると、母の手がいっそう強く腕を掴んだ。
警察官に案内された先では、救急隊員が怪我人を順番に診ていた。零へ近づいてきた隊員も翼を見て一瞬足を止めたが、血まみれの服へ視線が移ると、すぐに膝をつく。
「どこを怪我しましたか。今、血が出ているところは?」
「さっきは、ここが……。今は痛くないです」
零が脇腹を示すと、隊員は父母にも事情を尋ねた。父は自分の胸へ触れ、母は額を押さえながら、零が触れた後に傷が消えたと説明する。隊員は聞き返したものの、その場で理由を決めつけず、別の隊員を呼んだ。
「三人とも診せてください。見える傷がなくても、ここでは身体の中まで分かりません」
名前を尋ねられた零は、一度口を開いてから声を詰まらせた。代わりに母が結城零、十四歳だと答え、「私たちの息子です」と続ける。記録していた隊員が零へ視線を上げたが、すぐに手元へ戻した。
「今朝まで、こんな姿じゃなかったんです。この子も怪我をして、それから……」
「今日、身体が変わったんですね。零さん、今は息苦しくないですか」
零が首を振ると、隊員は次の質問へ進んだ。服に隠れた部分を確かめる際には別の隊員がシートを持ち、周囲から見えないようにしてくれる。
その向こうで担架の車輪が鳴った。人の間から、さっきまで光に囲まれていた青年の顔が見える。零は肩を固くし、シートの端を握った。あの人も止めようとしていた。それは分かっているのに、目を閉じた顔を見ると、また青い光が飛んでくる気がした。
「零さん?」
呼ばれてもすぐには目を戻せなかった。父がシートの外から肩へ手を置き、その感触でようやく救急隊員の方を向く。
少し離れたところでは彰人も診察を受けていた。こちらと目が合うと手を上げたが、すぐに救急隊員から破れた袖をまくるよう促される。
「俺、これくらいだから、先に他の人を――」
「その腕も見せて。ご家族には連絡できる?」
「親父に電話します。……結城、俺もちょっと診てもらうから!」
零は頷き返した。彰人は父母にも頭を下げたが、何か言う前に隊員へ呼ばれ、そちらへ向き直った。
その時、規制線の向こうが少し騒がしくなった。警察官と話していた女性が、人の間を抜けてこちらへ向かってくる。長い紫色の髪を後ろでまとめ、黒を基調にした上着を着ていた。周囲を見回していた黄色い目が零のところへ止まると、そのまま迷わず歩いてきた。
女性は数歩手前で立ち止まり、まず救急隊員へ目を向けた。
「診察中?」
「はい。三人とも搬送予定です」
「なら医療を先にして。アタシは短く確認するだけにする」
それから零と両親へ向き直り、首から下げた身分証を見せた。
「AEGIS日本支部の、
「結城……零です」
凛の視線が白い髪から翼へ移った。零は見られているのが落ち着かず、翼を少し畳もうとしたが、すぐに片方がシートへ触れそうになる。
「そのままでいい。無理に小さくしなくていいよ」
零は動きを止めた。凛は父母にも順に名前を尋ねた後、零が今日まで普通に暮らしていたことと、身体が変わったのがつい先ほどだという点だけを確かめた。
「触れたら、傷が消えたんです」
「分かった。それは後で医療側と一緒に確認する。今ここで何の能力か決めなくていい」
凛は零の手元へ目を落とし、少し声を低くした。
「今、何か力を使ってる感覚はある?」
「ないです。何もしてない、つもりです」
「そっか。じゃあ、そのままでいて」
零は思わず自分の両手を見た。母と父へ触れた時の熱も、淡い光もない。それでも凛はしばらく零を見ていた。
「何か……出てるんですか」
父が尋ねると、凛は頷いた。
「魔力。かなり外へ漏れてる。でも今、攻撃が出てるわけじゃない。無理に止めようとしなくていいよ」
零の指が強張った。
「僕も、あの人みたいになりますか」
凛の目が、零から担架で運ばれていく青年へ移る。
「今の君は暴れてない。魔力が漏れてるのと、あの人みたいに能力が止まらなくなるのは別。分からないことは多いけど、今はちゃんと診てもらえばいい」
「でも、止め方も分からないです」
「抑え方はあとで教える。今は勝手に抑えようとしなくていい。気分が悪くなったら、すぐ近くの人に言って。アタシもここにいる」
零は小さく頷いた。凛はそれ以上能力の話を続けず、救急隊員へ視線を戻す。
「翼、触られるのは分かる?」
「はい。さっき支えてもらった時も、分かりました」
「なら身体の一部として扱って。押さえつけたり、無理に曲げたりしないでほしい」
「分かりました」
隊員が答えると、凛は零へもう一度目を向けた。
「病院へ行っておいで。こっちはまだ確認することがあるから、必要な説明は後でする。少なくとも今日は、ご両親と一緒に診てもらえるよう話してある」
最後の言葉に、零はようやく息を吐いた。
「あの……橘さんは」
「さっき一緒にいた大きい子?」
「はい」
凛は彰人の方を見た。救急隊員と話しながら、電話を耳へ当てている。
「大きな怪我じゃないって。今、父親にも連絡してる。君は自分の診察を受けな」
「……はい」
やがて搬送の順番が来た。開いた救急車の扉の前で、零は背中の幅が分からず立ち止まる。隊員に羽先を支えてよいか聞かれ、頷くと、触れられた場所からくすぐったいような感触が背中へ返ってきた。
「そこ、痛かった?」
「違います。触られたのが、分かって……」
「分かりました。引っ張らないので、ゆっくり動いてください」
母にも片側を支えてもらい、零は翼を身体に沿わせながら車内へ入った。横向きに身体を預けても羽が寝台からはみ出し、隊員が位置を調整する間、零は何度も入口を見る。外にいる父へ手を伸ばしかけると、父の方から近づいてきた。
「お父さんも同じ病院へ行く。先にお母さんと乗っていてくれ」
「……うん」
母が隣へ腰を下ろしたのを確かめてから、零は父の手を離した。扉が閉まるまで父の顔を見ていたが、車が動き出すと、今度は母の服の裾を掴んだ。母はその手を外さず、座る位置を少しだけ近づけてくれた。
*
病院へ着いてから、どれくらい経ったのか、零にはうまく分からなかった。診察の途中で父も来て、三人それぞれの身体を調べてもらい、部屋へ案内された頃には窓の外が夕方の色になっていた。
ベッドは壁から少し離され、片側の椅子も動かされている。翼を広げる余地はできたが、背中を下にして寝ることはできない。零は端へ浅く座り、病院で借りた前開きの服を身体の前で合わせていた。背中側は翼に当たらないよう閉じず、膝へかけたタオルを胸の近くまで引き上げている。
血に汚れたTシャツは袋へ入れられ、父の椅子の脇に置かれていた。今着ている服より、そちらの方が自分のものに見える。それでも、もう一度袖を通したところで、余るようになった肩幅まで元に戻るわけではなかった。
「寒い?」
母が窓際から戻ってきたので、零は首を振った。母はタオルを引き上げようとした手を止め、そのままベッドの近くへ椅子を寄せる。
「髪、顔にかかってる。少しよけるね」
頬に触れないよう髪を分ける指は、いつも前髪を切ってくれる時と同じだった。ただ、耳の後ろへ回しても白い髪はまだ長く続き、母は何度か持ち直さなければならない。零が黙っていると、母も無理に話しかけなかった。
「……顔も、違うんだよね」
母の手が止まる。零は目を上げられないまま、膝の上のタオルを指でなぞった。
「さっき、分からなかったから」
「うん……。髪だけじゃなくて、顔も変わってる」
「見たい」
母は父を見てから、零へ向き直った。零がもう一度頷くと、看護師に頼んで小さな手鏡を借りてきてくれた。渡す時には何か言いかけたが、そのまま零の手へ預ける。
鏡の中には、白い髪の女の子がいた。血と埃を落とされた顔は、朝に洗面所で見た自分とはどこも同じに思えない。瞳まで明るい金色に変わっていて、鏡を近づけるほど、見間違いではないことだけがはっきりしていった。
零は口元へ指を当てた。鏡の中でも同じ場所へ指が触れ、首を傾ければ相手も傾ける。知っている顔を探そうとして眉を寄せたが、その困ったような表情にさえ見覚えがなかった。
「……これ、僕なの」
母は返事をしようと口を開いたものの、すぐには声を出さなかった。代わりに父が椅子から身を乗り出し、鏡の下へ手を添える。縁が父の手のひらに乗ると、零の指へかかる重さが少し減った。
「もう、置くか」
零は頷いた。父が鏡を伏せると、膝へ落ちた白い髪だけが目に残る。母に声をかけられたが、返事をすればまた聞き慣れない声が出る。それが嫌で、零はタオルを握ったまま黙っていた。
しばらくして看護師が入り、今夜はこのまま様子を見ること、詳しい検査や今後のことは明日以降に担当者から説明すると伝えた。父がいくつか確認し、母も着替えや泊まる場所について尋ねる。零は二人の話を聞きながら、窓の暗くなり始めた空を見ていた。
朝は、帰ったら親子丼を作るつもりだった。
買ったフライパンがどうなったのかも分からない。冷凍庫の鶏肉も、炊くはずだった米も、そのまま家にある。ほんの数時間前まで帰る場所だった家が、今はずっと遠いところにあるように思えた。
*
横になるだけでも、看護師と母に手を貸してもらわなければならなかった。下になる翼を押し潰さないよう身体を斜めにし、丸めたタオルを当ててもらう。ようやく枕へ頭をつけると、今度は頬の下へ髪が入り、動くたびに頭皮が引かれた。
「ちょっと待って。髪、こっちへ出そう」
母が白い束を枕の外へ逃がした。零は礼を言おうとして欠伸を噛み殺し、その拍子に目へ溜まった水を拭う。看護師からこの姿勢で苦しくないかと聞かれ、頷いた。父は邪魔にならない場所へ椅子を動かしながら、今夜必要になるものを確認している。
看護師が部屋を出た後、母が使い終えたタオルを畳んで立ち上がった。零は反射的に身体を起こしかけ、背中の重さに引かれて枕へ戻る。
「お母さん」
「どうしたの? 痛かった?」
「違う。……どこに行くの」
「タオルを、あそこの台に置くだけ」
母が示したのは、同じ部屋の壁際だった。零は顔を伏せたが、母がそちらへ向き直ると、服の裾を掴みそうになった。伸ばしかけた手を布団の上へ戻し、今度はちゃんと呼び止める。
「……今日は、僕が寝るまでそばにいてほしい」
母は持っていたタオルを父へ渡し、枕のそばへ椅子を寄せた。
「寝た後もいるよ。お父さんも一緒だから」
父がタオルを置いて戻ってきた。母の椅子とぶつからないよう自分の椅子をずらし、そこへ腰を下ろす。零は二人の足がベッドのそばにあるのを見てから、ようやく枕へ頬を預けた。
目を閉じる前に、母の手が白い髪をもう一度だけ枕の外へよけてくれた。