母に上着の背中を結んでもらうと、零は玄関で一度だけ翼を縮めた。廊下から父が「迎えの方が来たぞ」と呼んでいる。昨夜より髪は落ちてこなかったが、慣れない留め具が首を動かすたびに少しだけ引かれ、そのたび指で位置を確かめた。
「お母さんたちは、部屋にいる?」
「最初の説明くらい、一緒に聞こうかと思ってるけど」
「……説明までは。一緒に来てほしい」
「分かった」
母はそれ以上手を出さず、零の後ろへ回って紐が翼に挟まっていないことだけを確かめた。父が玄関脇の鞄を移し、三人で部屋を出る。昨日は案内される背中を追うだけだった廊下も、居住区から医療区画までの角を一つだけ覚えていた。
*
午前の診察を終えた後、零と両親は小さな説明室へ通された。凛は机へ書類を置いたものの、零へ渡す前に一枚ずつ向きを揃えた。
「昨日までの検査で、一応の評価が出た。今の結城は、暫定でレベル4相当。先に言っとくけど、機械に入れたら数字が出るわけじゃない。身体の強さとか、魔力の動かし方とか、実際に確認できた力を、今までの例と比べて付けた目安だ」
零は紙へ目を落とした。4という数字の横には「暫定」とあり、その下には現行の分類が小さくまとめられている。実例を基にした区分はレベル1から9まで。その先には、仮説上の次段階としてレベル10の表記だけが置かれていた。
「ただ、戦闘力をそのまま順番に並べた数字だと思わない方がいい。同じレベルでも異能も得意なことも違うし、一つ上なら何をやっても勝てるってわけでもない。全体としてどの段階にいるかを、人間側で整理するための分類って考えればいい」
父も同じ資料を読み、現在はレベル1と2が大半を占めるという欄で目を止めた。4という数字だけなら真ん中にも見えるが、発現したばかりの例としては高い方らしい。零にはまだ、それが自分に何を意味するのかまでは実感できなかった。
「昨日の治療も、その評価に入ってるんですか」
「入ってる。ただし、まだ確認してないことまで能力だと決めてはいない。結城が自分で分かってないことを、こっちが全部知ってるわけでもないからな」
凛は次の紙へ指を移した。魔力については既知の例より大きい反応が確認されたが、安全に上限まで使わせる検査はしていないため、上限未測定と書かれている。
「だからって、上限を知るために全部出させたりはしない。車の最高速度を知りたいからって、壁に突っ込むまでアクセル踏まないだろ」
父がわずかに眉を上げた。凛はそちらを見て肩をすくめると、資料を閉じた。
「今必要なのは最大を知ることより、普通に生活しても周りへ漏らし続けないことだ。昨日話した隠す練習からやる。今日は治療も、強い力を出す練習もなし」
母が紙を読み返し、訓練中に両親が一緒にいる必要があるかを尋ねた。凛は見学できる部屋はあると答えたが、零は母の方を見てから首を振った。
「凛さんがいるなら、一人でやってみる。終わったら部屋に戻るから」
「無理しないでね」
「うん」
父も口を挟まず、帰りに連絡するようだけ伝えた。二人が職員と一緒に居住区へ戻るのを見送り、零は凛の後について訓練室へ向かった。
*
部屋の中には武器も大きな機械もなく、床へ白い線が何本か引かれていた。壁際に椅子と水の入ったボトルがあり、反対側には翼を広げてもぶつかりにくい空間が空けられている。
「ここで、何するんですか」
「まず何もしない」
「……何もしない?」
「そう。結城は今、何もしなくても魔力が外に漏れてる。だから最初は、出す練習じゃなくて出さない練習」
凛は床の中央へ立ち、目を閉じてみろと言った。零が従うと、正面から声がした。
「今から、アタシの魔力を少し外へ出す。何か分かったら言って」
何を探せばよいのか分からないまま待っていると、音も風も変わっていないのに、凛のいる場所だけが急にはっきりした。姿は見えていないのに、そこへ意識を引かれる。
「……凛さんが、さっきより近くにいるみたいな感じがします」
「実際の距離は変わってない。じゃ、今度は隠す」
さっきまで引っかかっていた感覚が薄れた。凛が消えたわけではないと分かっているのに、正面のどこに立っているのか急に曖昧になる。零が目を開けると、凛は同じ場所に立ったままだった。
「今のが、魔力を感じてるってことですか」
「大雑把にはな。目や耳とは別に、動いてる魔力や外へ漏れてる魔力を拾ってる。隠されると、同じ場所にいても分かりにくくなる」
「僕も、ずっとそうなってる?」
「今はかなり分かりやすい。廊下の向こうにいても、『ああ、あそこにいるな』ってなる」
零は自分の腕を見た。光っているわけでも、熱が出ているわけでもない。何もしていないつもりなのに、外からは居場所を知らせ続けているらしい。
「どうやって止めるんですか」
「それを今からやる。……って言いたいんだけど、アタシ、これ感覚で覚えたんだよな」
「え?」
「できるのと、人に説明できるのは別。今その説明を考えてる」
凛は腕を組み、数秒黙った。現場でも迷わず指示を出していた凛なら、こういうこともすぐ教えられるのだと思っていた。零の顔を見て、凛は少し眉を寄せる。
「そんな顔すんな。できるようにはするから」
「いや、そういうつもりじゃ……」
「分かってる。まず、力を全部身体の中へ押し込む、は違うな。そんなことしたら力むだけだし」
言いながら凛は零の翼へ目を向け、別の説明を探すように顎へ指を当てた。
「結城。その翼、目を閉じても先がどこにあるか分かる?」
「たぶん」
「じゃあ広げすぎない程度に動かしてみて。壁には当てるなよ」
零は左右へ少しずつ翼を開いた。右は思った位置で止まったが、左は余計に広がり、羽先が床の線を越えた。戻そうとすると肩まで動いたものの、目を閉じれば、白い翼が見えなくても先端がどこにあるかは何となく分かる。
「あります。ここまでが、自分の身体って感じはする」
「それ。今は翼まで含めて、自分の身体の内側がどこまでか意識してみろ。魔力を押さえつけるんじゃなくて、必要もないのにその外へこぼしてる分を減らす」
「……分かるような、分からないような」
「アタシも言っててそう思う」
零は思わず凛を見た。凛も真顔だったので、少しだけ息が抜けた。
「とりあえずやってみろ。違ったら変える」
翼の先まで意識しようとすると、今度は両肩へ力が入った。背中を縮め、息まで止めたところで、凛が手を叩く。
「ストップ。息はして」
「……はい」
「魔力隠す前に酸欠になるぞ、それ」
零は息を吐き、固まっていた翼を少し緩めた。もう一度目を閉じる。今度は肩を動かさず、指先や足先、翼の端までが自分の身体だと順に確かめた。そこから何かが外へ流れている感覚は、やはりよく分からない。
「凛さん。漏れてるのが、自分だと分からないです」
「最初はそれでいい。今、減ったらアタシが言う。何をした時に変わったか、後から探そう」
零は頷き、何度か呼吸した。治療した時のように何かを出そうとするのではなく、何もしないまま、自分の身体の輪郭だけを意識する。翼の先が床へ触れそうになっていたので少し持ち上げ、そのまま息を吐いた時、凛が口を開いた。
「今」
驚いて目を開けても凛は動いておらず、さっきの変化だけを確かめるようにこちらを見ていた。
「今、何した?」
「何も……。翼が床につきそうだったから上げて、息を吐いただけです」
「その直前より、漏れ方が減った。消えてはいないけど、ちゃんと変わったよ」
「これで?」
「一回できたからって覚えたことにはしない。もう一回」
言われて目を閉じる。さっきと同じようにしようと考えた途端、今度は翼へ力が入りすぎた。
「戻った」
「……難しい」
「だろ。アタシも今、お前にどう言えば通じるか探してる」
零はもう一度やり直した。二度目は変わらず、三度目は少し減ったと言われ、四度目は途中で呼吸を止めて叱られた。何度目か分からなくなった頃、凛がようやく休憩を告げた。
壁際の椅子へ座り、零は水を飲んだ。翼を後ろへ置く場所を探していると、凛がもう一脚の椅子を横へずらし、空間を作った。
「さっき一回できたのに、すぐ戻っちゃいました」
「最初はそんなもん。今は漏れてるかどうか自分で分かってないだろ。そこを分かるようにして、減らした状態を何度も作る。今日はその入口」
「ずっと考えてないと、できないんですか」
「少なくとも今はな。慣れた後のやり方まで、今日の一回で決めつけない。結城がどう覚えるか見ながら変える」
まだ一度しか成功していないのに、先の形まで答えを決めない言い方だった。零は残った水を飲み、膝へ置いたボトルを両手で持ち直した。
「もう少しやります」
「休憩終わってからな。今は飲め」
*
後半は、床の白線の間を歩くところから始まった。二本の線は零が普通に歩くには十分な幅があるが、翼を少し開けばすぐにはみ出す。
「魔力の方は今日はここまで。次は翼。昨日まで見てると、前へ出すのはできても、左右を別々に動かすのがまだ苦手だろ」
「はい。右を動かそうとすると、左も一緒に動くことがあります」
「じゃあ、まずぶつけずに歩く。速さはいらない」
零は線の中央へ立ち、翼を背中へ寄せた。一歩進むと右の羽先が線へ近づき、そちらを内側へ寄せた途端、左がわずかに開く。足元を見ようとすると髪が頬へ落ちかけたが、朝つけた留め具が途中で止めてくれた。
「凛さん、右だけ少し上げたいです」
「やってみな。肩まで上がるなら一回止めろ」
右の翼を持ち上げるつもりで力を入れると、予想通り肩まで引かれた。零はそこで止め、力を抜いた。凛はすぐに手を出さず、どう動いたかを聞いてくる。
「翼を上げる前に、肩が動きました」
「なら、次は肩が動く手前まで。翼だけを大きく動かそうとしなくていい」
今度は羽先がほんの少し浮いた。線を越えずに済んだので、そのまま一歩進む。途中で左の羽先が床へ擦れたが、前へ出した足はそこで止められた。
「今のは?」
「左が下がりました。右ばっかり気にしてたから」
「そういうのを自分で分かれば十分。最初から両方完璧にやれとは言ってない」
往復するたびに引っかかる場所は変わった。右を意識すれば左が開き、翼を気にしすぎると足元の線を踏む。それでも最後に一度だけ、何にも触れずに端まで歩けた。
凛が終了を告げたところで、零の腹が小さく鳴った。聞こえなかったふりをしようとしたが、凛がすぐこちらを見る。
「腹減った?」
「……少し」
「少しって音じゃなかったけどな。今日は終わり。昼食って休め」
零は翼を背中へ寄せ、水のボトルを持って訓練室を出た。朝に通った廊下へ戻り、曲がり角で人影が見えた時、反射的に翼を縮める。相手もこちらに気づき、長い腕を上げた。
「結城。終わった?」
彰人だった。動きやすそうな服に着替えており、首にはタオルをかけている。昨日より元気そうに見えたので、零は足を止めた。
「はい。橘さんも、訓練ですか」
「俺も朝から。腹減ったから食堂行くとこ。結城も行く?」
零は一度、凛を見た。凛は好きにしろというように顎を動かすだけだった。母と父のいる部屋へ戻って食べるつもりだったが、彰人と食堂へ行ってはいけないとは言われていない。
「……行ってみます。先に、お母さんたちに伝えてもいいですか」
「もちろん。待ってる」
凛が近くの職員へ声をかけ、居住区へ連絡を入れてもらった。食堂で昼を食べてから戻ると母へ伝わったのを確認し、零は彰人の少し後ろを歩き出した。凛が反対方向へ曲がる前に声をかける。
「結城。翼、廊下の角だけ気をつけろよ」
「はい」
零は返事をし、廊下の角へ翼をぶつけないよう少し身体を寄せてから、先を歩く彰人との間を詰めた。