橘彰人が父、
『おう。どうした、彰人』
「親父、今、店?」
『そうだ。福岡旅行はどうだ? 飯の写真なら後で見るぞ。こっちはまだ片づけてる』
受話口から食器の重なる音がした。彰人は何から話そうか考えたが、近くで救急車のサイレンが鳴り始め、父の方が先に黙った。
『……おい。そっち、何の音だ』
「ちょっと事故に遭って。エマージェントの。今、救急の人に診てもらってる」
『怪我は?』
「腕、擦ったくらい。歩けるし、普通に喋れる。俺よりひどい人がまだいっぱいいて――」
『今はお前のこと聞いてる。ほかに痛いところはないのか?』
彰人は膝に置いた手を開き、そばの隊員へ目を向けた。病院でも診てもらうよう言われていることを伝えると、父は行き先を知らせるよう求めた。場所を答えようにも看板は倒れており、隊員に確認している間、電話の向こうからは何も聞こえなくなっていた。
「搬送先が決まったら送る。俺、ちゃんと自分で電話してるだろ。そんな心配しなくていいって」
『自分で電話できるのは分かった。そっち行くから、病院の人に代われるようになったらもう一回かけろ』
「え、店は? 夜の仕込みしただろ」
『冷蔵庫に入れる。休みの紙も出す。それくらいできるから、お前は医者の話を聞いてろ』
父が来るほどの怪我ではないと言いかけて、彰人は口を閉じた。道路の向こうでは白い翼が揺れ、両親と一緒にいる零が見えた。隣に立つ母親の腕を掴んでいるのを見ているうちに、自分も救急隊員の近くへ座り直していた。
「一緒にいた子に、助けてもらったんだ。俺、一人で近づこうとして駄目で。その子と二人で止めた」
『止めたって、お前が? 逃げてて怪我したんじゃないのか』
「それもあるけど……。今はもう終わってる。助けてくれた子も、親と一緒に診てもらってる」
『そうか。……分かった。詳しくは着いてから聞く。お前、一人でどっか行くなよ』
「もう行かねえって」
『今日のお前の「行かねえ」はあんまり信用できん。近くにいる人に言ってから動け』
言い返そうとしても、さっき自分が通った道路の方を見れば、うまい返事は浮かばなかった。彰人は分かったと答え、通話を切った。搬送先が決まると病院名を打ち込み、隊員に画面を見せて確かめてから、父へ送った。
*
病院で腕と殴った手を診てもらった後、彰人は小さな相談室で警察官と向かい合った。入院の必要はないと告げられ、父にも病院から連絡が入っている。到着を待つ間に現場の話を確かめたいと言われ、彰人は机に広げられた通りの図を覗き込んだ。
「現場でも話してくれたけど、もう少し順番を確認させてね。疲れたら言って」
「大丈夫です」
「橘彰人くん。十三歳、中学二年生で合ってる?」
「はい。来月で十四です。……あの、俺が殴った人、どうなりましたか」
警察官はペンを止め、彰人へ顔を向けた。まだ呼吸をしていたことまで先に話すと、相手は頷き、図の端へ置いていた手をどけた。
「病院で診てもらっているよ。君が殴ったことも、救急の人から伝わっている。その時のことを聞いてもいいかな」
「はい。手を押さえたんですけど、光が消えなくて。本人も、考えたら出るって言ってました」
「覚えている言葉で聞かせてくれる?」
「手じゃない、動かしてなくても、って。その後も、違う、そっちじゃないって叫んでました」
口にしてみると、青年の声に重なっていた破裂音まで戻ってきた。どの言葉の後で光が増えたのかは、もうはっきりしない。彰人がそこを言い淀むと、警察官は無理に順番を決めなくていいと告げ、聞き取れた部分だけを読み返した。
「気を失わせれば止まるって、知っていた?」
「知らなかったです。止まるかも、とは思ったけど。押さえても駄目で、また人のいる方へ飛んでいったから……ほかに思いつかなくて」
「殴ったのは一回?」
「はい。その後、倒れないように受け止めました。光が消えて、息を確かめて、それから警察の人を呼びました」
警察官が書き終えるまで、彰人は膝へ置いた手を動かさなかった。力の抜けた青年を抱えた時は、光が消えたことより、胸が動くかどうかの方が気になった。今も、病院で診てもらっているという言葉だけでは、手の中に残る重さが消えなかった。
「あの人、捕まるんですか」
「今ここでは決められない。本人や、ほかの人にも話を聞くよ」
「わざとじゃないと思います。俺らに来るなって言ってたし、光にも止まれって。あれ、自分でも怖かったんじゃないかなって」
「そう見えたんだね。止まれと言っていたことも、さっきの話と一緒に残しておく」
「……お願いします」
その後、彰人は図へ配送車の位置を書き足し、最初に一人で近づこうとした場所を示した。横から光が飛んできて引き返したこと、零とはその後に初めて会ったことを聞かれ、覚えている範囲で答える。警察官が一通り確認を終えて手帳を閉じたところで、扉が叩かれた。
入ってきたのは、現場で零の方へ歩いていった女性だった。長い紫の髪を結び、黒い上着に白と青の線が入っている。警察官と短く言葉を交わしてから、彰人へ身分証を見せた。
「AEGIS日本支部の九条凛だ。少し話せるか?」
「はい。あの、結城はどうしてますか」
「ご両親と一緒にいる。今は休んでもらってるよ」
「会えませんか? まだ、ちゃんと礼を言えてなくて。顔見るだけでも」
「会えるかは、本人に聞いてからな。伝言なら預かる」
彰人は出しかけた足を椅子の下へ戻した。少し話せば安心できると思ったが、最後に見た零は返事の代わりに涙をこぼしていた。今こちらが顔を出しても、起こしてしまうだけかもしれない。
「じゃあ、助かったって。あと、俺は大丈夫だったって、それもお願いします」
「分かった。君の腕は、医者に見せた?」
「手も。入院しなくていいって言われました。今は腹減ったくらいです」
「なら、父親が来たら飯にしな。こっちも長くはかけないから」
警察官が部屋を出ると、凛は空いた椅子へ腰を下ろした。見上げていた顔が、机を挟んで近くなる。彼女は現場の図へ一度目をやり、青年のそばへ書かれた印から、彰人の手元へ視線を戻した。
「君も力が使えるんだね。どういうもの?」
「自分の身体の、どれか一つを何倍かにできます。力を強くしたり、足を速くしたり。今日は、速くしすぎて……」
「速くしすぎた?」
「結城に合わせるって言ったのに、俺だけ先に行きかけました。待ってくださいって呼ばれて、戻ったんです」
「その後は?」
「結城が歩いてから、俺も動くようにしました。あの翼、前に出すと足元も見えないみたいで」
彰人は椅子の下へ引いた靴を見た。車まで走ろうとした時には、零もついてこられるつもりでいた。止められて振り返るまで、足が動く速さだけでは済まないことに気づかなかった。
「動く練習もした方がよさそうだな。力を強めるところだけじゃなくて」
「そういうのも教えてもらえるんですか?」
「ああ。日本支部に練習用の場所がある。まず何ができるか見て、安全に使える範囲を確かめる。興味ある?」
「あります。でも、それって、AEGISで働くってことですか」
「違う違う。勧誘じゃないよ。力を扱う練習の話」
「ですよね。制服着てる人って、みんな事件のところに行くもんだと思ってて」
凛は自分の上着へ目を落とし、胸の印を指で軽く叩いた。彰人もつられてそこを見たが、彼女は制服を勧める代わりに、ポケットから一枚の紙を出して机へ置いた。
「練習を受けたからって、事件へ行く仕事を引き受けるわけじゃない。強い力を出せる分、普段どう抑えるかも覚えておいた方がいいってこと」
「学校は、そのまま行けます?」
「辞める必要はないよ。休みの間に短い期間から受けることもできる。ただ、日程や泊まる場所は父親と一緒に相談しよう」
「日本支部って、海の上ですよね。通うにしても、そこから聞かないと分かんないな」
「そう。だから、これを見せて。気になることは父親からも聞いてもらっていい。説明を聞いてから断っても構わないよ」
紙には日本支部の連絡先と、凛の名前が載っていた。彰人は受け取り、電話番号の上へ置いていた指をずらした。帰るつもりでいた夏休みの予定を思い浮かべても、海の上で練習する日を、今すぐどこへ入れればいいのかは分からなかった。
「俺は……やってみたいです。まだ、期間とかは分かんないですけど」
「分かった。その気持ちも父親に話してみな」
「凛さんも教えてくれるんですか」
「アタシも見るよ。ただ、何でも一回で教えられるわけじゃない。まず君が力をどう使ってるのか見てからだ」
「はい。親父が来たら、一緒に聞きたいって伝えます」
紙をしまいかけたところで、彰人は青年の震えていた手を思い出した。制御できなくなった人も同じ場所で練習できるのだろうか。凛が立つ前に呼び止めると、彼女は椅子へ座ったままこちらを向いた。
「あの光の人も、止め方を教えてもらえるんですか。起きてから、一人で何とかしろとか……そうならないですよね」
「本人の状態を見てからだけど、困ってるまま帰すつもりはない。家族への連絡も、担当が進めてるよ」
「……よかった。最後、殴る以外に何もできなかったから」
「今は担当に任せな。あと、その連絡先は君が困った時にも使っていいぞ。他の子のことだけじゃなくて」
彰人が返事をすると、凛は廊下の職員へ、父親が来るまで待てる場所を尋ねた。案内を受けて椅子から立ち、礼を言って部屋を出る。ポケットの紙が折れないよう手で押さえながら、父が今どの辺りにいるか確かめようと、スマートフォンを取り出した。
*
父が来た時には、待合の窓は暗くなっていた。鞄を肩にかけ、片手にはコンビニの袋を下げている。彰人が立ち上がって手を上げても、父はすぐには返さず、目の前まで来てから破れた袖へ手を伸ばした。
「……お疲れ。先生から説明、聞いたろ。大丈夫だって」
「聞いたよ。今、見てる」
「そんな引っ張んなって。ガーゼに引っかかる」
「じゃあ、お前がまくれ。電話じゃ腕一本も見えなかったんだから、これくらい見せろ」
彰人が袖をよけると、父はそこを見たまましばらく黙っていた。もういいかと聞こうとしても、肩にかかった鞄の紐がまだずれたままなのが目に入る。彰人は隣の椅子へ置いていた荷物を持ち上げ、父が座れるようにした。
「本当に他は何ともないんだな?」
「うん。病院でも言った。親父、何か食った?」
「まだだ。お前も腹減ってるだろ。焼きそばと弁当、買ってきたぞ」
「そんなに? 今はあんまお腹空いてねぇけど」
「俺の分もあるんだよ。こちとら昼からなんも食ってねぇもんだから腹が空いてんだよ」
袋を覗き込んでいた彰人は、顔を上げて笑った。職員に食事のできる場所を教えてもらい、父と二人で移る。父が袋から容器を出している間に、彰人は凛から受け取った紙をテーブルへ置き、曲がった角を指で伸ばした。
「親父。食う前にちょっと聞いてほしいんだけど」
「今度は何だ」
「AEGISで、力の使い方を教えてもらえるんだって。俺、受けてみたい」
「……AEGISに入るのか」
「働くんじゃないって。短い期間からで、学校も辞めない。詳しいことは、親父と一緒に説明したいって言われた」
父は弁当の蓋へかけていた手を離し、紙を引き寄せた。彰人が黙って待つと、名前と電話番号を見てから、こちらへ顔を上げる。
「どこでやるんだ。誰が面倒を見る?」
「海の上の日本支部。九条さんも見てくれるって。でも、期間とか泊まるところとか、まだ聞いてない」
「そこが大事だろ。お前に何かあった時、俺に連絡が来るのかとか」
「うん。だから、一緒に聞いてほしい。俺だけで決めてきたわけじゃないから」
父は紙を置いたが、すぐに返事はしなかった。彰人は焼きそばの蓋へ指をかけ、開けずに戻した。行っていいと言ってもらえそうな理由を探すと、結局、今日できなかったことばかりが浮かんだ。
「俺、速く走れたら何とかなるって思ってたんだよ。結城が止めてくれなかったら、一人で翼の外に出てた。あれじゃ、一緒に来てもらった意味ないだろ」
「それ、さっきの人にも話したのか」
「話した。だから、そういう練習もした方がいいって。俺も、できないまま帰るのは嫌で」
「怖くなかったのか。そこまでして近づいて」
「別に。……いや」
反射的に答えてから、彰人は蓋の端を握った。横から光が来た時、どちらへ足を出せばよいのか分からなかった。父の顔を見るとまた軽く済ませてしまいそうで、容器へ目を落としたまま言い直した。
「普通に怖かった。あれがもう一回来たらどうするって言われても、今も分かんない。だから、練習しときたいんだ」
「次も行くために?」
「……次も行くって決めてるわけじゃない」
「でも、行かないとも言えないんだろ」
彰人はすぐに頷けなかった。病院の行き先を知らせろと言われた時には、迷わず返事ができた。それでも、今日の通りを思い出して、何もせずに離れると言えば嘘になった。
「うん。行かないって約束したら、多分守れない」
「そこなんだよ。俺が怖いのはよ」
「じゃあ、やめろって?」
「まだ言ってねえ。お前が習いたいのは分かった。でも、上手くなったら今度はもっと危ないところまで行くんじゃないかって、考えるだろ?」
父の指は、紙の上に置かれたままだった。彰人は反対される前にもう一度説明しようとして、さっきと同じことしか言えないと気づいた。口を閉じると、父の方が先に息をついた。
「行きたいって言ったら、俺がすぐ『よし行け』って言うと思ったか」
「ちょっとは」
「親を何だと思ってんだ」
「……ノリいい人」
「そこだけ抜き出すな、阿呆」
彰人は小さく笑ったが、父の顔を見て、すぐに目を戻した。いつもならもう一言返すところだった。父も続きを急かさず、紙を自分のスマートフォンで撮ってから、彰人の側へ返した。
「説明は一緒に聞く。お前がやりたいのも分かった。ただ、俺が怖がってることも覚えとけ」
「うん。ちゃんと覚えとく」
「行くかどうかは、話を聞いてからな。分からんところまで、今ここで決めなくていい」
「分かった。……ありがとな、親父」
紙をポケットへ戻しても、父は席を立たずに弁当を手前へ寄せた。彰人もようやく焼きそばの蓋を開ける。ソースの匂いを嗅いだ途端に腹が鳴り、黙って箸を取ろうとしたところで、父が口元を緩めた。
「さっきから我慢してたのか。先に食っててもよかったのに」
「話してる途中で食ったら、聞いてんのかって言うだろ」
「それは言うかもしれん。じゃあ、もう食え」
「何だよそれ。……いただきます」
麺を頬張ると、思っていたよりずっと腹が空いていた。二口目を掬う横で、父も箸を割り、弁当の蓋を外した。彰人がついそちらへ目を向けると、父は容器を少しだけ遠ざける。
「こっちは俺のだからな」
「取らねえって。見ただけだろ」
父が笑い、彰人も口の中のものを飲み込んでから笑い返した。向かいの箸が動き始めたのを見て、今度は少しゆっくり、次の一口を食べた。