父が仕事先へ電話をかけている間、零はベッドの上で、借りた服の袖を折り返していた。昼食の時、長すぎる袖口を味噌汁につけそうになったのだ。片方を折ってもう片方へ手を移すと、先に折った方がほどけた。母が手を出しかけたが、廊下から戻ってきた父を見て止まった。
「どうだった?」
「しばらく休んでいいって。ただ、いつ戻れるか分かったら、早めに連絡してくれと」
「そう……。私も予約を代わってもらわないと。今週のお客さん、まだ何人か連絡できてなくて」
父は返事をしながら、携帯電話を椅子へ置いた。零が袖口から手を離すと、父はこちらを見て、上着のポケットから小さな袋を出した。売店で買ってきた歯ブラシだった。三本とも同じ形で、持ち手の色だけが違っている。
「好きな色でいいぞ」
「……僕、青でいい」
「じゃあ、お母さんはこっちね。お父さん、名前を書かないと混ざるよ」
「色が違うだろ」
「家でも間違えたことあるじゃない」
母が赤い方を引き寄せたので、残った緑色を父が取った。零は自分の一本を掌へ載せ、袋の裏を見た。家の洗面台にも、自分の歯ブラシが残っている。父が二人分を鞄へしまう間も、零は袋を開けずにいた。
「お父さん。明日は、家に帰れる?」
父の手が鞄の口で止まった。午前中の面会を終えた後、昼食までは誰も帰る話をしなかった。父は鞄を椅子へ下ろし、ベッドのそばへ来た。
「身体の具合は、移動しても大丈夫そうだと言われた。ただ、家に戻る前に、九条さんから話がある。三人で聞こう」
「……分かった」
零は頷き、歯ブラシを膝の上へ置いた。話を聞けば帰る日が決まるのかもしれない。そう思いながらも、朝、面会の部屋を出てきた時より、父の顔を見続けるのが難しかった。
*
午後に病室へ来た凛は、生活の相談を受け持つという職員を連れていた。父母と挨拶を交わし、話してもよいか尋ねてから、零が頷くのを待って椅子へ座った。職員が開いた画面には、建物が幾つも並ぶ海上の施設が映っていた。
「こちらが、AEGIS日本支部です。医療の設備と、力を使う練習のための場所があります。ご家族で暮らせる部屋も、こちらで用意できます」
母が画面へ身を寄せた。施設の全体図から住居の写真へ切り替わると、食卓に置かれた椅子を見て、職員へ顔を向けた。
「……ここに、三人で?」
「はい。病室を一つ使うのではなく、寝る部屋と、食事をする場所がある住まいです。翼のために動かした方がいい家具は、先に調整しています」
母が画面を覗き込む隣で、父は凛へ尋ねた。
「検査を受けに行くということですか。それとも、そこへ引っ越す話でしょうか」
「当面は、そこで生活してもらいたい。検査だけじゃなくて、身元を守ることと、力の扱いを覚えることも必要だから」
「家で暮らしながらでは、難しいんですか」
「できればそうしたいです。ただ、今の結城には、家へ戻る前に確かめたいことが多い。昨日みたいに人の傷が消えた例は、AEGISでもほかに確認できてないんだ」
零は膝の上の手を引っ込めかけた。両親の傷に触れた指には、何も残っていない。母は自分の額へ手をやり、そこを確かめる前に下ろした。
「九条さんにも、できないんですか」
「アタシにはできない。ほかにできる人がいないか探してるけど、今はまだ見つかってない」
「でも、同じ……魔力っていう力を使うんですよね」
「そうだ。魔力を使うのは同じ。でも、それで何ができるかは人によって違う。アタシが同じことしても、傷は治せないよ」
零は片手をもう片方へ重ねた。母へ触れた時は、熱が勝手に流れていった。あれが魔力だったのだろうか。指先を確かめても昨日と同じ熱はなく、零は両手を重ねたまま膝へ戻した。
「昨日、外へ漏れてるって言ったろ。今もかなり強い。アタシ以外にも、それに気づく人がいるかもしれない」
「見なくても、僕がいるって分かるんですか」
「力が強く動いてる場所は、離れてても分かることがある。ただ、それだけで名前や、どんな能力かまで分かるわけじゃない」
「じゃあ、今はまだ、うちの子だと知られてはいないんですね」
母の問いに、凛はすぐには頷かなかった。同行した職員へ一度目を向けてから、三人へ向き直る。
「どこまで見られたかは、調べてる最中です。昨日の姿を見た人はいる。だから、その姿と名前や家を結びつける情報は、これ以上広げたくない」
「誰かが、家に来るんですか」
母は鞄を引き寄せ、父へ目を向けた。父が何か答える前に、凛が続けた。
「来ているという報告はありません。ただ、人を治せると知られたら、頼みに来る人も、無理にでも使おうとする人も出るかもしれない。そうなってから移るより、今のうちに守りを整えたい」
窓の向こうで車の音がした。零はカーテンの隙間を見たが、そこから見えるのは隣の建物だけで、人影もなかった。それでも、家の前まで迎えに来る人を想像すると、自分が玄関を開けたことまで知られてしまう気がした。
「……魔力を出さないようにしたら、帰れますか?」
「それは覚えていこう。ただ、漏れなくなれば全部解決するとは、まだ言えない。身体のことも、外へどんな情報が出たかも、確かめる必要がある」
父は椅子の上の携帯電話を手に取り、画面を消したまま尋ねた。
「いつまでになるかは、まだ分からないんですね」
「はい。何日で帰れるとは約束できません」
先ほど仕事先へ伝えた返事を、また変えなければならないのだろう。父は携帯電話を膝へ置いたが、すぐにはかけ直さなかった。母も鞄から手帳を取り出し、開いたページをしばらく見ていた。
「私たちの仕事のこともあるんです。しばらく休めるとは思いますけど、ずっとというのは……」
「職場へどこまで事情を伝えるかも含めて、こちらでご相談を受けます。家の荷物も、ご家族と確認しながら手配しますので、必要な物を書いていただけますか」
職員が答え、母の手帳へ目を向けた。母は空白のページを開き直し、休みを延ばす場合に誰へ連絡するかを父と話し始めた。零は口を挟もうとして、二人が仕事を辞める話まではしていないのだと気づいた。それでも、折り返していた袖の端を強く握った。
「お母さんたちは、仕事に……」
母は手帳を閉じ、零の方へ椅子を寄せた。
「お母さんは、一緒に行くつもり。ただ、その先の相談もしておきたいの」
「お父さんも行く。今ここで、零一人に荷物を持たせて送り出したりしないよ」
父に言われ、零は袖から手を離した。安心して頷いたら、二人を引き止めることになるようで、顔を上げられなかった。凛は職員に施設の写真へ戻してもらい、画面を零の方へ向けた。
「ここで、まず君自身の生活を整えたい。今の身体で休める場所も、翼をぶつけずに動かす練習の場所もある。病院で診てもらうことは続けられても、この部屋で全部やるわけにはいかないからな」
「そこで……誰かを、治すんですか」
「今は、君の身体と力を確かめる方が先だ」
「住ませてもらうなら、何かしないといけないのかなって」
「治すことと引き換えに部屋を貸すんじゃない。昨日みたいな場所へ行く仕事をしてもらう話でもないよ」
母も凛へ顔を向けていた。凛はそちらにも頷いたが、零が返事をする前に次の説明へは進まなかった。画面には食卓と、その奥に小さな台所が映っている。知らない場所の写真なのに、ベッドが一つ置かれた部屋より、そこで何をするかは考えやすかった。
「……天海さんも、そこへ行くんですか」
「向こうの家族にも、別に相談してる。ただ、同じ施設へ行くことになっても、住む部屋や最初の練習は別にできる。今日の続きを、そこでさせるつもりはない」
「すみません。そういうことじゃ……」
否定しかけても、朝、椅子の音に身を縮めたことを思い出すと、続かなかった。凛は訂正を求めず、画面の端を指で押さえた。
「結城はどうしたい? 今の説明で分からないところがあったら、先に聞いていい」
家へ帰りたかった。自分の部屋なら、誰かが見ているか気にせずに座れる。けれど机とベッドの間を、この翼で通れるだろうか。父母が何も知らないまま玄関へ出ることも、今は怖かった。
「……使い方は、知りたいです。勝手に動いて、人にぶつけるのも嫌だから」
「……ああ」
「……三人で行けるなら。そこへ行ってみたいです」
父は零の顔を見てから、凛へ向き直った。
「お願いします。まず三人で、そちらへ。ただ、家の荷物や職場のことは、まだ相談させてください」
「はい。そこは担当と進めましょう。君も、あとから聞きたいことが出てきたら言って」
職員が病院と受け入れ先へ連絡するために席を立つと、母も手帳を鞄へ戻した。零は膝の上の歯ブラシを手に取り、一緒に入れてほしいと差し出した。母は鞄の中で場所を空け、父と自分の分の隣へ収めた。
*
福岡の病院を出たのは、その翌日だった。医師から移動してよいと告げられ、診察の記録は支部の医療担当へ渡すと説明された。零と両親には凛たちが付き添い、手配された車や航空機で移動した。翼を収める場所をその都度確かめ、途中で休憩を挟むうちに、借りた鞄には飲みかけの水と、母が買い足した髪留めが増えた。
最後の移動を終え、建物の中へ入ってからも、零の耳にはまだ低い音が残っていた。窓の向こうには海があり、手前の岸壁では作業車がゆっくり動いている。白い渡り廊下の先にも別の建物が続き、零は案内される方を見失わないよう父の隣を歩いた。
「こんなに大きいんですね。全部、最近できたんですか」
母が尋ねると、凛は廊下の先に出された工事中の表示を指した。
「元からあった施設を使ってる。住む場所も、医療の場所もな。使い方を変えるために、まだ工事してるところはあるが」
案内の職員が、工事中の区画を避けて角を曲がった。横を通る台車へ道を譲ると、凛は少し先で足を止め、零たちが追いつくのを待っていた。零は歩いているうちにほどけた袖口を折り返し、父に遅れないよう足を速めた。
医療区画で到着時の体調を確かめてもらってから、三人は居住区へ案内された。受付で説明を受け、父母が鍵を受け取る。部屋の扉を開けると、玄関の先には低い机とソファがあり、窓際だけは何も置かれていなかった。
「家具を少し寄せてもらった。通ってみて。ぶつかりそうなら、また動かす」
凛が玄関脇へ寄り、零が入るのを待った。身体を斜めにすると翼の端が扉へ触れたが、父に位置を教えてもらいながら抜けられた。居間へ出ると左右に人がいなくなり、背中へ寄せていた翼を少しだけ緩めた。
「お父さん、鞄はそこじゃなくて。零が通るから」
「ああ。こっちでいいか」
「うん。……私たちの部屋は、こっち?」
母が奥の扉を開け、父は鞄を持ってついていった。零は居間に残り、流し台の前で足を止めた。棚に食器が入っていて、冷蔵庫も炊飯器もある。蛇口の下には新しいスポンジが置かれていたが、乾いたままで、使い慣れた台所の匂いはしなかった。
「食事は食堂でも取れる。今日は疲れただろうから、部屋へ運んでもらおうか」
「……お願いします」
「明日の診察も、迎えが来る。練習の話は体調を見てからにしよう。今日は部屋の中で困ることがないか、それだけ見ておいて」
凛が父母と連絡先を確かめ、玄関へ向かった。零も見送ろうとしたが、両親の間へ翼を持ち込めず、居間の端で止まった。凛が振り返り、そこからでいいと手を上げたので、その場所で頭を下げた。
「九条さん。ありがとうございました」
「ああ。じゃあ、また明日な」
扉が閉まると、母が冷蔵庫を開けた。水が何本か入っているのを確かめ、父へ一本渡す。父は先に零へ差し出したが、零が鞄から飲みかけを取り出すと、自分で蓋を開けてソファへ座った。
「お母さんも、座ったら」
「そうする。……あ、でも、家から送ってもらう物だけ、書いておこう。何がどこにあるか、忘れないうちに」
「家の中のことは、そう忘れないだろ」
「今、頭に浮かんでるうちに書きたいの。お父さんの仕事の手帳もいるでしょう」
父は頷いて、母が広げた用紙の横へ場所を書き添えた。零も台所から戻り、肘掛けのない椅子へ浅く座った。母が着替えの話をすると、零は折り返した袖を押さえた。家の服が届いても、背中のどこへ穴を開ければ着られるのかは、まだ分からない。
「服は、全部送ってもらっても、着られるか分からないね」
「そうね。直せるかどうか、こちらで聞いてみよう。ほかに持ってきたい物は?」
「……ギター」
母のペンが止まった。零は自分の指へ目を落とした。ネックを握る幅も、弦を押さえる間隔も、前とは違うかもしれない。背中の翼を避けて座りながら、膝の上に載せられるのかも分からなかった。
「弾けるか、分からないけど。置いておきたい」
「分かった。大きいから、どう送れるか聞いてみよう。ケースは部屋の隅だったな」
「うん。でも、まだ中には入れてない」
父が場所を書こうとしたので、零はペンを受け取った。自分の部屋のどこにギターを立てているか、ケースはどこにあるかを、順に書き足す。母は横から読んでいたが、零がもう一行書き始めると、用紙の端を押さえるだけにした。
「何か忘れてた?」
「楽譜。机の下の引き出し」
零はその場所も書き足し、ペンと一緒に用紙を父へ渡した。父は折る前に、ケースと楽譜の場所をもう一度確かめた。頷いて見ている零の前で、母が鞄から三本の歯ブラシを取り出し、洗面所へ持っていった。