夕食の容器を重ねていた母が、零へ先に風呂を使うよう声をかけた。零は頷いたものの、職員が届けてくれた着替えを膝へ載せたまま、なかなか立てなかった。上着は背中を開いてあり、翼の下で紐を結ぶように直されている。
母が上着を広げ、その下に置かれた翼用の肌着も確かめる。背中を避けて脇で留める形は、昼間に職員から教わったばかりだった。零はそちらへ目を向けないまま、膝の上で指を組んだ。母が広げて確かめる間、零はその下に重ねられた着替えへ目を向けないようにした。
「お母さん、髪も洗ってあげようか。今日はずいぶん汗かいたでしょう」
「……一人で入る」
「でも、後ろの方まで手が届く? 翼もあるし、無理に動かして転んだら――」
「お風呂くらい、一人で入りたい」
母は広げた上着を畳み、下の着替えと重ねて零へ返した。夕食前にトイレを使った時にも、変わった身体について分からないことを小声で尋ね、翼を壁にぶつけずに座るため、何度も位置を直した。母は普通に答えてくれたが、その後しばらくは顔を見られなかった。
「そうね。じゃあ、入る前に中だけ一緒に見よう。何をどこに置けば届くか、まだ分からないから」
「うん。……入ってる間は、来なくていいから」
「分かった。呼ばれたら行く。それでいい?」
「……うん」
父が空の容器を袋へまとめている間に、零は母と洗面所へ向かった。洗面台には三本の歯ブラシが並び、その横には母の小さな鞄が置かれている。新しいタオルを受け取って浴室を覗くと、家よりも洗い場が広く、背もたれのない椅子が壁際へ寄せてあった。
「これ、真ん中に出せば座れるかな。立ちっぱなしは疲れるでしょう」
「真ん中だと後ろが当たるから、もうちょっとそっちに……」
母が椅子を動かすと、零は服を着たまま座ってみた。浴槽の縁へ片方の羽先が触れたが、身体を少し斜めにすれば、両足を床につけられる。シャワーへ手を伸ばすと届いたので、母にも頷いてみせた。
「ここなら大丈夫。お湯も自分で出せる」
「石けんはこっちね。髪を洗うのは、このポンプ。足元には置かないでおくね」
「お母さん。それ、僕が座ったら翼の後ろになる」
「あ、そうか。じゃあ反対側。お母さんが立ってるところからだと、分からないね」
母がボトルを移し、零はもう一度手を伸ばした。今度は背中を捻らずに取れた。先に出た母が脱衣所の棚へタオルと着替えを並べ終えると、零は浴室から戻り、扉に手をかけた。
「お父さんにも、入らないでって言っておいて」
「うん。零が出るまでは使わないから。お母さんは居間にいるね」
母の足音が遠ざかってから、零は服の留め具を外し始めた。到着時の診察では、短いシャワーなら使ってよいと言われていた。それでも鏡から顔を背け、脱いだ服を棚へ置く手を何度も止めた。
*
シャワーの湯が肩へ当たると、ようやく息を吐けた。移動中に汗をかいた首筋が温まり、零は椅子へ腰を下ろした。いつものように身体を洗おうとして、手が止まる。見ないで済ませようとすればするほど、前とは違うところへ手が触れた感覚だけがはっきりした。
手首から先を洗い直していると、髪の先が石けんに触れた。肩越しに払おうとしたが、濡れた束は腕へ絡み、翼の間にも落ちていく。顔を下げると白い髪が視界を塞ぎ、零は片手でまとめようとして、シャワーを床へ置いた。
「零、大丈夫? 何か落とした?」
「シャワー、置いただけ。入ってこないで」
「入らないよ。呼んだら聞こえるから」
母の足音が扉の向こうで止まった。零は髪を片側へ寄せてシャワーを拾ったが、湯を自分へ向けられずにいた。
「……お母さん」
「うん?」
「まだ、そこにいる?」
「いるよ。洗濯する物、まとめてる。何か取ろうか」
「ううん。……身体、洗おうとすると、変な感じがする」
「痛い? どこか、しみるの?」
「違う。そうじゃなくて。自分で触ってるのに、知らない人の身体みたいで……」
返事がなくなり、零はシャワーを膝へ下ろした。湯が足元ばかりを流れていくので、いったん止め、扉へ顔を向けた。
「……鏡、見えちゃう?」
「見てない。見なくても、分かるから」
「そっか……」
扉は開かず、衣服を動かしていた音も止まっていた。零は濡れた椅子の端を握り、母が続きを言うのを待った。
「今日は、できるところまでにしよう。身体を拭くタオルも、ここに置いてあるから」
「うん。もう少し、やってみる。お母さん、まだそこにいて」
「いるよ。お父さんには、後で入ってもらうから」
母が居間へ声をかけ、父の返事が遠くから聞こえた。また袋を畳む音がし、零はそれを聞きながら湯を出した。
髪に泡をつけると、短かった時のようには指を動かせなかった。まとめて洗おうとした毛先が絡み、引いた分だけ頭皮まで痛む。零は慌てて手を緩め、目の前へ垂れてきた束の間から扉を見た。
「髪、指が抜けなくなった。引っ張ると痛い。これ、いつもみたいに洗っちゃ駄目だった?」
「引っ張らないで。そのまま、ゆっくり外せる?」
「うん。……外れた。でも、どう洗えばいいのか分かんない。後ろ、どこまで流したかも」
「後ろが見えないものね。髪を片方の肩に寄せてみて。できそう? お母さん、ここから声で言うから、分からなかったら止めて」
零は左側へ髪を集め、言われた通りに少しずつ湯をかけた。母は返事があるまで次へ進まず、零が同じところを尋ねても、もう一度説明してくれた。最後に手で確かめるよう言われ、泡の残っていない毛先を指の間へ通す。
「……これでいいと思う。もう泡も出てこない。さっきより、指も通る」
「じゃあ、いったん出ようか。髪はタオルで包んで。乾かすのは、お母さんがやってもいい?」
「着替えてからなら。……髪だけ、お願い」
「うん。着替え終わったら呼んでね」
零は湯を止め、首へ重く触れる髪をタオルで包んだ。浴室を出ようとして翼の先からも雫が落ちるのに気づき、もう一枚取る。片方ずつ羽先を引き寄せ、届くところの水を押さえた。
脱衣所で身体を拭き、用意された服へ袖を通す頃には、頭に巻いたタオルが傾いていた。直そうと片腕を上げると、今度は上着の背中がずれる。前を合わせてから後ろの紐を探したが、指には羽の端ばかりが触れた。
「お母さん。着たけど、後ろが……」
「入っていい?」
「うん。紐だけ、結んでほしい」
母が扉を開け、零の後ろへ回った。零は上着を押さえたまま待ち、頭のタオルが落ちかけたところで、空いている手を上げた。母は先に背中の紐を結び、それからタオルを受け取ってくれた。
「きつくない? 翼を少し動かしてみて」
「大丈夫。ここ、自分じゃ届かなかった」
「後で職員さんに聞いてみようか。一人で留めやすいようにできるかもしれないし」
「うん。朝も、これ結んでもらわないと駄目だね」
「今の形ならね。忘れてたら呼んで」
*
居間へ戻ると、父は玄関のそばへ畳んだ箱を寄せていた。濡れた髪をタオルで押さえる零を見て、台所から水を持ってくる。零が椅子へ腰を下ろしても、父の目は頭から離れなかった。
「ちゃんと洗えたか」
「たぶん。髪は、よく分からなかったけど」
「これから乾かすの。お父さん、その椅子、もう少しこっちへ寄せてくれる? コードが届かない」
母に言われ、父は肘掛けのない椅子を壁際へ動かした。零は翼が何にも触れない位置を探して座り直し、肩へ乾いたタオルをかけてもらった。母が髪を持ち上げると、思っていたより後ろの方まで手が動いた。
「こんなに後ろまであったんだ」
「背中の真ん中くらい。まだ濡れてるところがあるから、先に拭くね」
「前は、タオルでわしゃわしゃってやったら、だいたい乾いてたのに」
「朝、お母さんが直すまで、後ろが跳ねたままだったこともあるでしょう」
「……毎回じゃないよ」
母が小さく笑い、髪をタオルで挟んだ。顔へ垂れないよう持っていてくれるので、零は上着から手を離し、膝の上へ置いた。
「痛かったら言って。引っかかるところがあるから」
「うん。お母さん、まだお風呂入ってないよね」
「零が終わってから。お父さんは、先に入ってきていいよ」
「じゃあ、使うぞ。タオル、どこだった?」
「洗面所の棚。上の段。下のは零が濡らした分だから」
父が洗面所へ向かうと、母はドライヤーのスイッチを入れた。後ろから風が当たり、零は肩を竦めたが、母が手で髪を押さえると、首の後ろだけが温かくなった。家で使っていたものより低い音が、居間に続いていた。
「熱くない?」
「平気。……お母さん、こういうの、毎日やってるんだよね」
「そうね。お客さんの髪だと、もっと時間がかかることもあるよ」
「時間、かかるんだ」
零が背中を丸めると、母はドライヤーを止め、コップを寄せた。零は両手で受け取り、ひと口飲んだ。
「邪魔なら、短くすることも考えようか。前くらいまで切りたい?」
「……切ったら、前みたいになる?」
「長さは近づけられるよ。ただ、色も手触りも違うから、全く同じにはならないと思うわ」
零はコップを置き、病院の鏡に映った顔を思い出した。短い髪に替えて考えてみても、知っている自分の顔にはならなかった。母は髪を持ち上げたまま待ち、やがて肩のタオルへそっと戻した。
「今日は、切るのはいい。まだ……決めたくない」
「分かった。じゃあ、今は乾かすだけにしよう」
「でも、毎日こんなにやってもらうの、大変でしょ」
「大変だけど、今ここで急いで切らなくてもいいよ。明日になったら、切りたいかもしれないし」
「……ならないかもしれない」
「そうね。その時は、乾かすのを少しずつ覚えましょうか。何もかも今夜やらなくていいんだから」
零が頷くと、母はまた温風を当て始めた。背中に触れていた髪が少しずつ軽くなり、顔を上げても、首へ冷たい雫が落ちなくなる。けれど母に手鏡を差し出されると、零は両手を膝へ置いたまま首を振った。
「……今日は、見なくていい」
「うん。後ろも乾いてるよ。明日は顔を洗う前に、髪を留めようね」
「留め方、教えて。目の前に落ちてくると、何もできなくなる」
「明日の朝、一緒にやろうか。今日は疲れたでしょう」
零は頷き、濡れたタオルをまとめて腕へ載せた。母はドライヤーを片づけながら、洗濯物は洗面所の籠へ入れておいてほしいと頼んだ。父がまだ風呂を使っていたので、零は居間に座って、出てくるのを待った。
*
翌朝、零は洗面台の前で、自分の袖を折り返していた。病院でしてもらったように背中へタオルを当てて眠れたが、寝返りを打ちかけるたび目が覚め、まだ肩が重い。顔を洗おうと下を向くと、昨夜乾かした髪が、また両頬の脇へ落ちてきた。
「お母さん。髪、留めたい」
「うん。今行く。鞄の横のポケットに、留め具が入ってるから、出しておいてくれる?」
鏡の下へ置いた鞄から、零は留め具を取り出した。母が来るまでに開いてみたが、片手で髪を集めながら挟むと、半分が指の間から抜けた。やり直そうとすると、母の手が後ろから伸びてきた。
「ここ、持っていようか」
「うん。留めるところは、僕がやってみる」
母が髪をまとめ、零は教えられたところへ留め具を挟んだ。首を動かすと少し引かれたので、手を添えたまま母を見た。
「ここ、引っ張られてる。もう少し緩くできる?」
「うん。いったん外して。……これくらいは? 下を向いてみて」
「痛くない。髪も落ちてこない」
零はもう一度首を動かして確かめ、蛇口へ手を伸ばした。母も手を離し、洗面所を出る前に着替えのことを尋ねた。
「着替え、先に出しておくね。昨日と同じ形のでいい?」
「うん。後ろだけ、またお願い」
「分かった。顔、洗い終わったら呼んで」
母が離れても、零は今度は振り向かなかった。両手で水を掬うと、白い前髪が一筋だけ指へ触れた。それをよけて顔を洗い、タオルを取る頃、廊下から父の声がした。
「迎えの方が来たぞ。準備できそうか」
「もう少し。服、着たら行く」
零は洗面台の縁を拭いてから、自分の部屋へ戻った。置かれていた上着を取り、背中を手伝ってもらえるよう扉のそばで母を呼んだ。