「昨日、光を出していた子が、君たちに謝りたいと言ってる」
凛の言葉に、零は膝へ落ちていた髪をよける手を止めた。事故の翌朝、朝食の食器を下げてもらったばかりだった。父は借りた上着を椅子へ掛ける途中で振り返り、母もベッドのそばへ戻ってきた。
「……あの人、起きたんですか」
「昨日の午後に。夕方、担当を通して頼まれた。君は休んでたから、今朝まで待ったんだ」
「ここに、来るんですか」
「まだ呼んでない。会うかどうか、先に聞きに来た。今は嫌なら、そう伝える」
零は扉へ向けていた目を戻した。廊下には人の話す声がするが、誰かが入ってくる気配はない。凛は立ったまま返事を待つことをやめ、父が空けた椅子へ腰を下ろした。
「……お母さんは、今日はまだ早いと思う。昨日、やっと眠れたところなのに」
母の手が零の肩へ触れた。首を縦に振れば、このまま会わずに済むのだろう。零は布団の縫い目を見ながら、聞かないままになっていたことを口にした。
「あの人、どうしてあんなことをしたんですか」
「自分の力を使っていて、動かしきれなくなったと話してる。わざと人へ当てたとは言ってない。ただ、事故の詳しいことは、まだ調べてる途中だ」
「止めようとしてたのは、見ました。でも、その前は……」
青い光の向こうで、青年は何度も手を伸ばしていた。その前に何があったのかは、零には分からない。母の鞄を指で示して、次にはもう父に腕を引かれていた。
「……聞きたいです。どうして、あんなに出したのか」
母の手に少し力が入った。零が顔を向けると、母は何か言いかけ、凛の方を見た。
「また、同じことになる心配はないんでしょうか」
「昨夜から新しい球は出てない。今朝も医療の担当と話して、短い面会ならできる状態だと確認してる。アタシも同じ部屋にいるし、様子が変わればすぐにやめる。本人にも、力は使わないよう伝えてある」
「お母さんたちも、一緒にいてほしい」
「もちろんいるよ。でも、無理して会わなくても……」
「無理だと思ったら、帰ってきていいんだな」
父が凛へ尋ねた。凛は頷き、病室とは別に使える部屋があると伝えた。零が途中で席を立っても、引き止めないという。その話を聞いてから、父は零の足元へしゃがんだ。
「お父さんも隣にいる。言いたいことが出てこなくても、黙っていていいから」
零は頷いた。父母が一緒でも、あの顔を見るのは怖かった。凛へ顔を向けてから、もう一つだけ頼んだ。
「橘さんも、来ますか」
「向こうも会いたいと言ってる。別々にすることもできるけど」
「できれば、一緒がいいです」
「分かった。時間が決まったら知らせる。それまでに気が変わったら、看護師さんに言ってくれればいいよ」
凛が出ていくと、母は零の耳にかかった髪をよけた。零はその指へ少し頭を寄せたが、母が顔を覗き込む前に俯いてしまった。会う時間が決まるまで、扉が叩かれるたびに顔を上げた。
*
面会に使う部屋の前で、彰人が父親と待っていた。袖からガーゼが覗いているが、昨日の破れたTシャツではない。零が母と廊下を曲がると、彰人は手を上げ、こちらが来るのを待った。
「よ、おはよう! 歩ける? 翼、引っかかってない?」
「はい。ゆっくりなら……。橘さんの腕は?」
「手当てしてもらった。今日も診てもらったけど、大したことないって。伝言、聞いた?」
「伝言?」
「あ、まだか。昨日、助かったって。俺は大丈夫だったから、って凛さんに頼んだんだ」
零が凛を見ると、彼女は扉から手を離した。
「すまん。休んでる間は起こさずに、後で伝えようと思ってたんだ」
「今、言えたからいいよ。結城、昨日はありがとな!」
「僕も、橘さんがいてくれたから……」
どちらを向けばよいか分からなかった時、隣から声がした。その礼を言おうとすると、倒れた人のいた道路まで浮かんできた。言葉を止めた零へ、彰人は頷いた。
彰人の父親が零の両親へ挨拶をし、待合にいると息子へ告げた。凛に促されて中へ進む間、入口の職員が扉を押さえてくれた。
向かいの椅子から、青年が立ち上がろうとした。街で見た時とは違い、髪は乾き、服にも血や埃はついていない。それでも、膝から離れた手を見た途端、零の足が止まった。背中の翼が前へ出かけ、母の腕へ触れる。
「座ったままでいい。そこで話そう」
凛が青年のそばへ寄った。彼は立ちかけた姿勢から腰を下ろし、両手を膝へ戻した。零はその指が動かなくなったのを見てから、ようやく母と入口に近い椅子へ進んだ。
背もたれを避けて横向きに座ると、翼の先が椅子の脚へ触れた。父が椅子をずらして出口までの道を空け、彰人は母と反対側の、羽に触れない席へ座った。
「裕太の父です。昨日は、本当に申し訳ありませんでした」
青年の隣にいた男性が頭を下げ、その向こうの女性も続いた。零の父は膝の上へ手を置いたまま、短く会釈した。
「まずは、ご本人の話を聞かせてください」
「……はい」
父親が座り直すと、青年はこちらを向いた。顎の辺りが少し腫れている。口を開いたまま一度息を吸い、彼は改めて頭を下げた。
「天海裕太です。俺の力で、怪我をさせました。ご両親にも……本当に、すみませんでした」
零は返事をしようとしたが、下げられた頭を見ているうちに、声が出なくなった。膝へ置いた手を母に握られ、そのまま黙っていると、隣で彰人が身を起こした。
「俺は橘彰人。昨日、腕を掴んだ方。……顎、まだ痛む?」
「……少し。でも、あの時は、止めてくれてありがとう。俺、自分じゃ何もできなくなってたから」
「俺も殴る以外に思いつかなかった。病院の人には、俺がやったって話してる」
「それは……俺が止められなかったせいだろ」
彰人はガーゼの端を指で押さえたまま、すぐには答えなかった。裕太も口を閉じ、少ししてから零へ向き直った。
「……名前、聞いてもいいですか」
「結城、零です」
「結城さん。昨日、近くまで来た時、俺、来るなって怒鳴って……。当たると思ったんだ。でも、ちゃんと止められなくて」
「それは、聞こえてました」
小さな声にも裕太が顔を上げたので、零は母の手を握り返した。病室で聞こうと思ったことを、何とか声にした。
「……どうして、あんなに出したんですか」
「……俺なら、動かせると思ってた。最初はちゃんとできてて、数を増やしても、思った通りに動いてたから」
「たくさん、動かしたかったんですか」
「……うん。もっとできると思った。それで増やした。勝手に出たのは、その後で……最初に増やしたのは俺です」
零は裕太の手を見た。昨日は何度も空中を掴んでいた指が、今は膝の布を握っている。目を離せずにいるうちに、裕太がまた頭を下げた。
「すみません。できると思ってたなんて、そんなの、怪我した人には関係ないけど」
「……僕たち、買い物に来ただけだったんです」
裕太の肩が止まった。零も、その言葉の続きを用意していたわけではなかった。隣に母がいるのに、倒れた時の顔が見えなくならず、握っていた手へ目を落とした。
「お母さんを呼んでも、返事がなくて。お父さんも、起きられなくて……。二人とも、このまま死ぬんじゃないかって」
「……はい」
「僕も、そばに行こうとしても動けなかったんです。すぐそこだったのに」
母が手を離し、肩へ腕を回した。零はそれに寄りかかるのを堪え、裕太を見た。彼は頭を上げ、唇を少し開けたまま聞いていた。
「僕たちが、あそこにいたのは……見えてたんですか」
「車のところに来た時は。でも、その前は、見てない。九条さんに聞くまで、ご両親がいたのも知らなかった」
「……そうですか」
「光を止める方ばっかり見てた。どこに当たったか、ちゃんと確かめる前に、次が動いて。それも、俺がやったんだけど」
零は頷こうとして、母の袖を掴んだ。今着ている服には血がついていないのに、握った指を少しも緩められなかった。
「これから、力の使い方はちゃんと見てもらう。もう……昨日みたいなことは、しないようにする。だから――」
裕太はそこで言葉を切った。零が何も答えないままでいると、彼は膝の布から指を離し、座り直そうとした。椅子の脚が鳴り、零は反射的に母の腕を掴んだ。
「動かないで……」
裕太が止まった。両手は膝にあるし、光も出ていない。零は唇を開いたが、謝ることも、もう大丈夫だと言うこともできなかった。
「……分かった。ここにいる」
零は頷こうとして、うまく頭を動かせなかった。隣で彰人がこちらを向いたが、その声を待つ前に、凛が尋ねた。
「結城、いったん外へ出るか」
「……はい。少し、出たいです」
「分かった。今日はここまでにしよう」
母が立つと、零もその腕を借りて腰を浮かせた。翼の先が椅子へ引っかかり、父に位置を直してもらう間も、裕太は席を動かなかった。零は彼を見てから、ようやくひとつだけ言えた。
「……今はまだ、怖いです」
裕太はすぐには答えず、膝に置いた指をゆっくり曲げた。母の腕を掴んでいる零の手へ目をやり、それから顔を上げる。
「……うん」
零は頭を下げ、父が空けてくれたところを通った。扉を出る時に振り返っても、裕太は座ったままだった。目が合う前に顔を戻し、母と廊下へ出た。
*
部屋から離れた窓際で、零は息を吐いた。母がタオルを差し出してくれたが、受け取るより先に両手で顔を覆ってしまい、足音が近づいても見られなかった。
「結城。……俺だよ」
足音が止まり、零は顔から手を離した。タオルを受け取って目元へ当てると、布が濡れた。
「……すみません。途中で出てきちゃって」
「いや、いいよ。俺も何言っていいか分かんなくなってた」
「あの人、ちゃんと謝ってくれたのに」
彰人は口を開きかけ、閉じた。零はタオルの端を握り、自分から聞きたいと言ったことを思い出した。答えてもらったのに、途中で出てきてしまった。
「……返事、できなかったです」
「……お母さんもできなかったよ」
零が見上げると、母は扉を一度振り返ってから、肩へ手を添え直した。父も何も言わず、廊下を通る人へ道を譲っている。少し黙っていた彰人が、零へ声をかけた。
「俺、また話しに来てもいい? 今日は、もう休んだ方がいいと思うけど」
「橘さんが、ですか」
「うん。凛さんに、来ていいか聞いてからにする」
零は彰人の手を見た。指先が動いても身を引かずにいられ、ようやく小さく頷いた。
「……はい。でも、今日は、まだ」
「分かった。じゃあ、また今度。俺も親父のとこ戻る」
彰人を見送って病室へ戻ると、朝の椅子がそのまま残っていた。母が座れるように翼を少しずらし、零もベッドの端へ腰を下ろした。畳んで返そうとしたタオルを、もう一度広げて目元へ当てた。